大隅国府 花は霧島、たばこは国分


鹿児島県には国府が2か所ある。薩摩と大隅の国が今の鹿児島県になった。大隅の国府は霧島市の国分駅の北側にある総社祓戸神社の周辺にあった。町の名前は国分府中町である。国分駅の南東側には大隅国分寺跡があり、国分中央町である。国府という地名はない。

大隅国府

祓戸神社は総社と称しており、上の図のような位置に重要な寺社がおかれていたとしている。戌亥(北東)には鹿児島神宮の弥勒寺、丑寅(北西)には日枝山王神社の台明寺、辰巳(南東)には国分寺がある。未申(南西)には隼人塚がある。この位置関係から南西の隼人塚の場所には国分尼寺があったのではないかとの説が出てくる。国分尼寺はまだ見つかっていない。 下は祓戸神社!

国分寺

駅の南に国分寺の跡がある。もっと広かったはずだが、今は石造りの五重塔が一基置かれているだけの場所だ。国分の地名は残っているが、国分寺も国分尼寺も国府も跡はよくわかっていない。桜島の火山灰に覆われたのか、島津藩の政策だったのか、大隅国府、国分寺の解明は難しい。

国分尼寺(隼人塚)

最初に載せた国府を中心とする位置関係から隼人塚の場所が国分尼寺であるという説があるそうだ。私はそうであってほしいと思うが信頼性はかなり低い。
隼人というのはこの地に住んだ海洋系の部族で、熊襲と同じように大和朝廷にはなかなか服従しなかったが、ヤマトタケルによって征服された。

隼人塚は昔は熊襲塚と呼ばれたそうで、大和朝廷(ヤマトタケル)が多くの熊襲・隼人を残忍に服従させた鎮魂のために作ったものらしい。海幸彦、山幸彦の話で語られるように、隼人は海幸彦の子孫とされている。

山幸彦の子孫は神武天皇でのちに大和朝廷を作って日本全国を統一する。その過程で多くの征服の話が残っている。

大隅一之宮 鹿児島神宮
祭神は山幸彦である。竜宮城のトヨタマヒメと結婚した山幸彦は兄弟の海幸彦を溺れさせて滅ぼす。トヨタマヒメはお産のためにやってきたとき山幸彦はまだ産屋の準備ををしていなかった。なので生まれてきた子は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と呼ばれる。このお方が神武天皇の父である。日南海岸にある鵜戸神宮は鵜葺草葺不合命を祭っている。大隅国府一帯は天孫族と海洋隼人族の争奪の場所だったのだ。

京セラホテル
国府巡りの資金を出してくれる我が家の奥さんの機嫌を損ねてはいけないので今回は超高級ホテルに泊まった。昔上野原縄文遺跡を見に来た時、このホテルの中に博物館があり出土品などが治められている知り恐る恐る見学した。
「こんな立派なホテル、どんな人が泊るんだろうね」
と話したことがある。今回コロナのおかげ?で我らが泊れる値段になっていた。奥さんは大満足、これでしばらくは国府巡りを続けられそうだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です