みわ塾1年。ミャンマーの神、日本の神

3月31日(水)
今日で3月も終わり。明日からフリーター生活2年目だ。
この一年はなかなかおもしろい年だった。半分本気で、半分冗談ではじめた「みわ塾」は、やってみると緊張感もあり、古い友人がまた集まってきてくれたりしてなかなかおもしろかった。
今年はさらにパワーアップして月一回の授業のほかに、「旅するみわ塾」と称して、月に一回都内の地形と暮らしの見学、とか城ヶ島地層見学、丹那断層地形見学、モンゴルの草原で地平線を見る、ミャンマーかベトナムでマングローブの復元とクリークを手こぎの小舟でツーリングをするなどをしようと考えている。

向後さんのおかげで、ミャンマーでマングローブ植林作業にも3回も参加させてもらった。なかなか行くことはできない場所だった。何回か行き来している間に、多くのミャンマーの人々とも仲良くなった。私のモットーは「できるだけ余計なお世話はしない」なのだが、なにかこの地の人の役に立つことができないかと考えるようになっている。といっても物資の援助というのではなく、ここでも「みわ塾」ミャンマー版をやれないかと思っている。ミャンマーの村の学校の先生に集まってもらって、論議を交わすのはなかなかいい。

ミャンマーという国は仏教徒が大部分なのだが、村々には多くの「ナッ」という土着の神がまつられている。日本の「八百万の神」のような精霊信仰だ。お寺の中にさえ「ナッ」がまつられている。キリスト教やイスラムの国では、こういう訳のわからない信仰は許されないだろう。しかし私たち日本人にはよくわかる。ミャンマーは世界最貧国の一つだが、人々の心はゆったりと豊かだ。これからの日本人はこの国から学ぶことが多いのではないかと思っている。

日本の「一宮」は千年以上も続く文化だ。ほかの世界に現在まで伝統を千年以上も保っているいうものはあるか? と言うのは賀曽利くんだ。彼は全国の一宮をすべて、何回も巡っている。

昨日夜は雨が降って寒い日だったが、秋葉原で久々に懐かしい人々とあい、あつい会話を交わした。賀曽利くん、神埼さん、観文研の仲間だ。3人で賤ヶ岳を駆け下り競争をしたのは30年も前のことだったが、つい最近のことのように感じたのは、我々が年をとったせいなのだろうか。

血と汗と涙の国際貢献!

3月11日(木)
今日はミャンマーでマラソンした話を書きました。夏に行ったときに下書きをしてあったのですが、少々手直し。題目は「血と汗と涙の国際貢献」です。

予期せぬことに出会ったときに、子どもたちの顔は一瞬凍りつく。しかし安全だと分かるとたいていはゲラゲラと笑い出す。子どもの頃をおもいだしても確かにそうだった。しかし近年日本で子どもたちが一緒になって大声でげらげら笑っている姿を見ることはなくなった。

私はいまミャンマーのイラワジ河口デルタでマングローブ植林事業の手伝いをしている。首都のヤンゴンから植林キャンプ基地までは百数十キロしか離れていないが、汽船で一日、さらに10人乗り程度のボートで半日かかる。河口デルタは両側にマングローブが繁った細い水路が入り組んでおり、ところどころに小さな村がある。村人は米作やニッパヤシの葉の加工、漁業などで細々と生計を立てている。首都の燃料不足のためにこの地のマングローブが大量に切り出されたために、森は荒れ林業や漁業に影響がでており、森林再生が求められている場所だ。村々をまわって森林を見に行く交通手段は手こぎの小舟だけである。

ジョギングだけが趣味の私は何日も水路の上を舟で行ききしていると無性に地面を踏みしめる感覚が恋しくなる。グチョと足がとられるマングローブの泥地は私の好みではない。ムリに用事を作って「道路」がある島に連れて行ってもらう。その島の中央部は昔の砂州で、ほぼ直線で20キロほどの白い砂の道が続いている。真っ白な砂の道を地元の人はハイウェーとよぶ。その地では唯一の動力車であるトラジが走る。耕耘機に荷台をつけお客を乗せるようにした奇妙な乗り物だ。私の仲間たちはトラジにのって15キロ先のアマという町に向かう。そこにはこの地で唯一電話があるのだ。

私はあとをついて走ることにした。トラジの時速は10キロ程度。私はせいぜい8キロだからどんどん離れる。軍政下のミャンマーではこの地に入る外国人は銃をもった警官に監視される。私の単独行動をとがめるように何度もトラジにのるように勧める。短パンTシャツ姿ではなにも悪いことはしないよ!と身振りで示すが、なかなか許可してくれない。トラジは何度も止まっては私が追いつくのを待っている。

8月はイラワジの雨季だ。突然バケツを三つも四つもひっくり返したような雨が降ってきた。私なんかにかまっていられなくなったトラジは先に行ってしまった。道路はアッという間に水浸しになっている。しかし二〇分もすると青空がもどってくる。グチャグチャになった靴と靴下を脱いで、手に持って走る。ガラスやプラスチック、石という野蛮なものはないので、ハダシでも危険はない。ジャマものがいなくなったので、ゆっくりのんびり走っていると、小学校に出た。学校の前で遊んでいた子どもたちは一斉に私の方を向いた。「なんじゃこいつは?」という感じであるが、驚いたらしく誰もなにも言わない。「ミンガラ」とあいさつをしたとたん、こいつは大丈夫だと分かったらしく、一斉に遠慮会釈もなくゲラゲラと笑い出した。こんなメチャクチャな笑い顔を見たのははじめてだ。

手をあげて走り出すとみんなが私を取り囲むようにしてついてくる。そばにいた大人たちも、大げさに言えば集落全員が一緒になって走っている。まるで映画の「フォレストガンプ」の主人公のようだ。大昔、私も村唯一のオート三輪の後ろをついて走った子どもの頃を思い出した。あのときの私はここにいる子どもたちと同じだったんだ。この子どもたちは大きくなったときに変なオヤジのあとをついて走ったなあと思いだすのだろうか。もうちょっとましな思い出にしてやりたいが、まあしかたがない。

アマの町の入り口にくると前方から自転車に乗った男が向かってきた。警官かと身構えたが、濡れネズミになっている私のために乾いたTシャツとロンジー(筒状のスカート、ミャンマー人は男女とも愛用している)を持ってきてくれたのだ。私の仲間が頼んだわけではない。笑い焦げながら私を追い越して行った男が、「濡れネズミになった変な日本人が来るから乾いた服をもっていってやれ」と伝えたのかもしれない。

みんなの笑いは、人をバカにした笑いではなく、安心して受け入れてくれた笑いだった。これまで何年も走ってきたが、こんなにも心地よく安寧の気分で走れたことはない。うれしくて涙が流れてきた。ついでに足首と足指の股から血が流れてきた。ハダシで蓮池に入ったのがいけなかったらしく、数匹のヒルが吸い付いていた。

警官にはにらまれたが、この地の人と仲良くなったのだから、仕事も円滑にすすむだろう。まあこれも立派な国際貢献だろう。汗と涙と血を流したわが国際貢献だった。

 

ミャンマー イラワジデルタ

2月20日(金)
ミャンマーは11月から4月が乾季。前回12月にイラワジデルタに行ったときにはまだ乾季の始まりだったが、今回は乾季の終盤になっていた。土地は干からび、マングローブの葉も元気がない。水路も浅くなっており、ヤンゴンとボガレーを結ぶ巨大なボートも舳先に水夫が立って、竹の棒で深さを測りながら進むので、時速は歩く速度より遅くなった。130kmの距離を10時間近くかかった。
私たちのキャンプは細い水路に面しているが、引き潮になるとさらに細々とした流れになる。乾季で最大の問題は、飲み水だ。水路には泥色をした水が流れているが、塩分を含むので飲み水や炊事の水にはならない。井戸も浅いのがあるが、水路の塩水と同じで洗濯ぐらいにしか使えない。

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この時期、ここでは水売りから買うか、雨季に瓶に貯めた水を使うかしかない。瓶をたくさんもっているお瓶(金)持ちはいいが、貧しい家庭は塩分が入った水やたまり水を使うしかない。煮沸して飲めばいいのだが、彼らは燃料を買う金もない。悪い水を使うので目の病気や胃腸の病気になる。病気を防ぐにはよい水の供給が必要なのだが、井戸を掘る機械も技術もない。瓶に貯められた水だって数ヶ月たてば悪くなる。マングローブ植林の手伝いに来ているのだが、まず最初にマングローブ地域に住む人たちの環境を改善しなければ、仕事もはかどらない。国連に働きかけたりしても、なかなか援助は届かない。

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ここの人たちに比べれば、イラクの人たちはだれかが援助してくれるのでまだいい。ミャンマーのイラワジデルタは軍事政権のもとにあって、世界から見捨てられており、援助の手もない。最貧国の定義は1ドル/1人・1日だ。

イラワジデルタでは1家族1日に1ドルに足りない。ちなみに日本は1人1日100ドルだそうだ。お金も、水もない。栄養も足りない。でも子どもは元気だ。彼らの笑顔が亡くならないように、しばらくは私の力を尽くしてみようと考えている。