近鉄の京都駅には「初詣は三輪さんへ」という大きな看板が立っていた。神仏習合の名残りで大神神社は三輪明神として長い間親しまれてきた。大神神社という名前が主になったのは明治以降のことである。大神神社のご神体は三輪山であり、麓の地域も三輪と呼ばれている。大神神社に参るためのJR線の駅も「三輪」となっている。
「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さぶべしや」
大和を去る万葉歌人の額田王が、振り返りながら雲に隠れた三輪山を懐かしむ歌である。
この歌碑が山の辺の道の途中に置かれている。ちょうど景行天皇陵の南側である。大昔大和盆地は大和川の氾濫のため中央部は低湿地になっており、交通路は三輪山山麓の高台をつなぐ山の辺の道が大道だった。大神神社も山の辺の道にあるが、10代崇神天皇陵、12代景行天皇陵もこの道に沿っている。景行天皇の息子はかのヤマトタケルである。タケルは日本各地で武功を上げるが父に疎んじられ、伊吹山のイノシシに負けて三重の地で亡くなる。そして故郷を懐かしんで歌を残した。
「大和はくにのまほろば たたなずく青垣 山籠れる大和し 美(うるわ)し」
大和の風景を愛した川端康成が揮毫の歌碑がやはり山の辺の道に残っている。
今も昔も大和は日本人のふるさとなのだ。私も勝手に大和を故郷としている。古代日本のふるさとである大和 その地域の象徴である三輪山。
この地で古き時代の人々は生活を営んできた。しかし生活が豊かになると争いが起き、外界からの侵略が行われたりする。時には疫病が蔓延することもあったろう。
古代においては争いを治め、疫病を退散させるのは神の声を聴くことができる巫女の仕事であった。天皇でさえ巫女の告げる神の声を聴かなければならなかった。
2013年から神々を意識して大和から西日本を回った。どの神社を訪ねても必ず背後に巫女の影があった。巫女こそが日本の歴史を動かしていたのだということに気が付いた。