摂津国分寺・難波宮

摂津国は大阪府と兵庫県の一部を含んだ国であった。律令国は国司が任命されていたが、摂津国は飛鳥の都の外港として特別の摂津職(せっつしき)がおかれた。
摂津国府 難波宮
今の大阪は深い湾入になっていた。旧淀川河口付近には良港があり交通至便の土地であった。仁徳天皇はこの地に都をおいたし聖徳太子は四天王寺をつくった。大昔から主要な土地であった。良港は渡辺の津、難波津と呼ばれていた。その「津」を治める「摂」がおかれ、摂津国になった。たぶん摂津国では難波京が国府の役割をしたのではないか!上の地図の難波京がある場所は上町台地の最も高いところである。法円坂を登ったところにある。坂の下は谷町筋であるが、全体を何と呼ぶかは私は知らない。東京では山の手と下町であるが、大阪では上町台地と谷町低地かな?

摂津国総社 難波神社
摂津国の総社は不明である。この辺りでは古くから住吉神社が最も重要な神社であった。国司がいないのだから、わざわざ国司が詣でる総社を作らなくてもよかったのかもしれない。難波神社が総社であるという説もあるが境内を見渡しても「総社」との文字はどこにもなかった。まあとりえず難波神社を総社としておこう。

摂津国分寺跡
摂津の国分寺跡は天王寺区国分町にある。環状線の寺田町駅の近くに国分公園がありその中に教育委員会が建てた国分寺跡の石碑が立っている。近くに現存の国分寺はない。

摂津国分寺
摂津国分寺は長柄の国分寺町に現存する。真言宗の大本山である。古代の国分寺とどういう関連があるかよくわからないがこの国分寺が聖武天皇の詔の国分寺の法灯を継ぐと考えられている。私が訪れた時にちょうど地蔵盆が行われており、大いににぎわっていた。天王寺の国分寺跡とはだいぶ離れており、その関係は不明である。

摂津国分尼寺
奈良の都に作られた総国分寺は東大寺、総国分尼寺は法華寺である。摂津の法華寺は摂津国分寺と淀川を挟んだ反対側、島駅のすぐ前にある。塔の礎石が残っているがその他は遺跡はない。もともとは浄水場の敷地にあったという。

大阪府は狭いし地下鉄網も発達しているので、新幹線の乗換えの間に全部回れるのではないかと思っていたが、途中寄り道が多くて結局い一日がかりになってしまった。昼前に難波の駅から難波神社に行ったが、すぐに寄り道して摂津一宮の坐摩神社に寄り、御堂筋の御堂により歩いて法円坂を昇った。上町台地を体感するためである。難波宮からは森ノ宮駅に降りて環状線で天王子に行った。四天王寺に向かったが途中に堀越神社があった。ここに熊野第一王子がある。前の日に紀伊田辺の千里王子を見たばかりだったので気になって写真を撮ったり解説文を読んだりした後、やっと国分寺跡に行った。寺田町から天満駅まで行き長柄の国分寺に行ったらちょうど地蔵盆。多くの人達が集まってたので話を聞いているうちに時間がたった。そこから阪急電車で一駅のって柴島(くにしま)駅前で国分尼寺をみて、歩いて新幹線の駅に到着。地図では近かったが歩いて行くには遠かった。大汗をかいていたんでトイレで全部着替えて新幹線いのったのはもう6時を過ぎていた。珍しくビールを飲んだら、目が覚めた時には品川だった。ちょっとのつもりが長い時間がかかった。2万8千歩だった。

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