暑い中、伊香保、渋川、多胡の碑

高崎にちょっとした用事があった。こんな暑い中、行くのは嫌だったがまあ仕方がない。暑い中、用事は何ことはなく終わった。群馬に行くときには前橋のKOBAYASHIさんにアッシーをしてもらう。今回も社長専用車の黒塗りのクラウンで高崎駅まで迎えに来てもらった。とりあえず伊香保温泉。でもまだ朝早くて温泉には入れなかった。伊香保には昔は軽便鉄道が走り、急坂にはケーブルカーがあったそうだ。

保存車両を見て、ハラ ミュージアム アークへ。この美術館は品川にある原美術館の別館みたいなものでグリーン牧場の一角にある。特別に本日の展示を見たかったわけではないが、友人のKAMATA社長が薦めてくれるので拝見させてもらった。そのあとすばらしいカフェで特別のケーキをいただいたのだが、KOBAYASHIさんと「わかった?」「あんまりよくわからないん」、二人とも現代アートに理解は及ばない。

お昼は、藤岡まで走って高崎流通大学そばの蕎麦屋さん。KOBAYASHIさんの友人のお店で特別待遇。大変なごちそうになって我が家に戻る。あっそうだその前に、多胡の碑というのも見に行った。古代上野国にあらたな多胡郡が作られたがそれを記念する石碑だという。日本三古碑でユネスコの「世界の記憶」遺産だそうだ。

播磨坂でお花見 金栗四三の街

文京区 金栗四三、青春の地 文京区の伝通院の前にある「天しゃぶ」でお花見会。このお店は私が竹早高校に勤務中によく利用した場所で、ここ数年お花見の食事に使っている。例年より早く25日にはもう播磨坂の桜は咲いていた。

9人の旧職員が集まった。みな一病息災ならぬ3病くらい持っているが息災。来年もまた皆でお花見ができれば・・・ということで解散。外に出たら町中に「金栗四三の青春の地・文京区」という幟だらけ。わが竹早高校は旧東京府立第二高女で、オリンピック後の金栗先生の勤務校だった。金栗先生は体育ではなく地理の先生だった。

  金栗四三の足跡の地図を見るとマラソンの時にはいた金栗足袋を製造した町工場の跡が記されている。知らなかったのでみなで行ってみた。大正8年創業の蕎麦屋さんで聞いたら、角のビルの壁に石碑がはめ込んであった。金栗足袋を作っていたのが播磨屋、今日のお花見は播磨坂。金栗足袋の後に出た靴は播磨屋の「ハリマオー」だった。私も履いたことがある。

ところでNHKの「いだ天」で金栗足袋を作った播磨屋のおやじがピエール瀧だった。コカインで逮捕された。せっかくのいい役だったのに。金栗足袋が脚光を浴びて、お茶の水大学前のこの地にも見学者が集まるようになったのに、残念なことだ。

金栗名所地図ではわが竹早高校の位置も旧府立第二高女として示されている。私たちが作った「竹早の百年」の写真が使われている。私たちもかなりたくさんの資料を提供したのだがNHKの番組には何のクレジットもなかったなぁ。まあいいか、硬いこと言わない方がいいかな。

高幡不動尊に行ってきました。

京王線で高尾山に行くことが多いが、車窓から見える金ぴかの五重塔が気になっていた。高幡不動駅にあるので当然高幡不動尊だ。不動尊というのは不動明王のこと。インドの神様で「揺るぎなき守護者」=不動明王だそうだ。

空海の持ち帰った密教では重要な神さまだが、日本以外にはあまり見られない神様だそうだ。神さまといっても仏教を守護する神様だから寺に置かれている。
仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はとらえて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。とされている。

真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺というそうだ。関東三不動の一つだそうだ。他は成田山新勝寺と玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)(埼玉県)高幡不動と成田不動は知られているので確定だが、3つ目はいろいろあるようだ。不動岡不動を入れる場合が多いとのこと。埼玉の教員試験を受けた時に不動岡高校に行かないかと言われたこともあった。分校で利根川の向こうにあったので、渡し船で通う高校だった。それを思い出して、不動岡不動を三大不動に入れたいなと、私は思っている。

広い境内にはいくつもの建物があるが、往時はこんなものではなくもっと大寺院だったようだ。江戸時代に火事で焼けたが、昭和50年以降徐々に五重塔、大日堂、鐘楼などが再建されたという。総重量1トンもある日本一の丈六不動尊は千年ぶりの修復が完了して安置されている。これはすごい。パンフレットの写真を借用。

日野市にある寺なので新選組と縁が深い。土方歳三の生家は高幡山の檀家の筆頭格の急かだそうだ。歳三の命日には新選組祭りが開催されるそうだ。歳三さんが各所におられる。

玉門関:陽関をいずれば故人なからん

敦煌から西域に行くには二本の道がある。南の陽関をでると楼蘭をでて西域南道、あるいは漠南道をへてホータンにでてヒマラヤを超えてインドに向かう道。一方北の玉門関をでると西域北道をハミからウルムチに向かう。ウルムチからは天山北路、天山南路に分かれキジ国からカシュガルにでてさらにタジキスタンに向かう。今回は敦煌(人口18万人)から北西に100㎞ほど離れた玉門関と南西に80㎞はなれた陽関に行ってきた。数十年前なら一日がかりだったろうが、今は舗装道路が続いており1時間ちょっとで行くことができる。もちろんバスなどはないから車をチャーターする必要がある。最初に玉門関に。途中送電線が張り巡らされている場所を通った。砂漠に太陽光発電所を作り敦煌に工業団地を誘致するとのことだ。今敦煌はブドウ、アンズなど果物だけが換金作物。あとは観光収入だけだから、工業を誘致しようというが地の利は悪い。あまり望まない方がいいのでは・・・・道路の上に料金所がありその先に玉門関の立派な博物館があった。周辺にあるのはこの建物だけ。ここは万里の長城が果てるところ。3mほどの高さの壁は砂漠の中に消えている。漢の時代に作らたので「漢の長城」と呼ばれている。博物館からはシャトルバスがでており、大方盤城遺跡に行く。ここが一番の見どころだろう。粘土で固めた大きな建物は数百人が住んでいた要塞かもしれない。玉門関から陽関までほぼ100㎞を車は走る。陽関の村でお昼。壁に王維の「西出陽関無故人」の詩が書いてあった。簡体字だがまったく味わいはない。
お昼を食べて陽関へ。ここにも博物館があり、城門も復元?創作!されている。門の向こうには王維が手を振っている。王維に見送られてシャトルバスでのろし台に向かう。この高台に上ると反対側が見える。玉門関と違って平坦な場所にある関所ではなく、山の向こうははるかな大平原。まさに関所として最高の場所だ。この向こうに楼蘭がありホータンがあった。心の目で見ようと思ったが、とても届かなかった。
この茫漠とした地を、わが友人の中山嘉太郎は単独で走っていった。いったい何を考えていたのか。いや考えたらこんな広大な場所を走る気にはならないだろう。私には偉大というよりも狂気としか見えない。とてつもなくすごい人と友達だったのだ。

因幡の国一の宮:宇倍神社

鳥取県鳥取市国府町宮下651・・・・に鎮座する因幡の国一の宮。因幡と言えば白兎であるが、この神社はまったく関係なし。
■ ご祭神は、 武内宿禰(たけのうちのすくね)命である。この方は第十二代景行天皇より、成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5朝にお仕えされ、まことをつくして天皇の信任篤く、わが身を投げうって東奔西走、日本の統一に尽力されました。 わが国で最初に「大臣」の称を賜わり、日本の国造りに功績のあった神さまです。(神社のHP)

武内宿根は360歳でこの地で亡くなった。終焉の地という石碑もあった。神武天皇でも寿命は137歳ということになっている。神話とはいえその3倍近い寿命というのはどう考えてもおかしい。昔の人も「お話だよ!」と了解していたかもしれない。しかし明治政府は、日本の大臣の理想像として教科書に載せ、お札に肖像を載せた。明治大正昭和にかけ5回もお札に登場したのは他にはあまりない。神話を歴史にしてはいけないというのが私の感想。似顔絵もないのによく描けた、想像力というのはたくましいものだ。   今は総理の座を狙っている石破さんがこの宮の代表になっている。大臣はお仕えする身、昔は天皇になることはできなかった。今は大臣が総理になるのは何の不思議もない。今変な総理いるが、何とか石破さんがんばって総理になって欲しいと、地元の人は期待しているようだ。

社殿はなかなか立派だ。流れ造だが、屋根の上の千木は縦削ぎ、鰹木は3本と出雲大社風である。

本殿の背後の高台に「磐座」(いわくら)がある。武内宿祢は神功皇后の子どもを育てて、無事天皇の位につかせる。第15代応神天皇である。なので応神天皇を祀る八幡神社には伴神として武内神社や高良神社がある。子育ての神さまとしてお人気があるという。そういえば一昨日訪れた気比神宮にも武内宿祢を祀る高良社があった。

境内の奥に国府神社がある。因幡の国府跡は鳥取市の国府町にある。現在は「すなば珈琲」のお店がある。スタバはないがスナバはあるとの名言を吐いた知事はなかなかいい。

スナバは鳥取砂丘であり「砂の博物館」これもすばらしい。

白兎海岸には因幡の白兎の神社がある。こっちの方が本家かも!

82番根香寺(ねごろじ)

81番白峰寺は五色台の白峰にあった。こちら82番は青峰にある。その間は50丁の距離で讃岐の遍路道が結んでいる。旧陸軍の演習地でいまも善通寺部隊の敷地なので開発が進まなかったようで、大変保存がいい。丁石は、たぶん補修したろうが、50丁分全部残っている。50丁はほぼ5.5㎞で、上り下りはそれほどでもない。しかし我々の足では2時間以上かかった。

五色台の主峰、青峯山山中にたたずむ。弘法大師は密教修行の地としこの山に「花蔵院」を建立した。大師の甥の智証大師が訪れ、山の鎮守の一之瀬明神に出会い、「蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけた。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し「千手院」を建てた。この霊木の根は芳香を放ち続けたことから「花蔵院」「千手院」を総称して根香寺とよんだ。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めた。と記されている。弘法大師が開祖だがいまは天台宗。

かなりの山の中で昔は密教の修行の地だった。外界からの影響を断って大勢の修験者が活動をしていた。俗人にはわからないような現象も起こっていたというので、近年はパワースポットとしても知られる。怖いもの見たさに訪れる人も多い。仁王門のわきには牛鬼の大きな像が参拝者を驚かすように立っている。

人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が青峰山に棲んでいた。弓名人山田蔵人高清は山へ入ったがなかなか牛鬼が現れない。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけた。21日目の満願の暁に、牛鬼が現れ口の中に矢を命中。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。牛鬼の絵は魔よけのお守りとして親しまれている、そうだ。

 

第81番白峰寺

坂出の東には300mを超す溶岩台地が広がっています。溶岩はカンカン石と言われる固い安山岩です。この溶岩は古い時代に噴出したもので、現在知られる火山由来ではない。溶岩は長い間に侵食され、谷がいくつも刻まれ、いくつかのブロックに分かれています。そのなかで目立つ峰に青峰、黄峰、赤峰、白峰、黒峰の五色の名前が付けられています。

白峰に81番白峰寺、青峰に82番根香寺がある。その2寺の間には讃岐遍路道が残っており、重要文化財として保存整備が進んでいる。これはなかなかいい道で、歩いてよかったと思っている。地元の中学生も授業の一環として歩いているようで、今回多くの生徒たちに追い越された。

五色台全体の地図

■815年に弘法大師空海が白峰山頂(337m)に上った。その後空海の妹の子である智証大師がここに寺を創建した。智証大師は、山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し本尊にしたという。■白峯寺の中には「頓証寺殿」という建物もある。後鳥羽天皇と戦った保元の乱で負けた崇徳上皇は讃岐に流され、都へ戻れないまま流刑地で没した。白峰山に陵墓が造られた。崇徳院と親しかった西行法師が詣で法楽を行った。その後慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした木の丸殿をここに移した。現在の頓証寺殿がそれである。四国88カ所霊場の白峯寺に詣でる人は多いが、実はこの崇徳天皇の御陵に詣でる人も多い。私が訪れた時も、駐車場にいたタクシーの運転手さんは「みなさん御陵にこられています」と教えてくれた。お遍路さんは御陵を素通りして、遍路道に入っていく。お遍路さんは途中にある寺や神社、御陵にはあまり目を向けない。私は歩き旅であるから途中の興味深いところには寄り道をするので予定時間を過ぎることが多い。これもまあいいか! である。

崇徳上皇がなくなってしばらくして西行法師が慰霊の旅をした。五色台の下にある・・神社から急な坂を上ってここまでやってきた。その道を今は「西行道」として参拝の人がとおる。私も知っていれば79番から80番を後回しにしてこの道を上ったのだが・・・、ここから下る気はなく、白峰寺をゆっくり参拝して、讃岐へんろ道を82番根香寺に向かった。

門を入って正面に護摩堂がある。左に曲がって正面に頓証寺殿がある。本堂大師堂は右手にある急な石段を上がった上にある。途中に立派なお堂がある。

本堂の拝殿の天井の釣り灯篭

昨日参った79番天皇寺が崇徳天皇の配流地の御所だった。81番は御陵だ。天皇関連とすれば79番から80番を飛ばして81番へ行くのが自然だ。昔のへんろ道もそうなっていたらしい。しかし札所めぐりは順番どおりに行くようだ。合理的な考えをする人たちは79⇒81⇒82⇒80⇒83 とめぐるようだ。

四国88ヵ所 80番 国分寺

とうとう80番まで来た。あと8札所を残すのみとなった。あと一回の歩き旅で「結願」ということになる。前に書いた通り願いが叶うというほどの願いを持っていないので完歩と言った方がいいかもしれない。

昨日は79番まで巡って、鴨川から電車で丸亀に戻った。丸亀のホテルが奥さまのお気に入りなので今回は連泊することにした。おかげで本日は荷物を持たないで歩くことができる。最近ちょっとでも重いものを持つと翌日は起き上がれないほどの腰痛になる。大きなお風呂もあるのでいいホテルだ。値段はへんろ民宿よりも安い。いったいどうなっているんだろう。今朝は丸亀から電車で国分駅に来た。2駅抜かしたが本日は「へんろ転がし」を行くので大目に見ることにした。

国分寺は思ったよりもはるかに立派な寺だった。時間をかけずに先を急ごうと思っていたが、じっくりお参りが必要だった。30分以上かけたので、あとの時間に響いた。本日は先が長いということを忘れていた。

立派な本堂があり、奥さまはしっかりお参りをしていた。ここには千手観音がおられるそうだ。私は大師堂に行こうとしたのだが、それらしいものは見えない。あたりを見渡すと弁天様と七福神が祀られている。お寺と弁天さんの関係はよくわからないのだが、まあいいか! 納経所で聞いてみると建物の中に大師堂があった。写真禁止なので大師堂の写真はない。これまで79ヵ所で本堂、大師堂は必ず写真を撮ってきたので、ここでかけるのはちょっと残念。でもまぁいいか!

昔の国分寺は741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれた。しかし国からの援助がなくなるとほとんどの国分尼寺は廃寺になり再興したものはなかった。国分僧寺もほとんどがなくなったが宗旨を変えて存続したものもある。四国には旧国に4つの国分寺があるが、讃岐の国分寺だけ当時の場所に存続した珍しい寺である。現在の寺の裏手で当時の遺跡が発掘中である。

 

白子峠と熊野神社

東京峠楽会
東京都からちょっとだけ離れて、埼玉県に行きました。東京と埼玉の境に白子川が流れています。そこにかかる橋は「東埼橋」です。橋を渡ると川越街道旧道は急坂(大坂)を上っていきます。笹目通を越えたら今度は暗闇坂を下ります。まさに峠。白子峠となずけました。

そこから和光市方面行くと浅久保の公民館の裏に立派な富士塚がありました。ともかくたくさんの富士講の石碑があります。それらを載せておきます。

その後は川越街道を戻って熊野神社に行き、有名な富士塚に登っておやつを食べて、胎内めぐりをして本日終了。[

年賀はがき抽選 サピエンス全史

1月15日が、昔は成人の日だった。晴れ着を着た人が雪に降られている風景がテレビで撮されていたが、いまはセンター試験の日だ。毎年雪国では電車が遅れて混乱するが、今年は特別強い寒波がやってきており、日本海側や名古屋付近では電車やバスが遅れて大変だったようだ。

東京は雪に気配はないが、とてつもなく寒かった。ストーブにあたりながら、年賀はがきの当選番号を探す。12枚、切手シートが当たった。昨年よりもだいぶ確率が良かった。今年はいいことがありそうだ。

気分は高揚し、寒い中でも池袋まで歩いて行き、ヤマダ電機でパソコンのマウスを買った。マウスというのはねずみのしっぽみたいな線がくっついていたが、いまのは無線で使うことができる。線が混んがらなくていい。

そのあとジュンク堂に行き、ヘブライ大学のハラリ教授が書いた「サピエンス全史」という本を立ち読みする。池上彰さんが絶賛する本だ。立ち読みするにはちょっと無理な内容だ。目次だけ見ても134億年の歴史を書いた壮大なもので、人類の行く末を予言する本であろう。

ハラリさんは東大に交換教授として来日していた。身元引受人は我が友人のTaguchiさんだった。彼女に連れられて神田の出雲そばでハラリさんと一緒におそばを食べたことを思い出す。さらに我が友人のkawaiくんがへブライ大学に留学した時にお世話になったのもこの方だ。いちどみなさんと一緒にこの本の批評会をやりたいものだ。そのためには買わなきゃいけないが、上下巻で5千円もする。いやそれだけの価値はありそうなので、あす買いに行こう。

旧国名

賀曽利隆さんのページを見ていたら、私がいま神社巡り、お遍路をしているうえで一番重要な旧国名について詳しく書いていた。私も神社巡りの項目でまとめておいたが。カソリさんの方が優れている。許可なくパクってここに載せおきます。カソリさんの偉大さがわかる資料でもあります。

旧国名
古代日本の行政区画は「五畿七道」といわれるように大和、山城、河内、摂津、和泉の畿内の5国を中心に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7道から成っていた。現在では東海道や北陸道というと街道名として使われているが、もともとは行政区域名だった。古代日本は「道州制」を敷いていた。畿内・七道の下に全部で68ヵ国の国があった。それぞれの国はさらに郡に分けられ、郡の下に里があった。 続きを読む