植村直己冒険賞授賞式

■豊岡市の日高公民館で植村直己冒険賞の授賞式が行われた。今年の受賞者は単独無補給で南極点まで歩いた荻田泰永さんだ。オープニングは植村さんの母校、府中小学校の生徒たちの「Do My Best」のコーラス。

■市長あいさつのあと、選考委員の石毛直道さんの選考評があった。石毛さんは日本の探検家の草分けのような方だ。選考の理由を会場を埋めた中学生にわかりやすく説明してくれた。荻田さんのような若い冒険家、子どもたちに話をするのがうれしくてならないような石毛さんだった。荻田さんも、大先達の石毛さんのような方に評価してもらえたのはうれしいことだったろう。■賞の贈呈の後、荻田さんの講演会になった。聴衆は地元の中学生が主体だ。植村直己冒険賞は受賞者本人の栄誉でもあるが、一番重要なのは地元出身の植村さんへの敬意を呼び起こすことでもある。先人の偉業に誇りをもって、学生生活を送って欲しいというのが地元の方々の願いだろう。

■荻田さんは南極の話を動画を交えながら話してくれた。100㎏近い荷物を満載したソリを自力で引っ張って1000㎞以上の距離を歩いた。誰もいない雪原で一脚を立ててカメラをセットしてその前を歩いている姿にみな感動していた。そんな大変ななかでよく動画をとる余裕があるなあと思ったのだろう。しかし荻田さんは、「南極点踏破は簡単でした」と言った。「ええー」と中学生は思ったろう。

■荻田さんは「北極男」と称している。実は2001年から北極には15回行っているが、南極は今回が初めて。南極は大陸で氷は安定している。北極の氷は海に浮かんでいるだけでいつ割れるかもわからない。氷は動くので昨日北極点だった場所が今日も北極点とは限らない。動いた氷がぶつかって乱氷帯ができ、時にはリードと呼ばれる割れ目ができる。今度は動画ではなく写真だった。割れ目に落ちたら助からない。と思っていたらドライスーツで泳ぐ準備もしていった。乱氷帯は巨大な氷のブロックがごろごろしている間をソリを引っ張り上げる。「もういやだ!」という声が聞こえた。写真だと思っていたが動画だった。動けないが声だけは入っていた。

■「この乱氷帯を犬ぞりを使って越えて行ったのはとんでもなく大変なことだ。私にはできません。」と犬ぞりの植村さんの偉業を評価した。子どもたちは「そうなんだ、植村さんはすごかったんだ!」と誇りに思ったようだ。それは後の子どもたちの活発な質問から察するができた。

■最後に今後のやりたいこと。1.小学生をつれて100マイル歩行、これは自分が受けた恩返し、いや「恩送り」だという。自分は大場満郎さんのおかげ極地に行けた。大場さんは植村直己さんお世話になった。恩は相手に返さなくていい。次世代に送ればいいという。その意味も込めて毎年小学生と歩いているという。
2番目は自分のことで、3度目の北極点無補給単独徒歩行を成功させたい。そして3番目、何を言うかと思っていたら「ハワイに行きたい」皆さん思いがけない言葉にどっと笑った。会場には奥さん子どもも来ていたのだ。■話の後は質問タイム。司会者の方は何も出なかったら終了という感じだったが、続々と中学生が質問する。こんなに質問が飛び交う講演会は初めてだった。荻田さんの人がらだろう。地元の方々も大変喜んでおられた。いい授賞式だった。

狛ねこを見つけた

京都丹後鉄道(昔はタンゴ鉄道だった)にのって峰山という駅にやってきた。私たちの時代には、ヤクルトの野村監督が峰山高校の出身だということは誰でも知っていた。しかし峰山がどこにあるかは知らなかった。
  峰山の金毘羅神社に日本で唯一の「狛ねこ」があることを聞いた。豊岡で行われる植村直己冒険賞授賞式に合わせて西舞鶴から列車に乗った。   峰山の駅からは1.5キロ。まだ朝早いので涼しい。歩いて行ける距離だ。この地を支配した讃岐出身の京極さんが信仰したとかで、立派な神社だ。石段は本家ほどではないがかなり上る。石段途中に末社がいくつかあり、それぞれに狛犬やお狐さんがいる。    その中の猿田彦神社と木島神社を合祀した社の前に「狛ねこ」がいた。ちょっとおまけに作ったというのではなく意識して本格的に作ったものだ。木島神社は織物の神さまを祀る神社。織物にネズミは天敵だそうで、ネズミの天敵の「ねこ」を魔除けにした。
  狛犬はもともとは魔除けで作ったものだから、犬でも獅子でも狐でも猫でもいい。日本の神社ってのは包容力がある。   今では全国に知られたようで多くの「狛ねこ」愛好家が訪れる。同じ列車で中年のおじさんも「狛ねこ」を見に来ていた。彼はタクシーで行ったので、私がついた時には石段を下りてくるところだった。

若狭の一宮、若狭比米神社

若狭に来ています。敦賀で新しくなった気比神宮の大鳥居を見て、小浜線で東小浜まできて、そこから貸自転車で若狭神社をまわってきました。若狭神社は上社が若狭彦神社、下社が若狭姫神社になっています。長いこと神仏混淆であったので若狭神宮寺もひとまとめだったようです。  若狭神社は、東大寺二月堂にお水を送る「水送り」行事が行われることで有名です。毎年3月2日に鵜の瀬という川の淵で、奈良東大寺にお水が送られます。100㎞以上もある奈良まで地下水が流れていくとは考えられないのですが、行事として長い年月続けられています。3月12日には二月堂の「若狭井」でその水が汲みあげられます。  東大寺で修二会という行事がはじめられたときに、全国の神さまが集まめられました。その時に若狭の神さまだけが遅刻したのです。ちょうど魚釣りが忙しくて!10日間遅れた神さまはお詫びの印に毎年若狭から閼伽の水を送ることを約束したことで、お水送りが行われています。

大山花壇

我が家の花壇、管理者、作業員は奥さん、ときどき鑑賞者、私と通行人。

池袋駅なかのカレーや

山手線で池袋までもどってきた。ちょっとお腹もすいていたので、駅の改札口の中にあるカレー屋に入ってみた。野菜いっぱいのカレー。じっくり煮込んでいないので野菜の形もよくわかり、野菜味が混ざっていない。これは我が家のこのみ。忘れないようにここに記録しておこう。お店はCAMPとあって、スプーンはシャベル型、飯盒にナプキンが入っている。なかなかおもしろい。味もよかった。

 

峠楽会 報告!

  19日に峠楽会で、霞峠を命名しました。しかし19日には7名の参加で、いつもよりだいぶ少なかったので、全体で峠の命名をすることができませんでした。当日の様子は原さんが詳しく描いてくれました。勝手に引用しておきます。原さん、事後承認ですが、よろしいですか?

19日の峠楽会の様子

 

小石川植物園 お花

日差しは強いが、風は涼しい。本日は籠町小学校のフリーマーケットを見てから、歩いて小石川植物園に行く。フリーマーケットはすごい人。なんか今の社会を象徴している感じだ。
「捨てるにはもったいない!誰か使ってくれないかな。」
「新しいものは欲しくない。必要なものはお古でもいいよ!」  企業の人や政府日銀は、これじゃ日本のGDPは増えない! 2%の物価上昇はできない。とぼやくかもしれない。

千石駅から植物園に行くと入り口は遠い。塀に沿って歩くと30分もかかった。植物園は広いのだ。 新緑の今頃は、目立った花はないので人も少なくく気分はいい。珍しい植物をチェック。私が知らないだけかな?

ダンドク(Canna indica)ハナキササゲ(ノウゼンカズラ科)こちらはご存知、ニュートンのリンゴの木トキワマンサク(絶滅危惧1B)

超眺望!ランチ!お富士さん!狛犬!王将!

すごい眺望のレストランでランチ。昔の日本青年館が新しくなりました。神宮球場の真ん前。試合がタダで見れるなあ。まだあまり知られていないようで昼時なのに空いている。訪れるなら今のうちだ。


そのあと鳩森神社。こちらにはお富士さんがある。誰でも登れる。近年は外国人が多い。

神社に来れば狛犬。

こんなお堂もあった。将棋のお堂? ちょうどこの日、高校生の藤井君が最年少の7段になった。

霞岳峠 国立競技場の近く!

19日(土)には峠楽会は霞岳峠に行きます。信濃町の慶応大学病院があるのは霞岳町です。ここにある峠なので勝手に霞岳峠にしました。峠の反対側は霞ヶ丘町で、そこには国立霞ヶ丘競技場がありました。現在は新国立競技場が建設中です。

霞ヶ丘峠でも霞岳峠でもいいのですが、なんとなく山みたいで立派かなと思って霞岳町の名前にしました。いかがでしょうか。現在峠の上には歩道橋が通っていますが、その橋は「無名橋」となっていますので、将来は霞岳橋にしてもらいたいなと思っています。

「峠」地形は東京凸凹地図を参考にして、探しています。東京の台地は開析が進み、小さな谷が沢山入り込んでいます。両側から谷と谷が合わさったところが「峠」です。峠という漢字は、実は日本で作った漢字=国字です。山を上がって下るというのはイメージが合います。苦労して峠に立つと向こう側に新しい世界が開ける、峠にはそんなイメージがあります。

本日その場所を下見してきました。国立競技場の工事はじゅんちょうに進んでいるようです。そのわきに立派なホテルができていました。中に入ってみると、昔の日本青年館でした。9回に眺めのいいCafeがありました。土曜日、雨が降ったらここでお茶するのもいいなと思っています。下見の成果です。

82番根香寺(ねごろじ)

81番白峰寺は五色台の白峰にあった。こちら82番は青峰にある。その間は50丁の距離で讃岐の遍路道が結んでいる。旧陸軍の演習地でいまも善通寺部隊の敷地なので開発が進まなかったようで、大変保存がいい。丁石は、たぶん補修したろうが、50丁分全部残っている。50丁はほぼ5.5㎞で、上り下りはそれほどでもない。しかし我々の足では2時間以上かかった。

五色台の主峰、青峯山山中にたたずむ。弘法大師は密教修行の地としこの山に「花蔵院」を建立した。大師の甥の智証大師が訪れ、山の鎮守の一之瀬明神に出会い、「蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけた。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し「千手院」を建てた。この霊木の根は芳香を放ち続けたことから「花蔵院」「千手院」を総称して根香寺とよんだ。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めた。と記されている。弘法大師が開祖だがいまは天台宗。

かなりの山の中で昔は密教の修行の地だった。外界からの影響を断って大勢の修験者が活動をしていた。俗人にはわからないような現象も起こっていたというので、近年はパワースポットとしても知られる。怖いもの見たさに訪れる人も多い。仁王門のわきには牛鬼の大きな像が参拝者を驚かすように立っている。

人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が青峰山に棲んでいた。弓名人山田蔵人高清は山へ入ったがなかなか牛鬼が現れない。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけた。21日目の満願の暁に、牛鬼が現れ口の中に矢を命中。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。牛鬼の絵は魔よけのお守りとして親しまれている、そうだ。

 

第81番白峰寺

坂出の東には300mを超す溶岩台地が広がっています。溶岩はカンカン石と言われる固い安山岩です。この溶岩は古い時代に噴出したもので、現在知られる火山由来ではない。溶岩は長い間に侵食され、谷がいくつも刻まれ、いくつかのブロックに分かれています。そのなかで目立つ峰に青峰、黄峰、赤峰、白峰、黒峰の五色の名前が付けられています。

白峰に81番白峰寺、青峰に82番根香寺がある。その2寺の間には讃岐遍路道が残っており、重要文化財として保存整備が進んでいる。これはなかなかいい道で、歩いてよかったと思っている。地元の中学生も授業の一環として歩いているようで、今回多くの生徒たちに追い越された。

五色台全体の地図

■815年に弘法大師空海が白峰山頂(337m)に上った。その後空海の妹の子である智証大師がここに寺を創建した。智証大師は、山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し本尊にしたという。■白峯寺の中には「頓証寺殿」という建物もある。後鳥羽天皇と戦った保元の乱で負けた崇徳上皇は讃岐に流され、都へ戻れないまま流刑地で没した。白峰山に陵墓が造られた。崇徳院と親しかった西行法師が詣で法楽を行った。その後慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした木の丸殿をここに移した。現在の頓証寺殿がそれである。四国88カ所霊場の白峯寺に詣でる人は多いが、実はこの崇徳天皇の御陵に詣でる人も多い。私が訪れた時も、駐車場にいたタクシーの運転手さんは「みなさん御陵にこられています」と教えてくれた。お遍路さんは御陵を素通りして、遍路道に入っていく。お遍路さんは途中にある寺や神社、御陵にはあまり目を向けない。私は歩き旅であるから途中の興味深いところには寄り道をするので予定時間を過ぎることが多い。これもまあいいか! である。

崇徳上皇がなくなってしばらくして西行法師が慰霊の旅をした。五色台の下にある・・神社から急な坂を上ってここまでやってきた。その道を今は「西行道」として参拝の人がとおる。私も知っていれば79番から80番を後回しにしてこの道を上ったのだが・・・、ここから下る気はなく、白峰寺をゆっくり参拝して、讃岐へんろ道を82番根香寺に向かった。

門を入って正面に護摩堂がある。左に曲がって正面に頓証寺殿がある。本堂大師堂は右手にある急な石段を上がった上にある。途中に立派なお堂がある。

本堂の拝殿の天井の釣り灯篭

昨日参った79番天皇寺が崇徳天皇の配流地の御所だった。81番は御陵だ。天皇関連とすれば79番から80番を飛ばして81番へ行くのが自然だ。昔のへんろ道もそうなっていたらしい。しかし札所めぐりは順番どおりに行くようだ。合理的な考えをする人たちは79⇒81⇒82⇒80⇒83 とめぐるようだ。

下弦の月 って久しぶりだね!

 四国お遍路の最中なので、朝は早くから起きて支度しています。空にはこんな月が出ていました。これは「下弦」の月です。「エエーッ 弦は上の方にあるじゃないか。上弦の月だろ!」と言われることがあります。私も長いこと教えていて、大いに疑問を持っていました。月が沈むときに弦が上にあるか下にあるかで決めたようですが、今見えている月が地平線に沈むときには弦が下になるので下弦です。しかし太陽が高くあるので見ることはできません。ということで、下弦になった月を実際に見た人はいないのです。見えることはない「下弦の月」、やっぱりおかしいなあ!

80番国分寺からの「へんろ道」

国分寺を過ぎると、どんどん山の方に道が入って行く。あの急な坂が「へんろころがし」なのだろう。昔は田んぼがあったようだ。重機を操作しているお兄さんに聞いたら、放棄された田んぼを太陽電池パネルの設置場所変えているところだという。苦労して稲作をするよりも、パネルを設置して利益を得る方が楽だろう。なんかアパートの大家さんみたいだ。
国分寺発9:30→

本日は日差しは強いが気温は20℃くらい。山の中は木々が茂っているので日差しはさえぎられる。奥さんは日傘をさしていたが、山の中では必要がなくなった。
展望台(石鎚神社WC)10:30 → 一本松峠 11:30

  一本松峠には車道が通っている。右に行けば82番根香寺(ねごろじ)左に行けば81番白峰寺(しろみねじ)である。2週間前に通ったばかりの清水さんのアドバイスでまず車道を通り81番へ向かう。歩く道は車道を横切ってくだる。涼しいし気分はいいだろうが上り下りがあり遠い。自衛隊のフェンスに沿って2キロほど歩き、途中から歩道に降りる(左の案内柱)。
ゼンマイがたくさん生えているので取りたかったが、持って歩くわけにはいかない。81番白峰寺までいい道だった。

81番白峰寺( 寺の記事は別にする)
崇徳院ゆかりの寺を後にして、同じ道を古田まで戻る。寺の前に「へんろの道」の案内がある。ここは讃岐でも最もよく丁石(ちょういし)が残っており、手入れもされているという。50丁からはじまり82番の根香寺が1番になっている。
上の石柱12:15 → 白峯寺12:30-1:00 → 閼伽井2:10 → 19丁3:00 → みち草 3:30

19丁を過ぎるとまもなく車道にぶつかる。みち草という食堂があった。一瞬入ろうと思ったが、すでに3時半、先はまだ長いので素通り。

82番根香寺 4:00-4:30 → へんろ小屋4:45 → 車道分岐5:30 → 鬼無駅 6:30

9時間の行動時間、長い一日でした。3万9千歩。鬼無駅から丸亀に戻りホテルへ。

四国88ヵ所 80番 国分寺

とうとう80番まで来た。あと8札所を残すのみとなった。あと一回の歩き旅で「結願」ということになる。前に書いた通り願いが叶うというほどの願いを持っていないので完歩と言った方がいいかもしれない。

昨日は79番まで巡って、鴨川から電車で丸亀に戻った。丸亀のホテルが奥さまのお気に入りなので今回は連泊することにした。おかげで本日は荷物を持たないで歩くことができる。最近ちょっとでも重いものを持つと翌日は起き上がれないほどの腰痛になる。大きなお風呂もあるのでいいホテルだ。値段はへんろ民宿よりも安い。いったいどうなっているんだろう。今朝は丸亀から電車で国分駅に来た。2駅抜かしたが本日は「へんろ転がし」を行くので大目に見ることにした。

国分寺は思ったよりもはるかに立派な寺だった。時間をかけずに先を急ごうと思っていたが、じっくりお参りが必要だった。30分以上かけたので、あとの時間に響いた。本日は先が長いということを忘れていた。

立派な本堂があり、奥さまはしっかりお参りをしていた。ここには千手観音がおられるそうだ。私は大師堂に行こうとしたのだが、それらしいものは見えない。あたりを見渡すと弁天様と七福神が祀られている。お寺と弁天さんの関係はよくわからないのだが、まあいいか! 納経所で聞いてみると建物の中に大師堂があった。写真禁止なので大師堂の写真はない。これまで79ヵ所で本堂、大師堂は必ず写真を撮ってきたので、ここでかけるのはちょっと残念。でもまぁいいか!

昔の国分寺は741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれた。しかし国からの援助がなくなるとほとんどの国分尼寺は廃寺になり再興したものはなかった。国分僧寺もほとんどがなくなったが宗旨を変えて存続したものもある。四国には旧国に4つの国分寺があるが、讃岐の国分寺だけ当時の場所に存続した珍しい寺である。現在の寺の裏手で当時の遺跡が発掘中である。

 

四国88ヵ所 79番天皇寺高照院

78番郷照寺の大師様にご挨拶をして急いで坂を下りる。新町という古そうな町をとおり、国道をくぐって小さな峠を上る。うどん屋があったが本日終了。香川県はうどん県と称しているが、まだ讃岐うどんを食べていない。残念。

峠を越えると田尾坂公園にでる。眼の下にまっすぐな道が坂出の駅方面につづいている。荷物がないので快適に本町アーケードを行き、坂出の駅を右手に見て進む。線路を越えて山麓をまわるいい道を歩き八十場(やそば)の水場をすぎる。この水で日本武尊は生き返ったという由緒ある湧水だ。日本武尊はいろんなところに出没するものだ。

八十場の「ところてん」清水屋さんをすぎると大きな椎の木がある建物の境内に入る。境内に入ると反対側に赤い鳥居が見えるのでそちらに回る。近所の人に「天皇寺はここかな?」と聞くと、「ここは神社だけど、天皇寺といっしょだ!」と教えてくれる。赤い鳥居は三つ鳥居、我が三輪神社の鳥居と同じで「三輪鳥居「」ともいう。その鳥居の右手の大きな岩に「四国79番霊場天皇寺」と彫りこんである。さらに白峰宮という柱もたっている。何がなんだかよくわからないがみんなごっちゃになっているらしい。

とりあえず本堂と大師堂にご挨拶をするが、正面にある神社の拝殿、本殿に比べると見劣りがする。それもそのはず、ここは明治まで神仏混淆の天皇寺だったが、神仏分離で寺は廃寺になりその後末寺だった高照院が再興したようだ。したがって天皇寺高照院というのが正しい。お遍路地図などには79番天皇寺とあるが、それじゃ高照院はかわいそうだ。天皇寺高照院と書くのが正しそうだ。

さて天皇とは第75代の崇徳天皇だという。ちょっと調べてみたら
小倉百人一首の『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ』
の詠み人で、文化人らしい。
しかし崇徳天皇は平将門、菅原道真をしのぐ大怨霊であるとされている。

崇徳天皇の祖父は白河天皇、父は鳥羽天皇だが、実際は祖父の子だったようで、父は崇徳のことを忌み嫌った。権力者だった祖父は息子の鳥羽を上皇にし、崇徳を天皇にした。

白河法皇がなくなった後、鳥羽上皇は崇徳天皇を廃して近衛天皇をたてた。近衛天皇はすぐに亡くなるが、崇徳が呪い殺したという噂が立った。近衛天皇の後に立った後白河天皇は平清盛と組み戦いを起こした。「保元の乱」である。負けた崇徳上皇は四国の讃岐へ流された。

自分の血をとって書いた写経を京都に送り、帰還を願ったが、破り捨てられたのを知り絶望して、1164年舌をかみ切って死んだ。「日本国の大魔縁となって、天皇を民とし民を天皇となさん」と呪ったという。その後、後白河法皇の近親者に次々と不幸が襲った。崇徳が予言したように武士が台頭し、天皇の地位は地に落ちた。

その後100年ごとに起こる大きな事件は崇徳上皇の呪いだとされてきた。怨霊をおそれた明治天皇は崇徳天皇の御霊を京都に戻し白峰神宮を創建してから即位した。亡くなって800年後の1964年には、昭和天皇が崇徳天皇陵に勅使を派遣し、霊を鎮めた。そのおかげで東京オリンピックは無事成功したという話も残っているそうだ。

100年ごとに呪いを発揮するなんてまさに大怨霊だ。私にはなんの関係もないが、崇徳上皇の呪いが残っている場所には長く居たくない。赤い鳥居をあとに一の鳥居に向かって急いで駈け下りた。そのせいで、行先の表示をちゃんと確認しなかった。ふつうは門前にある案内板(下の写真)を確認して次の札所に向かう。私はあわてていたので鳥居前の参道をまっすぐ下って行った。おかげで翌日「へんろ転がし」の難所に苦労をした。翌日出会った外国人の歩き遍路はみな「へんろ転がし」の急坂を下りに使っていた。

彼らのもつ案内書には、79番天皇寺から81番白峰寺にあがり、82番根香寺に参ってから一本松にもどり「へんろ転がし」を下って80番に行くと書いてある。この道の方が昔のへんろ道であると書いてある。日本人は順番通りに行かなければいけないような気がしているが、ここは 79→81→82→80 と順序を変えたほうが合理的である。その時には知らなかった。残念。