5-5 神功皇后と皇子の東征!

古事記には第十四代の仲哀天皇が皇后とともに北九州の香椎(かしい)宮に居られたとの記述がある。大和政権をしきるはずの天皇、皇后がなぜ北九州に居られたのか、詳しい理由は書かれていない。古事記には熊襲を征伐するためにとあるが、この混乱した時代に何年も都をあけて各地に遠征していたことは考えられない。大変な疫病を収めた大物主系の日巫女によって、崇神天皇系の王は大和から追われふるさと九州に都落ちをして、再起をはかろうとしていたのだ。

博多の香椎宮で琴を弾じていた仲哀天皇に、神がかりになった神宮皇后が神の託宣を告げた。
「西の国の新羅を仲哀天皇に与える」
という声だった。
しかし天皇はその託宣を信じないで琴を弾きつづけた。神功皇后の部下の武内宿祢が再度天皇に奏上した。突然琴の音が消えた。神の声を信じない天皇は亡くなった。
もしや!武内宿祢の手にかかったのではないか?

神宮皇后は天皇に代わって新羅に攻め入ることにして、住吉の神や大己貴神(おおなむち=大国主神)に助けを求めた。日田市の近くに「三輪」という場所がある。そこに通称三輪神社がある。神功皇后はこの神社に参って兵を募ったところ大勢が集まった。神功皇后は夫の先祖神である天照大神に頼まず、大国主神系統の神に頼んでいる。これはかなり怪しい。

三輪神社で大勢の兵を集めて、博多の港から住吉大神の助けを借りて朝鮮半島に進軍した。神功皇后を乗せた軍船は海の神、住吉大神が呼び寄せた魚たちによって持ち上げられ、猛スピードで朝鮮半島に着き、さらに内陸の新羅の宮殿前まで大波に乗って一気に進んだ。驚いた新羅国王は神功皇后に
「これからあなたの国に仕えます」
と言った。
神功皇后は新羅の宮殿の前に住吉大神の社殿を作り、さらに百済の地も神功皇后の領地とした。これが有名な神功皇后の「三韓征伐」である。

帰国した皇后は北九州の宇美(うみ)に戻り御子を産んだ。妊娠したまま三韓征伐をした皇后は途中で子どもが生まれないように腹に石を巻いて産み月を遅れさせた。亡くなった仲哀天皇の子ではないのではという疑いが出ないようにわざわざ書いていることがかえって怪しい。生まれた子が天皇の子としての正当性がなくなっては困る。本当は武内宿祢の子どもだという噂(?)もある。

神功皇后は仲哀天皇との御子を連れて大和に戻るために関門海峡を通過し瀬戸内海にはいる。まず豊国(現在の豊前豊後)の宇佐神宮に詣でて、長門の豊浦宮(とゆら)宮に入る。豊浦宮というのはのちの聖徳太子の宮の名前である。なぜかここに「豊」(トヨ)が繰り返し出てくることに注目したい。
豊浦宮をでて瀬戸内海を進み浪速(なにわ)の港につく。ここで神功皇后の大和入りを阻止しようとする香坂(かごさか)王、忍熊(おしくま)王の兄弟軍と戦う。
神功皇后軍には武内宿祢(たけのうちすくね)いう有能な将軍がおり、
「御子は亡くなったので棺を運ぶ船だ」
と言って相手をだまして打ち破った。

 神功皇后はさっそく浪速に上陸して住吉大神をお祀りする。摂津の一宮の住吉大社である。住吉の三神の社殿は縦に一列にならび、神功皇后の社殿が一番前の社殿のわきに並列している。三神の行進を指揮しているかのように見える。こんな社殿を持つ神社は見たことがない。
神功皇后は大和川を上って大和に凱旋する。
大和は日巫女によって大物主系の政権になっており、神武、崇神天皇系は勢力を失っていた。仲哀天皇が九州にいたのはその余波である。そこへ神功皇后が三韓征伐の勢いのまま大和に入ってきたのである。
中国の書によれば卑弥呼の後に出てきたのは宗女の台与(トヨ)ということになっている。神功皇后は豊の国から豊浦宮を経てやってきて大和を支配した。神話の時代だから少しぐらい時間がずれても問題ないだろう。
神功皇后を追う旅の中で、
「日巫女(ひみこ)がモモソ姫で、その後継者の台与は神功皇后だった」
という妄想がますます大きくなってきた。

神功皇后は武内宿祢の力で大和に入り、大和政権をになった。しかし仲哀天皇の子で将来の天皇である御子はなぜだか大和の入らず、武内宿祢に連れられて角鹿(つぬが現在の敦賀)に行ってしまった。神功皇后はなぜ御子を連れないで大和に戻ったのだろうか大変不思議なことだ。

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