5-3 神武天皇のお兄さんの戦死

神武軍は吉備のモモ太郎、モモソ姫勢力の了解を得て浪速の港に向かった。しかし浪速には強大な敵が待ち伏せしていた。地元のナガスネヒコと姉婿のニギハヤヒ命の義兄弟である。神武軍は彼ら兄弟の軍に手痛い敗北を喫する。
「日の御子の子孫が、日に向かって戦っても勝ち目はない。日を背にして戦おう」
神武軍は転進して紀伊半島をぐるっと回り熊野から太陽を背にして進む決意をした。

しかしその前にナガスネヒコの矢に当たった兄神イツセ命は傷ついた。血を洗ったのが血沼、すなわち茅沼海(ちぬのうみ)である。昔は大阪湾のことを茅沼海と呼んだ。この傷が元でイツセ命は亡くなる。墓は紀伊一宮の日前宮の近くの龜山神宮にある。この神宮の社殿は古墳の上に作られ、陵墓参考地と指定されている。私は当時イツセ命が何者なのかわからなくて、
「田舎にしては立派な神社だな」
くらいにしか考えていなかった。しかし神武天皇を助けて戦ったお兄さんの墓だった。

兄を失ったが、毅然として神武は熊野に回った。ところが神武軍は熊の霊気にあたり全員が失神する。この時に地元のゴドビキ神社に祭られている高倉下(たかくらじ)という神が、布都御魂(ふつのみたま)という剣をもって救援にかけつけた。剣の霊気で神武軍は全員が息を吹き返した。
この剣は布都御魂(ふつのみたま)として大和山の辺の道の石上(いそのかみ)神宮に祀られている。剣の魂が神さまである。

神武軍に対して高天原の神は
「この先には荒っぽい国津神がいる。『八咫烏(やたがらす)』の案内に従え!」
と告げた。このカラスは三本足、熊野大社のシンボルである。日本サッカー協会のシンボルはここからとった。
その後、尻尾のある吉野の国栖(くず)たちが迎えた。宇陀(うだ)の地では計略にあって殺されそうになるが、大久米命の助けで逃れることができた。その後忍坂(おしさか)では、土蜘蛛の一族が洞窟で待ち構えていた。神武軍は彼らにごちそうをするふりをして
「撃ちてし止まむ」
と言って彼らを一斉に斬って捨てた。
戦意高揚に使われた言葉だが、これが古事記にある古歌である。

八咫烏に従ってからは連戦連勝であった。抵抗勢力を討ち果たした時に、突然ニギハヤヒ命が神武軍の前に出現する。浪速で神武軍を打ち破ったあのニギハヤヒ命である。
彼は義理の弟のナガスネヒコを殺して駆け付けた。
「高天原の神が天降りされたと聞いて、やってきました」
と言って、家来となることを申し出た。
ニギハヤヒ兄弟はにっくき兄の敵である。しかしニギハヤヒ神がもつ宝剣(おそらく十束の剣)が高天原のものであることを認めて家来にした。ニギハヤヒ神は生駒山の麓にある石切劔箭(いしきりつるぎや)神社に祀られている。この神社の屋根には宝剣がすっくと天に向かっている。
ニギハヤヒ神は石見の一宮である物部神社にも祀られている。
実は山の辺の道にある石上神社は物部氏の武器庫だった場所を神社にしたものであることはわかっている。石上神社にニギハヤヒ神が祭神ではなく剣の御霊が祭神である。しかいどうもニギハヤヒ神と石上神社は関連があると私は考えている。具体的に言えばニギハヤヒ神は大国主神と一緒になって大和国を作った大物主神そのものではないかと。それはちょっと行きすぎと言われるかもしれない。

ニギハヤヒは神武の前にすでに大和におり、大王の姉を妻として大和に君臨していた。天の岩舟にのって降臨した高天原の神とされているが、実際は大国主神と一緒に大和を支配していた。
大和の中心の三輪山には大物主神、大貴己神、少彦名神が祀られている。その神を祀る勢力は出雲、石見など日本海側からの勢力である。要は神武軍が大和に来る前にすでに出雲や石見、吉備などの勢力が連合して支配していたということである。ニギハヤヒ神とナガスネヒコ連合軍は大和の軍事部門を率いていた。

にっくき兄の敵のニギハヤヒ命だが、高天原の神と言うことにして神武天皇は話に応じた。ニギハヤヒ神ひきいる物部一族は、こののち神武天皇家と婚姻を通じて一緒に繁栄を築くことになる。神武は、三輪山のふもとの狭井(さい)川畔で見染めたイスケヨリ姫を妻にする。神武天皇は橿原神宮で即位したはずだが、なぜか三輪山のふもとの狭井川に来ていた。たぶん地元の姫と婚姻関係を結んで政権を強固にしようとしたのだろう。神武は三輪山のふもとに移り王朝を営んだ。その宮は磯城瑞籬(しきみずがき)宮で、現在は崇神天皇の宮殿とされている場所だ。

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