古事記の神代の章は、高天原の神々の出現を延々と述べている。次から次へと神さまの名前が出てきて、つい読むことを辞めたくなる。なぜこんなにしつこく述べなければいけないのかと思っていた。
しかし大阪の高槻にある生命誌研究館に飾られているこの図を見たときにひらめいた。
生命の発生は数十億年前の海辺に寄せては返す波によって作られた「あぶく」のようなものから細胞が生まれたとされている。
「ムムッ 日本の神さまの出現はこの“あぶく”みたいなものだった。」
古事記の作者たちは今の科学の成果をすでに予測していたのだと感銘した。
生命は何かの意図をもって地球上に現れたのではない。ただ偶然の繰り返しが重なって奇跡的に生まれた。今人類は意思を持っているが、それは長い歴史の中で得た教育の成果である。生命は最初の数十億年間はただ現れては消えるということを繰り返していた。
古事記の最初の章はまさにこの通りの記述である。何もないところに突然「天の御中主神」が現れ、そしてすぐに消える。これが五代にわたって繰り返えされる。現れて消えるだけで、何をしたという記述はない。古事記ではこの五代を「別天津神」(ことあまつかみ)と呼んでいる。この時期は地球上での生命の揺籃期である。この後に生物の生命大爆発が起こり、雌雄の区別がはっきりしてくる。そして最後に我々の祖先哺乳類が現れる。
古事記の記述では別天津神のあとにさらに二代の神が現れまた消える。その後に兄妹の神が三代続く。そして二代男女の神が現れる。男女神が初めて周りの環境に興味を持つ。男女五代を含む七代を「神代七代」(かむよななよ)という。
最後の男女神が伊邪那岐・伊邪那美(いざなき・いざなみ)の神で、日本国土、神々、人々を生むのである。この神さまも全知全能ではなく知らないこともたくさんある。女神さまは
「私の体には一つだけ足りないところがある。」
すると伊邪那岐(男)神は
「吾身の成り余れる処を以て汝身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて国生み成さむとおもほすがいかが!」
と言って試みるが最初はうまくいかない。神さまなのに何にも知らないのだ。
試行錯誤を続けるうちに大八洲(おおやしま)が生まれるのである。
伊邪那岐・伊邪那美神は明確な意思をもって日本の島を作り神々を生んだのではない。試行錯誤しているうちに偶然様々なものが生まれてきた。西洋の神さまはそんなまだるっこいことはしない。「光あれ!」といえば地上が明るくなるのだ。そんな命令形の神さまよりも、どうしようか?と悩んでいる神さまを見るとほほえましい雰囲気になる。
時間的概念は神さまの歴史の中にはまったくないが、たぶん長い間「高天原」で神さまは現れては消えるということを繰り返していたのだろう。その場所はどこかわからないが高貴な「天」という原があったという意味であろう。「天」という言葉がキーワードである。
その天はいったいどこにあったのだろう。手掛かりはないか?