山城国 恭仁京 国分寺 国分尼寺

山城国は五畿七道のうち畿内に属している。いまの京都府にほぼ一致する。山城国は最初は山背国と書いた。平城京から見ると平城山のすぐ裏にあたることから山背と書いたようだ。この国の国府がどこにあったかよくわからない。

しかし山城国内には古くから都が5回も移り最終的には平安京が千年以上も続くことになった。山城国の国府というよりも日本国(?)の首府と考えたほうがいい。740年聖武天皇はなぜか山背国に新しい恭仁京を造成する。この地は橘諸兄が治めていた地であり彼に命じて都を作ったのである。しかしこの首都は5年しか持たず、聖武天皇は奥様から平城京に呼び戻された。

聖武天皇と光明皇后は全国各地の国府近くに国分寺と国分尼寺を作る詔を出した。恭仁京跡には国分寺が作られた。山城国には国府候補地がいくつかあるが、私は恭仁京の地が最初の国府だったと思うことにして出かけた。

国府 総社
奈良線の上狛駅から歩いた。私は狛犬の愛好家で日本国中の狛犬に会いに行っている。その「狛」と名のついた駅があるのだから行ってみないわけにはいかない。しかし狛犬はどこにもなかったが20分ほど歩いたところに高麗寺跡遺跡があることが分かった。狛犬は高麗犬とも書く。上狛駅は高麗寺から出てきた名前であろう。猛暑の中高麗寺に行ってみる。柱跡が残る立派な史跡で、もしかするとここが国衙(国府の建物)かなどと考えた。

この史跡から暑い道を山城郷土資料館へ行った。コロナのせいかわからないが本日休業。入り口でまごまごしていたらちょうどタクシーがやってきた。この後国分尼寺跡を見に行くという人がいたので便乗させてもらった。尼寺跡を確認したら木津駅に戻るというので木津川橋で降ろしてもらい、あるいて恭仁京に向かった。

恭仁京 国分寺

木津川橋から恭仁京までは交通量の多い木津川沿いの国道を歩いた。暑い日だったが交通量が多いことを除けば木が生い茂って多少は涼しかった。しかし恭仁京の区域の入ると視界は開け、古代の都が作られた場所のように感じた。

木津川市立恭仁小学校は木造の立派な学校だった。学校の裏手に大極殿跡があった。恭仁京は5年ほどで終わり、聖武天皇は平城京に戻った。その都で全国に国分寺と国分尼寺を設けるように詔を出した。その国分寺が恭仁京跡に立てられて長く続いたらしい。この史跡は都跡と国分寺跡が重なっているのである。

ここから坂を下って加茂駅に向かおうとした。交差点で工事している人と「暑いね!」と言いながら目の前を見ると民家の壁に「arumitoy]!、ムム!
ちょっと訪ねてみた。地平線会議の仲間の木のおもちゃ作家の工房だった。汗だらけでお邪魔してゴメン! 車で送りましょうか! 汗だらけだったので辞退して駅まで歩いた。まだ暑い。乗せてもらえばよかった!

国分尼寺
聖武天皇の奥さんは光明皇后、彼女が大和に総国分尼寺である法華寺を作った。各地の国分尼寺も法華寺、法花寺ともよばれた。山城資料館からタクシーに便乗して法花寺野まで行った。ちょうど恭仁京跡の対岸である。ここには碑が立っているだけで発掘跡は何もない。

山城の国全体から見るとあまりにも辺境にある。平城京から見ればごく近い。後に千年の都になる平安京のある山城国だが、平城京のころにはまだまだ開発されていない場所だったのだろう。それについてはまたあとで考えよう。ただただ暑い恭仁京、山城国分寺訪問だった。アッツ、思いがけない出会いのあった訪問でもあった。

もう一つの国府 大山崎の離宮八幡宮
賀曽利さんが国府の写真を送ってくれました。これも山城国のもう一つの国府です。こっちの方が新しい。

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