梅雨が明けた。でも下山!

3連休の最後の日。関西、東海あたりは梅雨が明けたらしい。関東は明日あたりかな。徳沢の天気は良好。しかし奥さんが昨日虫に刺されて顔が腫れてしまい、昨日の夜、徳沢園の隣にある日大の診療所で見てもらったが、今朝も注射してもらうことになっているので、出発は遅れた。

腫れはだいぶ引いて顔は本に戻ってきた。天気も晴れになり、奥又白谷や明神岳が輝いて見える。昔はあのあたりを歩きまわっていたが、今はあそこまで上がることもできないだろうな。

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しかしまだここでこの景色を再び眺めることができることの幸せ。昨年末に入院した時には、「もう山に行くことはできないなあ!」という気分だったが、今は「来年もこの景色を見に来るぞ!」という気になっている。自重して、来年は涸沢にいけるようにトレーニングしておこう。体力は孫たちにどんどん引き離されているが、来年まではなんとかついていきたいのだが。奥さんはあきらめているが、がんばらせなければ!!

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新村橋、徳沢の先にあり、奥又白谷などに行く

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ウツボグサ

涸沢へ向かうが本谷橋で引き返す

天気図はもう梅雨明けだが、予報は雨。しかし私の予想は雷雨はあっても、雨はひどくない。ということで予定通り涸沢(からさわ)に向かう。おばあちゃんたちはちょっと無理そうなので、途中で分かれて先に下ることにしていた。

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子どもたちは元気で、年寄りを置いて先に行ってしまう。私は昔登った屏風岩の岩壁を見ながら、ゆっくり歩く。どこを登ったかよくわからないけど、あんな急傾斜をよく登ったもんだ。

上から下りてきた登山ガイドさんが、一昨年も徳沢で出会った増島さんだった。昨年けがをしたが、無事復帰してガイドさんをしている。さすが鍛えてある人は違うなあ。先に降りているはずの奥さんたちに、私の方の状況を伝えてもらう。1時間ほど前に降りた奥さんにすぐに追いつく速さだ。後で聞いたら、私に会ってから15分ぐらいで奥さんに追い付きたようだ。

本谷橋で、天気が変わりそうなので、子ども連れではちょっと不安ので下ることにした。しばらく下ると、山ガールから声をかけられる。若い女性から声をかけられることはないのだ。米山さん。昔「沙原の会」でよく徹夜で奥武蔵の山々を歩きまわっていた若い仲間だ。一瞬にして思い出したが、今から数十年前の話だ。若い女性・・・・?? でも山にいる女性は若い。

 

上高地は今年も雨だった!

天気図を見ると、梅雨前線は北に上がっているので関東地方はもう梅雨明けの様相を呈しているが、長野県辺りはまだ雲が残っている感じ。朝6時に出発したが、忘れ物を取りにもどる15分の間に、中央高速はもう渋滞が始まった。三連休だから仕方がない。

そこで関越経由に変えた。30キロほど長くなるが、渋滞を待つ間に30キロ分ぐらい走ってしまう。関越渋滞もなく道の駅・風穴の里でスイカを食べる。沢渡でシャトルバスに乗り換える。上高地はマイカー規制でバスとタクシーしか入れない。大人四人で団体割引(7400円)になる。

釜トンネルを越えたころから雨になる。今年は徳沢園で泊まることになっているので、雨の中8キロほど歩かなければならない。と思っていたら、雨はやんだ。河童橋の前の河童食堂でお昼を食べて、歩き始めるが明神の手前で突然の大雨。合羽を着る暇もないぐらい。今年はみな雨の準備をしてきているので、あわてない。しかし明神ではもう晴れてきた。降ったりやんだりの雨で忙しい。早めに徳沢園に着いた。孫たちは成長しているので、全く疲れはないが、じいさんばあさんはその分衰えているので疲れた!

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明日から上高地、雨が降りそう!

恒例になった孫たちとの上高地行。今年で5回目になる。子どもたちが大きくなる分、じいさんたちはよれよれになる。昨年は上高地から横尾山荘往復だったが、今年はさらに涸沢まで行こうということになっている。子どもたちは大丈夫だろうが、ばあさんは無理だろう。

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上はクサボタン、センジュガンビ です。今年も見ることができるかな?

gozentatibana2ゴゼンタチバナ、キツリフネ

21日には戻ります。その日ごろに梅雨が明けそうです。お父さんたちがサラリーマンなので、日延べができず、大変です。

徳之島のパッションフルーツ!

徳之島のパッションフルーツをいただいた。勝手に徳之島大使をしている女性からの贈り物。私は今から50年ほど前、大学生の時の卒業論文調査のために徳之島、沖永良部島、喜界島なとを回っていた。ヒコー場なんてないので、鹿児島からの船だけが頼りだった。徳之島には港があったが、沖永良部島ははしけでなければ近づけなかった。本船からはしけに移された牛が危うく落ちそうになったのも見た。

その後は皆既日食のときに奄美大島に行ったのだが、徳之島には行けなかった。かなり残念な思いをしたことを思い出した。大昔半世紀前にはパッションフルーツなどあったかな?? 徳之島のハブが一番毒性が高いというのしか思い出せないのだが・・・・

ともかくパッションフルーツ、森崎君と食す! 酸っぱいな!!

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雨が岳 おじさんたちの登山

3月20日(土)
昨日の夕方から、久々に山登りに出かけた。場所は本栖湖のさきにある毛無山から雨が岳へ。一行は都立大学山岳部OBの6人組。ほとんどがリタイヤ組だ。今から20年近く前、私はこの付近をとおる東海自然歩道を走ったことがある。そのときに本栖湖、上九一色村、割石峠をとおりA沢貯水池などをとおった記憶がある。

その時は、富士吉田からずーと走ってきたが、今回は車2台で、登山口と下山口においた。麓という集落は昔は千軒の家があったという。武田信玄の発掘した金山があったのだ。近世まで掘られていたそうで、鉄製の機械がまだ放置されている。竹川家という庄屋さんがこの地を仕切っていたらしい。この前来たときにも立派な門構えの家があった。今回再見。昔のままだった。

朝6時45分からから登山開始。最初は不動の滝を見学する余裕もあったが、だんだんと雪が舞いだして、冷え込んできた。天気が悪そうだとは思っていたが、まさか雪とは!おじさんたちは装備は完璧。ゴアテックスの雨具を取り出す。私は短パンで駆け抜けるぐらいのつもりでいたが、そうも行かない。三ピッチで1900mほどの頂上へ。吹雪いており、寒い。コンロでお湯を沸かし、卵スープとおにぎりおじやの昼食。

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アイゼンをつけて下りにかかる。私はアイゼンなど持ってこなかったのでW部さんの四本爪を借りる。これはなかなか快適。他の人たちは6本爪か8本爪。このくらいの雪では4本爪の方が威力がある。雪まみれになりながら、雨が岳へ。そこでアイゼンをはずしたのが失敗だった。雨が岳の下りは急坂でおまけに雪の下が凍っている。滑る滑る。もう一度つけるのは面倒なので尻で滑り落ちる。久々の尻セードだ。他の人たちは面倒がらずに、アイゼンをつけ直す。

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私はそのまま転がり滑りしながら下ったので、渡部さんと最初に車のところに到着。2人で登山口においた車をとりにいく。ちょうど他の人たちが下山してきた時間に車が到着。私と北島さんはそのまま東京へ。他の人は温泉へ。私は明21日に荒川マラソンだ。

大阪で、ランナーズ賞お祝い JT生命誌研究館

1月17日(土)

◆天王寺のビジネスホテルの窓から、雪が降っているのが見える。朝からサウナに入って、身体を十分い暖めてから、四天王寺にいく。聖徳太子がつくった日本で最も古い大寺で、五重塔が美しい。雪のなか、南大門のしたで、熊野権現遙拝石をみつけた。熊野詣での第一歩はここから始まる。ここのところ小森さんの案内で熊野へは何回か出かけているが、この次はここを出発にして、昔の「蟻の熊野詣」の道を歩いてみたい。kumanoyouhai

◆昼は高槻で、姪の夫婦(といっても今週の土曜日が結婚式なのだが)と一緒に食事をする。彼女は自分の父をパパとよび、私を「おとうさん」とよんでいた。実の娘が結婚するような、寂しくうれしい感じがする。

◆高槻にはJTの生命誌研究館がある。前々からぜひ見学したいと思っていた。この館の館長さんは中村桂子さんで、ゲノム研究の世界的な学者さんだ。昨日見た博物館と違って、こちらは本格的だ。オサムシの進化を中心にした展示はなかなかユニークだ。子どもたちにはかなり難しい。しかしこのような本物の研究に接することは、子どもたちの知的刺激には大変よい。ここは大阪大学の大学院にもなっている。

◆高槻から十三にもどって、坂本真理子さんのランナーズ賞受賞の講演会に出席しました。彼女はオーストラリア横断、アメリカ大陸横断、ヨーロッパ縦断を走って成し遂げたスーパーランナーだ。主催する100マイルクラブと共に受賞したので、その仲間の人たちもうれしそうでした。名古屋の岩田くん、八重樫さんら知り合いの人たちにもあえてよかった。楽しい時間になりました。
以上、報告おわり。

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神戸大学で、教授先生にあう!

1月16日(金)

◆神戸からもどってきました。久々に神戸大の金澤先生にあって、マングローブの話をちょっとして、昔話に花を咲かせてきました。一体なにをしに来たのかと思われたかも知れませんが、楽しい時間を過ごしました。いつもみなさんに来ていただいて、「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」などと言っているので、時々はこちらから出向かなければと思ったわけです。金澤教授とは中学校高校以来の友人です。ぜひマングローブ見物に行きましょうと、お誘いをしてきました。

もう一人、書道の大家である魚住教授を訪ねたのですが不在。秘書の方にご挨拶をしてきました。神戸大学は六甲の山の斜面にひな壇状に立っているので、一番上の国際文化学部まで行くのは大変です。

◆その後、神戸の「水博物館」に行きました。浄水場に博物館を建てたものですが、ちょっとお粗末で、ほとんどすべての展示物は修理中で動きません。お客は私一人だけでした。帰りは異人館付近をとおり三宮へ。そこから96年に訪れた灘高校の付近に行ってみました。、周りの建物はほとんど地震の爪痕は見られませんでした。表面上は復旧しているように見えるのですが、人々の心の中はまだもとには戻っていないようです。公園では17日の震災の日の追悼の準備がされていました。あの時は、私は何もできなかった。フリーターになったので、今度は何かの手伝いをしなければいけないと思う。といっても地震が再び起こることを期待しているわけではない。

◆夕刻、大阪の天王寺にいき、昔の戸山の教え子である伊藤くんにあい、下関のフグをごちそうになった。教え子に「たかり」に行くというのは、とんでもない。でもうれしいことだ。ごちそうになったから言うわけではないが、子どもと一緒に遊べる立派な先生になりつつある。遊んでいると教育委員会や校長、PTAからにらまれる。しかし教育ではこれが一番大事なことなのだが・・

 

神戸に行くよ!

最初の1週間はパソコンに向かう時間が長かった。今年は毎日日誌をつけるぞという勢いだったが、3日坊主になった。勢い込んで写真ページを作ったが、枚数が多すぎるのと、1枚の画像が大きすぎ、表示に時間がかかり見ることができないとの苦情もあり、やり直し作業で日誌に向かうヒマがなくなった。

いま「マングローブ図鑑」をつくるべくパソコンに向かって奮闘しているが、どの葉っぱがどの木のものだったのか分からなくなり、ほかの図鑑と首っ引きになっている。時間がかかってしかたがない。現地できちんと同定しておかないからこんなことになる。もう一度整理をするためにミャンマーに行かなければと思う今日この頃!

16日、神戸大学に行って専門家の先生にアドバイスをもらうことにする。阪神大地震からもう9年たつ。96年に行ったときにはまだまだ被害の跡がそこここにあった。2000年はもう表面的には跡形もなくなり、「ルミナリエ」だっけ?の光がピカピカしていた。いま神戸はどうなっているだろう。

久々に神戸に行くんだから、友人に会いたいし、真理子さんのランナーズ賞のお祝いの会にも出てこようと思っている。夜行バスにしよう考えたが、最近年のせいで翌日がきついので、新幹線の割引切符で行くことにした。日曜日にはかえります。

地平線会議 四万十川集会

2003年4月3日(ブログ開始)

●3月27日夜8時半、川崎港発のフェリーに乗って高知に向かい、そこから走ったり列車に乗ったりして四万十川下流の土佐中村市に行ってきました。29日と30日に、地平線会議の仲間であり、四万十川に暮らす山田高司さんが委員長を務める「四万十川、黒潮エコライフフェア」に参加するのと、お遍路まねごとと、走り旅のためでした。

●四万十川の広い河川敷にサッカーボール型の巨大なテントを中心に、フリーマーケットや多国籍飲食店、葦船製作体験など多くの展示が並んでいました。私たちの地平線会議はドームテントの中で「地平線報告会 in 四万十」と称して山田高司のスライドand トーク、賀曽利隆、石川直樹、江本嘉伸の水談義、翌日は賀曽利隆、三輪主彦の水自慢、遠来の地平線会議メンバーの紹介、さらに廃校になった小学校を転用した四万十楽舎に移っての地平線のオークションなど2日間まるますのイベントでした。集まった地平線のメンバーは40人。地元の人たちは、何でまたこんな所まで、こんなに大勢の人が集まったのかと驚いていました。委員長の山田さんはきっと地元で再評価されるでしょう。simanto

●地平線会議はおいといて、四万十川を走ったゾーの報告です。

▲高知新港は外洋に面した新しい港で、交通の便は全くない。しかしフェリーの客は車で来ているので問題ない。私も「足」という交通手段を持っているので、ただちに巨大な浦戸大橋を渡って、桂浜へ。坂本龍馬の銅像が有名だが、それより私は荒天号という潜水艦が目当てだった。この船は宿毛に住む竹内静夫さん(1915~1992)が独力で作り上げた日本で唯一の手作り潜水艦だ。ボイラー工場を経営していた竹内さんは、荒天日でも潜水して航行すれば、海難救助にも役立つと考え、昭和45年頃より設計開始、51年より制作に着手しコツコツと自分の工場で作りを続け、ついに約15年を経て同59年に完成した。制作費は当時の金で約4500万円、結局工場も売り払って資金を作った。荒天号の主要仕様は次の通り。
全長 12.5m 全幅 3m 重さ 13.5トン  エンジン 270馬力  10人乗り
完成した潜水艦は試運転では水深200mまで潜水可能だった。ところが日本のお役所は、個人が潜水艦を作った例はないという理由で、船舶の許可を出さなかった。車検証がない車が走ってはいけないのと同じで、この船は海を航行することはできなくなった。私が宿毛を訪れたのはそんな時だった。宿毛の港に荒天号は寂しく係留されていた。竹内さんのお宅におじゃまして話を聞いた。それは興味深いものだったが、それより奥さんの「この船のために家も工場もなくなったんですよ」という話の方が、胸に響いた。私の奥さんと竹内奥さんは意気投合して、お互いの亭主を非難しあった。その竹内さんは不遇のうちに亡くなった。しかし竹内さんの偉業をたたえる人もいて、荒天号は坂本龍馬と並ぶ、高知県のシンボルになっていた。

◆荒天号に再会し、十分満足し、四万十に向かう。龍馬像の下で短パンになって走り出した。黒潮ライン花街道と書かれた道は一直線に西に続いている。しばらく走ると、中村まで105kmと出ている。「こりゃ明日の2時までには着かないや」 とりあえず5時まで走ることにした。土佐宇佐町はジョン万次郎の船出した港だ。ここには宇佐八幡があると聞いた。だいぶ行きすぎたが、もどって詣でる。最近私は宇佐八幡が日本歴史に果たした役割について大いなる興味を持っている。「宇佐」と聞けば疲れた足もいとわず回り道をする気分になる。桜が満開の参道を本殿まで行く。なかなかの神社あdったので満足し、足取りも軽く、いい気分で浦の内湾岸を走る。3時間で20kmほど走った頃からエネルギー切れ。車に乗せてもらって須崎まで。ちょうど発車間際のJR線に飛び乗り、窪川へ。ここには札所37番の岩本寺がある。6時すぎたがまだ明るい。お遍路のまねごとをして巡礼宿に泊まる。4500円。

◆29日、1時までに中村に着かなければならないので、始発で大正駅までJRで行く。そこから四万十川沿いを走る。まだ寒いが、大正の先の昭和駅をめざして走る。桜が咲き始めた川辺の道は走る車も少なく快適。十川橋で車をひろって江川崎まで。そこから今晩の宿である四万十楽舎まで走る。目的地まではあと26kmあるのに、すでに11時、再びヒッチハイクで佐田まで乗せてもらい、さも全コース走ってきたかのような顔をして四万十川にかかる赤鉄橋の下の会場に到着した。8時頃までイベントは続き、車で宿舎まで送ってもらう。楽舎は廃校になった小学校を宿泊所に改造したもので、私は校長室に泊めてもらう。

◆明け方の5時まで飲んで騒いでいた賀曽利くんは6時きっかりにバイクで四万十川を取り囲む峠越えに出ていった。私は8時まで寝て、9時に昨日キセルした27キロを走って行くことにした。昨日よりも道は整備されていないので、走るのには快適。30分前に出発した神奈川の古山さんにはなかなか追いつけない。川にかかる沈下橋の写真を撮りながら進む。ちょっと広い段丘上には満開の桜と菜の花のジュウタン、気分は最高。フォレストガンプのおっさんのようにどこまでも走れそうな気分になる。川登集落でやっと古山さんに追いつく。彼は荷物を背負って歩いているんだが、私が走っているのとそれほど違わない速さだった。
3時間で27kmを走って会場に着く。午後は江本、賀曽利の両氏とバトルをする。4時に終了すると東京、関西に帰る人たちは大急ぎで中村駅へ。フリーターの私は、別に急ぐこともないので、中村の町を見物し、夕方は山田くんの実家でごちそうになり、再び四万十楽舎にもどる。夜はまだ四国の峠越えを続ける賀曽利君、古山さんと泊まる。翌日6時きっかり、バイクの音が大きくなり出発していった。

◆私は江川崎まで車で送ってもらい、JRの始発で宇和島にでる。ここから松山まで走ろうと思っていたが、雨の気配という言い訳を考えて、そのまま列車の旅になり、岡山からは新幹線に乗ってしまった。やっぱり軟弱な人間だ。「走ったゾー」とあんまり威張れたものではない。
当たり前のことだが東京は四月になっていた。これまで、新学期と考えるだけで緊張したものだが、もうその心地よい緊張感はない。今日からあこがれだった本格的フリーターだ!