ウズベキスタン旅行5:シャフリサブス

5.ティムールの故郷 シャフリサブス
ジンギスカンは中央アジアの都市を徹底的に破壊したが、ティムールは廃墟を復活させ大帝国を作り上げたウズベキスタンの大英雄である。生まれ故郷はブハラとサマルカンドの間にあるシャフリサブスである。最初ティムールはシャフリサブスを首都とし、巨大なアクサライ宮殿を作った。しかしこの地は交通不便であったので彼は首都をサマルカンドに移した。シャフリサブスはいまは人口5万人の小さな町だが、特別に大きなティムール像と超巨大な宮殿の門、ティムールの墓があり世界遺産に登録された世界的な観光地として整備されている。この朝、バスでブハラのホテルを出た。昨日休養を取ったので少しは回復した。バスの窓から中山嘉太郎さんが走った道路を見る。彼の話のように綿花畑が広がり道端ではスイカ、メロンを売る人々がいる。小さなチャイハナが点々とある。中国の沙漠地たち違って人々の姿が濃いようだ。この道ならば中山さんなら楽しく走って行けたかもしれない。しかし政治状況はバスの中からはわからないので警官とのいざこざは常にあったようだ。私は「よく走って行ったなぁ!」と感心するしかない。今は10月の半ばで暑さは半減しているが、綿花摘みの作業は重労働だろう。広い綿花畑、この作業はいつ終わるのだろう。この畑の脇には灌漑用の水路がついているがそのそばに黄色い(錆びているが)パイプラインが通っている。これは天然ガスの供給用のパイプで、村の家々にもガスがいきわたっている。この国は資源大国でもあるのだ。しばらくバスの窓から道路わきを観察しながらうとうとする。

ティムールについて
ティムールは1336年にシャフリサブス近郊で生まれた。チャガタイハン国の内乱に乗じてのし上がりチンギスハンの一族の女性を奥さんにして「ハン家の婿」という立場で実権を握った。1370年のことであり、この年をティムール朝の成立とする。ティムールはサマルカンドを首都として再構築した。そしてチンギスハンの事業の再現をかかげてイラン、ロシアに遠征し、さらにインドにも侵入した。デリーを占領し捕虜10万人を殺戮した。膨大な戦利品と有能な職人、技術者を多数連行しサマルカンドのモスクなどの造営にあたらせた。さらに1400年にはシリアに侵攻しダマスカスを破壊、アンカラの戦いでオスマン帝国のバヤジット1世を破った。アンカラの戦いからすぐに軍を中国に向かわせた。明の永楽帝との戦いになるところだったが、1405年遠征の途中で酒を飲みすぎて没した。墓所はサマルカンドのグルアミール廟である。ティムールは生涯「ハン」ではなくアミール(指導者)だった。ティムールの宮殿の奥に見事なネギ坊主のドームを持つモスクがある。中に入るとすばらしい彫刻がある。しばらくそこで落ち着きたくなるようなモスクである。瞑想のモスクと言われるとのことだ。ティムールの墓はサマルカンドにあるが彼は死後は故郷のシャフリサブスに葬られたいと墓所を作っていた。その場所は今は地元の男たちの礼拝の場所になっている。シャフリサブスからサマルカンドまで80キロある。高速道路があれば1時間ぐらいだが、途中に2000mもの山がありそれを越えなければつかない。3時にバスに乗ったがサマルカンド郊外に着くころには真っ暗になった。おそらく3時間はかかったことだろう。ホテルはレギスタン広場のすぐ裏だったのでライトアップしたメドレッセを見ることができた。ちょっとやりすぎのライトショーだった。今日もつかれた、一日を反芻する間もなくベッドに入ると爆睡だった。

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