鳴砂山・月牙泉

 

敦煌は砂漠の中のオアシスだ。現在は18万人もの人が住むが、その昔は泉の周りに少しだけの人が住んでいたのだろう。そんな景色が郊外にある。鳴砂山とその間にある三日月型の泉、月牙泉だ。ここは敦煌の最高の観光地になっている。入場料が110元もする。年寄り割引はなかったが、シーズンオフだったので半額。二人で110元。 砂丘の保全なんか考えなくてもよさそうだ。砂除けのスパッツを借りて(15元)皆さんどんどん上がっていく。ここは高さが100mの砂丘だ。二人のすぐ脇に半月。なかなかいい感じに撮れた。 三日月型の池がある。この水は枯れたことがないそうだ。湖畔には道教のお寺が立っている。砂だらけの寺だ。砂漠にはラクダ。こちらのラクダはふたこぶラクダ。乗りやすい。昔は砂漠の船といわれるように荷物運びの主役だったが、いまは観光用。11月寒いのでのる人は少ない。さみしそうに帰っていった。GoogleEarthの画像から見ると、こんな場所。敦煌山荘に泊まった。こんなでかい敷地だったのだ。食事に行くのが寒くて大変だった。となりの雷音寺もでかい敷地。下のくしゃくしゃは砂丘!

 

玉門関:陽関をいずれば故人なからん

敦煌から西域に行くには二本の道がある。南の陽関をでると楼蘭をでて西域南道、あるいは漠南道をへてホータンにでてヒマラヤを超えてインドに向かう道。一方北の玉門関をでると西域北道をハミからウルムチに向かう。ウルムチからは天山北路、天山南路に分かれキジ国からカシュガルにでてさらにタジキスタンに向かう。今回は敦煌(人口18万人)から北西に100㎞ほど離れた玉門関と南西に80㎞はなれた陽関に行ってきた。数十年前なら一日がかりだったろうが、今は舗装道路が続いており1時間ちょっとで行くことができる。もちろんバスなどはないから車をチャーターする必要がある。最初に玉門関に。途中送電線が張り巡らされている場所を通った。砂漠に太陽光発電所を作り敦煌に工業団地を誘致するとのことだ。今敦煌はブドウ、アンズなど果物だけが換金作物。あとは観光収入だけだから、工業を誘致しようというが地の利は悪い。あまり望まない方がいいのでは・・・・道路の上に料金所がありその先に玉門関の立派な博物館があった。周辺にあるのはこの建物だけ。ここは万里の長城が果てるところ。3mほどの高さの壁は砂漠の中に消えている。漢の時代に作らたので「漢の長城」と呼ばれている。博物館からはシャトルバスがでており、大方盤城遺跡に行く。ここが一番の見どころだろう。粘土で固めた大きな建物は数百人が住んでいた要塞かもしれない。玉門関から陽関までほぼ100㎞を車は走る。陽関の村でお昼。壁に王維の「西出陽関無故人」の詩が書いてあった。簡体字だがまったく味わいはない。
お昼を食べて陽関へ。ここにも博物館があり、城門も復元?創作!されている。門の向こうには王維が手を振っている。王維に見送られてシャトルバスでのろし台に向かう。この高台に上ると反対側が見える。玉門関と違って平坦な場所にある関所ではなく、山の向こうははるかな大平原。まさに関所として最高の場所だ。この向こうに楼蘭がありホータンがあった。心の目で見ようと思ったが、とても届かなかった。
この茫漠とした地を、わが友人の中山嘉太郎は単独で走っていった。いったい何を考えていたのか。いや考えたらこんな広大な場所を走る気にはならないだろう。私には偉大というよりも狂気としか見えない。とてつもなくすごい人と友達だったのだ。

敦煌山荘にいます!

私たちが泊まっている「敦煌山荘」です。町から外れたところに広大な敷地を得て香港資本が作った観光用のホテルなので異国情緒たっぷりに作られています。値段は東京のビジネスホテル並み。それでも敦煌では最高級。私は並みのホテルでいいのですが奥様は洋式トイレのないところは嫌!しかし残念ながらウォッシュレットはありません。もっとも上海でもウォシュレットはなかったなあ。目の前にはこれまた驚くほど大きな寺があります。北周(隋の前)の時代の寺だと説明があります。しかし敦煌にはそんなに昔からの寺は残っていない。その時代にあったらしい寺を復活させたということらしい。なのでこの場所かどうかは全く不明。西域ちょっと時間がたてばすべて砂に埋まってしまうので、地上に遺跡はほとんど残らない。西域の遺跡発掘はほとんどが20世紀の探検家によってなされたものだ。私たちが敦煌に下りた前の日に雪が降った。敦煌山荘から見える砂丘は雪をかぶっている。すばらし景色だ。この砂丘の高さは200mもある。これは山ではなく砂が吹き上げられた砂丘であり、風の吹き方によって姿を変える。

見るからに寒そうな景色だ。本日の気温は最高が2℃、最低が零下10℃だ。かなり寒さ対策をしてきたが、それでもしんしんと冷える。食堂は景色のいいテラスに面しているのでいったん部屋から出ていかなければならない。中国は北京時間に統一されているので敦煌は日の出が8時30分、朝食は7時からなので深夜に食べている感じ。テラスからは雪で白く浮かんでいるような幻想的な砂丘が見える。月明かりがあると輝くだろうが本日は残念ながらなし。明けの明星の光では暗すぎる。とてつもなく寒い。これは道教の寺。砂漠の中にある月牙泉のわきにある。この塔の上からの砂丘と砂漠の眺めはいい。

 

敦煌から西域(サイイキ)が始まる

 

敦煌の博物館にこんな地図があった。これだけ大胆に作った地図はなかなかない。しかしこれでシルクロードのおおよそのルートは分かる。字が小さいのと読めないので、私のわかる範囲で文字を載せてみた。

長安は中国の千年の都。秦の始皇帝陵もあり玄宗皇帝と楊貴の宮殿もあった。日本から遣唐使が派遣されたのもここ長安で、阿倍仲麻呂、空海などもここで学んだ。現在の西安にはほんの少しだけ長安の名残がある。中国は政権が変わると前の王朝の建造物を破壊することで前の歴史を途絶させる。いまの西安は千年の都長安を引き継いだ町ではないそうだ。 長安の城門から旅人は西へ旅立つ。河西回廊をとおって蘭州で黄河をわたり酒泉を通って敦煌に出る。南側は祁連(きれんさんみゃく)山脈、北側は万里の長城が境しているので、ほぼ一本の道になっている。今回の旅で西安からのヒコーキはこの祁連山脈の上をずっと飛んで行った。山また山どころではない。ヒコーキで一時間以上にわたって人跡、動物跡は何もない山々が連なっていた。山が終わったところから砂漠が始まる。そこが敦煌の町だった。

敦煌から西へ大きく分けると3本の道が通っている。19世紀ドイツの地理学者のリヒトホーフェンは著書「China](1877年)で東西交易路のことをザイデンシュトラーセンと呼んだ。「さまよえる湖」を探した探検家ヘディンが、それを英語でシルクロードとよんだ。

漢の武帝(BC2世紀)が張騫を派遣して西域を調査させた。しかし張騫は匈奴にとえられ13年間も幽閉された。しかし生きて戻り、情報をもとに匈奴を追い払って西域に進出した。その最前線が敦煌であった。漢の最前線として、万里の長城を延長し、敦煌の近くの玉門関まで長城が作られた。漢時代の建設なので「漢の長城」と言われる。高さは3mほど。河岸に沿って作られているので、西方から見るとかなり高く見える。(下の写真は張騫の像と漢の長城)

上海で準備

敦煌と西安に行く予定ですが、年をとったので一気に行くのは大変なので、上海で2泊しています。昨日は4時過ぎについたので夕食を食べたらすぐにホテルに入って、ゆっくり休みました。前回泊まったトンマオホテルはどういうわけか満員で、加州酒店というホテル。なんと大きな競技場の観客席の上がほてるになっている。目の下ではりっぱなトラックを多くの人が走っている。

接続の調子が悪いので、とりあえずここまで。

紅葉見物 鬼無里・鎌原観音堂など 

戸隠の山岳会の20周年記念日と合わせて紅葉見物に行ってきました。私は車がないので、EGUCHI夫妻の車に同乗して、あっちこちを回ってもらいました。長野駅で拾ってもらい、戸隠へ向かいました。その前に紅葉の名所である鬼無里(きなさ)に行きました。ここは京の都で不埒な働きをした紅葉という女性が流刑になってやってきたひなびた貧しい里だった。しかし紅葉さんはここで隠遁する気もなく周辺の民を集めて反旗を翻したのだが平維盛の遠征軍にやられてしまった。紅葉さんはとんでもない「鬼女」だったという伝説が残っている。今はもう鬼はいない里だよ!と宣伝しているが、鬼女イメージは残っている。今は鬼女ではなく貴女(きじょ)とされているようだ。

戸隠で楽しい宴会をした翌日、EGUCHIさんと同じ高校の後輩が来年からオープンするペンションを見に黒姫高原に行く。なかなかいい感じの外観だ。でもかなり手入れが必要かも。完成したら清瀬の皆さんぜひお泊りに来てください。

黒姫から志賀高原に上がり、雑魚川経由で秋山郷に行こうと思ったら、すでに雪のため閉鎖。6月まで通れないことが判明。急きょ渋峠経由で草津に抜けようと思って峠のパン屋に行ったら、11月4日で冬ごもり、さらに白根火山の噴火の影響で草津に抜ける道路は閉鎖。なので万座経由で軽井沢に行った。

途中鎌原の観音堂の紅葉見物。鎌原集落は浅間山の噴火で泥流が押し寄せ、500人の住民のうち400人以上がなくなった。観音堂の石段はほとんど埋まった。昭和になってから発掘を行ったら、石段の途中で息絶えた女性の骨が出てきた。あと数段登れば助かったのに。素晴らしい紅葉ですが、そんな悲劇のあった場所なので「すごーい!」とはしゃぐ気分にはならなかった。

軽井沢から旧道をとおって眼鏡橋の紅葉を見て横川、安中を通り本庄駅でEGUCHIさんと別れて湘南ライナーで戻りました。長時間運転させてしまいましたが、珍しいところを見れて喜んでくれました。ありがとうございました。

 

じいさんたちのクラス会

 高校のクラス会を毎年11月3日に池袋サンシャイン60のレストランで行っている。日時、場所は固定なので幹事は「まもなくクラス会ですよ」というメールを送るだけ。順送りに幹事をやることになっている。今年私は3巡目だから、もう15年ぐらい休まず続いていることになる。何せレストランの最高顧問が仲間なので、同じ場所で長く続けられている。私が幹事だったせいか、毎年参加していた多くの女性陣はゼロ、全部で13人しかいなかった。これは少々残念。というがもうこの年齢! 欠けていくのは仕方がないか。次の幹事まで頑張らなくちゃ!