秋田2 旧秋田城の鎮守 古四王神社の狛犬
秋田は古代には 「齶田(あぎた)」と呼ばれた。 この地に天平宝字5(761)年最北の古代城として出羽の柵が設置され、出羽国の国府がおかれた。しかし蝦夷の国への最前線で攻防があったので国司が赴任することはなかった。現在の秋田氏とは離れているが発掘によって出羽の柵のちに秋田城の跡が確認されている。
旧秋田城は高清水の岡の上にあり、入口「古四王神社」がある。古四王は「巨四王」とか「胡四王」「越王」などと書かれる。古四王神社は北陸から北の日本海側に数多く存在している。北を目指した武将たちが勝利を願ってつくったのだろうが、祀られる神はなにかよくわかっていない。
文久4年(1864)生まれの目が丸く鼻の高い狛犬。 口蓋は波打ち、尾は団扇状で、そんきょの浪花型の狛犬の影響が見られるが、秋田型狛犬である。
最初の石段を上がると右手に田村堂が見える。征夷大将軍坂上田村麻呂をまつるお堂である。わが奥さんは旧姓田村なので大いに喜んでいる。その前に上の狛犬がいる。最初のものと同じくそんきょの浪花型の狛犬だ。阿形は玉持ち、吽形は子持ちである。
文久元年(1861)生まれの上向き潰れ顔の典型的秋田狛犬。 鋭い目つきで力強く、鬣は長く背に垂らし、尾は背中に張り付いている。 上腕には筋肉が隆々している様子がわかる。3体とも立派なこまいぬである。 石工・倉田 仁兵衛
旧秋田城の発掘が進み、資料館も作られている。復活された建物の中で一番の見どころが上の写真の水洗便所だ。化石化した便の中から大陸起源の回虫などが見つかったそうだ。渤海国などと交流があったことがわかる資料である。
もう一つ追加、菅江 真澄(すがえ ますみ、1754年 -1829年)は、江戸時代後期の旅行家。彼の墓がこの神社のすぐ近くにある。