世界遺産:ヒヴァウルゲンチの町を挟んで古代遺跡と反対側にヒヴァの町がある。私たちはバスで行ったがウルゲンチからはトロリーバスが連絡している。30分ほどで土塁の城壁に囲まれたヒヴァの町に着く。城壁の中は「イチャンカラ」(城内)とよび、数多くの神学校(メドレッセ)やモスクが所狭しと立ち並んでいる。1990年、ウズベキスタンで最初の世界遺産になった。
私たちのホテルは城の西門の真ん前にあるので着くとすぐに場内に入りライトアップされた建物を見学した。入場料は150000スム(2000円)である。15万スムと言われると「高い!」と思うがこちらは超インフレ。狭い城内には土産物屋が並びその間をヨーロッパ系の観光客が大勢歩いている。日本で見るような中国人観光客が全くいないのはどうしてだろう。この街には中華料理屋もない。中国との縁が薄い国のようだ。
もともとは小さな村だったが16世紀、アムダリア川の流れが変わりヒヴァは水の豊かな街になった。ここには奴隷市場ができ、おおくの労働力と富が集まった。その財力で狭い城内に20のモスク20の神学校6基のミナレットが建てられた。
下左はイスラムホジャミナレット(45m)で登ることもできるが、私にはムリ!短いミナレットはカルタミナル(26m)。中央アジア1のミナレットを作るはずだったがアミンハーンが亡くなったのでこの高さで中断した。右は名前を聞いたが忘れた。
1876年、帝政ロシアは奴隷解放を名目にヒヴァハン国を攻撃した。その時に解放された奴隷は3万人、うち5千人がロシア人だったという。帝政ロシアは中央アジアに侵略し植民地化していった。各都市は破壊されたが、なぜかヒヴァのイチャンカレだけは無傷で残った。中央アジアで昔の姿が残る城塞都市はヒヴァだけであるという。
ソ連は宗教を嫌ったため神学校やモスクは破壊されたりした。このメドレッセ(神学校)は一番格式のある学校だったが閉鎖され、ホテルへ生まれ変わった。神学生の住む部屋はホテルの部屋にちょうど良かったのだろう。見学可能だったので部屋も見せてもらった。ここで神学生は学んでいたのだろうが、今の時代神学校はどうなっているのだろうか。
翌日の夕方レストランで日が沈むのを見ながら夕食! 緑色の香草を練り込んだスパゲッティがヒヴァの名物という。ここでつい食べ過ぎて、翌日からおなかの具合が悪くなった。楽しくおいしく食べたのはこの日だけで後は様子を見ながらと言うことになった。ちょうどよく食べるというのは難しい。
一日泊まっただけで次に移動したが、考えどころは多かった。
まずカラカルパクスタンと言う憲法を持つ国がウズベキスタン国内部にあることに驚き。
カラカレパクスタンの北半分はアラル海だったが干上がって現在は作物もできない塩ノ原になっている。綿花畑を作るためにアムダリア川の水が採られたためで、カラカレパクスタンの国力は一気に下がりウズベキスタンに取り込まれた。
ヒヴァのイスラム教施設がよくもまあ残っていたなあという驚き。中央アジアを席巻したのはチンギスハンをはじめ諸将はみな都市を破壊しつくした。青の都のサマルカンドもしかりである。
しかしここはほとんどの施設がそのまま残っている。ソ連もこの素晴らしさには手を付けられなかったのだろうか。色々考えるテーマができた。
もう少し反芻する時間が欲しいが、ツアーは非情。夜のヒコーキでブハラに向かう。第2日目終了。