高麗の聖天様

西武線高麗駅から高麗神社に詣でたが、神社に行く前に聖天様にもお参りした。2000年に落慶法要がおこなわれた真新しい真言宗智山派の寺は遠くからでもよくわかる。もともとは高句麗から来た若光(じゃっこう)王の墓だったようだ。若光は大和政権から武蔵の高麗郡の王として厚遇されたという。現在もその廟があり、前を二頭の羊が守っている。高句麗の祖先は騎馬民族。彼らは羊とともに生活していた。その名残だろう。

真言宗の寺だがもとは朝鮮の方たちの墓地でもあった。現在は日本各地で無縁仏とされてきた方々の慰霊をする廟が作られている。広島の平和公園の原爆慰霊碑には日本人は祀られているが、朝鮮の人々は公園の外に祀られているそうだ。この住職さんや篤志家の方がそうした方々の慰霊をするために、この寺の一角に慰霊塔を作ったのだそうだ。

初詣をしている人たちはきっと韓国の方たちだろうと思っていた。初詣で賑わうほかの寺社に比べれば韓国人は多いのだろうが、私があったのは地元、近在の方々がほとんどであった。日韓関係の危うい時代だが、一般庶民はとりたてて問題にはせず共存している。私はちょっと安心した。 それよりも私が気になったのは聖天さまというのに、どこにも聖天さまがいないこと。お寺のご本尊は不動明王だった。

 聖天というのは歓喜天ともいわれ、浅草の待乳山聖天、生駒の聖天などが有名で、ちょっと怪しい感じのする秘仏だ。聖天さまがいないのに聖天とはこれ如何に?

左の写真は、この寺とは関係ない。歓喜仏というのはこういう仏さまだが、通常は秘されている。チベットでは皆さんがまじめに拝んでいる。

狛犬:高麗神社

西武線の飯能から2つ目の駅が高麗だ。巾着田があるので多くの観光客が集まるが、今の時期は高麗神社へのお参りの人でにぎわう。もっとも高麗駅から2.5キロあるので、ほとんどの人は車で行くようだ。

狛犬愛好家の私はここ数年は狛犬(高麗犬)のふるさとである各地の高麗神社にお参りしている。昨年は東海道の大磯にある高麗山のふもとの高来神社にいった。高来はこうらい神社らしいが、元は高麗だったのだろう。狛犬は高麗から来たというのは1つの言い伝えで本当かどうかはわからないが深くは詮索せずお参りをしている。

高麗の高麗神社には十数年前に来たことはあるが、その時には狛犬愛好家ではなかったのでどんなものがあるか確認をしていなかった。今回それを確認したくて埼玉県の高麗神社に行ってきた。さぞかし立派かと思ったが、昭和期に作られたもので、珍しい狛犬ではなかった。かなり残念。

しかしこの高麗神社、平成29年9月20日に天皇皇后両陛下がお参りになっていることを知った。
神社の案内にはご祭神は高句麗からの渡来人であると書かれている。
霊亀2年(716年)武蔵の国に東国7国より高句麗からの渡来人1799名を集めて高麗郡が置かれました。若光(じゃっこう)は高麗人の高い技術をつかってこの地を開拓しました。その遺徳を偲び作られた霊廟が高麗神社の始まりで、代々若光の子孫が宮司を務め、現在で60代目になります。

日韓関係がややこしいことになっている今、なぜ天皇皇后が高句麗の神社に行かれたのだろうか?産経新聞などは巾着田に行かれたことは報じたが、高来神社に行かれたことは一行も書かなかった。天皇皇后両陛下が慰霊の旅として最後まで心残りだったのが韓国だったという。退位前にせめて朝鮮の神社に参っておこうと考えられたのかもしれない。本当のところはわからないが、大変な反対があることを承知で決意されたことの意味を考えてみなければいけないだろう

志摩 大王崎から富士山が見えた!

本日は伊良湖岬から船に乗って鳥羽にきて、レンタカーを借りて志摩をまわってきました。大王崎には何回も来ているのですが、今日は快晴で渥美半島の伊良湖岬、神島がはっきり見えます。神島は三島由紀夫の「潮騒」で有名になった島。50年ぐらい前に行ったことがあります。

Casioのデジカメで写真を撮っていると、灯台の上で富士山が見えると言っていました。私は目を凝らしてみましたが、よくわかりません。田代先生のお話だと和歌山県の那智の滝の近くの山の上から見えるのが最遠とのこと。ならばここから(直線で200㎞)てもいいはず。帰ってからでデジカメの映像を加工していたら、なんと富士山が映っているではないか。こんなカメラでも肉眼よりも目がいいんだ!
そういえばなんとなく斜面が見えていたような・・・・とりあえずその写真を入れておきます。

忘れていた、大王崎に行ったのは山の上にある波切神社の狛犬を見に行くのが目的だったのだ。小さな狛犬は団体です。海風にさらされているので風化著しい。もう一対は最近作られたものでそれほど風化はしていない。

秩父夜祭:知々夫神社

秩父神社に行ってきました。この神社は知々夫の国(律令制の前武蔵の国と並んでいた)の一宮だったという。2006年になって全国一宮会ではこの神社を新一宮とした。「新」というが、そここの一宮よりも歴史は古い。本殿の彫刻は日光東照宮を思わせる。それは江戸に近いために徳川幕府から様々な援助を受けたことによる。西国33か所、坂東33か所と合わせて100観音霊場になるように秩父34か所が置かれたのも、江戸に近いという地の利だった。今は一山超えなければ行くことができない盆地だが、徒歩の時代の人にとっては日光も箱根も秩父もそんなに変わりはなかったのではないだろうか。

12月3日は秩父神社の夜祭。日本の三大夜祭りだ。他は岐阜の高山祭、京都祇園祭だそうだ。300年の伝統を誇る豪壮なもので笠鉾、屋台は素晴らしい。屋台4基、笠鉾2基が御旅所にのぼる坂を引き上げる時がクライマックス。秩父鉄道の線路を渡るのだがこの日は、電車は欠航になり架線が外される。お祭りの方が先にあったのだから、電車が遠慮するのは当然。これはいいね。都内でもやってみたら。屋台と笠鉾、一部ですが写真に写しました。御旅所を上がる時間までいることができなかったので花火を少し見て戻りました。

忘れていた。狛犬、鳥居の下に一対あっただけ。ちょっと寂しい。狛犬を見るのだったが秩父の奥にある三峰神社に行かなければならない。近々行ってみよう。お祭りのお店は秩父ならではのこんな地味なもの。食べ物は中近東風が多かった。

岩代國一宮 伊佐須美神社

会津美里町に岩代国一宮の伊佐須美神社がある。古事記によれば、四道将軍として北陸道に派遣された建奴奈河別命と東海道を北上して来息子の大毘古命が合流した場所、すなわち相津( あいず)に作られた神社だそうだ。

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この神社は岩代國一宮と称せられている。しかし岩代國というのは明治時代にほんの一瞬存在しただけの国名なので、昔からの一宮ではない。全国一宮会では、新一宮として伊佐須美神社を認定している。しかし新一宮と言われると新しく作ったように聞こえる。実際には延喜式の(925年)の式内社なので古くから存在しており、奥州二宮として知られていた。

 一緒に行ったYOさんの解説では、本社のナンバー2だった副社長が新しい支店の社長になったようなものだ、と言う。なるほどよくわかる。律令時代、白河以北は大和政権の力は及んでおらず、東北地方はまとめてぜんぶを陸奥(奥州)とよんでいた。陸奥(奥州)の一宮は白河の関の近くの棚倉に置かれていた。立派な鳥居、隋神門(門の中にこの立派な木造狛犬がいる)、をくぐって境内に入るとアレレ、ちっちゃな拝殿があるだけ。後ろには土台の石はあるが建物はない。宮司さんに聞いたら、2008年に不審火で焼失したという。今は皆さんで元のように復活させると頑張っておられる。いつもよりちょっとだけ多くお賽銭を入れた。

本殿がないので、仲間のKOBAさんはご神木の前でご縁をお願いした。仮本殿前に戻ったところで、突然KOさんが驚いた顔を見せた。私とYOSHIさんは何事が起こったかと心配した。なんと息子さん一家とぱったり出会ったのだ。お孫さんは「なんでジイちゃんがここにいるの」と状況を理解できないふうだった。高崎在住のKOBAさんと埼玉在住の息子さん一家、なんの連絡もなかったのに会津の伊佐須美神社で出会うのは奇跡としか言いようがない。

大毘古命と建奴奈河別命の親子が会津で出会った、まさに同じことが、古事記以来1300年のちに起こったのだ!すばらしい「会津」に出会って感激した。

大人気喜多方ラーメン:2時間ぐらい待たなければムリ!

その感激さめやらぬまま喜多方にいきラーメンを食べた。喜多方ラーメンの味は伊佐須美神社の感動に比べれば、それほどものではなかった。感動はそうめったやたらにあるものではないのでまあいいか。

亀岡八幡宮:市ヶ谷八幡町

先日鎌倉の鶴ケ岡八幡に行ってきた。鶴といえば亀、どうしても亀岡八幡宮に行かなければならない。市ヶ谷のJR駅からは一旦下ってお堀をわたって、再び急な石段を上る。もともとは鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から神様を勧請したものだ。楽しい狛犬!

鎌倉の八幡宮の神さま
1.応神天皇 (おうじんてんのう) 第15代天皇
2.比売神 (ひめがみ)
3.神功皇后 (じんぐうこうごう) 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母
市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮急な石段

市ヶ谷 神が岡八幡宮
1.誉田別命【ほんだわけのみこと】(第十五代應神天皇)
2.気長足姫尊【おきながのたらしひめのみこと】(神功皇后・應神天皇の母君)
3.與登比売神【よとひめのかみ】(應神天皇の姫神)
下は狛犬。こちらはふつうの狛犬。

天皇皇后の呼び方は、7世紀第38代天智天皇のころからで、応神天皇の頃はまだ大王だった。「誉田別命」が後に名付けられた応神天皇の本名である。天皇の母の神功皇后も気長足姫尊(おきながたらしひめ)が本名。比売(ひめ)神はもともとこの地にいた姫の名前ではないか。写真を並べておきます。下は江戸百景

陸奥の国一の宮の訪問記

陸奥の国というのは大和の国からみたらはるかかなた。そんなところに人がいるはずはない!と中央政府は考えていたようだが、アイヌなど民族は沢山いた。彼らを蝦夷と呼んで戦いが繰り返されたが、相手はなかなか強く、支配権は長く及ばなかった。

大和民族は白河の関から先は陸の奥、すなわち陸奥国とした。大和政権が作られた時代、政権に組み込まれた神社は陸奥にはほとんどなかった。延喜式という書の「神明帳」に書かれた神社が公式の神社だ。陸奥の国、といっても白河の関の近くに延喜式内社があった。都都古和気神社が一宮と言われていたが、それがどこにあるかわからない。現在都都古和気神社と名乗っている神社が3社あるが、自己申告制ですべてが陸奥一之宮ということになっている。

現在の青森、秋田、山形、岩手、宮城、福島県には一宮は都都古和気神社しかなかった。現在新一宮とされているところもあるが、それは明治以降に作られたものだ。しかし現在でも秋田県には一宮はない。
福島県の都都古和気神社が一宮を名のるので、福島県には現在3つの一宮があることになる。

一宮訪問記を作成したのでご覧ください。

福島県棚倉町:都都古和気神社の狛犬 

朝6時半に我が家を出て、青春18切符で水戸経由、水郡線の磐城石川へ行ってきました。鈍行乗り継ぎなので石川に着いたのは11時40分。5時間以上の旅でした。石川には石都都古和気神社というのがあります。ここは陸奥の国の一之宮。小林和平という石工が作ったすばらしい狛犬がいます。子獅子が3匹。彼にも3人子がいたそうです。  この狛犬に迎えられて、高い石段を登るとその上に社殿拝殿があります。ここには石川城という城があったようです。奥州安倍一族と戦った(前九年の役)源のなんとかという人が代官となってここに住み着き、石川なにがしかと名乗ったそうだ。その石川が地名になっという。  もちろん石川城よりも前から神社はあった。といってもたぶん磐座だったろうが、そのうち特定の神さまを祀るようになった。味耜高彦根(あじすきたかひこね)神という名前だが、たぶん誰も知らない。そこに誉田神(八幡神)を石清水八幡宮から勧請したのでこの地は八幡山になった。昔は神さまをどんどん追加することができたのだ。
石段の途中に「磐座」がいくつもある。古代の原始的なお祀りの方が私は好みだ。たぶん一般の人も、磐や樹木に神さまが宿っている(なんらかのパワー)と考えているのではなかろうか。アジスキタカヒコネ神と言っても知る人はいないだろう。 12時半に石川駅に戻ってきたが、次の一之宮がある棚倉駅に向かう列車は2時40分までない。2駅なので歩いて行こうと思ったが、20キロ先というので諦め。コンビニで親を買って涼み、待合室で高校生と1時間も待った。
2時40分に乗って棚倉でおりて、もう一つの都都古和気神社に行く。さらにそこから4キロ先のさらにもう一つの都都古別神社に行く。暑い中4キロは歩くつもりだったら、千葉の神社巡りの方が、私も行くのでどうぞ!と言って載せてくれた。
陰で3つの都都古和気神社を一日で回ることができた。  近津駅に来たら5時3分まで列車はない。待合室もない。帰りも鈍行。水戸に7時15分。日暮里に着いたのは9時30分。家には10時ちょっと前。朝から15時間半の行動だった。歩数は2万歩。疲れた!年寄には青春切符はつらい!

佐渡の神社巡り:狛犬三昧

真野湾を目指していると気比神社があった。気比神宮は越前一宮が一番有名だ。日本海側にはいくつかの気比神社があるが、ここ佐渡にもいくつかある。車で通り過ぎようと思ったら、気になる狛犬が見えたので引き返した。越前一宮に居るのと同じ狛犬がいた。ダースベーダー狛犬だな。

ダースベーダーってスターウォーズに出てくる悪役。狛犬分類には越前禿型などと書いていあるが、ダースベーダー型の方が現代的だなぁ。
佐渡村社気比神社佐渡:白山神社
名前を確認するのを忘れた

佐渡:蓮華峰寺・小比叡神社

佐渡へは直江津からフェリーで小木港に来た。メーンルートは新潟から両津港に来る方法だが、今回は佐渡一宮:度津神社に行くことが目的だったので、たらい船の港にやってきた。

港でレンタカーを借りた。路線バスもないのでしかたがない。久々の運転で緊張したが交通はほとんどないので、すぐに昔の感覚を取り戻した。しかし街中ではより緊張するだろう。これからは田舎道だけレンタカーを借りよう。ところでこの車のナビの使い方がちっともわからない。途中ガソリンスタンで聞いたが、わからない。おかげで道をぐるぐる回ることができたので結果はオーライ。

蓮華峰寺と小比叡(こびえ)神社。

目的地に向かう前になかなかいい寺、神社を巡ることができた。その一番がこの二つ、というより一つの敷地内にある神仏混交の寺社だ。江戸時代には佐渡の寺を束ねるほどの力を持っていたようだ。
真言宗智山派の寺院。大同元年(806年)、真言宗の開祖、空海の開山という伝承をもつ。山号は小比叡山(こびえさん)。
金剛寺、室生寺とともに真言の三大聖地の一つとされる。佐渡四国八十八札所の第六番札所。

小比叡神社は元は蓮華峰寺の鎮守で、山王大権現と称されていた。明治の神仏分離により小比叡神社と改められた。
祭祀は大己貴命(おおなむちのみこと)で白山姫命、菅原道真を合祀しています。
大己貴命は日吉大社西本宮(大比叡)の祭祀で、また小比叡神社の紋所は二葉葵。これは日吉大社東本宮(小比叡)の紋所と同一であるので比叡山の山王権現を勧請したものと思われます。

本殿は1640年の建立で、拝殿後方の覆屋内に置かれています境内入口の鳥居は石造明神鳥居で、鳥居をくぐった先に茅葺の拝殿があります。

武蔵国一宮は小野神社!

武蔵国一宮は小野神社!

と書くと、「違うよ、大宮の氷川神社だよ!」と言われそうだ。
一宮は、何か権威をもった役所が決めたものではない。昔からそのように言われてきたが、ときどきで変化もしている。一国に複数の一宮があることは多い。
武蔵国の一宮は氷川神社以外に多摩市の小野神社もそうだ。多摩市は昔国府があった府中から見たら多摩川の対岸にある。聖蹟桜ヶ丘が最も近い駅で、その付近は一宮町という。昔からここが一宮と慕われていたのだろう。府中にある大国魂神社は六所宮と呼ばれる。ここには武蔵の国の有力な神社が支所を置いていた。国司が赴任すると有力な神社にあいさつ回りをしなければならなかった。しかし武蔵国は広いので、とても短期間にはまわれない。そこで有力神社から府中に集まってきたらしい。

六所宮にある神社は一宮から六宮まで順番が付けられているが、一宮は小野神社、三宮が氷川神社となっている。府中から近い順に一宮にしたのかもしれない。
社殿は新しくなっていたが、昔見たことがるような気がした。昔の写真を探してみたら2009年のお正月、大國魂神社と小野神社に初詣できていた。写真を並べておこう

波除(なみよけ)神社は健在!

築地の水神社が移転すると書いた、「エエーッあの神社が?」との電話があった。もう一つの神社と間違えていたようだ。築地にはむかしから波除(なみよけ)神社がある。勝鬨橋を望む場所にだった。この神社は築地市場の豊洲移転に際しても変更はない。本日(5日)大雨にも負けず、多くの参拝者が訪れていた。
  この神社は築地市場の入り口、すなわち場外にある。観光客で賑わっているのは場外市場。場外は豊洲には移転しないようだ。ほとんどがバラックだが、すでに立派なビルも完成しており移転の必要はない。豊洲に場外市場が移らなければ築地のように賑わうのはムリだろう。

波除神社は「獅子祭り」が有名で、今年は6月に100年ぶりの船渡御が行われた。この神社には狛犬はないが、立派な獅子像が左右にある。阿吽ではないがなかなかいいので、乗せておきます。

熊野大社のページ・サッカー

  毎夜テレビでワールドカップを見ている。先日のスペイン、ポルトガル戦はすごかった。さすがワールドカップ。しかしそれ以降アルゼンチン、ブラジル、ドイツなど優勝候補のだらしない戦い! 何やってるんだ!

日本は85分間一人少ない相手に手こずった。世界最強の一角だったが、ハンドの反則で一人退場。もちろんそれは仕方がない。しかしサッカーは11対11でやるもの! テレビでは勝った勝ったと大騒ぎだが、あまり気持ちのいい勝ち方ではなかった、と私は思う。

物事を素直に喜べないのは、まだまだJUNKOさんのことを無念に思う気持ちがあるからかもしれない。「サッカーと結びつけないでよ!」と怒られそうだが、沈んだ気持ちはなかなか晴れない。

昼間はパソコンに向かって全国一宮巡り、の報告書を作成中。これがけっこう手間がかかって、時間を忘れる作業です。このブログの固定ページから見れるようになっています。写真は熊野大社(島根)なかなかいいでしょう。

隠岐島 焼火山

峠楽会の仲間であるHARAさんが、「おみやげ」といって写真の粟おこしをくれた。この文字は、私が一押しした隠岐の島の「焼火山」の山頂の神社にあったものだ。「あそこまで行ったの?」「行きましたよ!」と誇らしげに答えてくれた。私はあそこまではたぶん行けないだろうと思っていたのだが・・・この山は隠岐の島の島前にある古い火山の中央火口丘である。地図で見ると丸い島の中央部が一時期陥没してカルデラができ、その中央部に火山が噴出し火口丘を作ったことが見てとれる。

その山頂に神社がある。半分岩の中にめり込んだような形だが、これは火山活動がおわってからはるかに時間がたってから作られたものだから、押しつぶされる心配はない。しかし焼火と書くと、さも火山活動の火があるように見えるが、実はこれは「のろし台」の火だったのではないかと推察される。

まあともかく私が面白がったところに行って同じように面白がってくれたことは、私としては大変うれしい。これからもおもしろそうなところを紹介しますから、遊び歩いてください。以下は焼火神社の社殿、入り口の狛犬。

若狭の一宮、若狭比米神社

若狭に来ています。敦賀で新しくなった気比神宮の大鳥居を見て、小浜線で東小浜まできて、そこから貸自転車で若狭神社をまわってきました。若狭神社は上社が若狭彦神社、下社が若狭姫神社になっています。長いこと神仏混淆であったので若狭神宮寺もひとまとめだったようです。  若狭神社は、東大寺二月堂にお水を送る「水送り」行事が行われることで有名です。毎年3月2日に鵜の瀬という川の淵で、奈良東大寺にお水が送られます。100㎞以上もある奈良まで地下水が流れていくとは考えられないのですが、行事として長い年月続けられています。3月12日には二月堂の「若狭井」でその水が汲みあげられます。  東大寺で修二会という行事がはじめられたときに、全国の神さまが集まめられました。その時に若狭の神さまだけが遅刻したのです。ちょうど魚釣りが忙しくて!10日間遅れた神さまはお詫びの印に毎年若狭から閼伽の水を送ることを約束したことで、お水送りが行われています。