今年は雪が少ない、じゃなくて「ない!」

山形県蔵王スキー場は異常に雪が少なかった。蔵王山は雲の中。本日行ってみた新潟県の越後湯沢の岩原スキー場はさらに少なかった。私が知っている40年間で最も雪の少ない1月だ。岩原スキー場の下のゲレンデはまだ芝原が広がっている。
いつもは雪にうずまっている魚沼神社は屋根から落ちた雪がほんのちょっとあるだけで参道には全く雪はない。おかげで狛犬はまだ顔を拝むことができる。ここには2対あるが、いい感じだ。役行者の石碑も露出している。

このまま春を迎えたら湯沢の経済はがた落ちになるだろう。除雪車はまだ車庫に入ったまま、運転手さんは出稼ぎに行っているとのこと。町中を歩いているのはほんの少しの外国人スキーヤー、ボーダーだけ。

我が家は30数年前から岩原に宿泊所を持っている。年齢とともに使用頻度が下がりそろそろ断捨離をしなさいとの厳命。しかしいざ実施となると寂しさが募る。ここを基地に谷川岳、巻機山、苗場山、太源太などに登った日々、スキー三昧の日々が思いだされる。そろそろ宿と山々に御礼を言わなけりゃと思っていたが、雨がひどくなり山々はまったく姿を見せてくれなかった。

金鑽神社、十月桜

  朝起きたらマイナス4℃、車はすっかり霜に覆われていました。今回は寒さ対策は十分にしてきたので大丈夫。昨日は大阪から来てくれた「清水武志トリオ」のジャズを子どもたちと一緒に楽しんだ。子どもたちをググっと引き込む語り、子どもたちに合わせた優しいジャズ、さすがプロはすごい。

そのあとせせらぎ荘でおいしい料理、温泉を堪能して、途中スカイブリッジ、金鑽神社とご神体山登山、十月桜を堪能して戻りました。誘っていただいたOTANIさん、NOJIさん、ありがとうございました。

1.金鑽神社の御嶽山の上から見た赤城、榛名、遠く谷川の峰々。
2.金鑽神社(かなさな神社・二宮)の紅葉と黄葉 3.スカイブリッジ、 4.霜柱 5.十月桜、鬼石(おにし)6. 鏡岩、断層で磨かれた結晶片岩

7.メタセコイヤ紅葉

室堂 雪景色

バスで室堂まで上がり、みくりが池周辺を散歩してきました。気温は5℃程度だが、日差しがあるので温かい。こんな好天は年に何回もないだろう。私の周りにもたくさんの観光客がいるが、9割がたが中国人。電気バス乗り場では中国人団体と個人旅行者が分けられている。個人旅行者は私たち夫婦の他に日本人カップル1組、台湾人4人家族だけだった。

称名の滝の紅葉、室堂雪景色

今年の紅葉見物は日本一の滝と名高い称名の滝に行ってみました。富山駅から富山地鉄で立山駅へ。そこからバスで15分、称名滝へ。バスは立山駅を10時ちょうど発、滝の駐車場に15分着。帰りは11時10分発。現地滞在55分なので、時間は十分と思っていたら、駐車場から滝が見えるとことまで1.5キロあることが分かった。往復3キロ、舗装道路だがかなりの登りなので、年寄りにはかなり大変。次のバスは13時10分発。ないもないところで3時間も滞在していられない。滝がみえるところでの滞在時間は5分だけ。でもまあ立派な滝に感動、周りの紅葉にも感動。疲れたがよかった。


ものすごく天気が良かったので立山駅からケーブルカーで美女平に上った。このケーブルカーは荷物運搬にも使われるそうで大きな車両が客車の下についており、2両連結だ。これは珍しい。高低差500mを7分で登るので傾斜はかなり急で、恐ろしい感じだ。さらに交差点の一部はトンネルの中、これも珍しい。美女平にはバスターミナルがある。美女平からはこの専用バスでしか行くことはできない。高級はスで弥陀ヶ原、室堂など仏教的な名前の付いた場所に向かう。それは立山山頂には立山権現が祀られており、多くの修験者がこもって修行をした場所だからである。

土肥金山 

土肥金山、画像を入れておきます。

清水港から駿河湾フェリーで土肥へ

前から予定していたのですが、台風15号以来天気が良くなかったので延び延びにしていました。今年は4月に鑑真号で上海に行きましたがそれ以来船旅なし。わずか1時間ですが、海国日本にいるのですから時々は海に出てみなければということです。新幹線で三島まで行き、東海道線で清水まで行き、港まで歩いて行きました。

船便は一日四便、10時45分の便に乗りました。2400円なり。堂ヶ島でアジフライを食べる予定でしたが、港近くの店でおいしそうなエビフライとアジフライがあったので早速仕入れて船の中で食べることにした。

すいているかと思っていたらバスが4台も入ってきて、外国人団体が乗り込んできました。若者らは、まあうるさいこと。急いで三階の部屋にランクアップ。500円でコーヒー付きでした。我が家にとっては贅沢でしたが、これは大成功。静かで豪華船旅と言う感じになりました。三保の松原からの富士山風景は世界遺産になりましたが、本日富士山はほとんど見えなかった。天気予報では晴れを予想していたのに。残念な船旅。でもまあいいか!

土肥金山、堂ヶ島へ行きました。午後はいい天気になったので帰りも船に乗ろうと思っていましたが、バス便はちょっとの差で、乗ることができず、修善寺から伊豆箱根鉄道駿豆線で三島駅へ。西武鉄道のお古車両はハロウィーンの装飾列車でした。

京都の常宿?シェアホテルズ・ラクロ!

昨年から新しい宿を見つけて、京都での常宿、って程ではないのですが。京都御所の角の地下鉄丸太町駅にあるシェアホテルズ・ラクロという新しいホテルです。連休なのに今年は二人で9500円。ちょっと狭いけど清潔で快適。泊まっている人はほとんど外国人の個人客。日本人は若い人だけで、ジジババは私たちだけでした。

従来のホテルはフロントで「いらっしゃいませ!」と出迎えてくれるが、ここには若いお姉さんがパソコンを見てチェックインをするだけ。豪華なラウンジはないが、キッチンのついた人いシンプルなスペースが共有スペースになっている。部屋は清潔できれいだが、結構狭い。しかしこのスペースがあるので皆さん快適に過ごすことができる。

ヨーロッパ人たちはここで自炊をしています。私たちも昨年はコンビニ弁当を温めて食べていました。今年はすぐ脇に松屋があったので、そちらで食事。食後のコーヒーはラウンジで。

広いスペースの一角は図書スペースになっているので、無料コーヒーを飲みながら京都案内本を見る人も多いようです。私は古い京都の絵葉書を見つけました。それには八坂神社や清水寺の狛犬が描かれています。これは面白そう! 翌日、同じ位置から写真を撮ってみようと考えました。結果は次回に!

暑い中、伊香保、渋川、多胡の碑

高崎にちょっとした用事があった。こんな暑い中、行くのは嫌だったがまあ仕方がない。暑い中、用事は何ことはなく終わった。群馬に行くときには前橋のKOBAYASHIさんにアッシーをしてもらう。今回も社長専用車の黒塗りのクラウンで高崎駅まで迎えに来てもらった。とりあえず伊香保温泉。でもまだ朝早くて温泉には入れなかった。伊香保には昔は軽便鉄道が走り、急坂にはケーブルカーがあったそうだ。

保存車両を見て、ハラ ミュージアム アークへ。この美術館は品川にある原美術館の別館みたいなものでグリーン牧場の一角にある。特別に本日の展示を見たかったわけではないが、友人のKAMATA社長が薦めてくれるので拝見させてもらった。そのあとすばらしいカフェで特別のケーキをいただいたのだが、KOBAYASHIさんと「わかった?」「あんまりよくわからないん」、二人とも現代アートに理解は及ばない。

お昼は、藤岡まで走って高崎流通大学そばの蕎麦屋さん。KOBAYASHIさんの友人のお店で特別待遇。大変なごちそうになって我が家に戻る。あっそうだその前に、多胡の碑というのも見に行った。古代上野国にあらたな多胡郡が作られたがそれを記念する石碑だという。日本三古碑でユネスコの「世界の記憶」遺産だそうだ。

陸奥国一宮 鹽竈神社

  鳥海山の帰り、USHIDA君の車に乗せてもらい塩釜の鹽竈神社に行ってきました。矢島から院内、鬼首、鳴子温泉を経由し多賀城から塩釜に行った。平成最後の日は涙雨? 車がなければ行くことができなかった。ありがたかった。

この神社には多数の狛犬がいた。それの全部、種類が異なっており、実に面白い。雨の中走り回ってすべて見たつもりだったが、まだ裏参道の下、七曲坂の下にも居そうだった。とりあえず9対の狛犬を載せておきます。

この神社は陸奥の国の一宮一宮巡りのページも作りましたので見てください。

高幡不動尊に行ってきました。

京王線で高尾山に行くことが多いが、車窓から見える金ぴかの五重塔が気になっていた。高幡不動駅にあるので当然高幡不動尊だ。不動尊というのは不動明王のこと。インドの神様で「揺るぎなき守護者」=不動明王だそうだ。

空海の持ち帰った密教では重要な神さまだが、日本以外にはあまり見られない神様だそうだ。神さまといっても仏教を守護する神様だから寺に置かれている。
仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はとらえて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。とされている。

真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺というそうだ。関東三不動の一つだそうだ。他は成田山新勝寺と玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)(埼玉県)高幡不動と成田不動は知られているので確定だが、3つ目はいろいろあるようだ。不動岡不動を入れる場合が多いとのこと。埼玉の教員試験を受けた時に不動岡高校に行かないかと言われたこともあった。分校で利根川の向こうにあったので、渡し船で通う高校だった。それを思い出して、不動岡不動を三大不動に入れたいなと、私は思っている。

広い境内にはいくつもの建物があるが、往時はこんなものではなくもっと大寺院だったようだ。江戸時代に火事で焼けたが、昭和50年以降徐々に五重塔、大日堂、鐘楼などが再建されたという。総重量1トンもある日本一の丈六不動尊は千年ぶりの修復が完了して安置されている。これはすごい。パンフレットの写真を借用。

日野市にある寺なので新選組と縁が深い。土方歳三の生家は高幡山の檀家の筆頭格の急かだそうだ。歳三の命日には新選組祭りが開催されるそうだ。歳三さんが各所におられる。

練馬地名研究会で敦煌の話 

練馬地名研究会でお話をさせてもらいました。終わった後で、本日のレポートもお願いしますとのことだった。事前に話す内容を準備していったので、それをちょっと手直してすぐに送りました。こんな内容でした。

敦煌 万里の長城の尽きるところ
平成31年1月14日(祝日)
人のための科学塾主宰 三輪主彦

練馬区地名研究会で、上記の内容でお話をさせていただきました。終了後、ネットの案内を見てやってきた知人が、「練馬区の地名の話だと思って来たのに、中国の話で戸惑った」との抗議をもらった。
私は「練馬区に拠点を置く各地の“地名”研究の会だと思うよ」と答えておいたのですが、・・・私の認識でよろしかったでしょうか?

さて私の話は、2018年に中国の西域の入り口、敦煌に行って考えたことでした。1970年代、NHKで喜多朗の音楽に合わせてシルクロードの映像が流れていました。井上靖、司馬遼太郎、平山郁夫ら多くの著名人がシルクロードの魅力を語っていました。私達もワクワクしながらこの地にあこがれていました。しかし私たちが行くことができるようになるまでには時間がかかりました。
私が長いことあこがれていたチベットや西域に行けるようになったのは、政治情勢、自分の仕事、我が家の財政状況などの関係で2008年ごろからです。

昨年11月西安、敦煌に行ってきました。“西の方陽関を出れば故人なからん”王維の詩にある場所です。
昔の中国と西域の境界にあったシルクロードのオアシス都市敦煌に興味がありました。今から2000年前に敦煌の近く(といっても100㎞以上離れている)にあった関所の陽関(西域南道)玉門関(西域北道から天山路)、嘉峪関(玉門関のあとの重要関所)の位置を確認してきました。沙漠の中にあった関所なので砂に流され、興亡があって現在の場所とは異なっていますが、厳しい環境は当時と変わらないようです。
黄河のほとりの蘭州から河西回廊の西辺にそって万里の長城が嘉峪関、玉門関へと続いました。今でもその一部ですがドロと草を重ねた2mほどの高さの長城が確認できます。玉門関よりも西側には長城はありません。ここが中国の最前線、この先は“上に飛ぶ鳥もなく 下には走獣なし”という場所です。その様子を飛行機からとった写真でお見せしました。

人跡まれな地域ですが、敦煌や隣の瓜州にはとてつもなく多くの仏教遺跡が残っています。その代表が敦煌の莫高窟(千仏洞)です。砂岩の崖に700窟が穿たれ400ほどの窟の中は、砂漠の大画廊といわれる壁画、仏像が収められています。今その一部の見学はできますが、写真は無理です。代わりに市内の博物館で模写、復元の写真を撮ることができます。もちろん世界遺産になっており多くの観光客が訪れています。1970年代、NHKのシルクロードの秘境の時代とは大違いで、劇場では敦煌をテーマにしたミュージカルも演じられています。中国の近代化に伴って敦煌もトイレもきれいな観光都市に変遷しています。私も動画をとってきたので、一部をお見せしました。

往古、困難な沙漠の道を通った人物もおりました。長安の都を出て河西回廊をぬけて法顕、玄奘三蔵らの僧がインドへ仏典を求めに行きます。法顕は敦煌から沙漠を超えてインドで修行をし、帰りは海路で長安に戻ります。西遊記のモデルになった玄奘三蔵は往復とも困難な陸路をとりました。火炎山近くの高昌国王に長く引き留められます。法顕も玄奘も十数年もの月日をかけての旅でした。玄奘は膨大な仏典を長安の大雁塔に収め、大勢の僧を集めてサンスクリット語の仏典を漢語に翻訳ました。

シルクロードを伝わってきた仏教は538年に日本にも伝わっています。玄奘三蔵の旅の前です。玄奘三蔵の前には法顕が、さらにその前には鳩摩羅什という亀茲国の僧が仏典をもたらしています。断片的には2000年前からシルクロードを通って多くの仏教文化がもたらされていたのです。
莫高窟の壁画、仏像は日本のものとは違ってヘレニズム様式の影響を受けたものが多く見受けられます。日本へ伝わった仏像、壁画などは、私の感覚では西域経由ではないような気がしました。
日本にもたらされた仏教は釈迦の入滅後かなり変質しました。お釈迦様の仏教は上座部仏教(いわゆる小乗仏教)で南インドから東南アジアの国々に広がっていきました。しかし釈迦入滅後500年で大乗仏教が起こったのです。大乗仏教はインドからシルクロードを伝わって西域、チベットに伝わりさらに中国へもたらされたのです。唐の時代になるとインドでは仏教はすたれ中国、東南アジアが拠点になっていたのです。日本の仏教は本家のインドからではなく、すでに変質した中国経由の仏教だったのです。
中国から多くの僧が来日し、また日本からも僧が中国で学びました。その中で特筆されるのが弘法大師空海です。遣唐使として長安の都に来た時にはすでに仏教の知識を持っており、中国仏教随一の高僧恵果阿闍梨は一目で彼を後継者と見抜き、密教の法をすべて伝達しました。20年の遣唐使の任期を2年で終え日本に帰った空海は日本に新たな仏教体系をもたらしました。

空海が得た密教の教義は恵果から受け継いだもので、恵果はさらに不空三蔵という高僧から受け継いでいます。最澄の密教も不空の弟子から受け継いだものです。私は恵果の師匠である不空については知らなかったのですが、友人からのメールで(FB)で「西安にいるなら不空の痕跡を探してくれ」との依頼で初めて知りました。今の時代どこにいようと友人と繋がれる。長安の大興善寺で不空から恵果は密教を受け継いだ。恵果は青龍寺で空海に密教を授けた。当時とはまったく異なる寺だがそれぞれの寺は存在していた。青龍寺を訪れるのは80%が日本人だという。

不空は南インドスリランカの僧であった。空海、恵果が受け継いだ密教はスリランカ僧の不空がもたらした。密教は大乗仏教の一部である。スリランカは現在上座部仏教(いわゆる小乗仏教)の地である。しかし空海の師である不空の時代、大乗仏教があったのだ。現在日本で学ぶ仏教伝来のルートはすべて西域経由とされている。しかし私は敦煌で多少の違和感を感じていた。しかし不空をという人を知れば、南伝の大乗仏教ルートがあったことがわかる。日本に来た仏教は西域経由だけでなく南伝のものもあったとすれば、私の敦煌莫高窟での違和感も多少解消する。ちょうど12月26日の朝日新聞一面にスリランカのジャングルで釈迦三尊(大乗仏教)遺跡を発見!という記事が載った。私に不空を調べるようにとメールをくれた岡村隆さんの記事だった。日本人でスリランカの大乗仏教の遺跡を見つけた人はいなかった。岡村さんの発見はもしかすると教科書が書き換えるほどの大発見かもしれない。こんな重大な岐路を私も通過していたのだ、と私は感激だった。
不空の亡くなったまさにその日、空海は生まれている。空海は不空の生まれ変わりと思って「空」の字をもらって、空海と名乗ったのではないかとの想像を働かせた。

旅をしていると面白いことに出会う。むかし若いころ、「旅をせねば、老いての物語はない」との言葉を聞いた。もう若くはないが、物語を作るためにまだまだ旅をせねばならないと皆さんに伝えて話を終えた。

その後の懇談では、現代中国のあまりにもすごい速度での進展について話題になった。中国通の方が多くおられたので、実態が少しはわかったが、私たちがその方向に進まざるを得ないことにたいしてみなさん不安は隠せないような状況だった。

 

敦煌:万里の長城の尽きるところ

1月の14日(月・祝日)に石神井公園の「ふるさと文化会館」でお話をすることになりました。練馬区地名研究会のホームページには以下のように載っています。今回は、高齢者が多いらしいので、パワーポイントを使って画像を見ながらお話ししようと思っています。 誰でも参加自由だそうです。もし、御用とお急ぎでないお方(ガマの油売りの口上)はおいでください。300円だそうです。今パワーポイントの画像を作っています。下にその一部をアップしておきます。ちなみに練馬区地名研究会は土屋正孝先生がやっておられるグループです。

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平成30年度講演会を下記の通り開催いたします。万障お繰り合わせの上ご主席下さい。会員以外の方は参加費300円をお納め下さい。  記
[1] 日時 平成31年(2019年) 1月14日(月)  [成人の日] 午後1時30分~午後4時頃
[2] 会場 練馬区立石神井公園ふるさと文化会館 会議室B
練馬区石神井町5-12-16 TEL:3996-4060
[3] 演題 「敦煌:万里の長城の尽きるところ」~旅の報告書をPCで作る方法~
[4] 講師 三輪主彦氏(大人のための科学塾「みわ塾」主宰)

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志摩 大王崎から富士山が見えた!

本日は伊良湖岬から船に乗って鳥羽にきて、レンタカーを借りて志摩をまわってきました。大王崎には何回も来ているのですが、今日は快晴で渥美半島の伊良湖岬、神島がはっきり見えます。神島は三島由紀夫の「潮騒」で有名になった島。50年ぐらい前に行ったことがあります。

Casioのデジカメで写真を撮っていると、灯台の上で富士山が見えると言っていました。私は目を凝らしてみましたが、よくわかりません。田代先生のお話だと和歌山県の那智の滝の近くの山の上から見えるのが最遠とのこと。ならばここから(直線で200㎞)てもいいはず。帰ってからでデジカメの映像を加工していたら、なんと富士山が映っているではないか。こんなカメラでも肉眼よりも目がいいんだ!
そういえばなんとなく斜面が見えていたような・・・・とりあえずその写真を入れておきます。

忘れていた、大王崎に行ったのは山の上にある波切神社の狛犬を見に行くのが目的だったのだ。小さな狛犬は団体です。海風にさらされているので風化著しい。もう一対は最近作られたものでそれほど風化はしていない。