シンガポール在住のI君、S君たちと会う

160807kaiga01孫たちに遊んでもらうことも楽しみだったが、ここに在住の友人たちに会うのも今回の旅行の目的だった。2日目には山岳部の後輩のI君一家と会うことができた。お子さんがわが孫と同じ年なのでいろいろ話しできたらいいなと思っていた。
翌日は清瀬高校の教え子のS君が、在住の同窓生を集めてくれた。その中には戸山高校、竹早高校の教え子がいたのには驚いた。戸山の卒業生はバンコック在住なのにわざわざ飛んできてくれた。ありがたいことだ。
彼らからいろいろ学んだことと、国立博物館で知ったことと合わせて、シンガポールの歴史をちょいと記しておく。半分ぼけた頭だが、酒飲んで楽しい話は覚えている。しかしちょっと難しいことはすぐにメモしておかないと忘れてしまう。  シンガポールは、もとはシンガプーラと呼ばれた地だった。スマトラの王子がマラッカを建国した時に、最初に上陸して見た動物の名をとって「獅子の町」(シンガプーラ)と名づけられた。マーライオンはその象徴なのだが、本当にライオンがいたとは信じられないのだが!

マラッカ王国は1511年にポルトガルの攻撃で滅亡し、シンガプーラも廃墟になり海賊の島となった。その状態は200年以上続いたが1819年にイギリスの東インド会社のラッフルが乗り込んできた。彼が都市計画をつくり自由貿易港にしたために多くの商人たちが住み着いた。20世紀初頭には20万人が、東京23区と同じ面積の場所に住んでいた。人口構成は華人が75%、マレー人が15%、インド人が6~7%と、現在とほぼ同じになった。(現在の人口は550万人) シンガプールが英国風のシンガポールに変更されたのはラッフルによる。ラッフルがシンガポールの父と呼ばれるゆえんである。

マレー半島のスズ鉱山、ゴム農園の輸出港として大発展していった。1942年日本の自転車部隊はマレー半島から一気に南下してイギリスからこの島を奪い、昭南島と改名した。日本軍はマレー人を優遇し華人を多く殺傷し、民族対立をあおったが、これは失敗政策だった。3年間の支配のあと再び英国の統治になったが、1959年選挙で圧勝した人民行動党の指導の下に独立した。指導者は中国系のマレー人のリークワンユ首相だった。1963年に念願のマレーシア連邦として合併したが、2年ももたないうちに連邦から追放された。その悲しみで首相は泣き晴らしたが、それがかえって良かったことは現在が証明している。1965年8月9日の独立から今年は51周年、昨年は50周年記念を盛大に祝ったそうだ。

強烈なリークワンユ首相のあと息子のリーシェロンが現在の首相で、独立以来一度も政権は変わっていない。そろそろ野党のいない一族独裁政権も弊害が出てきているが、経済が急成長している現在、変化を望む勢力はほとんどない。

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