三輪山に登ってきた!

我が家の守り神である三輪明神にいってきた。ご神体山なので写真は禁止、もちろん飲食も。神社は大神神社と書いて「おおみわ」神社と読む。近くに大和神社があるがこちらも「おおやまと」神社である。すなわち「神」は「みわ」、「和」は「やまと」である。大神神社の神さまは背後にある三輪山の磐座(いわくら)に降臨されるという。三輪山の神さまは大物主命ということになっている。 さて、お能の「三輪」(世阿弥作)の中で「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更何と磐座や」と謡われる。伊勢と三輪の神はもとは同じ神だが分身している。そんなこと誰でも知っている。今さら何を言ってるの? という意味である。伊勢の神は誰でも知っている天照大神(日の巫女)である。大物主命は大国主神と同じで出雲を代表する神である。なんでその神が同じ神なのだろう? 天照大神は大国主命の豊葦原瑞穂の国を強奪した(国譲り神話)敵対関係である。なのになんで同じ神と世阿弥は言ったのだろうか。後の時代に書かれた「倭姫命世記」によれば天照大神は倭姫を御杖代(みつえしろ)として大神神社から26の神社を巡行して伊勢神宮に落ち着いた。と書かれている。‥・読んでいないのだが。
 私の解釈は、三輪山には天照大神と大物主神が一緒に祀られていた。しかし二神は仲が悪く、しばしば世間に災いを起こした。そのために三輪山の麓で磯城瑞籬宮を営んでいた崇神天皇(初代神武天皇と同一)が二神を分けた。天照大神は新しい地を求めて倭姫にひかれて伊勢に落ち着いた。倭姫はその後斎王として斉宮の地から天照大神をお守りしたそうだ。 大物主神はまだ三輪山の上におられるという。私は何回も三輪山の磐座に詣でていたが、ここ数年体調がすぐれず登れなかったが、今回ぎっくり腰をものともせず登ってみた。奥さんは途中の滝まで。捨て置いて頂上まで行き磐座を確かめた後引き返した。すぐ下にお宮がある。小さく書かれた名前を見て驚いた。「日の巫女」社とある。なんとここに日の巫女である天照大神がおられたのだ。ここから巡行をされたのだ。 走り下って途中で奥さんを拾って狭井神社に下り、二の鳥居前の「森正」に行って三輪ソーメンを食べる。我が家の奥さんが仕舞のお友達の家で、三輪山に来る時には寄っている。再び鳥居前に来て何か忘れた気がした。そうだ狛犬! 大神神社本体にはどこにもいなかった。しかし若宮とちょっと離れた恵比須神社にはいた。載せておきます。本日狛犬はおまけ。

金鑽神社、十月桜

  朝起きたらマイナス4℃、車はすっかり霜に覆われていました。今回は寒さ対策は十分にしてきたので大丈夫。昨日は大阪から来てくれた「清水武志トリオ」のジャズを子どもたちと一緒に楽しんだ。子どもたちをググっと引き込む語り、子どもたちに合わせた優しいジャズ、さすがプロはすごい。

そのあとせせらぎ荘でおいしい料理、温泉を堪能して、途中スカイブリッジ、金鑽神社とご神体山登山、十月桜を堪能して戻りました。誘っていただいたOTANIさん、NOJIさん、ありがとうございました。

1.金鑽神社の御嶽山の上から見た赤城、榛名、遠く谷川の峰々。
2.金鑽神社(かなさな神社・二宮)の紅葉と黄葉 3.スカイブリッジ、 4.霜柱 5.十月桜、鬼石(おにし)6. 鏡岩、断層で磨かれた結晶片岩

7.メタセコイヤ紅葉

王子神社 新たな狛犬

先日「狛犬楽会」の月例会で王子神社周辺に行った。その時に「王子神社にはあまりおもしろい狛犬はないので王子稲荷神社に行きましょう!」と言って、王子神社には寄らないで済ましてしまった。しかしかなり気にかかっていたので、本日反省のためにもう一度行ってみた。

王子神社そのものにも立派な昭和の狛犬がいるが、さらにとんでもなく面白い狛犬がいることを発見しました。先日は飛鳥山公園のアスカルゴに乗りましたが、あの乗り場の下の崖面の葉っぱの下に狛犬が何頭もいるのです。あの時には全く気がつきませんでした。本日音無橋の上から2頭だけ見えましたが、遠いのでいい写真はとれなかった。2頭とも同じような形、大谷石で作られた狛犬です。おそらく飛鳥山を取り巻くように作られた石積みの一部だろうと思う。

まさかこんなところに狛犬がいるとは誰も気がつかないでしょう。望遠レンズでアスカルゴの写真を撮ろうとして発見しました。「おもしろくない!」などと先入観をもって言ってしまい、申し訳ありません。下見をしたつもりだったが、見落としてしまい狛犬愛好家としては恥ずかしい限りです。

さらに王子神社の鳥居の先に金輪寺阿弥陀堂があります。その方向から傾いた太陽光線が王子神社の拝殿にあたっており、ライトアップされたような感じでした。なかなかすばらしい。その阿弥陀堂には狛犬ならぬ獅子がいました。文殊菩薩がのっています。となりには象にのった普賢菩薩がありました。仏教ではこのような仏像がありますが、空想の動物、獅子です。これが日本に入ってからは狛犬になったのです。なかなかおもしろい!

そこから石神井川をさかのぼり紅葉橋へ、まだ紅葉には少し早いのですがいくつかの桜の葉が紅葉していました。そのうちまた来てみよう!

清水寺の狛犬は八坂神社から?

ホテルの図書スペースに京都の古い絵葉書があった。八坂神社の写真がいくつかあった。昨日同じ角度から写真を撮ってみた。場所と狛犬は変わらないが、歩いている人はいまは外国人だらけ、というより外国人だけ。

もう一枚境内の狛犬の写真を見た。巨大にそっくり返った狛犬だ。どっかで見たことがあると思ったら、清水寺の仁王門の前の狛犬と同じだ。八坂神社の境内をこの威張り狛犬を探し回ったが、どこにもいない。

そこで考えた! 我が仮説は次の通り。
「古い絵葉書に写った威張り狛犬は、清水寺に移築した」
ネットで検索すると、清水寺の狛犬はもともとはブロンズ製だったが、戦争中(昭和17年)に供出させられ台座だけになっていたそうだ。

清水寺の貫主大西良慶の法話に、次のような言葉があるそうだ。
「前の戦争で、仁王門の前の狛犬も持っていかれた…。金の物みんな持っていかれた。それで、まあ今度、石にしといたらね、なんぼ戦がおこったかて石を持っていくちゅうことがあらへんので、今度は石に建ててもろてね。」

1944年に現在の石の狛犬が寄進されたと台座には書いてある。1944年はまだ戦争の最中、こんな大きな石造をつくることなどできなかったはずだ。ネットで調べても誰が作ったか、どこにも書いていない。

そこでやはり私の仮説。八坂神社の金属製の狛犬も供出させられたが、そこには数多くの石造の狛犬がある。清水寺の信者たちは八坂神社に掛け合って一対の狛犬を譲ってもらったのではないか。それをエイやコラさと産寧坂を引っ張り上げて、仁王門の前に残る台座の上に設置した。 我が仮説に満足して、もう一度詳細に写真を調べてみたら、ちょっと違うかな??? 仁王門の威張り狛犬は結構新しい。八坂神社の清水寺に持ってきてをちょっと手直しをして据え付けた。
なかなかいい仮説だが、ちょっと無理があるかな?

おまけ  仁王門から清水の舞台の下に移動して気がついた。おもしろい石碑を発見。
なんと蝦夷の英雄、阿弖流為の顕彰碑だ。中国人の団体の解説者が教えてくれた。阿弖流為をだまし討ちにしたのは坂上田村麻呂。田村麻呂は本心は蝦夷と和睦をするつもりで都に連れてきたのだが朝廷の裏切りで処刑をすることになった。それをずっと後悔していた。その思いを汲んで、篤志家がここに顕彰碑を立てたそうだ。清水寺は坂上田村麻呂が音羽山に建てた寺院なのだ。

白山神社と根津神社

日時 9月14日(土)1:30
場所 都営三田線 白山駅(春日側改札口)
第五回目の狛犬楽会です。白山神社と根津神社です。
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白山神社は加賀の白山から神さまを勧請してきた神社です。本家の白山(2,702m)は日本三霊山のひとつです。ふもとに白山神社があるのですが、文京区にある白山神社は白山比咩神社(加賀一宮)から菊理媛神(くくりひめ)に来ていただいた神社で、縁結びの神として知られています。CIMG0024.JPG

なんと中国革命の父「孫文」と日本の同志を結び付けた神社でもあります。孫文がどんな人であったかは、座石に詳しく書いてあります。hakusan-koma2.jpg

白山神社が台地のふちにあることは高い石段からもわかります。神社境内には富士塚もあります。ついでですが富士講の創始者である食行身禄行者の墓が根津神社へ行く途中にあることを知っている人は少ないようです。

その前に白山下から上る道の途中には八百屋お七の墓がありました。最近見えないなと思っていたら立派なビルのお寺の前に引っ越していました。それも見学してから行きましょう。CIMG0104.JPG

根津神社は台地の崖を下ったところにあります。白山神社に比べるととても華やかです。徳川綱吉が寄進をした建物がたくさんあります。つつじ祭りでにぎわう寺ですが、建物自体も見ものです。ここの狛犬がいいのです。お犬様の綱吉と何らかの関連があるのか?nedu-koma9.jpg

■ 孫文のこと

明治43年(1910年)孫文は当時、白山神社の近くの宮崎滔天宅にかくまわれていた。2人はこの座石に腰掛け語り合った。その時、夜空にはハレー彗星が夜空いっぱいに輝いていたという。孫文はこの奇跡的天体を見て「革命が成功する兆しだよ」と語ったという。宮崎滔天の次男龍介は、「花子とアン」にでてきた柳原白蓮(本名・宮崎燁子)と駆け落ちした革命家の帝大生だそうだ。

孫文は祖国の革命を心に誓い、翌年の明治44年(1911年)10月10日清朝を倒した辛亥革命の最高指導者となり、中国国民党の創設者になった。孫文は東京で26歳年下で英文秘書をだった宋慶齢と結婚した。国民党は清朝を倒したが中国国内は混迷を極めた。1925年孫文は「革命いまだならず」の言葉を残し没した。南京市の「中山陵」がお墓。

後継者蒋介石(妻は宋美齡〔慶齢の姉〕は中国国土を制圧するも毛沢東の共産党に敗れ、1949年に台湾に逃れた。宋慶齢は姉とたもとを分かち中国大陸に残った。中華人民共和国成立後は中央人民政府副主席を務めた。1981年没。中華人民共和国名誉主席の称号あたえられた。

孫文の革命は妻の宋慶齢を通して中華人民共和国として成し遂げられたというののだろうか??中国の歴史というのは三国志の時代からなかなか理解しがたい。
おまけの情報。孫文はロンドンに亡命中に大英博物館にいた南方熊楠と友人になっている。日本亡命中にはわざわざ和歌山に熊楠に会うためだけに訪れている。お互いに尊敬する間柄だった。

大阪に行ってきました。

九月になりました。ここのところおばあさんの介護にかまけて、パソコンの前に座る気分にならず、ブログの更新もままなりませんでした。おばあさんは我が家から5分の特別養護老人ホーム(特養)に入ることができました。

7月の入院時に比べると格段に回復し、自分で箸をもって食事ができるようになりました。これは奇跡的ことです。しかし認知の方がかなり高まりました。もう100歳ですから、年相応かもしれません。ということで私は週に2,3回見舞いに行けばいいだけになりました。しかしまあ特養というのは大変なところです。我が家ではとてもこんな面倒は見ることができません。介護の方々には感謝の念しかありません。ありがたいことで頭が下がります。

ところで8月の終わり、大阪に行く用事があり、街をぶらぶらしてみました。私は大阪になじみがないので、どこがどこかわかりません。今回は午前中ちょっとひまがあったので、今宮という駅から通天閣、なんば、道頓堀など繁華街を歩いてみました。まだ朝早かったので、お客は外国人だけで、賑わいはありませんでしたが、その位置関係は少しわかりました。絵日記にしておきます。

ここから今宮戎神社。1月の10日は十日戎として100万人も訪れるという人気神社だ。しかし本日暑くて人はいない。


ここから木津市場、ここは築地市場みたいなところか? 場外市場はもう賑わっていた。

広大な「なんば」の駅をみて道頓堀へ。もう賑わっていたな。ツルハドラッグは我が家のそばにもあるが、こちらは中国人で大行列。

このあとは黒門市場。

さらに生國魂神社へ行った。この神社は大阪の低地と上町台地の境にある。けっこう大きな段差、坂道だ。

大塚天祖神社の狛犬

大塚駅の前、都電の線路を渡ったところに天祖神社がある。ここにはなかなかいい狛犬がある。昨年YASUDA嬢推薦のカレー屋にいったが、その時は写真が撮れなかった。先週の日曜日には写真撮影のために行ったのだが、日差しが強すぎてうまく撮れなかった。本日も日差しがあったので夕方日が傾いてきたときに行った。やっとうまく撮ることができた。おっぱいを飲んでいる狛犬はあまり見かけない。ここの狛犬は入り口にあるのが江戸流れの型、子育て狛犬だ(1852年嘉永5年)。拝殿正面は招魂社系の威張り狛犬(昭和10年1935年)、右手の榛名神社前のは江戸尾立系年代不明、左手の厳島神社のものは耳が広がっているが入り口の江戸系の狛犬と同じ系統かな? 順番に並べておきます。

芝東照宮の狛犬

東照宮というのは徳川家康を祀るお宮。日光東照宮だけが有名だが、実は各所に東照宮はある。静岡の久能山の東照宮、上野の東照宮と増上寺の東照宮が4大東照宮としても知られていた。しかし明治政府の神仏分離令で増上寺と分離され「郷社」となった。神社には大社中社などの社格があったが郷社はかなり下の位である。さらに太平洋戦争のときの空襲によって完全に破壊された。復旧は遅れ、今も増上寺の片隅に小さくたたずんでいる。

ここにもなかなかいい感じの狛犬がいる。東京タワーを背景にして写真をとるとなかなか様になる。この狛犬、1788年制作とある。

峠楽会の高輪散歩 子育て狛犬

今年第3回目の峠楽会のお散歩。日本橋から東海道を行くはずだが、講師が腰痛でとても最初の宿場である品川まで行くことはできないので、都営地下鉄日本橋から泉岳寺まで行った。当初は三田から泉岳寺、品川へ歩く予定だったのが、つい乗り過ごし泉岳寺迄来てしまったので、逆行で三田に戻ることにした。写真は上から泉岳寺、泉岳寺の前の高輪大木戸(江戸への玄関口)その下は高輪ゲートウェーの商店街建設中。ゲートウェーは玄関口のこと。(写真は11日の下見の時)   高輪ゲートウェー駅の建設用地の下にあるものすごく背の低い通路を通って反対側に出る。運河脇を通って田町駅へ。東京工業大学付属高校がある。その敷地に千葉大学工学部の記念碑がある。もともとはこの地に東京工芸学校があり、その図書室から大正4年に日本で初めてのラジオ放送が行われたそうだ。東京工芸学校は空襲で焼けて松戸に移り千葉大学工芸学部になったそうだ。その後に東京工大の高校が作られた。千葉大大学の記念碑がある理由が分かった。田町駅の東口はすばらしくなった。もう裏玄関ではなく堂々とした表門だ。東西の交通路が線路上にできたが、私は昔ながらの低い地下道を通って国道15号線に出た。国道に出る前に御穂鹿嶋神社があった。そこの狛犬は阿吽両方が子どもを持っている。吽の方は2匹の子犬をもっている。

麻布十番周辺の狛犬

15日となっているが、書いているのは18日である。腰痛治療のために高尾山に行ってから3日間歩き続けた。やはり逆療法は年寄りにはムリみたいで一向に腰痛は良くならない。16日の峠楽会の引率ができなくなったら大変なので14日、15日は家でおとなしくしていたので、なにも書くことが亡くなって空欄になった。そこに18日の行動を書いたということだ。

18日には港区の狛犬探索に大江戸線で麻布十番駅に行った。駅を出たところに十番稲荷という神社がある。石段を上るとブロンズの狛犬が両側にある。この狛犬はコロンビアレコードの歌手音丸が奉納したものだそうだ。私は「コロンビアのマークは犬だったよな!」と勝手に感心した。あとで調べたら犬のマークは日本ビクターだった。音丸さんは自社もマークを意識したのだろうと勝手に思っていたが、私の考え違い。最近はこんな早とちりがしばしばある。

腰痛は筋肉を鍛えることで治る?? 

ここのところ腰痛がひどく朝起きてからしばらくは行動ができない。四番五番の背骨の間が加齢のためにすり減ってきているので痛みが出るのだそうだ。若い時にはそれぞれの背骨には筋肉がついているので隙間を保っていいるが、年取って筋肉が衰えてくると背骨を支えるのが難しくなってくるとのこと。整形に行くと注射をしてくれる。しばらくの間はいいのだが、1週間もすると痛みはぶり返す。

筋肉を鍛えるしか方法はなさそうだが、もう鍛えるほど運動はできない。そこで私の独自の運動療法を実践し始めた。それは散歩。ゆっくりでいいから長い時間歩くこと。奥さんと一緒に運動をやろうとしたら、花粉症がひどくて外に出るのは嫌というので一人で出かけることにした。私も鼻がぐじゅぐじゅしているが、年寄りは花粉症にならないという話を信用して、これは花粉症ではないといい続けている。

ただ散歩していても面白くないので、趣味の狛犬探索散歩と称して今週は港区を回ることにした。以下は芝大門の芝大神宮の狛犬。阿吽の狛犬が石段の上に置かれている。江戸尾立型というそうだが、作ったのは新しそうだ。

向かって右が阿形で頭の上に宝珠が乗っている。向かって左が吽形で頭に角が乗っている。昔は口をつむって角があるのが狛犬、口をあいており宝珠を載せるのが獅子とのことだった。これが昔ながらの正しい配置のようだ。

 

スサノオ神社 千住

狛犬探しで都内を回っている。本日は自転車で王子に出て明治通りを通って南千住のスサノオ神社に行った。この神社には前にも何回も行ったことがあるが、たいていは日光街道の面した入り口から入っていた。しかし今回は自転車だったので脇から入った。あとで昔の地図を見たらたしかにこちらが正面だった。

正面に立派な空飛ぶような狛犬がいた。これはみごと。よく見たら左側の狛犬には子犬が獅子山を登っているのが見える。この狛犬は本当は獅子で、子どもを崖から突き落とし登ってくるのを待っている。これは狛犬とは言わず獅子と言った方がいいかな。この狛犬は空飛ぶ狛犬の手前の鳥居脇にある。日光街道側の鳥居の脇には狛犬はいなかった。スサノオ神社ではいまお雛祭り。舞殿にも玄関脇にも数多くのお雛様が飾られている。なかなかいい。すでにひな祭りは終わったがまだ片づけることはないようだ。実は我が家もまだまだ片づけていない。孫たちが早く嫁には行かないように願っているから!  スサノオ神社をでて南千住のビル街のなかにある胡禄神社に寄った。ここにもいい狛犬がいる。富士山の溶岩で作った獅子山の上にいる。左側の狛犬の下にかわいい子犬がいる。獅子は子を千仞の谷に突き落とす。ここも狛犬というよりも獅子だな。自転車のフットワークは軽い。隅田川を大きく曲がって白髭橋にでる。大きなガスタンクが見えるがそのすぐ脇に石浜神社がある。そうだ、スサノオ神社にもこの石浜神社にもお富士山(富士塚)がある。昔は富士塚巡りをやっていたっけ。

北村西望の狛犬:東新町

 板橋区の東新町に氷川神社がある。城北公園や私立城北高校がすぐ近にある。ここの氷川神社に、長崎の平和祈念像を作った北村西望の作った狛犬がある。前にも書いたかもしれないが、久々に行ったのでまた載せておきます。かなり巨大なブロンズ像。元の型があるので同じものがいくつかあります。

1つは栃木県高根沢町の安住神社にある金ぴかの狛犬。もう一つは御岳山の上にある御岳神社の石段の上にある。同じ型から作られているのだからもっとたくさんあるはずなので、ご存知かたが教えてくください。

この神社にはもともとの狛犬もある。阿吽の両方の狛犬が子持ちである。両親で子育て。明治期に作られたもので、産めよ増やせよの願望だったかもしれない。それはそれとして、両親共同で子育てというのもいいね。

たまたまその後北区の王子駅を通ったら北村西望の平和の像があった。北区は平和都市宣言をしている。長崎の平和の像と同じもの。北村西望は北区の住人だったらしい。

穴八幡のヘンテコ狛犬

 穴八幡宮は早稲田大学文学部の前にある立派な神社。昔はみすぼらしい神社だったが、近年朱塗りのピカピカ神社になった。拝殿の前には立派な狛犬がいるが、この神社の見どころは崖の縁にある神武天皇遥拝所の狛犬だ。

江戸時代1700年代のものだという。この時代には頭に宝珠、一方の頭に角というスタイルが流行したらしい。しかしこれほど顕著なのはあまりない。下に西向き天神もものを示すが、宝珠も角ももう少し謙虚だ。穴八幡はつい最近再建されたのでピカピカ。神門をとおして拝殿を見るとなかなかいい。八幡様だから応神天皇と神功皇后を祀っている。神功皇后は仲哀天皇の奥さんだが、仲哀が亡くなった後に女の天皇になっている。しかし古事記には天皇になったという記載はなく歴代天皇の系統には入っていない。神功皇后は朝鮮遠征のあとに仲哀天皇の子である応神天皇を生んでいる。でも仲哀が亡くなってからだいぶたってからだ。子どもが生まれないように腹に石を巻いていたので20か月間もお腹にいたそうだ。どう考えても怪しいが、神話の話だからまあいいか。
立派な社殿になったが、私は立派なお庭にある石に注目した。磨いた花崗岩に影が差しているように見えるが、実は黒っぽいのは別の岩石。マグマが冷え固まるときに変成岩が貫入してきたものだ。ミグマタイト(混成岩)だと思う。いいね。

首のない狛犬、カッパ狛犬!

先日目黒不動に行ったら狛犬がうじゃうじゃいた。ということは目白不動にも狛犬がいるだろうと出かけてみた。目白不動は今は都電の学習院下駅の近くにあるが、元は江戸川橋から椿山荘に上る坂の途中にあった。現在の目白不動も急な坂の途中にある。足をがくがくさせながら下った目白不動に狛犬はいなかった。 目白不動をでて面影橋に向かう途中に高田の氷川神社がある。我が家の近くにはそこここに氷川神社がある。大宮の氷川神社が本社だが、もともとは出雲の斐伊川に住む神を、関東の地に招来した豪族がいたのだろう。埼玉大宮にある氷川神社で聞いてみたが、そこから冷たい湧水が出たことから氷川と呼んだということだった。東京の氷川神社の中には本来の簸川(斐伊川)神社とするところもある。

まあそれはそうとして、この氷川神社の社殿の前には狛犬がいたが、昭和のありふれたものなので通り過ぎた。しかしちょっと気になったので振り返ったら鳥居の脇に黒っぽい古そうな狛犬がいた。しかしちょっと変。よく見ると阿吽の吽の方の首から上がない。阿の方も右の耳が欠けている。自然に風化したわけではない。転がり落ちてもこんな壊れ方はしない。これも誰か人の手で破壊したものだ。罰当たりな奴め! かなり腹を立てて面影橋を渡り、高田馬場方面に上っていった。右手に亮朝院というお寺があった。お寺で狛犬はあまり見ないが、石段を登った上に一対の狛犬がいる。これも変わった形の狛犬だ。頭の上にお皿がある。カッパ狛犬かな??