平将門の鎧神社の狛犬

  新宿柏木に鎧神社がある。ヤマトタケルの東征の際に武具を保管した場所と言われると書いてあったが、地元の人は平将門の鎧を埋めた場所として信仰が厚い。平将門は関東では人気のヒーローだ。平安時代関東の国々を征服して「新皇」と宣言したが、わずか2か月ほどで朝廷軍に討たれなくなった。 その首は京都でさらし首になったが、怨霊が強く、大手町の将門塚の場所に飛んできた。それが今も残る首塚だ。何度も移転しようとしたがその都度作業員や責任者が亡くなったために、進駐軍でさえも怨霊を信じざるえなかった。今でもどんな大企業も手を付けない超パワースポットになっている。

鎧神社は将門の鎧が埋められたというのだから、パワーは感じられるようで、多くの人が訪れる。実はこの神社の神さまはヤマトタケルと大己貴命である。平将門は明治初期、天皇に反旗を翻した逆賊として祭神から外された。千年以上も前のことでも明治天皇は許さなかったのだ。しかし戦後天皇様の権威が薄れると再び祭神として祀られるようになったとさ! 境内は特徴的だ。拝殿前のものは巨大な花崗岩つくりで立派、昭和11年作。裏門の天保年間の狛犬はツギハギでかなり痛めつけられている。ここは明治の廃仏毀釈で大いに痛めつけられた。 鳥居脇の天神社には新宿区の文化財である庚申塔型狛犬?がある。これは享保年間のものだという。なんか変な狛犬だが、意味があったのだろう。不気味でかわいい。天神社というからやはり怨霊を鎮める神社なのだろう。

亀戸天神の梅・香取神宮狛犬

家から両国までシルバーパスでいきました。江戸東京博物館は水曜日はシルバーディで無料なので入館、じいさんばあさん外国人でした。そこからバスで錦糸町へ。ここもシルバーパス。交通費も入館料もかかりません。そこから歩いて亀戸天神に行き、今満開の梅を見ました。ここはお賽銭だけ。
年寄りをちょっと優遇しすぎだと思いながら、ちゃっかり便乗して梅見、境内は、我らと同じじいさんばあさんだらけ。

春日通りを亀戸方面に行くと黒い鳥居があり、参道が伸びている。ここは香取神社。本家の香取神宮は利根川下流の下総国一宮であり、経津主神が祭神である。この神さまは鹿島の神さまと一緒に出雲の大国主神を降参させて国譲りを成功させたとして建国の神とされているが、古事記には出てこない。しかし建国の神ということから武将の信仰が厚く現在も「神宮」として君臨している。亀戸の香取神社との関係はよくわからない。今はスポーツの神として有名で、拝殿には「池江璃花子選手の回復を願う」という寄せ書きがあった。

 狛犬愛好家としては気になることがあった。鳥居の脇に上のような狛犬が打ち捨てられていた。一対ではなく同じものを前後ろからとったもの。頭の部分が割れているのだ。これは自然に壊れたものか、あるいは人工的に壊されたものか。古い神社に行ってみると結構壊されたらしい狛犬が捨てられているのが見つかる。私は明治の廃仏毀釈の余波ではないかと思っているのだが。割れ口はそんなに古くない。ともかく狛犬を壊す輩がいるのだ。チコちゃんに怒られるぞ!

交通費がかからなかったので、お昼を両国の門前茶屋で豪華に食べた。深川めしと穴子蒸籠だ。深川めしは富岡八幡宮の境内にある「深川宿」が人気だった。富岡八幡宮の不祥事によって参拝客は激減したそうだが、深川宿はどうなったのだろうか。

戸隠神社と高千穂の岩戸神社

岡村さんの植村直己冒険賞の受賞発表をみて、すぐに東京駅から新幹線で長野に、バスに乗って戸隠中社に来ました。そこで狛犬の写真を撮って、雪の中を奥社まで行きました。暗い中、雪道を歩くのは結構大変。やっと戸隠の都立大学山荘につきました。仲間3人はすでについていました。明日からは雪山歩きです。今年は雪は少なく、ブッシュがでています。 近年戸隠神社は強力なパワースポットとして人気があるようで、真冬のこの時期でも奥社まで詣でる人はかなり多い。神社入り口には「隋神門よりも先は冬期閉鎖、雪崩の危険もあり」と書かれている。今日は完全装備の高齢者グループが多かったが、例年運動靴姿の人たちとあう。昨年は「パワーがあるからだ大丈夫!」と言う若者が何人もいた。雪まみれで嬉しそうに帰ってきたのを見ると、本当にパワーがあるのか?と思った。 九州高千穂に天岩戸神社がある。スサノオ神と喧嘩したアマテラス大神は怒って岩戸の中に籠ってしまった。太陽神アマテラスが隠れたので世の中は真っ暗になった。オモイカネ神は一計を案じた。岩戸の前でアメノウズメにセクシーな踊りをさせた。それを見た神々はやんややんやと騒いだ。

  アマテラス大神は「私がいないのに何がうれしいの?」と思い、岩戸を少し開けた。岩戸の前に侍っていた強力のタジカラオ神が扉を大きく開けたらアマテラス大神が現れ、世の中は再び明るくなった。

タジカラオ神は二度と岩戸が閉まらないように、大力で岩戸を放り投げた。その岩戸ははるか信州の山に飛んで行った。その山は戸隠山と言われるようになった。

戸隠中社には企画者のオモイカネ神、奥社には岩戸を放り投げたタジカラオ神、下の火之御子社には踊りを踊ったウズメ神が祀られている。私は火之御子=日の巫女=ヒミコではないかと思っている。それはさておき戸隠神社と高千穂は離れているが深いつながりがあるのだ。

写真は1.戸隠中社の本殿前  2.奥社狛犬 3.奥社参道杉並木 4.随神門 5.火之御子社社殿 6.奥社鳥居と本殿(今年は雪が少ない)7.奥社の鏡池と野仏(姫遍路 )

目黒不動 狛犬見物!

目黒不動には狛犬がたくさんある。狛犬ファンにとっては必須の寺だ。
「あれ!まてよ!寺に狛犬があるの??」
ここは結構有名な神仏混交の寺院で、江戸時代天海僧正によって「山王一実神道」が作られ、山王鳥居もあった。数年前にここの石段上に白い山王鳥居が作られた。今も神仏混交の寺院である。 京急の不動前という駅からは結構遠いので、私は目黒駅から歩いている。行人坂という急坂を下り、目黒川を渡って山手通りを渡る。仁王門は目黒川の低地にあるが鳥居と本堂は石段上の台地上にある。仁王門(神門かな?)には仁王様がいるが、裏側には白い狛犬がいる。


石段の下には優しい感じの狛犬がいる。犬というよりか狐かな?? 前不動の前には、これまたおかしな狛犬がいる。まるで何か悪いことをして反省をしているようだ。さらに滝ノ上の斜面には、かなり傷んだ狛犬が一対いる。詳しく調べた人によると、首から上だけの狛犬があるという。
たくさんの狛犬があったが、何かの拍子に破壊され捨てられたようだ。

石段の登り口の左側に子供をたくさん持った狛犬がいる。ふつうは対称になっているが、右側に狛犬はない。石段ではなく女坂を上ると途中に「役行者」のお堂がある。このお方が神仏混淆の修験道の創始者だが、明治の神仏分離令によって修験道は抹殺された。役行者の名前もほとんど知られていない。


石段を上がったところにあるのが都内で一番古いという狛犬、徳川時代の前期のものだという。後ろ姿がなかなかいい。

 本堂にご挨拶をして左手に進むと、微笑観音様が立っている。その右側にすばらしい狛犬がいる。台座まで彫刻が施された立派なものである。まさに芸術品の趣がある。裏側を見ると天保11年とあるので江戸末期のものだ。しかし左半身が人工的に壊されている。さらに対になっているはずの狛犬が見当たらない。よく探すと左側の狛犬の台座だけがあり、上に小さな新しい狛犬が乗っている。たぶん神仏分離令(廃仏毀釈)の時に、目をつけられ破壊されたらしい。仏像とか仏具など文化財だけが破壊されたのかと思っていたが狛犬までやられたのだ。
行人坂の途中にある大円寺には、目黒不動にあった狛犬の頭が移転されているそうだ。明治政府はいいこともやったが、結構大変な愚策をやった。ちょっと腹を立てながら境内を回ったが、紅梅が今盛り。これを見て気分を直して目黒駅にもどった。

戻る前に駅近くのAmasonの会社入り口にあるアンモナイトを見に行った。写真を撮っていたらガードマンに注意された。会社ではなく入り口なのに撮影禁止とは、気分は悪い。Amazonなんてきらだ!

上野界隈 東照宮・五条稲荷神社

ちょっとエッチな絵じゃない?教育的ではないな!

友人の書を見るために上野の東京都美術館に行った。月曜日はお休み。代わりに見に行こうとした上野の森美術館はフェルメール展で長蛇の列。しかたなく隣の芸術院会館?の美術館(無料)に入ったが、ナニコレ!という感じ。トイレを借りて出てきた。  東照宮で寒ボタンを見に行くことに。上野は隅々まで見ているはずだったが東照宮の立派な狛犬は見落としていた。いいカメラをもっていかなかったので逆光でとれなかった。時間を考えて行こう。狛犬とクロガネモチの赤い実に気をとられていたのでボタンを見ずに出てきた。

もう一つ五条稲荷神社がある。ここの狛犬もよかった。稲荷なので狐はあるが、それほど面白くない。おもしろいのは崖面にある穴、お穴が神社になっている。伝通院の近くにもお穴神社があったが、ここは中は見えなかった。   この神社の赤い鳥居はインスタ映えするのか、着物を着たお嬢さんたちが写真を撮っている。話をしたら台湾からの女性だった。他にもたくさんいたが皆外国人。今時着物を見るのは外国人だけなのか。

谷保天満宮で狛犬探し!

国立で「シルクロードの子どもたち」という写真展をみたあとに国立の大通りを通って谷保天満宮に行った。昔「国立」の一橋大学があるので「国立」というのかと思っていた。しかし読み方は「こくりつ」ではなく「くにたち」だ。国分寺と立川の間にできた駅だから国立なのだそうだ。今は都内で最高級の住宅地。立派な家が碁盤の目のように並んでいる。

谷保天満宮は甲州街道に面して鳥居が立っている。鳥居の先は石段だが、急な下り階段。ちょうどここに府中崖線が通っているので、8mほどの段差になっている。私が思うに、昔は石段を上って本殿に行ったのではないかと思う。甲州街道が拡張されて敷地が狭まったので、本殿は崖下の広い場所に移ったのではないか。  鳥居の脇に2対の狛犬あり。まあ昭和のものだからそれほど面白くもない。拝殿前には天神様だから牛がいる。その奥にいる狛犬がなかなかいい。両方とも子犬をあやしている。口の形も阿吽ではなさそう。雌雄がないのか、あるいはご夫婦で子育てをするというのかよくわからないが、なかなかいい。   牛は、なでなでするとご利益がある。ということでピカピカだが、もう一体石作りの牛(よくわからないがたぶん牛)はまだ新しいらしく、なでる人も少ない。あと数十年すればなでなでしてピカピカになるかも。  さらにここには神のお使いの立派なニワトリが境内を飛び跳ねている。これもいいね。でもきっと最初は近所のニワトリが逃げてきたんじゃないかな??

 

 

 

竹寺から子の権現、浅見茶屋へ

今年になって西武線二回目。本日は池袋8時半の特急で飯能まで行き、9時35分発の名郷行きのバスで小殿まで行った。日経新聞やテレビで有名になった浅見茶屋で新名物のうどんを食べようと思ったからだ。吾野駅から5キロほどあるが舗装路があるので車でも入れる。しかし私はなるべく苦労をした方が感激も深いし、おいしいだろうと考えているので、7キロほど山を越え行くことにした。 飯能では若者で満席だったが、飯能第二小学校のバス停でほぼ全員が下りた。何かの施設があるようだ。(帰ってから地図を見ると自由の森学園があった)小殿バス停で降りたのは私一人。竹寺と子の権現へ初詣する人がいるだろうと思ったが、一人もいないなんてちょっと驚いた。小殿バス停からすぐに急登になる。風が強いので杉の木がこすれあって不気味な音がする。誰もいないので気持ちが悪い。

昨日の鎌倉天園コースとは大違い。でもコースタイムと同じ1時間で竹寺に。神仏混交の寺で、なかなかいい狛犬がいる。牛頭天皇を祀る社もある。藁ぶきのなかなかいい寺だが、誰もいない。子の権現への道で人がいない原因が分かった。山道が崩れて通行止めになっているのだ。早く言ってくれよ! でも私のこれまでの経験では、責任回避のために立札を立てているだけで、ちょっと迂回すれば歩けるはずだと、突き進んだ。予想通りで大した崩れではない。人が通った跡もあった。

豆口峠には二重の通行止めの標識があった。もう通ってきた後だ。しばらくすると何かわけのわからない白いおおきな掌がおいてある。気持ち悪い。子の権現は金の大草鞋のある寺だ。足腰の守護をしてくれるありがたい天台宗のお寺だ。私もこれまでに何回もお参りをしてきた。今はトレイルランのコースになっており、大勢のランナーが通り抜けていく。

子の権現から浅見茶屋まで25分と書いてあったが、下り得意の私は20分で到着。昔と同じ外観だが何やら活気がありそうな感じ。中に入ると平日というのに大勢のお客がいる。私も皆さんと同じ肉汁釜揚げうどんを注文する850円と高くはない。となりに座ったおじさんは正月5日に来たが満員で3時間待ちだったので出直ししてきたとのこと。今日は待ち時間なしでよかったとのこと。

満足して吾野駅まで下った。5キロの距離だったが満腹の身では結構長かった。帰りは特別快速で4時には家に着いた。5時半に孫のお迎えに行くように言われて、休む間もなく学童クラブへ。本日の歩いた歩数は3万歩をだいぶ超えた。

高麗の聖天様

西武線高麗駅から高麗神社に詣でたが、神社に行く前に聖天様にもお参りした。2000年に落慶法要がおこなわれた真新しい真言宗智山派の寺は遠くからでもよくわかる。もともとは高句麗から来た若光(じゃっこう)王の墓だったようだ。若光は大和政権から武蔵の高麗郡の王として厚遇されたという。現在もその廟があり、前を二頭の羊が守っている。高句麗の祖先は騎馬民族。彼らは羊とともに生活していた。その名残だろう。

真言宗の寺だがもとは朝鮮の方たちの墓地でもあった。現在は日本各地で無縁仏とされてきた方々の慰霊をする廟が作られている。広島の平和公園の原爆慰霊碑には日本人は祀られているが、朝鮮の人々は公園の外に祀られているそうだ。この住職さんや篤志家の方がそうした方々の慰霊をするために、この寺の一角に慰霊塔を作ったのだそうだ。

初詣をしている人たちはきっと韓国の方たちだろうと思っていた。初詣で賑わうほかの寺社に比べれば韓国人は多いのだろうが、私があったのは地元、近在の方々がほとんどであった。日韓関係の危うい時代だが、一般庶民はとりたてて問題にはせず共存している。私はちょっと安心した。 それよりも私が気になったのは聖天さまというのに、どこにも聖天さまがいないこと。お寺のご本尊は不動明王だった。

 聖天というのは歓喜天ともいわれ、浅草の待乳山聖天、生駒の聖天などが有名で、ちょっと怪しい感じのする秘仏だ。聖天さまがいないのに聖天とはこれ如何に?

左の写真は、この寺とは関係ない。歓喜仏というのはこういう仏さまだが、通常は秘されている。チベットでは皆さんがまじめに拝んでいる。

狛犬:高麗神社

西武線の飯能から2つ目の駅が高麗だ。巾着田があるので多くの観光客が集まるが、今の時期は高麗神社へのお参りの人でにぎわう。もっとも高麗駅から2.5キロあるので、ほとんどの人は車で行くようだ。

狛犬愛好家の私はここ数年は狛犬(高麗犬)のふるさとである各地の高麗神社にお参りしている。昨年は東海道の大磯にある高麗山のふもとの高来神社にいった。高来はこうらい神社らしいが、元は高麗だったのだろう。狛犬は高麗から来たというのは1つの言い伝えで本当かどうかはわからないが深くは詮索せずお参りをしている。

高麗の高麗神社には十数年前に来たことはあるが、その時には狛犬愛好家ではなかったのでどんなものがあるか確認をしていなかった。今回それを確認したくて埼玉県の高麗神社に行ってきた。さぞかし立派かと思ったが、昭和期に作られたもので、珍しい狛犬ではなかった。かなり残念。

しかしこの高麗神社、平成29年9月20日に天皇皇后両陛下がお参りになっていることを知った。
神社の案内にはご祭神は高句麗からの渡来人であると書かれている。
霊亀2年(716年)武蔵の国に東国7国より高句麗からの渡来人1799名を集めて高麗郡が置かれました。若光(じゃっこう)は高麗人の高い技術をつかってこの地を開拓しました。その遺徳を偲び作られた霊廟が高麗神社の始まりで、代々若光の子孫が宮司を務め、現在で60代目になります。

日韓関係がややこしいことになっている今、なぜ天皇皇后が高句麗の神社に行かれたのだろうか?産経新聞などは巾着田に行かれたことは報じたが、高来神社に行かれたことは一行も書かなかった。天皇皇后両陛下が慰霊の旅として最後まで心残りだったのが韓国だったという。退位前にせめて朝鮮の神社に参っておこうと考えられたのかもしれない。本当のところはわからないが、大変な反対があることを承知で決意されたことの意味を考えてみなければいけないだろう

志摩 大王崎から富士山が見えた!

本日は伊良湖岬から船に乗って鳥羽にきて、レンタカーを借りて志摩をまわってきました。大王崎には何回も来ているのですが、今日は快晴で渥美半島の伊良湖岬、神島がはっきり見えます。神島は三島由紀夫の「潮騒」で有名になった島。50年ぐらい前に行ったことがあります。

Casioのデジカメで写真を撮っていると、灯台の上で富士山が見えると言っていました。私は目を凝らしてみましたが、よくわかりません。田代先生のお話だと和歌山県の那智の滝の近くの山の上から見えるのが最遠とのこと。ならばここから(直線で200㎞)てもいいはず。帰ってからでデジカメの映像を加工していたら、なんと富士山が映っているではないか。こんなカメラでも肉眼よりも目がいいんだ!
そういえばなんとなく斜面が見えていたような・・・・とりあえずその写真を入れておきます。

忘れていた、大王崎に行ったのは山の上にある波切神社の狛犬を見に行くのが目的だったのだ。小さな狛犬は団体です。海風にさらされているので風化著しい。もう一対は最近作られたものでそれほど風化はしていない。

秩父夜祭:知々夫神社

秩父神社に行ってきました。この神社は知々夫の国(律令制の前武蔵の国と並んでいた)の一宮だったという。2006年になって全国一宮会ではこの神社を新一宮とした。「新」というが、そここの一宮よりも歴史は古い。本殿の彫刻は日光東照宮を思わせる。それは江戸に近いために徳川幕府から様々な援助を受けたことによる。西国33か所、坂東33か所と合わせて100観音霊場になるように秩父34か所が置かれたのも、江戸に近いという地の利だった。今は一山超えなければ行くことができない盆地だが、徒歩の時代の人にとっては日光も箱根も秩父もそんなに変わりはなかったのではないだろうか。

12月3日は秩父神社の夜祭。日本の三大夜祭りだ。他は岐阜の高山祭、京都祇園祭だそうだ。300年の伝統を誇る豪壮なもので笠鉾、屋台は素晴らしい。屋台4基、笠鉾2基が御旅所にのぼる坂を引き上げる時がクライマックス。秩父鉄道の線路を渡るのだがこの日は、電車は欠航になり架線が外される。お祭りの方が先にあったのだから、電車が遠慮するのは当然。これはいいね。都内でもやってみたら。屋台と笠鉾、一部ですが写真に写しました。御旅所を上がる時間までいることができなかったので花火を少し見て戻りました。

忘れていた。狛犬、鳥居の下に一対あっただけ。ちょっと寂しい。狛犬を見るのだったが秩父の奥にある三峰神社に行かなければならない。近々行ってみよう。お祭りのお店は秩父ならではのこんな地味なもの。食べ物は中近東風が多かった。

岩代國一宮 伊佐須美神社

会津美里町に岩代国一宮の伊佐須美神社がある。古事記によれば、四道将軍として北陸道に派遣された建奴奈河別命と東海道を北上して来息子の大毘古命が合流した場所、すなわち相津( あいず)に作られた神社だそうだ。

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この神社は岩代國一宮と称せられている。しかし岩代國というのは明治時代にほんの一瞬存在しただけの国名なので、昔からの一宮ではない。全国一宮会では、新一宮として伊佐須美神社を認定している。しかし新一宮と言われると新しく作ったように聞こえる。実際には延喜式の(925年)の式内社なので古くから存在しており、奥州二宮として知られていた。

 一緒に行ったYOさんの解説では、本社のナンバー2だった副社長が新しい支店の社長になったようなものだ、と言う。なるほどよくわかる。律令時代、白河以北は大和政権の力は及んでおらず、東北地方はまとめてぜんぶを陸奥(奥州)とよんでいた。陸奥(奥州)の一宮は白河の関の近くの棚倉に置かれていた。立派な鳥居、隋神門(門の中にこの立派な木造狛犬がいる)、をくぐって境内に入るとアレレ、ちっちゃな拝殿があるだけ。後ろには土台の石はあるが建物はない。宮司さんに聞いたら、2008年に不審火で焼失したという。今は皆さんで元のように復活させると頑張っておられる。いつもよりちょっとだけ多くお賽銭を入れた。

本殿がないので、仲間のKOBAさんはご神木の前でご縁をお願いした。仮本殿前に戻ったところで、突然KOさんが驚いた顔を見せた。私とYOSHIさんは何事が起こったかと心配した。なんと息子さん一家とぱったり出会ったのだ。お孫さんは「なんでジイちゃんがここにいるの」と状況を理解できないふうだった。高崎在住のKOBAさんと埼玉在住の息子さん一家、なんの連絡もなかったのに会津の伊佐須美神社で出会うのは奇跡としか言いようがない。

大毘古命と建奴奈河別命の親子が会津で出会った、まさに同じことが、古事記以来1300年のちに起こったのだ!すばらしい「会津」に出会って感激した。

大人気喜多方ラーメン:2時間ぐらい待たなければムリ!

その感激さめやらぬまま喜多方にいきラーメンを食べた。喜多方ラーメンの味は伊佐須美神社の感動に比べれば、それほどものではなかった。感動はそうめったやたらにあるものではないのでまあいいか。

亀岡八幡宮:市ヶ谷八幡町

先日鎌倉の鶴ケ岡八幡に行ってきた。鶴といえば亀、どうしても亀岡八幡宮に行かなければならない。市ヶ谷のJR駅からは一旦下ってお堀をわたって、再び急な石段を上る。もともとは鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から神様を勧請したものだ。楽しい狛犬!

鎌倉の八幡宮の神さま
1.応神天皇 (おうじんてんのう) 第15代天皇
2.比売神 (ひめがみ)
3.神功皇后 (じんぐうこうごう) 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母
市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮急な石段

市ヶ谷 神が岡八幡宮
1.誉田別命【ほんだわけのみこと】(第十五代應神天皇)
2.気長足姫尊【おきながのたらしひめのみこと】(神功皇后・應神天皇の母君)
3.與登比売神【よとひめのかみ】(應神天皇の姫神)
下は狛犬。こちらはふつうの狛犬。

天皇皇后の呼び方は、7世紀第38代天智天皇のころからで、応神天皇の頃はまだ大王だった。「誉田別命」が後に名付けられた応神天皇の本名である。天皇の母の神功皇后も気長足姫尊(おきながたらしひめ)が本名。比売(ひめ)神はもともとこの地にいた姫の名前ではないか。写真を並べておきます。下は江戸百景

陸奥の国一の宮の訪問記

陸奥の国というのは大和の国からみたらはるかかなた。そんなところに人がいるはずはない!と中央政府は考えていたようだが、アイヌなど民族は沢山いた。彼らを蝦夷と呼んで戦いが繰り返されたが、相手はなかなか強く、支配権は長く及ばなかった。

大和民族は白河の関から先は陸の奥、すなわち陸奥国とした。大和政権が作られた時代、政権に組み込まれた神社は陸奥にはほとんどなかった。延喜式という書の「神明帳」に書かれた神社が公式の神社だ。陸奥の国、といっても白河の関の近くに延喜式内社があった。都都古和気神社が一宮と言われていたが、それがどこにあるかわからない。現在都都古和気神社と名乗っている神社が3社あるが、自己申告制ですべてが陸奥一之宮ということになっている。

現在の青森、秋田、山形、岩手、宮城、福島県には一宮は都都古和気神社しかなかった。現在新一宮とされているところもあるが、それは明治以降に作られたものだ。しかし現在でも秋田県には一宮はない。
福島県の都都古和気神社が一宮を名のるので、福島県には現在3つの一宮があることになる。

一宮訪問記を作成したのでご覧ください。

福島県棚倉町:都都古和気神社の狛犬 

朝6時半に我が家を出て、青春18切符で水戸経由、水郡線の磐城石川へ行ってきました。鈍行乗り継ぎなので石川に着いたのは11時40分。5時間以上の旅でした。石川には石都都古和気神社というのがあります。ここは陸奥の国の一之宮。小林和平という石工が作ったすばらしい狛犬がいます。子獅子が3匹。彼にも3人子がいたそうです。  この狛犬に迎えられて、高い石段を登るとその上に社殿拝殿があります。ここには石川城という城があったようです。奥州安倍一族と戦った(前九年の役)源のなんとかという人が代官となってここに住み着き、石川なにがしかと名乗ったそうだ。その石川が地名になっという。  もちろん石川城よりも前から神社はあった。といってもたぶん磐座だったろうが、そのうち特定の神さまを祀るようになった。味耜高彦根(あじすきたかひこね)神という名前だが、たぶん誰も知らない。そこに誉田神(八幡神)を石清水八幡宮から勧請したのでこの地は八幡山になった。昔は神さまをどんどん追加することができたのだ。
石段の途中に「磐座」がいくつもある。古代の原始的なお祀りの方が私は好みだ。たぶん一般の人も、磐や樹木に神さまが宿っている(なんらかのパワー)と考えているのではなかろうか。アジスキタカヒコネ神と言っても知る人はいないだろう。 12時半に石川駅に戻ってきたが、次の一之宮がある棚倉駅に向かう列車は2時40分までない。2駅なので歩いて行こうと思ったが、20キロ先というので諦め。コンビニで親を買って涼み、待合室で高校生と1時間も待った。
2時40分に乗って棚倉でおりて、もう一つの都都古和気神社に行く。さらにそこから4キロ先のさらにもう一つの都都古別神社に行く。暑い中4キロは歩くつもりだったら、千葉の神社巡りの方が、私も行くのでどうぞ!と言って載せてくれた。
陰で3つの都都古和気神社を一日で回ることができた。  近津駅に来たら5時3分まで列車はない。待合室もない。帰りも鈍行。水戸に7時15分。日暮里に着いたのは9時30分。家には10時ちょっと前。朝から15時間半の行動だった。歩数は2万歩。疲れた!年寄には青春切符はつらい!