みわ塾1年。ミャンマーの神、日本の神

3月31日(水)
今日で3月も終わり。明日からフリーター生活2年目だ。
この一年はなかなかおもしろい年だった。半分本気で、半分冗談ではじめた「みわ塾」は、やってみると緊張感もあり、古い友人がまた集まってきてくれたりしてなかなかおもしろかった。
今年はさらにパワーアップして月一回の授業のほかに、「旅するみわ塾」と称して、月に一回都内の地形と暮らしの見学、とか城ヶ島地層見学、丹那断層地形見学、モンゴルの草原で地平線を見る、ミャンマーかベトナムでマングローブの復元とクリークを手こぎの小舟でツーリングをするなどをしようと考えている。

向後さんのおかげで、ミャンマーでマングローブ植林作業にも3回も参加させてもらった。なかなか行くことはできない場所だった。何回か行き来している間に、多くのミャンマーの人々とも仲良くなった。私のモットーは「できるだけ余計なお世話はしない」なのだが、なにかこの地の人の役に立つことができないかと考えるようになっている。といっても物資の援助というのではなく、ここでも「みわ塾」ミャンマー版をやれないかと思っている。ミャンマーの村の学校の先生に集まってもらって、論議を交わすのはなかなかいい。

ミャンマーという国は仏教徒が大部分なのだが、村々には多くの「ナッ」という土着の神がまつられている。日本の「八百万の神」のような精霊信仰だ。お寺の中にさえ「ナッ」がまつられている。キリスト教やイスラムの国では、こういう訳のわからない信仰は許されないだろう。しかし私たち日本人にはよくわかる。ミャンマーは世界最貧国の一つだが、人々の心はゆったりと豊かだ。これからの日本人はこの国から学ぶことが多いのではないかと思っている。

日本の「一宮」は千年以上も続く文化だ。ほかの世界に現在まで伝統を千年以上も保っているいうものはあるか? と言うのは賀曽利くんだ。彼は全国の一宮をすべて、何回も巡っている。

昨日夜は雨が降って寒い日だったが、秋葉原で久々に懐かしい人々とあい、あつい会話を交わした。賀曽利くん、神埼さん、観文研の仲間だ。3人で賤ヶ岳を駆け下り競争をしたのは30年も前のことだったが、つい最近のことのように感じたのは、我々が年をとったせいなのだろうか。

お花見 柳瀬川

3月28日(日)
今日は柳瀬川の土手にヨモギ摘みに行った。水曜日にも行ったが、かなり摘んだつもりだったが、草餅を作ったら、すぐになくなったので、またまた摘みに来た。

先日は人出はなかったが、今日は桜が満開になっているので、ものすごい花見客だ。ブルーシートを敷いてカラオケがかかった定番花見がそこここで盛り上がっている。子供たちはに土手では草滑りをして喚声を上げている。われわれは土手にはいつくばって、ハサミでヨモギの柔らかそうなところを摘んでいる。ヒマそうな人が、「何をやっているんですか?」と聞きにくる。だんだんあほらしくなってきたので、近くでやっていたフリーマーケットの出店で焼きそばとうどんを買ってきて、我々もお花見に参加!

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午後、家に帰ると 姫孫がやってきた。奥さんの実家から今日帰ってきたところだ。私が抱いてやると、おとなしく寝始めた。何十年ぶりかで赤ん坊をだっこしたが、あやし方を忘れてはいなかったのだ!

結婚式 亀岡八幡宮

3月27日(土)
久しぶりに抜けるような青空だった。市ヶ谷の亀岡八幡宮の石段はすごい急坂だ。しかし目を上にあげると満開の桜が白い雲のように広がっていた。
本日は宇井くんと三大寺さんの結婚式だ。最近にはめずらしく、古式にのっとった式で、披露宴も新郎新婦は和服で、座敷で行われた。この二人を結びつけたのは、私だと言うことになっている。司会者の紹介では、教育実習に来ているときに、地学準備室で二人を引き合わせたとのことだったが、私は面倒なので「あとは頼むな!」と言って先に帰ったので、二人が残されただけのことだ。

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披露宴で主賓の方が「宿命」と言われていたように、私は何もしていないのだ。でも義理堅い二人は、わざわざ招待状をもって我が家に来た。今どきは直接招待状を送ってきたり、メールだったりする。この二人は、なんか十数年前に戻ったようなカップルだ。いい感じの結婚式、披露宴だった。義理ではない挨拶が多く寄せられた。気分良く一日を終えた。

宇井くんのお父上は、我らが青春時代に目を覚まさせてくれた論客だった。記憶は定かではないが、公害原論の自主講座を聞きにいった覚えがある。病気をされたようだが、現在はお元気だった。

牛丼パソコンからDELLパソコンへ 

3月25日(木)
今日は1日中、DELLのコンピュータと中原さんのところで直してもらった牛丼パソコンを手なずける作業をしていた。一応両者とも前のように使えるようになった。前にはLANの設定が面倒だったが、こんどはただ差し込むだけで大丈夫だった。中原さんのおかげだ!

そのDELL のコンピュータの写真、液晶は19インチだ。となりの液晶が小さく見えます。DVDも見れるので、これを見始めるとまた時間があっという間にたってしまう。パソコンは高齢者のお守りには最適遊具だ。

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今年はパソコンと液晶プロジェクターを使って、年寄りホームを訪問して、押し掛けホームシアターをやろうかと思っている。DVDかデジタルビデオで「寅さんシリーズ」をやろうか。

ところで、たとえば「寅さんシリーズ」を老人ホームで上映すると、お金を払わなければいけないのだろうが、どこへいくら払えばいいの?どなたか知っていたら教えてくれませんか?

卒業式 君が代 教育

3月24日(水)
昨日は新宿山吹高校の卒業式だった。学校とはもう縁がなくなったはずだったが、まだ私が教えたり、遊んだりしていた生徒が何人かいる。彼らがみんな卒業するまでは、卒業式に出席しよう。
先生たちは指定席に座らされており、最後列には「先生一人一人起立しているか、君が代を声を出して歌っているか」を監視する教育委員会の、まさに小役人が2名陣取っている。先生たちには職務命令がでているので、それに逆らったら、命令違反で処分される。本来なら私もそこにいるはずだったのだが、一年前逃げだしてしまった。みんなには申し訳ない。どうにも重たい気持ちになる。

なにがなんでも、命令には従わせるというのがお上の態度だ。しかし学校でそんな方法をとっていいのだろうか。何が何でも命令をして従わせるという教育は、学校ではもっともまずい方法だ。先生に対しても同じことだ。先生たちのやる気はどんどん失われている。「もういいや!命令されたことだけしかやらないから!」 そんな気になるのも仕方がない。このさき日本の教育はどうなるのだろうか?

今日は雨が降っていたが、荒川の土手へヨモギ摘みに行った。スーパーのレジ袋にいっぱいなるほど摘んだ。枯れ草が混じっているのでよく洗って、ゆでて、刻み、すり鉢でよく擦ってペースト状にする。蒸した上新粉の団子とペーストヨモギを混ぜて、餅つきのようについて草餅にした。草のいい香りが、と思ったが匂いはほとんどなかったが、緑の草餅は春の到来を感じさせてくれた。

修理中のパソコンがなおった。さらに新しく買ったDELLの高級機がやってきた。どのパソコンをどこにおいて、どれをメイン機にするか思案中。この日記は新しいDELLのパソコンから発信している。また2,3日パソコンと格闘する日々が続くだろう。

雪が重たい 君が代も重たい!

3月22日(月)
雪が降りそうだというので、先日手入れをした植木の様子を見に行く。この時期の雪は重たいので、すぐに枝が折れる。枝に雪がついたらほうきで払ってやろうと手ぐすねを引いていたのだが。
しばらく待っていたがなかなか雪にははならない。近所のロジャースに行って、雪見酒の用意をしたのだが、まだ雨が降り続いている。しょうがないからまずビールを飲んでしまった。雪になったら熱燗をと思っていたが夜になっても雪にならない。

こんな一日を送ってしまったので、昨日の疲れはすっかりとれた。「さあ明日からがんばって働こう」と思ったが、行き先はないのだ。
あすは新宿山吹高校の卒業式だ。最後に担任をした子が一人だけ卒業する。本当は5人ぐらいは卒業してもおかしくないのだが、みんなのんびりしているというか・・・・・来年も私が出席できるように配慮してくれているのかもしれないなあ。でも、・・・・・君が代が終わってから(別に私が歌っているかどうかチェックされるわけではないが)参加するつもりだ。

荒川マラソン 4時間20分

3月21日(日)
昨日は山登り、今日は荒川マラソン。リタイヤおじさんは体力派だ。朝9時にスタートだったが、昨日の雪の名残か、少々寒い。今年は1万7千人も走るので、スタート地点に行くまでに8分かかった。まあ時間を気にする分けではないので、まあいいか?

最近マラソンの練習はしていないので5キロを30分のペースでもなかなか厳しい。荒川のコースはいつも走っているので、よく分かっているからよけいにきつい。そんな気分でいたら、なんと5キロ近い重さのザックを背負って走っている女性がいる。あほな人だと思っていたら、山岳耐久レースの時にズート私をリードしてくれた馬杉裕子さんだった。これぐらいの負荷をかけた方が走りやすのだそうだ。すごい人がいるものだ。

私の走りは可もなく不可もなく、淡々と終わった。タイムは4時間20分ぐらい。もう3時間台はムリになってきた。でも完走できただけでも喜ばなければ。ちょっと前になんとフルマラソン10年ぶりという中山嘉太郎さんがいた。沖山健司さんはゆっくり楽しんでますよと言いながら2時間台だった。

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写真は30キロ地点。もう足がバンバンになっているので、すり足状態だ。

雨が岳 おじさんたちの登山

3月20日(土)
昨日の夕方から、久々に山登りに出かけた。場所は本栖湖のさきにある毛無山から雨が岳へ。一行は都立大学山岳部OBの6人組。ほとんどがリタイヤ組だ。今から20年近く前、私はこの付近をとおる東海自然歩道を走ったことがある。そのときに本栖湖、上九一色村、割石峠をとおりA沢貯水池などをとおった記憶がある。

その時は、富士吉田からずーと走ってきたが、今回は車2台で、登山口と下山口においた。麓という集落は昔は千軒の家があったという。武田信玄の発掘した金山があったのだ。近世まで掘られていたそうで、鉄製の機械がまだ放置されている。竹川家という庄屋さんがこの地を仕切っていたらしい。この前来たときにも立派な門構えの家があった。今回再見。昔のままだった。

朝6時45分からから登山開始。最初は不動の滝を見学する余裕もあったが、だんだんと雪が舞いだして、冷え込んできた。天気が悪そうだとは思っていたが、まさか雪とは!おじさんたちは装備は完璧。ゴアテックスの雨具を取り出す。私は短パンで駆け抜けるぐらいのつもりでいたが、そうも行かない。三ピッチで1900mほどの頂上へ。吹雪いており、寒い。コンロでお湯を沸かし、卵スープとおにぎりおじやの昼食。

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アイゼンをつけて下りにかかる。私はアイゼンなど持ってこなかったのでW部さんの四本爪を借りる。これはなかなか快適。他の人たちは6本爪か8本爪。このくらいの雪では4本爪の方が威力がある。雪まみれになりながら、雨が岳へ。そこでアイゼンをはずしたのが失敗だった。雨が岳の下りは急坂でおまけに雪の下が凍っている。滑る滑る。もう一度つけるのは面倒なので尻で滑り落ちる。久々の尻セードだ。他の人たちは面倒がらずに、アイゼンをつけ直す。

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私はそのまま転がり滑りしながら下ったので、渡部さんと最初に車のところに到着。2人で登山口においた車をとりにいく。ちょうど他の人たちが下山してきた時間に車が到着。私と北島さんはそのまま東京へ。他の人は温泉へ。私は明21日に荒川マラソンだ。

道ゆく芸能研究会 お猿の学校

3月18日(木)
「道ゆく芸能研究会」という名前の会がある。猿舞座をやっている村崎修二さんが主催し、各地のお祭りなどで大道芸をやっている人たちの伝統文化を伝えていこうという趣旨の会である。村崎さんは宮本常一先生の意をうけて周防で猿回しを復活した人で、自身も猿回しを昔ながらにやっていた。アトム(安登夢だったかなあ、ちょと忘れた)と組んでやっていたころ何回かみたことがある。テレビには出なかったので有名ではなかったが、昔ながら大道で演じている姿はみごとだった。お猿のアトムくんの毛並みがものすごくきれいだったことが印象的だった。太郎、ジローはテレビで有名だったので、アトムもテレビに出ないの?と聞いたら、猿でも(?)テレビに出るのは大変なストレスがかかり、毛が抜けたりするんですよと聞かせれ、なるほどと感心したものだ。

私は30年ほど前に宮本千晴さんに「お猿の学校」の東京PTAをやれと言われて、村崎さんとは何回も会ったことがある。3年前「宮本常一没20年記念 まつりはエエもんじゃ」佐渡芸能大学に誘われて、佐渡で道ゆく芸能を楽しんだ。
1ヶ月間佐渡の各地の神社、公民館などで大道芸を演じていた。大勢の芸能人を集め、演じた祭りだったが、昔のように神社いっぱいの人が集まるわけではなく、投げ銭もそんなにはないので、主催者は大変だったろうと心配だった。佐渡には米山俊直先生や高石ともやさんなどが応援に駆けつけていた。

その村崎さんが、昨年10月に安登夢の公演で倒れたという。長嶋監督と同じような病気だったようだ。今年は年賀状が来ないので、どうしたのかとは思っていたのだ。なんとかリハビリの結果回復をしてきているという便りをもらったが、心配事が残っているようだ。

投げ銭で生計を立てている「道ゆく芸能」家たちは倒れると直ちに生活に響くのでしょう。人伝てによると一昨年の佐渡芸能大学の芸能人の宿泊代などの残務が残っているのだそうだ。急いで些少のカンパをしたところ、筆書きのお礼状が来た。ちゃんと字が書けるのだと少々安心した。
実は今年から始める「旅するみわ塾」の名前は「道ゆく芸能大学」のパクリみたいなものだ。本家「道ゆく芸能」がふたたび活動できることを念じているところです。

右の写真は「人形劇団くぐつ」のホームページにのっていた写真で、今年の1月「安登夢の公演」とありました。今は回復して、活動を再開されているようで、安心しました。(この写真は大きくなりません))

みわ塾の今年度最終回

3月17日(水)
みわ塾の今年度最終回。来年も行うことにした。4月からは「旅する みわ塾」も開催することにした。 詳細はのちほど、みわ塾のところに書きます。お楽しみに!

今日はそのテキスト作りであわただしい。PDFにアップしようとしたがうまくいかない。少々困っている。後回しだ。

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※追加
午後は「みわ塾」最終回。榎町区民センターの会議室は飲食禁止なのだが、まあペットボトルの飲料程度はOKとのことなので、最終回はそれぞれの紹介と手作りのケーキ、天ぷら、おいなりさん等の差し入れでパーティー。一緒の教室にいたのに、お互いが知らないというのはよくないという、意見が出た。来年はその反省で、時々こんな会をやろう。

みなさんそれぞれの時間を背負ってきているので、個性豊かな方々ばかりだった。こんな人たちに、いろいろ「教える」などという大それたことをしていたのかと思うと冷や汗が出てきた。

夜の部は、関谷さん誕生日とあって大いに盛りあがった。しげさんが今日は夜の部で、修了証書授与。中原先生にも参加していただき、写真も撮ってもらった。夜は人数は少ないが、教養が高くてなかなか大変だ。

と言いながら、4月からも図々しく「みわ塾」ならびに「旅するみわ塾」を開催する予定だ。何人もの方が留年して来てくださるとのことだ。第3水曜日午後2時から4時と6時半から8時半、旅する方はその週の土曜日です。どうぞお越しを、お待ちしています。

高橋尚子 代表もれる

3月15日(月)
 T子さん(うちの奥さん)は街道歩きに出かけていった。地元の川越街道をばあちゃんたちと歩くのだそうだ。年をとるとお友達が少なくなる。誘われたらすぐに行かなければ。T子さんは前から地図やパンフレットを集め、下調べに街道を歩いている。何回かつきあわされたが、なかなかいい街道だ。こんど全部走ってみようと思っている。夕方から地平線通信の発送。最近は大勢の方が来てくれるので助かる。中原さんのところに、入院中のパソコンの様子を聞きに行くが、なかなか重傷のようで、まだ再起できない。中原さんに「みわ塾」の講師を引き受けてもらう。7月21日水曜日だ。

読売新聞の夕刊には「高橋尚子が代表に選ばれる」と書いてある。ニュースでは選ばれなかったと言っている。完全な失態だ。新聞記者の思いこみが、先走り記事になったのだろう。あすどうやってお詫びするのか?書かれたものは取り返しがつかないから大変だ。

しかし昨日の名古屋国際の土佐選手の走りをみていたら、「こりゃ高橋尚子の目はなくなった」と考えるのは当然だ。昨年の東京国際の高橋の走りを目の前でみた印象から言えば、もう高橋の時代は過ぎている。過剰な期待をかけるのはかわいそうだ。アテネに出ても、おそらく入賞はできまい。彼女にとってはこの結果をありがたく思うべきかもしれない

関根家は我が車の大家さん!

3月14日(日)
我が家の車を、新宿の関根さんお宅に停めさせて頂いている。関根さんは我が車の大家さんだ。そこに車を停めさせてもらっている「店子」が、大家さんに感謝のごあいさつという名目で、夕方集まった。

先日我が家に立派なウドが届いた。立川の下島さんからだ。立川はウドの産地。それを先週1本だけ大家さんに持っていったところ、「こりゃおいしい」ということで、下島さんも一緒にお招きした。関根さんはウドを期待していたのだが、そのとおり、沢山のウドを持ってきてくれた。我が家にもおすそわけしてもらった。

関根さんのお宅の窓からは新宿のビル群が間近に見える。こんな都会の中心地に、普通の人が住んでいるのだと、感心する。同じ店子のE本さんはさらに都心に住んでいるので、珍しくないかもしれないが、我らにとっては驚き。

ラオスお酒、(大家の奥さんが先日行って来た) ラベルも何にもない地酒だ。せっかく重たいのを持ってきてくれだのに申し訳ないがまあ珍しいというだけの味だった。北村さんのもってきたワインの方に傾いてしまった。

関根家には、とてつもないスピーカーと真空管のアンプがある。スピーカーにあわせて家を造ったと言うぐらいだから、まあ要はマニアックなのだ。その装置で、美空ひばりをきくのが最高なのだそうだ。ウンウン確かに、我が家で聞くのとはエライ違いだ。

 

ウィルスの発信元になった?

3月12日(金)
毎日なにをやっているのだろうと言うほど、ムダな(?)時間を費やしている。

一つはホームページを作っているパソコンが修理中なので、ノートパソコンにファイルを移して作成を始めたが、リンクしているはずの写真がはずれてしまい、それを復元するのに手間取っている。まあ、ホームページがどうやって作られているかを勉強する意味ではいいのだけで、ムダな時間が多い。おっと、時間はいくらでもあるくせにムダな時間とは・・・・・・

もう一つは私のAOLのメールに、ウイルスの添付されたメールが来たから削除したという苦情(?)が来た。しかしその人はまったく知らないひとで、どこか大学のアドレスだった。
心当たりはないのだが、こちらの名前で送信しているようなので、「ごめん」と言うしかない。私の名前で送信するにはパスワードが必要なはずだ。それがどこかで読みとられたのかもしれない。私は添付ファイルをつけることはない。もしみなさんのところに、添付つきのものが行ったら直ちに削除してください。

こんなホームページでも公開すると様々な反応がある。いままで疎遠だった人がと再び出会えるという楽しみもあるのだが、なにか悪用されることもありそうだ。返信用のBBSとかをつけていないのも、そのためなのです。便利なものはそれなりのリスクがあるんだろうと思います。

恐ろしい面もあるけど、もうしばらくはインターネット社会をうろついてみようと思っています。ご迷惑をかけた方がいらしたら、申し訳ありません! メールのパスワードはすぐに変更しましたが、いつ何時、読みとられるかもしれません。

血と汗と涙の国際貢献!

3月11日(木)
今日はミャンマーでマラソンした話を書きました。夏に行ったときに下書きをしてあったのですが、少々手直し。題目は「血と汗と涙の国際貢献」です。

予期せぬことに出会ったときに、子どもたちの顔は一瞬凍りつく。しかし安全だと分かるとたいていはゲラゲラと笑い出す。子どもの頃をおもいだしても確かにそうだった。しかし近年日本で子どもたちが一緒になって大声でげらげら笑っている姿を見ることはなくなった。

私はいまミャンマーのイラワジ河口デルタでマングローブ植林事業の手伝いをしている。首都のヤンゴンから植林キャンプ基地までは百数十キロしか離れていないが、汽船で一日、さらに10人乗り程度のボートで半日かかる。河口デルタは両側にマングローブが繁った細い水路が入り組んでおり、ところどころに小さな村がある。村人は米作やニッパヤシの葉の加工、漁業などで細々と生計を立てている。首都の燃料不足のためにこの地のマングローブが大量に切り出されたために、森は荒れ林業や漁業に影響がでており、森林再生が求められている場所だ。村々をまわって森林を見に行く交通手段は手こぎの小舟だけである。

ジョギングだけが趣味の私は何日も水路の上を舟で行ききしていると無性に地面を踏みしめる感覚が恋しくなる。グチョと足がとられるマングローブの泥地は私の好みではない。ムリに用事を作って「道路」がある島に連れて行ってもらう。その島の中央部は昔の砂州で、ほぼ直線で20キロほどの白い砂の道が続いている。真っ白な砂の道を地元の人はハイウェーとよぶ。その地では唯一の動力車であるトラジが走る。耕耘機に荷台をつけお客を乗せるようにした奇妙な乗り物だ。私の仲間たちはトラジにのって15キロ先のアマという町に向かう。そこにはこの地で唯一電話があるのだ。

私はあとをついて走ることにした。トラジの時速は10キロ程度。私はせいぜい8キロだからどんどん離れる。軍政下のミャンマーではこの地に入る外国人は銃をもった警官に監視される。私の単独行動をとがめるように何度もトラジにのるように勧める。短パンTシャツ姿ではなにも悪いことはしないよ!と身振りで示すが、なかなか許可してくれない。トラジは何度も止まっては私が追いつくのを待っている。

8月はイラワジの雨季だ。突然バケツを三つも四つもひっくり返したような雨が降ってきた。私なんかにかまっていられなくなったトラジは先に行ってしまった。道路はアッという間に水浸しになっている。しかし二〇分もすると青空がもどってくる。グチャグチャになった靴と靴下を脱いで、手に持って走る。ガラスやプラスチック、石という野蛮なものはないので、ハダシでも危険はない。ジャマものがいなくなったので、ゆっくりのんびり走っていると、小学校に出た。学校の前で遊んでいた子どもたちは一斉に私の方を向いた。「なんじゃこいつは?」という感じであるが、驚いたらしく誰もなにも言わない。「ミンガラ」とあいさつをしたとたん、こいつは大丈夫だと分かったらしく、一斉に遠慮会釈もなくゲラゲラと笑い出した。こんなメチャクチャな笑い顔を見たのははじめてだ。

手をあげて走り出すとみんなが私を取り囲むようにしてついてくる。そばにいた大人たちも、大げさに言えば集落全員が一緒になって走っている。まるで映画の「フォレストガンプ」の主人公のようだ。大昔、私も村唯一のオート三輪の後ろをついて走った子どもの頃を思い出した。あのときの私はここにいる子どもたちと同じだったんだ。この子どもたちは大きくなったときに変なオヤジのあとをついて走ったなあと思いだすのだろうか。もうちょっとましな思い出にしてやりたいが、まあしかたがない。

アマの町の入り口にくると前方から自転車に乗った男が向かってきた。警官かと身構えたが、濡れネズミになっている私のために乾いたTシャツとロンジー(筒状のスカート、ミャンマー人は男女とも愛用している)を持ってきてくれたのだ。私の仲間が頼んだわけではない。笑い焦げながら私を追い越して行った男が、「濡れネズミになった変な日本人が来るから乾いた服をもっていってやれ」と伝えたのかもしれない。

みんなの笑いは、人をバカにした笑いではなく、安心して受け入れてくれた笑いだった。これまで何年も走ってきたが、こんなにも心地よく安寧の気分で走れたことはない。うれしくて涙が流れてきた。ついでに足首と足指の股から血が流れてきた。ハダシで蓮池に入ったのがいけなかったらしく、数匹のヒルが吸い付いていた。

警官にはにらまれたが、この地の人と仲良くなったのだから、仕事も円滑にすすむだろう。まあこれも立派な国際貢献だろう。汗と涙と血を流したわが国際貢献だった。

 

小林幸子ショー コマ劇場

3月11日(木)午後
パソコンに向かっていると、わが奥さんが行くわよ!と言う。「どこへ?」と訪ねると「小林幸子ショー」よ。そういえば昨年も1月には新宿コマ劇場で紅白歌合戦の豪華衣装を見に行った。我が家は新聞やさんがくれるクジによく当たる。奥さんは毎月のようにコマ劇場の北島三郎ショーや松平健ショーなどに行っている。

私が小林幸子のファンだってことを承知なので、小林幸子の時だけは誘ってくれる。昨年の大晦日は富岡八幡宮に行っていたので、紅白歌合戦は見ていない。話では、大晦日は電気が故障して、巨大なクジャクの羽根が開かなかったそうだ。NHKは恐縮し、2月にリベンジし、その時は見事に開いたといういきさつがあった。

新宿コマ劇場にいけば3月中は毎日見ることができる。一年の稼ぎをすべてつぎ込んでいると言うだけあって、そりゃ豪華だ。何ヶ月もかけて準備し、ほんの一瞬にのうち花が散る。まるで花火みたいなぜいたくだ。昔は紀伊国屋文左衛門みたいなお大尽がやったんだろうが、いまは女性の方が気っぷがいい。こういうバカバカしくもおもしろいことをやってくれなくちゃ。来年も是非見に行こう。

その衣装の写真を撮ろうと思ったが、劇場内は撮影禁止、パンフレットには写真が出ていない。インターネットで探したら、すべて転載不可。というわけで、豪華衣装の写真はない。もし見たい人は、新聞やさんにお願いしてみることですなあ。(新聞記者じゃなくて、新聞販売店です)