2003年 3月28日 (金) |
●3月27日夜8時半、川崎港発のフェリーに乗って高知に向かい、そこから走ったり列車に乗ったりして四万十川下流の土佐中村市に行ってきました。29日と30日に、地平線会議の仲間であり、四万十川に暮らす山田高司さんが委員長を務める「四万十川、黒潮エコライフフェア」に参加するのと、お遍路まねごとと、走り旅のためでした。 ●四万十川の広い河川敷にサッカーボール型の巨大なテントを中心に、フリーマーケットや多国籍飲食店、葦船製作体験など多くの展示が並んでいました。私たちの地平線会議はドームテントの中で「地平線報告会 in 四万十」と称して山田高司のスライドand トーク、賀曽利隆、石川直樹、江本嘉伸の水談義、翌日は賀曽利隆、三輪主彦の水自慢、遠来の地平線会議メンバーの紹介、さらに廃校になった小学校を転用した四万十楽舎に移っての地平線のオークションなど2日間まるますのイベントでした。集まった地平線のメンバーは40人。地元の人たちは、何でまたこんな所まで、こんなに大勢の人が集まったのかと驚いていました。委員長の山田さんはきっと地元で再評価されるでしょう。 ●地平線会議はおいといて、四万十川を走ったゾーの報告です。 ▲高知新港は外洋に面した新しい港で、交通の便は全くない。しかしフェリーの客は車で来ているので問題ない。私も「足」という交通手段を持っているので、ただちに巨大な浦戸大橋を渡って、桂浜へ。坂本龍馬の銅像が有名だが、それより私は荒天号という潜水艦が目当てだった。この船は宿毛に住む竹内静夫さん(1915~1992)が独力で作り上げた日本で唯一の手作り潜水艦だ。ボイラー工場を経営していた竹内さんは、荒天日でも潜水して航行すれば、海難救助にも役立つと考え、昭和45年頃より設計開始、51年より制作に着手しコツコツと自分の工場で作りを続け、ついに約15年を経て同59年に完成した。制作費は当時の金で約4500万円、結局工場も売り払って資金を作った。荒天号の主要仕様は次の通り。 全長 12.5m 全幅 3m 重さ 13.5トン エンジン 270馬力 10人乗り 完成した潜水艦は試運転では水深200mまで潜水可能だった。ところが日本のお役所は、個人が潜水艦を作った例はないという理由で、船舶の許可を出さなかった。車検証がない車が走ってはいけないのと同じで、この船は海を航行することはできなくなった。私が宿毛を訪れたのはそんな時だった。宿毛の港に荒天号は寂しく係留されていた。竹内さんのお宅におじゃまして話を聞いた。それは興味深いものだったが、それより奥さんの「この船のために家も工場もなくなったんですよ」という話の方が、胸に響いた。私の奥さんと竹内奥さんは意気投合して、お互いの亭主を非難しあった。その竹内さんは不遇のうちに亡くなった。しかし竹内さんの偉業をたたえる人もいて、荒天号は坂本龍馬と並ぶ、高知県のシンボルになっていた。 ◆荒天号に再会し、十分満足し、四万十に向かう。龍馬像の下で短パンになって走り出した。黒潮ライン花街道と書かれた道は一直線に西に続いている。しばらく走ると、中村まで105kmと出ている。「こりゃ明日の2時までには着かないや」 とりあえず5時まで走ることにした。土佐宇佐町はジョン万次郎の船出した港だ。ここには宇佐八幡があると聞いた。だいぶ行きすぎたが、もどって詣でる。最近私は宇佐八幡が日本歴史に果たした役割について大いなる興味を持っている。「宇佐」と聞けば疲れた足もいとわず回り道をする気分になる。桜が満開の参道を本殿まで行く。なかなかの神社あdったので満足し、足取りも軽く、いい気分で浦の内湾岸を走る。3時間で20kmほど走った頃からエネルギー切れ。車に乗せてもらって須崎まで。ちょうど発車間際のJR線に飛び乗り、窪川へ。ここには札所37番の岩本寺がある。6時すぎたがまだ明るい。お遍路のまねごとをして巡礼宿に泊まる。4500円。 |