蒲郡:ガマゴリうどん

三河湾の蒲郡に「ガマゴリうどん」を食べに来ました。というのは本当の理由ではなく、我が家は結婚50周年、金婚式なので、その記念に蒲郡クラシックホテルにやってきたのです。このホテルは日光金谷ホテル、奈良の奈良ホテル、箱根の富士屋ホテルと並ぶ豪華クラシックホテルとのこと。

シーズンオフのこの時期、半額以下の値段で泊まることできるとの情報で、申し込んでおいた。東海道線の車窓からも高台にみえるお城のような建物はなかなかのものだ。昭和天皇が泊まったというホテルには普段ならとても泊まれるようなところではないが、金婚式だから、まあいいか。
高台のホテルから目の前の三河湾に浮かぶ竹島がみえる。400mの橋が弁天様の島とを繋げている。八百富神社という。やけに低い鳥居だと思っていたら、鳥居の下に橋をつけたからだ。石段の上にはいくつかの社殿が共存している。島の上からの眺めは素晴らしい。

島の上には八百富神社があり、なかなかの狛犬がいた。蒲郡の隣は岡崎市がある。岡崎は日本でも有数の御影石産地であり、狛犬の彫刻も盛んだった。この狛犬は岡崎型というそうだ。大正時代のもの。

秩父夜祭:知々夫神社

秩父神社に行ってきました。この神社は知々夫の国(律令制の前武蔵の国と並んでいた)の一宮だったという。2006年になって全国一宮会ではこの神社を新一宮とした。「新」というが、そここの一宮よりも歴史は古い。本殿の彫刻は日光東照宮を思わせる。それは江戸に近いために徳川幕府から様々な援助を受けたことによる。西国33か所、坂東33か所と合わせて100観音霊場になるように秩父34か所が置かれたのも、江戸に近いという地の利だった。今は一山超えなければ行くことができない盆地だが、徒歩の時代の人にとっては日光も箱根も秩父もそんなに変わりはなかったのではないだろうか。

12月3日は秩父神社の夜祭。日本の三大夜祭りだ。他は岐阜の高山祭、京都祇園祭だそうだ。300年の伝統を誇る豪壮なもので笠鉾、屋台は素晴らしい。屋台4基、笠鉾2基が御旅所にのぼる坂を引き上げる時がクライマックス。秩父鉄道の線路を渡るのだがこの日は、電車は欠航になり架線が外される。お祭りの方が先にあったのだから、電車が遠慮するのは当然。これはいいね。都内でもやってみたら。屋台と笠鉾、一部ですが写真に写しました。御旅所を上がる時間までいることができなかったので花火を少し見て戻りました。

忘れていた。狛犬、鳥居の下に一対あっただけ。ちょっと寂しい。狛犬を見るのだったが秩父の奥にある三峰神社に行かなければならない。近々行ってみよう。お祭りのお店は秩父ならではのこんな地味なもの。食べ物は中近東風が多かった。

鳴砂山・月牙泉

 

敦煌は砂漠の中のオアシスだ。現在は18万人もの人が住むが、その昔は泉の周りに少しだけの人が住んでいたのだろう。そんな景色が郊外にある。鳴砂山とその間にある三日月型の泉、月牙泉だ。ここは敦煌の最高の観光地になっている。入場料が110元もする。年寄り割引はなかったが、シーズンオフだったので半額。二人で110元。 砂丘の保全なんか考えなくてもよさそうだ。砂除けのスパッツを借りて(15元)皆さんどんどん上がっていく。ここは高さが100mの砂丘だ。二人のすぐ脇に半月。なかなかいい感じに撮れた。 三日月型の池がある。この水は枯れたことがないそうだ。湖畔には道教のお寺が立っている。砂だらけの寺だ。砂漠にはラクダ。こちらのラクダはふたこぶラクダ。乗りやすい。昔は砂漠の船といわれるように荷物運びの主役だったが、いまは観光用。11月寒いのでのる人は少ない。さみしそうに帰っていった。GoogleEarthの画像から見ると、こんな場所。敦煌山荘に泊まった。こんなでかい敷地だったのだ。食事に行くのが寒くて大変だった。となりの雷音寺もでかい敷地。下のくしゃくしゃは砂丘!

 

玉門関:陽関をいずれば故人なからん

敦煌から西域に行くには二本の道がある。南の陽関をでると楼蘭をでて西域南道、あるいは漠南道をへてホータンにでてヒマラヤを超えてインドに向かう道。一方北の玉門関をでると西域北道をハミからウルムチに向かう。ウルムチからは天山北路、天山南路に分かれキジ国からカシュガルにでてさらにタジキスタンに向かう。今回は敦煌(人口18万人)から北西に100㎞ほど離れた玉門関と南西に80㎞はなれた陽関に行ってきた。数十年前なら一日がかりだったろうが、今は舗装道路が続いており1時間ちょっとで行くことができる。もちろんバスなどはないから車をチャーターする必要がある。最初に玉門関に。途中送電線が張り巡らされている場所を通った。砂漠に太陽光発電所を作り敦煌に工業団地を誘致するとのことだ。今敦煌はブドウ、アンズなど果物だけが換金作物。あとは観光収入だけだから、工業を誘致しようというが地の利は悪い。あまり望まない方がいいのでは・・・・道路の上に料金所がありその先に玉門関の立派な博物館があった。周辺にあるのはこの建物だけ。ここは万里の長城が果てるところ。3mほどの高さの壁は砂漠の中に消えている。漢の時代に作らたので「漢の長城」と呼ばれている。博物館からはシャトルバスがでており、大方盤城遺跡に行く。ここが一番の見どころだろう。粘土で固めた大きな建物は数百人が住んでいた要塞かもしれない。玉門関から陽関までほぼ100㎞を車は走る。陽関の村でお昼。壁に王維の「西出陽関無故人」の詩が書いてあった。簡体字だがまったく味わいはない。
お昼を食べて陽関へ。ここにも博物館があり、城門も復元?創作!されている。門の向こうには王維が手を振っている。王維に見送られてシャトルバスでのろし台に向かう。この高台に上ると反対側が見える。玉門関と違って平坦な場所にある関所ではなく、山の向こうははるかな大平原。まさに関所として最高の場所だ。この向こうに楼蘭がありホータンがあった。心の目で見ようと思ったが、とても届かなかった。
この茫漠とした地を、わが友人の中山嘉太郎は単独で走っていった。いったい何を考えていたのか。いや考えたらこんな広大な場所を走る気にはならないだろう。私には偉大というよりも狂気としか見えない。とてつもなくすごい人と友達だったのだ。

敦煌山荘にいます!

私たちが泊まっている「敦煌山荘」です。町から外れたところに広大な敷地を得て香港資本が作った観光用のホテルなので異国情緒たっぷりに作られています。値段は東京のビジネスホテル並み。それでも敦煌では最高級。私は並みのホテルでいいのですが奥様は洋式トイレのないところは嫌!しかし残念ながらウォッシュレットはありません。もっとも上海でもウォシュレットはなかったなあ。目の前にはこれまた驚くほど大きな寺があります。北周(隋の前)の時代の寺だと説明があります。しかし敦煌にはそんなに昔からの寺は残っていない。その時代にあったらしい寺を復活させたということらしい。なのでこの場所かどうかは全く不明。西域ちょっと時間がたてばすべて砂に埋まってしまうので、地上に遺跡はほとんど残らない。西域の遺跡発掘はほとんどが20世紀の探検家によってなされたものだ。私たちが敦煌に下りた前の日に雪が降った。敦煌山荘から見える砂丘は雪をかぶっている。すばらし景色だ。この砂丘の高さは200mもある。これは山ではなく砂が吹き上げられた砂丘であり、風の吹き方によって姿を変える。

見るからに寒そうな景色だ。本日の気温は最高が2℃、最低が零下10℃だ。かなり寒さ対策をしてきたが、それでもしんしんと冷える。食堂は景色のいいテラスに面しているのでいったん部屋から出ていかなければならない。中国は北京時間に統一されているので敦煌は日の出が8時30分、朝食は7時からなので深夜に食べている感じ。テラスからは雪で白く浮かんでいるような幻想的な砂丘が見える。月明かりがあると輝くだろうが本日は残念ながらなし。明けの明星の光では暗すぎる。とてつもなく寒い。これは道教の寺。砂漠の中にある月牙泉のわきにある。この塔の上からの砂丘と砂漠の眺めはいい。

 

敦煌から西域(サイイキ)が始まる

 

敦煌の博物館にこんな地図があった。これだけ大胆に作った地図はなかなかない。しかしこれでシルクロードのおおよそのルートは分かる。字が小さいのと読めないので、私のわかる範囲で文字を載せてみた。

長安は中国の千年の都。秦の始皇帝陵もあり玄宗皇帝と楊貴の宮殿もあった。日本から遣唐使が派遣されたのもここ長安で、阿倍仲麻呂、空海などもここで学んだ。現在の西安にはほんの少しだけ長安の名残がある。中国は政権が変わると前の王朝の建造物を破壊することで前の歴史を途絶させる。いまの西安は千年の都長安を引き継いだ町ではないそうだ。 長安の城門から旅人は西へ旅立つ。河西回廊をとおって蘭州で黄河をわたり酒泉を通って敦煌に出る。南側は祁連(きれんさんみゃく)山脈、北側は万里の長城が境しているので、ほぼ一本の道になっている。今回の旅で西安からのヒコーキはこの祁連山脈の上をずっと飛んで行った。山また山どころではない。ヒコーキで一時間以上にわたって人跡、動物跡は何もない山々が連なっていた。山が終わったところから砂漠が始まる。そこが敦煌の町だった。

敦煌から西へ大きく分けると3本の道が通っている。19世紀ドイツの地理学者のリヒトホーフェンは著書「China](1877年)で東西交易路のことをザイデンシュトラーセンと呼んだ。「さまよえる湖」を探した探検家ヘディンが、それを英語でシルクロードとよんだ。

漢の武帝(BC2世紀)が張騫を派遣して西域を調査させた。しかし張騫は匈奴にとえられ13年間も幽閉された。しかし生きて戻り、情報をもとに匈奴を追い払って西域に進出した。その最前線が敦煌であった。漢の最前線として、万里の長城を延長し、敦煌の近くの玉門関まで長城が作られた。漢時代の建設なので「漢の長城」と言われる。高さは3mほど。河岸に沿って作られているので、西方から見るとかなり高く見える。(下の写真は張騫の像と漢の長城)

上海で準備

敦煌と西安に行く予定ですが、年をとったので一気に行くのは大変なので、上海で2泊しています。昨日は4時過ぎについたので夕食を食べたらすぐにホテルに入って、ゆっくり休みました。前回泊まったトンマオホテルはどういうわけか満員で、加州酒店というホテル。なんと大きな競技場の観客席の上がほてるになっている。目の下ではりっぱなトラックを多くの人が走っている。

接続の調子が悪いので、とりあえずここまで。

紅葉見物 鬼無里・鎌原観音堂など 

戸隠の山岳会の20周年記念日と合わせて紅葉見物に行ってきました。私は車がないので、EGUCHI夫妻の車に同乗して、あっちこちを回ってもらいました。長野駅で拾ってもらい、戸隠へ向かいました。その前に紅葉の名所である鬼無里(きなさ)に行きました。ここは京の都で不埒な働きをした紅葉という女性が流刑になってやってきたひなびた貧しい里だった。しかし紅葉さんはここで隠遁する気もなく周辺の民を集めて反旗を翻したのだが平維盛の遠征軍にやられてしまった。紅葉さんはとんでもない「鬼女」だったという伝説が残っている。今はもう鬼はいない里だよ!と宣伝しているが、鬼女イメージは残っている。今は鬼女ではなく貴女(きじょ)とされているようだ。

戸隠で楽しい宴会をした翌日、EGUCHIさんと同じ高校の後輩が来年からオープンするペンションを見に黒姫高原に行く。なかなかいい感じの外観だ。でもかなり手入れが必要かも。完成したら清瀬の皆さんぜひお泊りに来てください。

黒姫から志賀高原に上がり、雑魚川経由で秋山郷に行こうと思ったら、すでに雪のため閉鎖。6月まで通れないことが判明。急きょ渋峠経由で草津に抜けようと思って峠のパン屋に行ったら、11月4日で冬ごもり、さらに白根火山の噴火の影響で草津に抜ける道路は閉鎖。なので万座経由で軽井沢に行った。

途中鎌原の観音堂の紅葉見物。鎌原集落は浅間山の噴火で泥流が押し寄せ、500人の住民のうち400人以上がなくなった。観音堂の石段はほとんど埋まった。昭和になってから発掘を行ったら、石段の途中で息絶えた女性の骨が出てきた。あと数段登れば助かったのに。素晴らしい紅葉ですが、そんな悲劇のあった場所なので「すごーい!」とはしゃぐ気分にはならなかった。

軽井沢から旧道をとおって眼鏡橋の紅葉を見て横川、安中を通り本庄駅でEGUCHIさんと別れて湘南ライナーで戻りました。長時間運転させてしまいましたが、珍しいところを見れて喜んでくれました。ありがとうございました。

 

じいさんたちのクラス会

 高校のクラス会を毎年11月3日に池袋サンシャイン60のレストランで行っている。日時、場所は固定なので幹事は「まもなくクラス会ですよ」というメールを送るだけ。順送りに幹事をやることになっている。今年私は3巡目だから、もう15年ぐらい休まず続いていることになる。何せレストランの最高顧問が仲間なので、同じ場所で長く続けられている。私が幹事だったせいか、毎年参加していた多くの女性陣はゼロ、全部で13人しかいなかった。これは少々残念。というがもうこの年齢! 欠けていくのは仕方がないか。次の幹事まで頑張らなくちゃ!

 

岩代國一宮 伊佐須美神社

会津美里町に岩代国一宮の伊佐須美神社がある。古事記によれば、四道将軍として北陸道に派遣された建奴奈河別命と東海道を北上して来息子の大毘古命が合流した場所、すなわち相津( あいず)に作られた神社だそうだ。

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この神社は岩代國一宮と称せられている。しかし岩代國というのは明治時代にほんの一瞬存在しただけの国名なので、昔からの一宮ではない。全国一宮会では、新一宮として伊佐須美神社を認定している。しかし新一宮と言われると新しく作ったように聞こえる。実際には延喜式の(925年)の式内社なので古くから存在しており、奥州二宮として知られていた。

 一緒に行ったYOさんの解説では、本社のナンバー2だった副社長が新しい支店の社長になったようなものだ、と言う。なるほどよくわかる。律令時代、白河以北は大和政権の力は及んでおらず、東北地方はまとめてぜんぶを陸奥(奥州)とよんでいた。陸奥(奥州)の一宮は白河の関の近くの棚倉に置かれていた。立派な鳥居、隋神門(門の中にこの立派な木造狛犬がいる)、をくぐって境内に入るとアレレ、ちっちゃな拝殿があるだけ。後ろには土台の石はあるが建物はない。宮司さんに聞いたら、2008年に不審火で焼失したという。今は皆さんで元のように復活させると頑張っておられる。いつもよりちょっとだけ多くお賽銭を入れた。

本殿がないので、仲間のKOBAさんはご神木の前でご縁をお願いした。仮本殿前に戻ったところで、突然KOさんが驚いた顔を見せた。私とYOSHIさんは何事が起こったかと心配した。なんと息子さん一家とぱったり出会ったのだ。お孫さんは「なんでジイちゃんがここにいるの」と状況を理解できないふうだった。高崎在住のKOBAさんと埼玉在住の息子さん一家、なんの連絡もなかったのに会津の伊佐須美神社で出会うのは奇跡としか言いようがない。

大毘古命と建奴奈河別命の親子が会津で出会った、まさに同じことが、古事記以来1300年のちに起こったのだ!すばらしい「会津」に出会って感激した。

大人気喜多方ラーメン:2時間ぐらい待たなければムリ!

その感激さめやらぬまま喜多方にいきラーメンを食べた。喜多方ラーメンの味は伊佐須美神社の感動に比べれば、それほどものではなかった。感動はそうめったやたらにあるものではないのでまあいいか。

四国遍路第11回目(区切り打ち)屋島へ

10月7日、奥さまの大江能楽堂での仕舞の発表のあと、京都から高松へ移動して、四国遍路に出ました。衣装や洋服などは宅急便で送り返し、身軽な格好になりました。別のページに今回の報告書を作りました。まだリンクがつながっていないので、青いところをクリックしてください。
第84番 屋島寺のページ

今年も大江能楽堂で仕舞

今年は11回目、大江能楽堂での発表会でした。奥さまは今年も無事にこの由緒ある能楽堂(今年で110年)の舞台で舞うことができました。70歳を過ぎてもまだ衰えはなく、進化している様子に安心しました。来年の大江能楽堂での舞台を目標に精進することを期待しています。ことしの仕舞は「笠の段」でした。

御岳ケーブル(御岳登山鉄道)

ーーーーーーーここをクリック:動画ーーーーーー

■明治27(1894)年、青梅市日向和田の石灰石を青梅から立川まで輸送す る手段として青梅鉄道が敷設された。 御岳山に鉄道が開通したのは、昭和4(1929)年のことである。御岳山 や奥多摩への観光客誘致の目的で、御岳まで線路延長が行われた。そして昭和10(1935)年に御岳登山鉄道(ケーブルカー)が開通して御岳山への交通路は完成した。
■大正末期から昭和初期にかけて既に幹線鉄道は完成していたが、幹線から外れた山間地などには軽便鉄道やケーブルカーが作られた。関東地方でも筑波山、赤城山、榛名山、大山など山上に霊験あらたかな寺社がある「霊山」にはこぞってケーブルカーがかけられた。御岳鋼索鉄道もその一つであった。■御岳山(海抜929m)の山上にある御嶽神社は、8世紀に行基菩薩が蔵王権現を祀った修験の山であった。関東一円に人気のある霊山であり、多くの人が訪れている。明治以降の祭神は櫛真智命であるが、多くの人は境内社の大口真神神社のお使いであるオオカミを信じているようだ。近隣の家にはこの神社のお札が貼ってあるところがほとんどである。

■上の写真をみると山上に集落がある。各地を回って参拝客を呼んだ御師の人たちの集落で、大きな建物は宿坊である。しかし今は民宿に変わったり茶店、土産物屋を営んでいるところも多い。作家の浅田次郎さんは19代も続く御師の家に育った。御嶽の集落に伝わる話を題材にした小説も多い。


■この集落に住む人にとって、ケーブルカーはなくてはならない。子どもたちは毎朝ケーブルを使って麓の学校に登校している。2016年1月から3月にかけてケーブルカーが運休した時には、通学通院に支障をきたしたことが新聞記事にもなった。



ケーブルを降りて神社に行くにはかなりの急坂をのぼらなければならない。そこでリフトが付けられているが、多くの人は急坂上りもプチ修行と考えて土産物屋の間を抜けて上がっていく。参道には各地の「講」の碑が林立している。今でも多くの人が講を作って参拝しているようだが、写真で見るように登山姿の参拝者も多い。ハイキングのついでにちょっと立ち寄り、という人が大半のようだ。その先鞭を付けてくれた人が山ガールの田部井淳子さんだ。
もうひとり登山家の長谷川恒男さん、この方がトレーニングをしていたコースは「ハセツネ杯」トレイルランのメッカになっている。10月の中頃、真夜中に御嶽神社の脇を1000人ものランナーが走り去る。大会当日は一銭もお金を使わないが、事前トレーニングに上がってくる人も多い。


太占(ふとまに)祭:古代の祭祀として現代に伝わっている。今でも太占祭りをするのは、ここと群馬の貫前神社だけという極珍しい行事だという。その場所が本殿裏の遙拝所の近くにある。と言っても縄を張って、結界を作っただけの何もない場所だ。

 


この会社のホームぺジにはケーブルカーの仕組みが詳しく載っている。
それらの図を拝借して、ケーブルカーの仕組みの解説をしておこう。

筑波山ケーブル(筑波山鋼索線)


筑波嶺の みねより落つる 男女ノ川 恋ぞつもりて 淵となりぬる (陽成院)
百人一首にのこる歌である。平安時代、都の人たちにも筑波の峰は知られていた。山には男体、女体の二つの峰がありその間から男女川が流れだしている。男女の縁を取り持つ「歌垣」がこの峰で行われていたことも都の人たちには憧れで、多くの歌が作られた。

中腹にある筑波神社は、筑波山そのものものをご神体としているので本殿はなく拝殿があるだけだ。厚い信仰をもった人々が多く訪れていた。昔は「つくば道」を歩いてやってきたが、明治期になると国鉄の土浦駅から筑波鉄道が伸びてきて参拝客を運んだ。1960年ごろまでは国鉄の急行列車が筑波駅まで通っており、上野から乗り換えなしで来ることもできた。

大正14年、地元の実業家、高柳淳之助らが尽力して筑波山鋼索鉄道が作られた。当時は霊山参拝のためのケーブル建設がブームで、筑波山鋼索鉄道はそのはしりとなった。

男女川の谷間を抜けるために線路は曲線になっている。筑波山は花崗岩の硬い岩盤で工事は難航したようで、途中には118mものトンネルがある。車体、線路は建設当時とは異なっているが、線路敷地は当時のままで、近代の土木遺産と認定(2015年)されている。

大正14年に開業したが昭和19年(1944年)全国のケーブルカーは不要不急線となり休止状態となった。昭和29年(1954年)再開して観光産業として賑わったが、徐々に乗降客も減った。1991年ロープウェー会社と合併し、京成電鉄62.4% 筑波山神社 18.9%の株式を保有する筑波観光鉄道となっている。

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宮脇駅(標高305m)と山頂の筑波山頂駅(標高800m)間、1,634mを約8分で結んでいる。山麓の宮脇駅は筑波山神社の隣に位置しており、『お宮の隣→お宮の脇→宮脇』ということから宮脇駅という名称になった。
筑波山山頂駅から女体山へは15分ぐらいの登り。男体山の方に向かうと20分ほどで山頂の社殿に出る。途中には恐竜の頭の形をした岩があり、子どもたちは恐竜の口に石を投げ入れようとしている。うまくいけば願いが叶うかもしれない。ここもパワースポットである。この山頂から霞ヶ浦方面への眺めは、これまたすばらしい。

男体山の頂上を降りて、今来た道の反対側には登山道がついている。ここを下るとすばらしい岩の造形が出てくる。それぞれに仏教的な名前がつけられ、その前で手を合わせる人も多い。パワースポットとして売り出しているが、成功している感じだ。

登山道は急なので、下るのはかなり体力が必要だ。歩きたくない人は男体山の手前にロープウェーの駅があるのでそちらに向かう。地を這うケーブルカーと違いロープウェーは空中散歩。関東平野、霞ヶ浦が見渡せる5分間の空中旅である。というものの私はこれまでに一度も乗ったことはない。どうも地に足がついていないのは好みでないからだ。

ケーブル下の駅まで「つくばエクスプレス線」のつくば駅からバスが来ている。つくばエクスプレスができてからは東京からも簡単に筑波山に行くことができるようになった。江戸の昔、東に筑波、西に富士という景色があった。東京東部に住んでいる私らにとって筑波山はいつも仰ぎ見ている山だから、近くなったことはうれしい。

ケーブルカー、ロープウェー、バスを使って筑波山をぐるっと一回りするツアー。手軽に信仰(パワースポット)と自然を味わえる小旅行はこれから人気が出てくるのではなかろうか。