尾浦港 いのちの石碑

2011年の7月に地平線会議の仲間、か曽利くんやシェルパくんたちと尾浦漁港へ手伝いに行った。津波の襲われた港には数十軒の家があったが、すべて壊され、がれきの山になっていた。何をしていいか分からず、とりあえず半壊状態の家の瓦をはがして、ちょっと上にある保福寺に運んだ。家々はその後重機で取り壊され、きれいに整地された。後になって考えると、我々のやったことは何にも意味はなかったが、その時にはなんとか体を動かさずにはいられなかった。

その後2回ほど訪れたが、沈下した港はかさ上げされ、漁船は多く戻ってきていた。ホタテの養殖も順調ということだが、港には一軒も家はなく、さびしい。漁民の方は仮設から車で通ってくるのだそうだ。今後この港がどうなるのだろうか。

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2011年に来た時の写真

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今年の写真 

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保福寺の前に建てられていた「女川いのちの石碑」
「ここは津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。
もし大きな地震が来たら、この石碑より上に逃げてください。
逃げない人がいても、無理やり連れ出してください。
家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引きとめてください。」

うれしい便り 高校合格!

3月10日(水)
昔からの地平線会議の仲間であるW辺京子さんからうれしい便りが届いた。先月あったとき、娘が高校受験なのだけど、あんまりできなかったと言っているので・・・・・と心配そうだった。「できた、できた」と言っているやつに限って受からないことがおおい。できなかったと言っている方が、自分成績を客観的に見ているので、受かっていることがおおいよ。と学校の先生のようにアドバイスをしておいた。私は最近会っていないのでよくはわからないが、このかあちゃんととうちゃんの子どもなら間違いないと確信していた。

無事、神奈川県立高校に受かったと聞いてほっとした。・・・・私立の25万円の入学金、公立の5650円、この違いは地平線会議的な生活をしている我が家にとってはありがたいものです。おまけに近所の方に制服をいただきサイズまでピッタリ。オー ビンボーにはビンボーのよき神がいるもので、ありがたや~の世界です。と書いてありました。

いまの世の中は民間へ民間へと向いています。早稲田の付属小学校では350万円の寄付を面接時に要請するとありました。非難されても、合法的だとうそぶいていますが、受験を目の前にした親の弱みにつけ込んで要請するのはあまりにも非教育的じゃないかな。私立へ私立へとみんなの目が向いているのですが、本当にそんなによいのでしょうか? 私が公立高校にいたからひいきするわけではないが(多少はあるけど)、公立もそんなに悪いところではないはずですよ。

W辺家のように、どうしても公立でなければならないと言う人も多い。全部が全部、私立に行きたいわけではないでしょう。公立はどれといって特色がないという特色があります。私立は生き残りをかけて特色を強く打ち出しているが、その色に染まりたくない親も子もいるはずです。特色がなければ自分でそれを作り出すという楽しみがあっていいのではないでしょうか。
最近は公立高校もさまざまな特色をもった学校を作りはじめています。国際高校とか総合高校、進学重点高校、6年生高校、単位制高校、などなど。それらもおもしろいのだが、しばらくすると流行は廃れて、また混乱してきます。そのときに小回りができるのだろうか心配です。

私は、あんまりいろいろ凝らなくてもいいのではないかと思っているが、教育委員会は何か仕事をしていなくてはいけないという強迫観念をもっているらしい。しかしそれはかなりよけいなお世話なのです。いままでやったアイディアで成功したことはほとんどない。学校群をやったらレベルは低下した。大学入試センター試験のおかげで高校3年生の3学期の授業はなくなった。土曜日を休みにしたけど、結局は全員で補修をやっている。
学校というのは社会の縮図だ。学校だけを改革してもうまくいくものではない。画一的に上からのお達しをするよりも、そこの学校で小手先の手直しをするほうがよい。これだけ分化したいまの時代、一斉の改革などうまくいくはずはないのに。

昨日、今日とグダグダと私の思いを書きました。家にいるとこんなことばかり思って、まだウジウジしそうなので、外へ出てみなさんのためになる仕事をしてこようと考えています。
でもよけいなことをしないでくれ! との声も聞こえるのですが。・・・

お台場 24時間 ランウォーク

3月7日(日)
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実はいまは月曜日。日曜日中にお台場のマラソンの話を書いておこうと思ったのだが、くたびれ果てて風呂に入ってすぐに寝てしまった。私はせいぜい40数キロ走っただけだから、そんなに疲れるはずはないのだが、睡眠時間が少なかったのが原因かもしれない。それに土曜日の夜は例年になく寒くて、水たまりには氷が張っていたし、雪もチラチラと舞っていた。身体が冷えて固まると疲れはいっそう激しくなる。もう年なのかなあといいながら、いやまだまだ若い者には負けないとがんばっていると長嶋さんのようになるといけないので、そろそろ自重しなければ。・・・・・・

ウルトラランニングの神様である海宝道義さんが主催する「24時間チャリティラン・ウォーク」に今年もリレーチームで参加した。メンバーは昨年とほぼ同じ「山吹チーム」で、私は監督という名目だった。地平線会議チームもE本さんが監督で、1時間おきに交代し、何時間は寝袋で休むという緻密な計画を立てていた。我がチームは自主性を重んじて、好きなときに好きな時間だけ走るといういい加減な予定だった。しかしこれは失敗で、いつ走るか予定が立たないので、常にスタートゴール地点で待機することになり、身体を休めることができなくなった。この他に山吹の永井先生の家族チーム、田口さんの率いる埼玉のコーペルグループなどが参加した。

走るコースはお台場の船の科学館の外周道路1.5キロで、スタートゴール地点は「不審船」の展示のために場所がなくなってプールのレストランに移動した。1周回ると輪ゴム1本もらって、10本たまると黄色の輪ゴムにかわる。黄色が10本たまると、すなわち150km走ると赤色の輪ゴムになる。レース後半赤色の輪ゴムを持っているチームは「すごい」と尊敬される。

我々はリレー参加だが、本来は24時間個人の部がメインなのだ。この他にも12時間走、6時間走などもあるが、24時間走る人たちで、気合いがちがう。実際に国際大会で上位入賞をしているランナーも参加している。

しかし海宝さん主催の大会のいいところは、すごい人たちもいるが、我々チームのように1年に1回だけ走る人たちや、80歳を越えたおばあちゃんたちがとことこと24時間歩いてもいる。もうなにがなんだかわからないようなごちゃごちゃの大会なのだ。24時間の間、人間の最も根元的な歩く、走るという行為を通して、様々にものを考えることができる。本当は自分でもわからないが、忙しく動いていく世の中で、こんなにも優雅な時間はなかなかとれるものではない。

今年も私の教え子である、なめちゃんやよっちゃんが仲間を引き連れて来た。彼らはこんな経験はまったくないだろう。何かを求めているが、情報はものすごくたくさんあるのに、どれを選択していいのかわからいいまの若者にとって、なにかとてつもなく理不尽な世界に引き込まれた感じだろう。しかし彼らは自分たちでローテーションを作ってそれぞれ勝手に走っていた。そしてなんと200kmを越える距離を走った。最後は膝や腰の痛みでまったく走れなくなったのもいたが、自分たちの足跡をみて驚いたことだろう。個人の世界記録は24時間で240kmほどだろうから、5人とはいえそれに近い距離行ったのだから、自分でも驚きだろう。

走行時間 走行距離
高島 5:01 37.5
三輪 3:33 37.5
中澤 5:20 43.5
大幡 4:45 37.5
池田 3:25 31.5
大金 1:24 13.5
みんな 0:28 3.0
23:56 204.0

ここでの経験を糧にして、彼らはきっと立派に成長していくだろう。と行けばまさにテレビドラマである。これまで私は何人もの生徒をマラソン連れて来ている。そのときには一様に「いい経験をした」と言うのだが、その後生活に大きな変化をもたらしたという例はそれほどあるわけではない。学校の先生は、おもしろそうなものを見せてやることはできても、そのあとは自分次第である。きっとここで「努力したからって格別いいことがあるわけではないな」と感じた子もいるはずだ。
でも懸命に役に立たないことをやっている人もたくさんいるのだと思ったかもしれない。先生を辞めたが、相変わらず先生的立場で若者をみる意識が抜けていないので、少々困る。教育的効果を考えて彼らを連れてきたわけではないのだから。

24時間ランウォークの写真を入れておきます。この写真はほとんどが今回のスタッフの城定さんが撮影したものです。本人の許可を得て、ここに載せさせてもらいました。

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電子機器がぜんぶおかしくなった

3月5日(金)
我が家の電子機器がみんなおかしくなった。パソコンは中原さんのところにお願いした。ビデオは露がつきましたという表示が出たままとれないので田端にあるsharpの工場にもっていき、紙送りができなくなったレーザープリンターは日野にあるEPSONの工場まで直接もっていった。勤めているときだったら、ビッグカメラに頼んだだろうが、いまはヒマなので直接もっていって悪いところを説明して直してもらう。

高速道路を使わないで甲州街道を行ったので日野まではかなり遠い。帰りには国分寺のカフェスローにいってみたら、本日はライブがあるので閉店だった。残念。長野亮之介さんの書いたネームプレートがある。東八道路と国分寺への道路の交差点のそばに京王ストアがある。その隣がカフェスローだ。近くの人はどうぞ一度いってみてください。

ビデオは買ったばかりなので、無料で直りそうだ。EPSONはもう7年近く使っているので、かなりかかりそうだ。このLP8200というのはもともとは10数万円だったが、いつものように中原さん経由で買ったので2,3万円だったと思う。それぐらい直し代がかかりそうだ。でもB4版が印刷できるレーザープリンターは貴重なので仕方がない。

夜は榎町地域センターの交流会に江本さん、関根さんと一緒に行って来た。最近使用後にかならず新宿区民が何人?他区の人が何人?という質問がされる。「これは他区の人が使うのはまずい」という意味なのかどうかを質問したところ、区議会で新宿区民を優遇するようにという意見が出たので、それに従っている。別に登録団体に入っている人を排除しているわけではないので、どうぞ他区の方も使ってくださいという言質をもらった。「地平線会議」、「みわ塾」が 榎町センターから排除されることはないはずだ。

ところで、あすはお台場で24時間マラソン。昨年は山吹チームで200kmほど走った。その後に「退職を祝う会」をやってもらった。今年は山吹チームが2組、地平線が1組、田口一族が1組が参加する。いかなることか、明日は報告できないので、日曜日夜の報告します。

関野吉晴探検資料館

2月28日(土)
昨日は地平線会議。291回目。金井シゲさんの登場だった。金井さんのハワイ。前半はいつもの名調子。後半はE本さんハワイ初体験。デジカメ初体験のお話。さらに後半は石川くん登場。熱気球で太平洋横断に飛び立ったが途中で着水。幸運に恵まれ無事にコンテナ船に救出された顛末についての報告。A東君の植村直己賞受賞の話。さらにT村さんの7大陸最高峰をめざす決意。などなど盛りだくさんの話題、それぞれじっくり聞きたい内容のつまみ食いだった。

午前中は墨田区にある「すみだ環境ふれあい館」に関野吉晴探検資料室が開設され区長から感謝状をうける関野さんる事になり、その開設式があった。地平線の仲間とともに出席。墨田区は関野さんの出身地。資料室は廃校になった小学校を転用した環境の教育施設。もともと墨田区は雨水利用では先進区だ。その館に大きな目玉ができた。小学校の転用施設だから、展示資料の保護にはよい環境ではないかも知れない。しかし手作りを大事にする関野さんらしい場所を得た感じだ。子どもたちにていねいにカヤックやソリの説明をする姿は、人間好きが伝わってくる。
展示された140点のすばらしい写真のかなりの部分は、人間の笑顔だ。人と人のていねいなつきあいが現れた写真だ。
子どもたちにぜひ見せたい資料館だ。墨田区近くに住んでおられる方、ぜひ見学してください。

入館料無料。場所は
墨田区文花1-32-9 旧文花小学校 東武鉄道亀戸線「小村井駅」下車10分

木を切る=気を切る!

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2月26日(木)
庭の木が大きくなりすぎたので、小さくコンパクトにしてもらうことにした。騎西町にすむ江口くんご夫妻にお願いした。彼は農大出身のプロの職人さんだ。はしごも手作りのものだ。花水木、サザンカ、キンモクセイを小さくしてもらい、太く大きくなりすぎた西洋カエデを根本から切り倒してもらった。

木を切るのは大変なんですよ、と言うeguti2。力がいると言う意味ではなく、木にはそれぞれ気があって、それと対話をしなければ切れないという。昨年近所の屋敷の大木を切る仕事を請け負い、上から枝を下ろしていったが、いよいよ切り倒そうという段になったときに、はしごから落ちて背骨を痛め半年間も仕事ができなかったそうだ。「その木は昔からその屋敷にあった大木で、切る必然性はなかったんです。自分はその木の「気」を感じていたのだが、仕事なので切ろうとしたが、ダメだったんです。むこうの気のほうが強かったんです」と話してくれた。その木はいまもそのままになっているそうだ。

我が家のカエデにはその気を感じなかったが、ムダにしてはいけないので、職人さんの仕事の脇で、ベンチにする作業をした。丸太を切るのは息が切れるが、「大事に使うからね」と言いながら作品を完成した。いつもは我が作品にケチをつけるわが奥さんが誉めてくれた。

今日が誕生日だったから鷹揚だったのだろう。

 

みわ塾 淡きくれない

2月25日(水)
久々の「みわ塾」の日。今日も昼の部に18人。夜の部に13人が来てくれた。いつものメンバーに加えて若者も数人来てくれた。おもしろかったのは親子の参加者が数組いたこと。親子断絶を心配する風潮もあるが、こんな例もいくつもあるのだ。

今回のテーマ「人類の未来」で「3世代同居」を人類の未来を明るくするヒントだとのべた。  ジジ、ババとの会話は重要なのだ。もう一つは「自然には神が宿る」、森の木それぞれに何やら霊力があるというのもだ。最近はこの話をあちこちでしており、もしかすると「みわ塾」はあやしい宗教団体ではないかと思われている。実は私はなんだかわけのわからない「八百万の神」を信じる人間なのだ。これを宗教というなら、宗教家でもいい。でもだれでもが、好き勝手に何でも信じてしまうというのは宗教になるのかしら?

お母上の歌集「淡きくれなゐ」takekiyo

そんなわけのわからない話をして帰ったら、武田くんから、お母さんが亡くなったとの電話をもらった。彼のお母さんにはPTAの頃からいろいろお世話になったし、教えてもらうことも多かった。息子とは違って凛とし、教養も大変深い方だった。歌集を頂いたこともあった。その中にいくつか息子のことを歌ったものがあった。3つほど拾い出し、ここに掲載させていただきます。

 

チベットにて如何なる思惟を経しならむ髭に覆われ帰りし息子
幼き日我が袖の陰にかくれし子いま晴れやかに花嫁と並ぶ (私が仲人をしました)
クェートの砂漠にマングローブを根付かせし十年の辛苦とを淡々と語る (向後さんのこと)

熱気球、天の川2号 太平洋に不時着!

1月28日(水)
昨日未明に栃木の永野川河川敷をとびたった天の川2号が太平洋上に着水したという報道があった。神田さんと石川直樹くんが太平洋横断をめざして乗り込んだ巨大な熱気球だ。高度8000mをジェット気流にのり時速200kmで、3日間でアメリカ大陸につく計画だった。

しかし残念なことに燃料の噴射がうまくいかなかったようで、半日で降下したという報道だった。 今の時期の西太平洋の海上はとてつもなく寒いだろう。大丈夫だろうかと心配していたが、近くを航行中のコンテナ船に救助されたとテレビで言っている。よかった。私の一番の心配は、今度のように海に落ちたときに、うまく救助されるだろうかということだった。気球はほとんど水没し、ゴンドラは半分水没していたという。危ないところだった。

偉大な冒険家は運を味方につけることができるのだろう。ともあれ、無事で何よりだ。

地平線通信 印刷発送 業務 手順

1月20日(火)
地平線通信を印刷、発送作業。ここ1年間は新宿の榎町地域センターのリソグラフで印刷している。作業順序はまず
■1.編集長の江本さんが原稿集めを行う。同時に報告者の折衝もほとんど編集長が担当。

■2.長野画伯が報告者にインタビューをし、イラストと文章を作成。それをメールで武田くんに送る。

■3.武田くんはこれをB4版の裏表にレイアウト。今回は8ページ。丸山くんが1ページを担当することもある。

■4.地平線の封筒は早稲田封筒で1000枚単位で購入、表はリソグラフで印刷しておく。

■5.宛名ラベルは武田くんの住所管理エクセルからファイルメーカーにして私に送ってくる。それを20枚のラベルに印刷。

■6.用紙は裏表印刷が可能なものを、近くのイオキという紙問屋で調達。クリーム金マリという用紙を500枚注文する。ふつう印刷用では8枚に切って耳を落とすのだが、我々は9枚に切ってもらう。これで4500枚。500枚分お得で、しかもムダがでない。

■7.武田くんから送られたレイアウト済み原稿を江本メールランナーが榎町センターに自転車便で配達。三輪がイラスト、丸山分を貼り合わせて印刷。すこし乾かしてから折り機で半分に折る。これはなかなか優れもので労力が節約される。

■8.そのときに応じて有志に集まってもらい会議室でこれを1/3に折って封筒詰め。宛名ラベル貼り。これは人海戦術しかない。人が集まらないときにはこれに時間がかかる。

■9.終わったらご苦労さんで、北京亭で夕食。

■10.三輪は封筒を郵便局本局の夜間窓口に行って料金別納で投函。463通、37040円。印刷費1600円。会議室借用料1100円。でした。
■昨日集まった人は、三輪、江本、村田、大久保、大西、白根、武田、菊池、坪井、関根 さんでした。もう一人いたような気がするが、だれだっけ??

■思い出した!インド旅行中の藤原さんが、発送作業中にメールをくれたのだ。発送作業応援人人に追加。

地平線会議 四万十川集会

2003年4月3日(ブログ開始)

●3月27日夜8時半、川崎港発のフェリーに乗って高知に向かい、そこから走ったり列車に乗ったりして四万十川下流の土佐中村市に行ってきました。29日と30日に、地平線会議の仲間であり、四万十川に暮らす山田高司さんが委員長を務める「四万十川、黒潮エコライフフェア」に参加するのと、お遍路まねごとと、走り旅のためでした。

●四万十川の広い河川敷にサッカーボール型の巨大なテントを中心に、フリーマーケットや多国籍飲食店、葦船製作体験など多くの展示が並んでいました。私たちの地平線会議はドームテントの中で「地平線報告会 in 四万十」と称して山田高司のスライドand トーク、賀曽利隆、石川直樹、江本嘉伸の水談義、翌日は賀曽利隆、三輪主彦の水自慢、遠来の地平線会議メンバーの紹介、さらに廃校になった小学校を転用した四万十楽舎に移っての地平線のオークションなど2日間まるますのイベントでした。集まった地平線のメンバーは40人。地元の人たちは、何でまたこんな所まで、こんなに大勢の人が集まったのかと驚いていました。委員長の山田さんはきっと地元で再評価されるでしょう。simanto

●地平線会議はおいといて、四万十川を走ったゾーの報告です。

▲高知新港は外洋に面した新しい港で、交通の便は全くない。しかしフェリーの客は車で来ているので問題ない。私も「足」という交通手段を持っているので、ただちに巨大な浦戸大橋を渡って、桂浜へ。坂本龍馬の銅像が有名だが、それより私は荒天号という潜水艦が目当てだった。この船は宿毛に住む竹内静夫さん(1915~1992)が独力で作り上げた日本で唯一の手作り潜水艦だ。ボイラー工場を経営していた竹内さんは、荒天日でも潜水して航行すれば、海難救助にも役立つと考え、昭和45年頃より設計開始、51年より制作に着手しコツコツと自分の工場で作りを続け、ついに約15年を経て同59年に完成した。制作費は当時の金で約4500万円、結局工場も売り払って資金を作った。荒天号の主要仕様は次の通り。
全長 12.5m 全幅 3m 重さ 13.5トン  エンジン 270馬力  10人乗り
完成した潜水艦は試運転では水深200mまで潜水可能だった。ところが日本のお役所は、個人が潜水艦を作った例はないという理由で、船舶の許可を出さなかった。車検証がない車が走ってはいけないのと同じで、この船は海を航行することはできなくなった。私が宿毛を訪れたのはそんな時だった。宿毛の港に荒天号は寂しく係留されていた。竹内さんのお宅におじゃまして話を聞いた。それは興味深いものだったが、それより奥さんの「この船のために家も工場もなくなったんですよ」という話の方が、胸に響いた。私の奥さんと竹内奥さんは意気投合して、お互いの亭主を非難しあった。その竹内さんは不遇のうちに亡くなった。しかし竹内さんの偉業をたたえる人もいて、荒天号は坂本龍馬と並ぶ、高知県のシンボルになっていた。

◆荒天号に再会し、十分満足し、四万十に向かう。龍馬像の下で短パンになって走り出した。黒潮ライン花街道と書かれた道は一直線に西に続いている。しばらく走ると、中村まで105kmと出ている。「こりゃ明日の2時までには着かないや」 とりあえず5時まで走ることにした。土佐宇佐町はジョン万次郎の船出した港だ。ここには宇佐八幡があると聞いた。だいぶ行きすぎたが、もどって詣でる。最近私は宇佐八幡が日本歴史に果たした役割について大いなる興味を持っている。「宇佐」と聞けば疲れた足もいとわず回り道をする気分になる。桜が満開の参道を本殿まで行く。なかなかの神社あdったので満足し、足取りも軽く、いい気分で浦の内湾岸を走る。3時間で20kmほど走った頃からエネルギー切れ。車に乗せてもらって須崎まで。ちょうど発車間際のJR線に飛び乗り、窪川へ。ここには札所37番の岩本寺がある。6時すぎたがまだ明るい。お遍路のまねごとをして巡礼宿に泊まる。4500円。

◆29日、1時までに中村に着かなければならないので、始発で大正駅までJRで行く。そこから四万十川沿いを走る。まだ寒いが、大正の先の昭和駅をめざして走る。桜が咲き始めた川辺の道は走る車も少なく快適。十川橋で車をひろって江川崎まで。そこから今晩の宿である四万十楽舎まで走る。目的地まではあと26kmあるのに、すでに11時、再びヒッチハイクで佐田まで乗せてもらい、さも全コース走ってきたかのような顔をして四万十川にかかる赤鉄橋の下の会場に到着した。8時頃までイベントは続き、車で宿舎まで送ってもらう。楽舎は廃校になった小学校を宿泊所に改造したもので、私は校長室に泊めてもらう。

◆明け方の5時まで飲んで騒いでいた賀曽利くんは6時きっかりにバイクで四万十川を取り囲む峠越えに出ていった。私は8時まで寝て、9時に昨日キセルした27キロを走って行くことにした。昨日よりも道は整備されていないので、走るのには快適。30分前に出発した神奈川の古山さんにはなかなか追いつけない。川にかかる沈下橋の写真を撮りながら進む。ちょっと広い段丘上には満開の桜と菜の花のジュウタン、気分は最高。フォレストガンプのおっさんのようにどこまでも走れそうな気分になる。川登集落でやっと古山さんに追いつく。彼は荷物を背負って歩いているんだが、私が走っているのとそれほど違わない速さだった。
3時間で27kmを走って会場に着く。午後は江本、賀曽利の両氏とバトルをする。4時に終了すると東京、関西に帰る人たちは大急ぎで中村駅へ。フリーターの私は、別に急ぐこともないので、中村の町を見物し、夕方は山田くんの実家でごちそうになり、再び四万十楽舎にもどる。夜はまだ四国の峠越えを続ける賀曽利君、古山さんと泊まる。翌日6時きっかり、バイクの音が大きくなり出発していった。

◆私は江川崎まで車で送ってもらい、JRの始発で宇和島にでる。ここから松山まで走ろうと思っていたが、雨の気配という言い訳を考えて、そのまま列車の旅になり、岡山からは新幹線に乗ってしまった。やっぱり軟弱な人間だ。「走ったゾー」とあんまり威張れたものではない。
当たり前のことだが東京は四月になっていた。これまで、新学期と考えるだけで緊張したものだが、もうその心地よい緊張感はない。今日からあこがれだった本格的フリーターだ!