奈伎良比売(なぎらひめ)神社

中ノ島の東端に豊田の港がある。中ノ島は隠岐の島の中でも一番たくさん水田がある。昔から豊かな田んぼがあったようだ。ここでとれるお米は東京で1キロ1800円するそうだ。ここを開いたのが伊予の國からやってきた奈伎良比売だという。
豊田の港の奥に奈伎良比売神社がある。私たちは北側にある奈伎良比売の父である宇受賀命(うずかみこと)神社からタクシーで来た。親切な女性運転手さんで、いろいろ説明をしてもらった。ドイツから来て農家をやっている人、隠岐牛のファーム、山地酪農などなど。

神社もよかった。ここの狛犬も逆立ち。本殿はかなり高いところに上がっている。大社造りだと思う。桜はちらほら咲いている。いい感じの神社だ。それに格式のある式内社でもある。なかなかだ。

隠岐神社 後鳥羽上皇を祀る

菱浦の港がある中の島は海士町になっている。平安時代、承久の変に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流された。その時の隠岐が海士町で、町の中心に「隠岐神社」がある。隠岐に来るまえ、隠岐神社が一宮に違いないと思っていた。しかしこちらに来て聞いてみるとけっこう新しい神社だということが分かった。

隠岐神社の前に、資料館があった。観光パンフなどから以下のような説明を受けた。 承久3年(1221年)承久の乱によって隠岐へ配流された第82代天皇、後鳥羽天皇(配流時は上皇)は、海士郡の源福寺を行在所とした。村上氏が身辺警護と監視にあたっていたが、延応元年(1239年)崩御し源福寺裏山で火葬にされ、火葬塚が作られた。のちに松江藩主松平直政が廟殿を造営し明治まで維持されたが、明治2年(1689年)に廃仏毀釈の影響で源福寺は廃寺になった。

江戸末期の絵図には、火葬塚に「後鳥羽院神社」が描かれていた。明治6年大阪府の水無瀬神宮に後鳥羽院神社(?)ができたので海士町神社の神社はなくなった。しかし地元では祭祀が続けられていた。後に旧源福寺境内地は、隠岐の御陵とされた。隠岐神社は、火葬塚の隣に昭和15年(1940年)の紀元二千六百年の奉祝事業で島根県が創建した。

隠岐の島です。 

羽田を7時25分に出発し、出雲空港を経由して隠岐ジオパーク空港に10時ちょっと過ぎに到着。空港から西郷港にはバスで行く。わずかな距離だが510円。本日は12時05分のフェリーで海士町に行くことにしている。

1時間半ほどあるのでどう過ごすか考えていたら、背の高いイギリス人と知り合いになった。英国のバースに住んでいるが、今は休暇で奥さんの実家に帰っているという。私たちもバースに行ったことがあるという話をしたら、お宅にお邪魔することになった。英国風のお茶をいただいて、隠岐の名所、名物の案内をしてもらった。自宅の前は水路で、窓から船が見える。まさに昔の漁師の家という感じ。日本の港町で島の説明をイギリス人から受けている。なんかおかしい感じがする。

お茶と八朔をいただいて、フェリーに乗る。ちょうど転勤、入学シーズンで、朝の便は多くの学生、先生でにぎわっていたようだ。昼の便はガラガラだった。1時間ちょっとで中の島の菱浦港へ着く。降りた人はあまりいない。駅前の島牛レストラン(ここ一軒しかレストランはなかった)でランチ。隠岐牛の焼肉だ!おいしかった。