若狭国府、国分寺、一宮、水送り寺

若狭国の位置 

若狭の国は日本海側に開いたリアス式海岸にある。若狭湾には良い港がたくさんあり、多くの人の出入りがあった。この地は遠敷(おにゅう)郡という名前だったが、これはなかなか読めない。古代の朝鮮語との説もあるそうだ。良港があり多くの魚介類が水揚げされた。若狭の国は御食国(みけつくに)と呼ばれ水産物を朝廷に貢いだ。御食国は他には志摩国、淡路国がある。これら二国と比べ奈良、京都には遠いが、東大寺の荘園があったりしてつながりは強かったようだ。

国府 総社
私は2008年2018年に若狭一宮を巡るために若狭を回った。この時は国府について関心がなかったので若狭一宮、若狭国分寺がある東小浜駅で降りた。後で調べてみると小浜駅近くに「府中」という集落があり「総社」もあるという。国府の遺跡は見つかっていないようだ。地図を作ったが写真はない。

きっと後で賀曽利さんが「エエーッ 行ってないんですか! それじゃこの写真を使って」と言ってくれると思うので、とりあえずはストリートビューからコピーしたダミーの写真を入れておきます。・・・・・早速賀曽利さんから写真が来ました。ダミー写真と交換しました。バイクが写っているのがいいね。

下の地図はなかなか面白い。若狭国は五芒星の中心にあり、陰陽道では重要な位置なのではないかと思う。と言ってもこの五芒星は大江山でも見たなぁ!

国分寺 国分尼寺
遠敷郡誌には以下のように書かれている。「聖武天皇の勅願によって毎州に國分寺がおかれ、若狭にも國府の近く建てられた。文永二年(1265年)國分寺16町4反餘,國分尼寺7町5反餘を領す。天正五年兵火に罹り烏有に歸すが、慶長15年釋迦堂を再建され國分寺に本尊釋迦如来と安置された。尼寺庵には堂を建て尼僧が住んだがその後禪寺となり曹洞宗の僧があとを繼ぐ」

国分尼寺は再建されて「尼寺庵」となったが、その後曹洞宗の寺になり薬師如来を安置した。明治の時代になって尼寺庵は国分寺薬師堂となったとある。ということは現在の国分寺の場所には国分尼寺があったことになる。今尼寺の跡についてはどこにも記述がないが、この辺りに国分僧寺と国分尼寺が並立していたのかもしれない。

若狭一宮 若狭彦神社:若狭姫神社
小浜市の歴史資料館は東小浜駅近くにある。そこから遠敷川を遡ったところに下社の若狭姫神社がありさらに遡ると上社の若狭彦神社がある。若狭一宮について

水送り寺

若狭彦神社のさらに上流に神宮寺がある。昔々奈良の都で神々の集まりがあった。若狭彦神は魚釣りをしていて遅刻をしてしまった。お詫びに毎年若狭から奈良の都にお水を送ることになった。東大寺二月堂閼伽井での「お水取り」の行事の発端である。こちらでは「お水送り」で1か月前に鵜瀬という川岸で行事が行われる。

鯖街道
大昔から奈良、京都とのつながりはあったが、江戸の時代になると新鮮な魚を一日で京都まで運ぶ道ができた。それが鯖街道である。距離は72キロだが山道を一昼夜で行くことは難しい。友人たちは鯖街道マラソンをやっていたが、速い人は10時間以内で到達した。昔もそんな人たちがいたかも?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です