八甲田山に入った1月23日は、1902年に青森歩兵第5連隊の兵士210人が雪中行軍で遭難した日だった。八甲田山という映画が評判になったが、兵士たちがかわいそうで見るに堪えなかった。雪の中、散りじりになって若い兵士たちが凍死した。生き残ったのはわずか11人、世界でも類のない山岳遭難事故だった。
同じころ弘前歩兵31連隊も雪中踏破訓練をしていた。こちらは38人という少人数だったこともあるが全員無事に帰還した。装備の違い、指揮官の能力の違い、地元民の協力など差異はいくつもあった。弘前連隊の方がすぐれていたと思った。しかし彼らは遭難中の青森連隊とすれ違っているのに助けなかった、さらに弱った地元案内人を置きざりにし、自分たちだけが逃げ帰った。
弘前連隊ではこのことを口外しなかったので、近年までそんなひどいことがあったことは知られていなかった。無茶苦茶だが、昔の軍隊組織はそんなものだった。
1月23日は自衛隊でも記念日になっているので青森の連隊はその日は八甲田で雪中訓練を行う。私たちが泊まっている宿の大広間は本部になっていて広場には雪上車などが泊まっている。600人の隊員はみな雪の中で幕営。装備は格段に上がっているが、天候は当時とあまり変わりはない。零下11度にはなっている。きっと寒いことだろう。
しかし私たちが話した隊員たちは結構楽しそうにしている。完全装備を女性もかなりいるので驚いた。ちょっと気の毒に思ったのは、彼らが履いているスキー。一般スキーヤーはみな最新式の幅の広く軽いスキーを履いているが、彼らのは皮ベルトで靴の先だけを止めるもので、扱いは大変難しい。機敏に安全に動くためにはもう少しましなスキーを配布すればいいのに。
銅像茶屋という建物が雪に埋もれている。銅像は茶屋の後ろの丘に建っている。青森連隊の後藤伍長は雪の中、立ったまま仮死状態で発見された。その地に銅像が建てられたのだ。八甲田に来たのだからお参りをしておかねばならない。ということでシールを付けて上った。当然自衛隊員もここから雪中訓練に出かけたかと思ったが足跡はまったくなかった。ダメじゃないか。