八甲田山 その7

26日朝7時ちょうどに銅像茶屋(700m)から登り始める。後藤伍長の巨大銅像はこの上の台地にある。冬期は見学に行く人もいないので、茶屋は埋もれている。

昨日午後ちょっとしたアクシデントがあったので、本日の登行は未知のコースをとるのはやめて、銅像コースを登って前岳(1251m)まで行くことにする。「ロープウェーで上がればいいのに!」という願いはリーダの一言で霧散した。本日は土曜日、八甲田スキー場にはロープウェーが一基しかない。土日は大混雑する。総隊長は「6時に登り始めれば9時始発のロープウェーの一番客よりも早く前岳につくことができる!」という。

しかし登り始めは7時になってしまった。500mの高度差だから夏なら9時前につくはず。しかし重たいスキーと重装備の背中のザック、さらに頂上直下の急斜面のため9時半にやっと高度差50mのところに到達。反対側の斜面からはロープウェーの人たちが上がってくる。   人が見えたので「追い越される前にくだるぞ!」との声。人のシュプールをたどるのが嫌な隊長は、「一番じゃなけりゃ」嫌なのだ。まあそれでなきゃノーベル賞候補にはなれないよな。ともかくわがままジイさんにせかされて、まだ誰も滑っていないコースを下る。わずか5キロほどのコースだが、どこで沢を超えるかなど自分で判断しなければならない。    雪山の魅力は自分で、美しいと思うコースを切り開くことができることだ。いわゆるオリジナルってやつだ。新雪がない時期の山は、どこを歩いても道がつけられている。しかし雪がどっさり降ると道はまったく見えなくなる。我ら年寄りでも、しばし一瞬だが、初登頂、初滑降の感激を味わうことができる。    銅像茶屋の前まで降りてきて、今回の山行は終了。茶屋の脇から後藤伍長に対面。下部は雪に埋もれているのにかなり大きい。7mもあるのだそうだ。後藤伍長は立ったまま仮死状態だったが助けられた。しかし両手両足は凍傷で切断された。地元に帰って村会議員になったそうだ。

八甲田山 その5

これは私の滑り。なかなかのものでしょう。

25日少し天気は回復しロープウェーも動くそうだ。9時始発だが8時には列ができている。1時間入り口で待つ。チケット売り場の係員などはバスでやってくるが、9時になってもやってこない。積雪など条件によってバスが遅れるそうだ。やっと2便に乗って頂上駅(田茂萢岳1324mのちょっと下)。 頂上駅は森林限界を超えているので吹きっさらし。零下12℃と書いてあったが体感温度は10℃くらい低い。Kさんは知り尽くした場所だが、我々新人のために通常のフォレストコースを行くことになった。コースの名前はあるが普通のスキー場と違って圧雪してはいないし、コースロープがあるわけではない。初めての人には晴れていても迷子になる可能性がある。本日は中村農園のガイドさんにお願いしてあるので安心。 頂上駅からは少しトラバースする。ほんの10分ほど青空が見えて陸奥湾方向が見える。そちらに向かって滑降。ガイドのマッツは深雪をものともせずすっ飛ばす。私も気分だけはその感じ。マッツが撮ってくれた写真をみると私もまんざらでもないな!
森林帯に入ると風はやみ温かく感じる。アオモリトドマツの樹氷林を抜けていく。樹氷の根元は空洞になっているので、落ちたら大変なことになる。深雪なのでけがをすることはないが、穴から脱出するのは一人では絶対無理だ。半身が落ちただけでも抜け出すのに数十分かかった。アオモリトドマツのモンスター樹氷には近づかないように。  樹氷林を過ぎるとブナの大木の間になる。ちょうどいい間隔に並んでいるので、回転競技のような感じでブナ周りをする。気持ちがいいがスピードが出るとコントロールが効かなくなって激突する。ブナは大木なので確実に負ける。  さらに下がるとブッシュも出てきて枝がバチバチあたる。ヘルメットが役に立つ。そのあまま周回道路にでて上り返してロープウエーの山麓駅に戻る。30分ほど並んでもう一回乗る。頂上駅レストランで昼食。昼食後はフォレストコースを下ることにした。

八甲田山 その4

スキーがすんだらそれ温泉!
八甲田山の周りにはヒバ千人風呂で有名な酸ヶ湯温泉をはじめとして多くの温泉地がある。

酸ヶ湯温泉 千人風呂がある。27日撮影

しかし酸ヶ湯温泉以外はほとんどが冬期は休業。しかしKさんの定宿である「みちのく深沢温泉」は唯一冬期休業。地元の人は時々来るが、観光客はよほどマニアックでなければここには来ない。青森連隊の遭難碑がある銅像茶屋 (冬期休業)よりもさらに数キロ奥にあるので冬期は絶海の孤島になる。 先代のおじいさんが偶然開拓した温泉だから歴史はないが、泉質はすばらしい。噴出孔でも45℃程度ていどなので、加温も加水も必要ないかけ流し温泉だ。湯量も半端でない。ご主人は毎日午後8時に湯を落とし掃除をする。そのために温泉特有のぬるぬるがまったくない。私は温泉ぬるぬるが苦手なので、ありがたい。朝は3時に湯をため始める。6時にはひろい湯舟が満タンになるので顔を洗う代わりにざぶん! 私たちは1日に朝昼晩3回は入っている。 誰かのブログで、「湯はいいのだが休むところがない! お母さんの話が分からない!」などと書いていた。この人はまったくわかっていないなあ。お母さんの居間だかお店だかわからないがドラム缶を半分に切った大きなストーブの周りがお休みどころ。ここに何となく座って、自分でコーヒー入れたり、お茶を飲んだりすればいい。暇な時にはお父さんやお母さんが津軽弁だか青森弁だか、よくわからないが、話し相手になってくれる。なんとなくにこにこしていれば場はなごみ、温かさが伝わる。言葉はただのおまけだ。そんな雰囲気が好きな人にはたまらない魅力だろう。都会風のしゃれた雰囲気でなければ嫌だという人は酸ヶ湯温泉に行けばいい。宿の部屋はこの極寒の中でも暖房なしで温かい。床下に温泉水が流れている。オンドルと同じだ。

最後の日、寒い中ずっと見送ってくれていた。ありがとうございました。

八甲田山 その3

八甲田山 その3
24日、昨日の好天とはうって変わって大荒れの模様。ロープウェーは朝から休業、リフトは午前中だけ動かすとのこと。みんなでリフトを使って登り、シールを付けて歩く。上にロープウェーのロープが見えるはずだが、雪もひどくなってきたのでいつ通過したかわからない。 Y字の谷の上でシールを外す。吹雪いている中、手袋をはめたままでシールを付けたり外したりするのは難しい。やっと外してガイドの後について滑りだす。すばらしいパウダースノーで、スキーの先端も見えないがきれいに回ってくれる。これはうれしい。 本日は森林限界を超えたら吹き飛ばされそうなので森林の中だけを行く。雪崩の心配はないので勝手に滑ることができるがブナの大木にぶつかりそうでちょっと恐ろしく、腰が引けてくる。 今回はヤマップというソフトを入れてきた。2万5千分の1の地形図上に歩いたルートを描いてくれる。事前にWIFIの通じるところで無料地図をインストールしておかなければならない。深沢温泉ではドコモの携帯だけしか通じない。auやソフトバンクのスマホはまったく通じない。八甲田山に来る人はドコモに変えておかねばならないだろう。 リフト乗り場でソフトバンクの携帯が通じた。急いでヤマップのスイッチを入れる。本日のコースを示しておきます。
歩きは5キロ弱。3時間ほど深雪を楽しみました。スキーをつけて深雪を歩くのは結構きつい。でもまあうれしい!

八甲田山 その2

 今回のメンバーは山岳部のOB連、現役から言わせたら超々OBで最年長は79歳、私はその次で74歳。リーダーは64歳の最若手。もとは一部上場企業の会長さんだったが、マウンテンスキーをやるために早期で引退した。最年長のKさんは70歳からスキーを始めた。その年には弘前にアパートを借りて3か月間八甲田山に通ってスキー三昧。次の年から通うのは大変なので八甲田山中の深沢温泉を定宿にしてコーチについて深雪を滑りまくった。
 その後も毎年60日近く深沢温泉で過ごしている。何事も徹底しなければすまない単細胞(本人曰く)人生だ。Kさんは若い時には岩登りを徹底した。1962年冬、谷川岳衝立岩のダイレクトカンテの初登攀をした。そのあたりのことは遠藤甲太さんの「ダイレクトカンテの謎〈埋もれた記録〉」にある。私は「なぜ自分の名前を付けなかったのか?」という質問をしたら、「あのルートはあまり美しくなかった!」からだときいた。
山を離れたKさんは学問の道に進む。当時最先端の量子力学を使って化学を考えるという、私には理解できない世界。東工大の教授になり研究の第一線を突っ走った。多くの研究論文を出し後進を育てた。いまノーベル賞に最も近いと評価されている人だ。
 私は一応スキーは上手なつもりだった。数年前に鳥海山に誘われた時には、皆さんのお手並み拝見と思った。しかし一緒させてもらって驚いた。70歳から始めてこんなに強いスキーができるものかと。以後私は弟子入りをさせてもらっている。しかし私は胃や大腸、心臓の不調などで入退院を繰り返していたので、八甲田山に行く機会はなかった。今年を逃したらもう無理かもしれない。なり無謀を承知でKさんにくっついていった結果はすばらしい雪山を満喫した。これまで長いことゲレンデスキーをやってきたが、あれはいったい何だったのか? 八甲田山の雪はこれまで私が知っていたゲレンデの雪とはまったく違っていた。リングの小さいゲレンデ用のポールは根元まで潜る。膝から下は潜っているので幅10センチあるスキーでも見ることはできない。これまでとは全く違う世界だった。私の技術など全く通用しない。私はうれしくなった。なんとか深雪でも滑れるようになるぞ!。 八甲田山にはロープウェーが1本、リフトが1機しかない。ゲレンデはリフト下以外まったく均していない。どこを滑ってもいいが、よほど熟達しなければ、自分のルートを作ることはできない。この季節毎日視界はほとんど100m程度。いくら地理に強いといっても、方向はまったくわからなくなる。この時期、年寄りはガイドなしではまったく動くことはできない。2日間Kさんが最も信頼する中村農園チームにガイドを依頼した。

八甲田山 その1

八甲田山に入った1月23日は、1902年に青森歩兵第5連隊の兵士210人が雪中行軍で遭難した日だった。八甲田山という映画が評判になったが、兵士たちがかわいそうで見るに堪えなかった。雪の中、散りじりになって若い兵士たちが凍死した。生き残ったのはわずか11人、世界でも類のない山岳遭難事故だった。
 同じころ弘前歩兵31連隊も雪中踏破訓練をしていた。こちらは38人という少人数だったこともあるが全員無事に帰還した。装備の違い、指揮官の能力の違い、地元民の協力など差異はいくつもあった。弘前連隊の方がすぐれていたと思った。しかし彼らは遭難中の青森連隊とすれ違っているのに助けなかった、さらに弱った地元案内人を置きざりにし、自分たちだけが逃げ帰った。

 弘前連隊ではこのことを口外しなかったので、近年までそんなひどいことがあったことは知られていなかった。無茶苦茶だが、昔の軍隊組織はそんなものだった。

自衛隊の雪中訓練:地元のテレビで放映! 雪上車の付けた道を歩いている。

1月23日は自衛隊でも記念日になっているので青森の連隊はその日は八甲田で雪中訓練を行う。私たちが泊まっている宿の大広間は本部になっていて広場には雪上車などが泊まっている。600人の隊員はみな雪の中で幕営。装備は格段に上がっているが、天候は当時とあまり変わりはない。零下11度にはなっている。きっと寒いことだろう。

しかし私たちが話した隊員たちは結構楽しそうにしている。完全装備を女性もかなりいるので驚いた。ちょっと気の毒に思ったのは、彼らが履いているスキー。一般スキーヤーはみな最新式の幅の広く軽いスキーを履いているが、彼らのは皮ベルトで靴の先だけを止めるもので、扱いは大変難しい。機敏に安全に動くためにはもう少しましなスキーを配布すればいいのに。

銅像茶屋という建物が雪に埋もれている。銅像は茶屋の後ろの丘に建っている。青森連隊の後藤伍長は雪の中、立ったまま仮死状態で発見された。その地に銅像が建てられたのだ。八甲田に来たのだからお参りをしておかねばならない。ということでシールを付けて上った。当然自衛隊員もここから雪中訓練に出かけたかと思ったが足跡はまったくなかった。ダメじゃないか。

上野界隈 東照宮・五条稲荷神社

ちょっとエッチな絵じゃない?教育的ではないな!

友人の書を見るために上野の東京都美術館に行った。月曜日はお休み。代わりに見に行こうとした上野の森美術館はフェルメール展で長蛇の列。しかたなく隣の芸術院会館?の美術館(無料)に入ったが、ナニコレ!という感じ。トイレを借りて出てきた。  東照宮で寒ボタンを見に行くことに。上野は隅々まで見ているはずだったが東照宮の立派な狛犬は見落としていた。いいカメラをもっていかなかったので逆光でとれなかった。時間を考えて行こう。狛犬とクロガネモチの赤い実に気をとられていたのでボタンを見ずに出てきた。

もう一つ五条稲荷神社がある。ここの狛犬もよかった。稲荷なので狐はあるが、それほど面白くない。おもしろいのは崖面にある穴、お穴が神社になっている。伝通院の近くにもお穴神社があったが、ここは中は見えなかった。   この神社の赤い鳥居はインスタ映えするのか、着物を着たお嬢さんたちが写真を撮っている。話をしたら台湾からの女性だった。他にもたくさんいたが皆外国人。今時着物を見るのは外国人だけなのか。

峠楽会第一回 日本橋から四谷方面

19年の最初の歩きだが、昨年から4回変わらず日本橋からの出発となった。これはどんな旅でも日本橋からという賀曽利隆さんに対抗の意味もある。といっても対抗するほどの旅力はないけど。まあそんな気持ち。 今回は日本橋を出て箱根駅伝のゴールへの1キロを歩いて、大手町からは東京メトロに乗って半蔵門に行き、そこから四谷見附、内藤新宿というコースの予定。箱根駅伝最後の走者は3分ほどで走るが、我らは常盤橋の工事の進捗状況を見たり、一石橋にある明治の水準測量の几号(きごう)標識を見たりしていたので、40分もかかった。 読売新聞社の前がスタートゴール地点。箱根駅伝は金栗四三らが始めたとあった。NHKの大河ドラマ「韋駄天」の主人公のモデルである。実は金栗さんは、わが竹早高校の前身の府立第二高女の地理の先生だった。一昨年にNHKの方から私も資料提供を求められていた。秘密にしておいてくださいと言われたが、どんどんしゃべってはいたけど。第1回を見たがどこにも資料提供・竹早高校というのがなかった。残念!

将門塚を見て電車で半蔵門駅へ。4番出口にはすばらしい美術館があった。無料で国宝級の仏像などを見ることができる。さる宗教団体提供だ。こんな文化活動を他の宗教団体でもやるべきだよな。無料でお茶までいただいたので、ちょっとほめておかなければ。・・・ここでゆっくりまったりしたら、もう先に進む気はなくなった。本日の歩行距離は2キロ、歩数は5000歩ほどだった。とてもお散歩の会とは言えなくなってきた。まあいいか!

谷保天満宮で狛犬探し!

国立で「シルクロードの子どもたち」という写真展をみたあとに国立の大通りを通って谷保天満宮に行った。昔「国立」の一橋大学があるので「国立」というのかと思っていた。しかし読み方は「こくりつ」ではなく「くにたち」だ。国分寺と立川の間にできた駅だから国立なのだそうだ。今は都内で最高級の住宅地。立派な家が碁盤の目のように並んでいる。

谷保天満宮は甲州街道に面して鳥居が立っている。鳥居の先は石段だが、急な下り階段。ちょうどここに府中崖線が通っているので、8mほどの段差になっている。私が思うに、昔は石段を上って本殿に行ったのではないかと思う。甲州街道が拡張されて敷地が狭まったので、本殿は崖下の広い場所に移ったのではないか。  鳥居の脇に2対の狛犬あり。まあ昭和のものだからそれほど面白くもない。拝殿前には天神様だから牛がいる。その奥にいる狛犬がなかなかいい。両方とも子犬をあやしている。口の形も阿吽ではなさそう。雌雄がないのか、あるいはご夫婦で子育てをするというのかよくわからないが、なかなかいい。   牛は、なでなでするとご利益がある。ということでピカピカだが、もう一体石作りの牛(よくわからないがたぶん牛)はまだ新しいらしく、なでる人も少ない。あと数十年すればなでなでしてピカピカになるかも。  さらにここには神のお使いの立派なニワトリが境内を飛び跳ねている。これもいいね。でもきっと最初は近所のニワトリが逃げてきたんじゃないかな??

 

 

 

高幡不動尊に行ってきました。

京王線で高尾山に行くことが多いが、車窓から見える金ぴかの五重塔が気になっていた。高幡不動駅にあるので当然高幡不動尊だ。不動尊というのは不動明王のこと。インドの神様で「揺るぎなき守護者」=不動明王だそうだ。

空海の持ち帰った密教では重要な神さまだが、日本以外にはあまり見られない神様だそうだ。神さまといっても仏教を守護する神様だから寺に置かれている。
仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はとらえて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。とされている。

真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺というそうだ。関東三不動の一つだそうだ。他は成田山新勝寺と玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)(埼玉県)高幡不動と成田不動は知られているので確定だが、3つ目はいろいろあるようだ。不動岡不動を入れる場合が多いとのこと。埼玉の教員試験を受けた時に不動岡高校に行かないかと言われたこともあった。分校で利根川の向こうにあったので、渡し船で通う高校だった。それを思い出して、不動岡不動を三大不動に入れたいなと、私は思っている。

広い境内にはいくつもの建物があるが、往時はこんなものではなくもっと大寺院だったようだ。江戸時代に火事で焼けたが、昭和50年以降徐々に五重塔、大日堂、鐘楼などが再建されたという。総重量1トンもある日本一の丈六不動尊は千年ぶりの修復が完了して安置されている。これはすごい。パンフレットの写真を借用。

日野市にある寺なので新選組と縁が深い。土方歳三の生家は高幡山の檀家の筆頭格の急かだそうだ。歳三の命日には新選組祭りが開催されるそうだ。歳三さんが各所におられる。

練馬地名研究会で敦煌の話 

練馬地名研究会でお話をさせてもらいました。終わった後で、本日のレポートもお願いしますとのことだった。事前に話す内容を準備していったので、それをちょっと手直してすぐに送りました。こんな内容でした。

敦煌 万里の長城の尽きるところ
平成31年1月14日(祝日)
人のための科学塾主宰 三輪主彦

練馬区地名研究会で、上記の内容でお話をさせていただきました。終了後、ネットの案内を見てやってきた知人が、「練馬区の地名の話だと思って来たのに、中国の話で戸惑った」との抗議をもらった。
私は「練馬区に拠点を置く各地の“地名”研究の会だと思うよ」と答えておいたのですが、・・・私の認識でよろしかったでしょうか?

さて私の話は、2018年に中国の西域の入り口、敦煌に行って考えたことでした。1970年代、NHKで喜多朗の音楽に合わせてシルクロードの映像が流れていました。井上靖、司馬遼太郎、平山郁夫ら多くの著名人がシルクロードの魅力を語っていました。私達もワクワクしながらこの地にあこがれていました。しかし私たちが行くことができるようになるまでには時間がかかりました。
私が長いことあこがれていたチベットや西域に行けるようになったのは、政治情勢、自分の仕事、我が家の財政状況などの関係で2008年ごろからです。

昨年11月西安、敦煌に行ってきました。“西の方陽関を出れば故人なからん”王維の詩にある場所です。
昔の中国と西域の境界にあったシルクロードのオアシス都市敦煌に興味がありました。今から2000年前に敦煌の近く(といっても100㎞以上離れている)にあった関所の陽関(西域南道)玉門関(西域北道から天山路)、嘉峪関(玉門関のあとの重要関所)の位置を確認してきました。沙漠の中にあった関所なので砂に流され、興亡があって現在の場所とは異なっていますが、厳しい環境は当時と変わらないようです。
黄河のほとりの蘭州から河西回廊の西辺にそって万里の長城が嘉峪関、玉門関へと続いました。今でもその一部ですがドロと草を重ねた2mほどの高さの長城が確認できます。玉門関よりも西側には長城はありません。ここが中国の最前線、この先は“上に飛ぶ鳥もなく 下には走獣なし”という場所です。その様子を飛行機からとった写真でお見せしました。

人跡まれな地域ですが、敦煌や隣の瓜州にはとてつもなく多くの仏教遺跡が残っています。その代表が敦煌の莫高窟(千仏洞)です。砂岩の崖に700窟が穿たれ400ほどの窟の中は、砂漠の大画廊といわれる壁画、仏像が収められています。今その一部の見学はできますが、写真は無理です。代わりに市内の博物館で模写、復元の写真を撮ることができます。もちろん世界遺産になっており多くの観光客が訪れています。1970年代、NHKのシルクロードの秘境の時代とは大違いで、劇場では敦煌をテーマにしたミュージカルも演じられています。中国の近代化に伴って敦煌もトイレもきれいな観光都市に変遷しています。私も動画をとってきたので、一部をお見せしました。

往古、困難な沙漠の道を通った人物もおりました。長安の都を出て河西回廊をぬけて法顕、玄奘三蔵らの僧がインドへ仏典を求めに行きます。法顕は敦煌から沙漠を超えてインドで修行をし、帰りは海路で長安に戻ります。西遊記のモデルになった玄奘三蔵は往復とも困難な陸路をとりました。火炎山近くの高昌国王に長く引き留められます。法顕も玄奘も十数年もの月日をかけての旅でした。玄奘は膨大な仏典を長安の大雁塔に収め、大勢の僧を集めてサンスクリット語の仏典を漢語に翻訳ました。

シルクロードを伝わってきた仏教は538年に日本にも伝わっています。玄奘三蔵の旅の前です。玄奘三蔵の前には法顕が、さらにその前には鳩摩羅什という亀茲国の僧が仏典をもたらしています。断片的には2000年前からシルクロードを通って多くの仏教文化がもたらされていたのです。
莫高窟の壁画、仏像は日本のものとは違ってヘレニズム様式の影響を受けたものが多く見受けられます。日本へ伝わった仏像、壁画などは、私の感覚では西域経由ではないような気がしました。
日本にもたらされた仏教は釈迦の入滅後かなり変質しました。お釈迦様の仏教は上座部仏教(いわゆる小乗仏教)で南インドから東南アジアの国々に広がっていきました。しかし釈迦入滅後500年で大乗仏教が起こったのです。大乗仏教はインドからシルクロードを伝わって西域、チベットに伝わりさらに中国へもたらされたのです。唐の時代になるとインドでは仏教はすたれ中国、東南アジアが拠点になっていたのです。日本の仏教は本家のインドからではなく、すでに変質した中国経由の仏教だったのです。
中国から多くの僧が来日し、また日本からも僧が中国で学びました。その中で特筆されるのが弘法大師空海です。遣唐使として長安の都に来た時にはすでに仏教の知識を持っており、中国仏教随一の高僧恵果阿闍梨は一目で彼を後継者と見抜き、密教の法をすべて伝達しました。20年の遣唐使の任期を2年で終え日本に帰った空海は日本に新たな仏教体系をもたらしました。

空海が得た密教の教義は恵果から受け継いだもので、恵果はさらに不空三蔵という高僧から受け継いでいます。最澄の密教も不空の弟子から受け継いだものです。私は恵果の師匠である不空については知らなかったのですが、友人からのメールで(FB)で「西安にいるなら不空の痕跡を探してくれ」との依頼で初めて知りました。今の時代どこにいようと友人と繋がれる。長安の大興善寺で不空から恵果は密教を受け継いだ。恵果は青龍寺で空海に密教を授けた。当時とはまったく異なる寺だがそれぞれの寺は存在していた。青龍寺を訪れるのは80%が日本人だという。

不空は南インドスリランカの僧であった。空海、恵果が受け継いだ密教はスリランカ僧の不空がもたらした。密教は大乗仏教の一部である。スリランカは現在上座部仏教(いわゆる小乗仏教)の地である。しかし空海の師である不空の時代、大乗仏教があったのだ。現在日本で学ぶ仏教伝来のルートはすべて西域経由とされている。しかし私は敦煌で多少の違和感を感じていた。しかし不空をという人を知れば、南伝の大乗仏教ルートがあったことがわかる。日本に来た仏教は西域経由だけでなく南伝のものもあったとすれば、私の敦煌莫高窟での違和感も多少解消する。ちょうど12月26日の朝日新聞一面にスリランカのジャングルで釈迦三尊(大乗仏教)遺跡を発見!という記事が載った。私に不空を調べるようにとメールをくれた岡村隆さんの記事だった。日本人でスリランカの大乗仏教の遺跡を見つけた人はいなかった。岡村さんの発見はもしかすると教科書が書き換えるほどの大発見かもしれない。こんな重大な岐路を私も通過していたのだ、と私は感激だった。
不空の亡くなったまさにその日、空海は生まれている。空海は不空の生まれ変わりと思って「空」の字をもらって、空海と名乗ったのではないかとの想像を働かせた。

旅をしていると面白いことに出会う。むかし若いころ、「旅をせねば、老いての物語はない」との言葉を聞いた。もう若くはないが、物語を作るためにまだまだ旅をせねばならないと皆さんに伝えて話を終えた。

その後の懇談では、現代中国のあまりにもすごい速度での進展について話題になった。中国通の方が多くおられたので、実態が少しはわかったが、私たちがその方向に進まざるを得ないことにたいしてみなさん不安は隠せないような状況だった。

 

国立科学博物館へ

孫と一緒に上野の国立科学博物館。昔の古いイメージとは違って展示がすばらしくなっている。連休の一日目、多くの家族ずれがやってきている。科学離れが心配されるこの頃。結構まじめに科学に向き合っている親は多い。

久しぶりだったがフタバスズキ竜は健在、フーコーの振り子も機嫌よく動いていた。孫は嬉しそうに写真を撮りまくっていた。あとでみると私よりも数倍上手だった。カメラは私の方がいいのに。

動画もとったので入れようと思ったら、5メガ以上はダメとのこと。残念。

竹寺から子の権現、浅見茶屋へ

今年になって西武線二回目。本日は池袋8時半の特急で飯能まで行き、9時35分発の名郷行きのバスで小殿まで行った。日経新聞やテレビで有名になった浅見茶屋で新名物のうどんを食べようと思ったからだ。吾野駅から5キロほどあるが舗装路があるので車でも入れる。しかし私はなるべく苦労をした方が感激も深いし、おいしいだろうと考えているので、7キロほど山を越え行くことにした。 飯能では若者で満席だったが、飯能第二小学校のバス停でほぼ全員が下りた。何かの施設があるようだ。(帰ってから地図を見ると自由の森学園があった)小殿バス停で降りたのは私一人。竹寺と子の権現へ初詣する人がいるだろうと思ったが、一人もいないなんてちょっと驚いた。小殿バス停からすぐに急登になる。風が強いので杉の木がこすれあって不気味な音がする。誰もいないので気持ちが悪い。

昨日の鎌倉天園コースとは大違い。でもコースタイムと同じ1時間で竹寺に。神仏混交の寺で、なかなかいい狛犬がいる。牛頭天皇を祀る社もある。藁ぶきのなかなかいい寺だが、誰もいない。子の権現への道で人がいない原因が分かった。山道が崩れて通行止めになっているのだ。早く言ってくれよ! でも私のこれまでの経験では、責任回避のために立札を立てているだけで、ちょっと迂回すれば歩けるはずだと、突き進んだ。予想通りで大した崩れではない。人が通った跡もあった。

豆口峠には二重の通行止めの標識があった。もう通ってきた後だ。しばらくすると何かわけのわからない白いおおきな掌がおいてある。気持ち悪い。子の権現は金の大草鞋のある寺だ。足腰の守護をしてくれるありがたい天台宗のお寺だ。私もこれまでに何回もお参りをしてきた。今はトレイルランのコースになっており、大勢のランナーが通り抜けていく。

子の権現から浅見茶屋まで25分と書いてあったが、下り得意の私は20分で到着。昔と同じ外観だが何やら活気がありそうな感じ。中に入ると平日というのに大勢のお客がいる。私も皆さんと同じ肉汁釜揚げうどんを注文する850円と高くはない。となりに座ったおじさんは正月5日に来たが満員で3時間待ちだったので出直ししてきたとのこと。今日は待ち時間なしでよかったとのこと。

満足して吾野駅まで下った。5キロの距離だったが満腹の身では結構長かった。帰りは特別快速で4時には家に着いた。5時半に孫のお迎えに行くように言われて、休む間もなく学童クラブへ。本日の歩いた歩数は3万歩をだいぶ超えた。

明月院から鎌倉アルプス瑞泉寺へ

久々に山歩き! 鎌倉アルプスに行ってみた。このコースは私のお気に入りのランニングコースだったが、今はおとなしくとろとろと歩いてみた。昔の私のようにランニングの人に何人も追い越されたが、どうぞどうぞ! と道を譲る。昔なら、俺を追い越すとは失礼な奴とばかり、競争をしていたが、今は円熟の境地。寅さんのセリフじゃないが、「寒い中、労働者諸君!しっかりがんばりなさい!」  北鎌倉明月院の脇から上がっていく。建長寺の上から富士山を眺め、横浜のランドマークを見ながら天園につく。お弁当を食べている人もいるが、その先に茶店があるのでそこで一休みと思っていたら、更地になっていた。2、3年前に取り壊されたよ! とのこと。あら残念。うどんでも食べて金沢文庫に降りようと思っていたら当てが外れたので瑞泉寺に降りた。

瑞泉寺の門前を通り鎌倉宮、荏原天神を経て鶴岡八幡宮へ。鎌倉宮には狛犬なし、荏原天神の前の白幡神社には小さな狛犬、鶴岡八幡宮は公暁のイチョウがあった石段の登り口にもあったので二つを載せておきます。

寒い寒い日で、山歩きをしたのに汗もかかなかった。湘南ライナーを使えば池袋駅まで乗り換えなし。大変便利になった感じがする。我が家まで1時間ちょうどだった。

ヤマップ 石神井川

私のランニングコースは石神井川を中板橋から王子駅までの5キロコース。これまでは35分ぐらいで走っていたが、今は1時間かけて歩いている。往復するので10キロ。約2時間。昔は夕方や夜間に走っていたが、ヒマになった今は午前中に歩いている。今年になってほぼ毎日2万歩ぐらいになる。

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午前中に歩いたので大仏様に光が当たっていた。初めて写真が撮れた。日本三大大仏は奈良の大仏、鎌倉の大仏まではだれでも納得するが三番目はどれかあまりよくわからない。板橋には、植村直己の墓所がある乗蓮寺に大仏がある。これが三番目という人もいるが、北区のこの大仏も三番目といってもいいかも!これまで正確に距離や時間を測ったことはなかった。ヤマップを使うと実に簡単にできる。もっと早く知っていれば・・・、でも散歩に時間や距離はいらないな。もしこれを日常に使うと、これよりも時間を縮めようなど努力をしてしまうだろう。今の私には必要ないけど、一月末には八甲田に行くので、霧にまかれたりしたときには役立つだろうから、使い方を練習しておかなければいけないな。