地平線会議で、ジャーニーランの話をさせてもらいました。地平線会議は1979年に発足した『探検と冒険のネットワーク」です。第一回の報告者は私で、その時にはトルコ全土を回った話をしました。今回の報告会は443回目、月一の報告会、通信は一度も休んでいないのでほぼ37年間続いている大変な会議です。私は第一回からほぼ30年間地平線通信と報告会を担当してきましたが、2011年以降は引退して、いまは見守隊で地平線通信を読むぐらいの付き合いです。
そこに久々に呼んでいただいて、報告をすることができました。人の前で話をすることは、あまりなくなっていたので、準備をしっかりやりました。何を話すかメモ用に映像を作っておき、時々止めては話をしました。最近はボケが進んでいるので、メモがないと前後の脈絡がなくなるし、言いたいことが欠落するからです。しかし予想通り、人の名前や地名を間違えて、みなさんからたくさんの指摘を受けました。「年だからしょうがないなぁ」とお許しいただきたいものですが、ちょっとショックですなあ。
大阪や福島、山梨、茂原など遠方からも来て下さいました。30年ぶり、もっと40年ぶりの方々もおられました。「話を聞くのはこれが最後かもしれない!」と思っていた人も多かったようで、機嫌よく話していたのを見て安心、あるいは期待外れと思ってくれたようです。私も2時間立ちっぱなしで話すのはきついかと思っていましたが、楽しく話せて、さらに二次会にも行くことができました。家に戻ったのは午前様直前、何年ぶりのことでした。
ともかく元気に2時間話すことができたのは良かった。みなさんからパワーと花束を頂きました。ありがとうございました。参加して下さった皆さんに感謝感謝。E本、MARU山、NAGA野、TAKASYO の皆さん Special Thanks!
寒いけど、桜が咲き始めた!
スペイン語コンテストを聞きに!
港区の男女平等参画センター(リーブラ)でスペイン語のスピーチコンテストが開かれたので、私も聞きに行った。「スペイン語わかるの?」・・・まったくわからないが、知り合いの高校生が最終選考まで残っているというので応援(やじうま)で行ってみた。皇族さまも来られるので、いつもの格好では来ないようにと言われたのでいちおうまともな格好をしていった。
言葉はわからないが、態度表情などで、だれがすごいかはわかる。高校生も何人かでていたが、外語大学の学生よりも堂々としていてすばらしかった。大学生、社会人などもいるなかで高校生が優勝してスペイン留学の権利を得た。我が応援の高校生はおしくも優勝を逃したが、すばらしかった。去年の今頃はまったくスペイン語など知りもしなかったのに、あれだけ堂々としゃべれるようになったとは、若者の集中力はすごい。感動感動だった。将来楽しみだ。
久しぶりの環境講座
久しぶりで埼玉の消費者団体「コーペル」で環境講座をさせてもらった。みなさん桜環境センターを見学に行ったあとあとだったので、盛り上がった。今回はLinear Economy から Circular Economy と称してお話をした。これは昨年話題読んだスーパープレゼンティションで使われた言葉を借用した。新しいモノ好きのみなさんには好評だったが、中身は前から言っている通りの3Rである。
リサイクルに関してこんな俳句?を作ってくれた
「風呂プール 我が家のごみが 姿変え」なかなかいいね。これがリサイクルだ。
さらに4月からの電力小売り自由化に関しても話した。桜環境センターもごみ発電でつくった電力を売っているけど、ちゃんと料金をもらっているのかな?? 協同組合がつぶれたばかりで、自治体のごみ発電所が被害にあっっている。どうしたらいいか、あおられないで、とりあえず状況を見守る方がよさそうだ。との話をした。我が家もとりあえずはアンペア数を下げただけ。
寒い!さくらはまだ!
月と木星と並んでいる
地平線会議で話します!
「ちょっとそこまで走り旅」の出版と合わせて地平線会議でお話をさせていただくことになりました。私は1979年9月、第一回目の地平線会議の報告者です。もう37年前のことです。それ以来今回で443回目。私も30年間関わってきた。報告会の案内は、最初はKIYO瀬高校のガリ版を借りて印刷していた。そのあともいろんな高校の輪転機をひそかに借りていたが、私が退職して、現在は新宿区の区民センターの印刷機を借りている。MORI井さんという名人がE本さんの原稿をパソコンで編集して印刷している。継続こそ力。すごいもんだ。
最近ボケが進んでいるので、話す内容を忘れそうなので、いま画像編集をしている。今回は動画も入れようかと思っている。昔授業をするときにはみんな頭に入っており、ここで脱線などと予測できたのだが、いまはそのタイミングはまったくわからない。なんとかブーイングが起きないように頑張りたいのだが。ちょっと心配。
場所は新宿区コズミックセンター 東京メトロの西早稲田駅のすぐ前です。早稲田大学理工学部、戸山高校前。明治通りに面しています。時間は6時半から9時まで。2次会もあり。 アッ 日にちだけど 3月28日(月曜日)です。 入場料500円。
野口研のサクラ 今年も満開
ハクモクレン
田老 巨大な堤防
カルボナード島越
富岡 小浜海岸 ろうそく岩
がらくた整理を始めているが、その中でも一番大変なのがスライドの写真だ。四段のファイリングケース2本にぎっしりと入っている。一応整理をしてあると思っていたが、何かに使ったりしてかなり散逸している。大事そうなものだけ残し、全部捨ててしまおうと思っていた。
しかしこんな写真があった。こりゃとても捨てられない。どこの場所かと言えば、福島県の富岡の牛浜海岸だ。1980年代に常磐線富岡駅から小良浜(おらがはま)の港に向けて走った時に撮った写真だ。昨年常磐線の富岡駅の跡に行ったが、常磐線はまったく途切れたまま。それもそのはず、ここは福島第一原発と第二原発の間にある町で、とても帰還ができる場所ではない。
当時この岩は「ローソク岩」と呼ばれていたと思う。現在どうなっているか、福島在住の哲くんに聞いたが、「まだまだ行くことはできないのでどうなったかわからない」とのこと。風の噂では津波でローソク岩は崩壊したという。見てわかるとおりこの岩はかなり柔らかい砂岩、泥岩などが重なったもので、年々崩れてきていた。なくなるのは時間の問題だと思っていたが、大津波であっけなくなくなったようだ。
自然界にはカタストロフィ(不連続・大変化)ということが時々ある。大地震、大津波、大洪水、大噴火など。通常はちょろちょろ流れている川の水がとてもV字谷をつくるとは思えないが、長い歴史の中では大洪水がしばしばおこってとてつもなく大きい岩が谷底を削りながら流れてくる。V字谷はカタストロフィでできるもので、ふだんの連続的な浸食でできるわけではない。
ろうそく岩の対岸には遺跡がかなりあったが、半分ぐらいが削られていた。当時私は徐々に浸食が進んでいるのだと思っていたが、過去の大津波で一気に崩れ去ったのだといま思う。たぶん「ローソク岩」はなくなっているのだろうが、福島第一原発の放射能のために確かめることはできない。様々な意味で、この写真重要だ。写真を捨てる作業はしばらく中断しなけりゃ。
「雨だれ岩を穿つ」、小さな雨だれでも長年続けば岩に穴をあけることができるということわざかな。しかし岩に穴をあけるまでの間にカタストロフィーが起こることが今回わかった。コツコツ努力していても突然ひどいことが起こることはあるということ。「努力は実るとは限らない」という教訓もある。一生懸命コツコツ努力している人から見れば、なんと不謹慎と怒られそうだが、そんなことをローソク岩の写真から感じた。
ぶらりバークラブ 舎人公園
今年第3回目のぶらりバークラブのお散歩。今回はちょっと距離を短くして舎人ライナーの終点の見沼代親水公園駅から見沼代用水、毛長川の交差点から歩き、舎人公園へ出た。
公園のサクラが今は満開。修善寺寒桜という種類だそうだ。東京のサクラの開花は21日と予想されているが、それはソメイヨシノ。他のサクラはもう咲いている。
子のサクラが咲いている舎人公園は足立区で一番高いところ。江戸時代の前には舎人城があったそうだ。いまは地下に舎人ライナーの車庫があるので、盛り土でさらに高くなっている。なかなかの景色。
本日はたくさんの人が参加してくれた。13人かな。舎人公園では地酒のテント村ができていた。ノンベイは試飲していたが、私はまだ飲めないので先に戻り、熊野前で都電に乗り換え、三ノ輪へ行き、有名なさつま揚げを買って帰宅。本日16000歩も歩いた。体調は悪くない。
3.11 あれから5年
あれから5年だ。私も含めてみなそれまでの生活を振り返って、謙虚な態度になった。復興がなるまではぜいたくはしません。電気がなくてもがまんします。原発なんか要りません。と言っていた。政府はものすごい予算をじゃぶじゃぶ出して、復興を進める意気込みを見せている。
もちろんそれはいいことだろうが、陸前高田の町などを見ていると、一体だれのための工事だろうかとおもう。町にはかさ上げ工事の車や重機、昨年までは山を崩して土砂を運ぶベルトコンベアがフル回転していた。町が出来上がるまでにあと何年もかかるだろう。それまでに人は完全にいなくなる。土地は復興したが、人はいない。
本当に住民のための復興なのか、かなり疑問が残る。昨年は福島にも行ったがこちらは原発事故のために立ち入りできない地区が多々あり、行方不明者の捜索もまだできない状況だ。何をおいても真っ先に遺体収集してあげて欲しい。13年だったか、高市早苗という自民党の偉い人が「事故によって死亡者が出ている状況ではない」と発言し、非難を浴びて撤回した。原発周辺では放射能濃度が高く津波被害にあった人を助けに行けなかった。宮城、岩手などでは津波後に孤立していた人たちが何日か後に助け出されている。福島県でも原発事故さえなければ助かった人もいたはずだ。犠牲者は事故によってでた使者であることは間違いない。高市さんは原発事故は何だったかわかっていない。
同じような言動は丸川環境大臣の発言にもあった。1ミリシーベルトまで下げることができないので、その数値は何の根拠もなく決められたと、環境大臣が言うのだ。これも撤回されたが、うわべだけなのは明明白白。環境大臣なのに、いかにして原発を再稼働させるかを画策しているにすぎない。一昨日だったか、再稼働した原発を差し止めるという判決が出た。現場をみたらだれでも「再稼働など10年早い!」と思うだろう。少なくとも放置されている遺体をきちんと葬ってあげれるようになってから、再稼働の話をすればいい。その時にはどの原発も耐久年数を過ぎているから再稼働はできない。それでも仕方がないじゃないか。再稼働を止められた高浜原発周辺のジイサンがインタビューで「突然止められちゃこまるよ!」と言っていた。5年前のことを忘れたのか!
5年前、政府も東電も謙虚な態度を示していた。たった五年で忘れてしまい、お金が一番とばかりじゃんじゃんお札を印刷し続けている。経済発展はもちろん大事だろう。しかし被災者、被災地域をほったらかしてつき進むのは止めてほしい。政治家というのは後ろを振り向き振り向き進むものだろうに。アメリカ大統領選ではトランプの陰に隠れているがサンダースという社会民主主義の候補が善戦している。アメリカにだってこんな政治家が支持されているのだ。日本ではどうなんだろうか。
牛丼パソコン復活
我が家のがらくた整理をしているが、大量のビデオが出てきた。もう教材に使うこともないので3日間で全部捨てた。さらに自作のビデオカメラとカセットが100本ほど埋もれていた。孫たちのものを10本ほど残して後は捨てた。10本はCDに入れ替えよう。
パソコンの用の記憶媒体のMOとZIP、フロッピーが大量に出てきた。フロッピーは1000枚以上あったが、一部は前にハードディスクに残したが、ワープロで作ったものはもう読むことができなくてあきらめた。残しておきたかったのは「ぼくのトルコ語修行」の原稿だが、もう本に残してたからいいか。東芝ルポで作ったものだ。MO・ZIPは一部はHDに入れてあるはずだが、こんど出てきたのは入れ替えをしていなかった。2002年ごろのもので、学校関係の写真や成績などだった。残しておいたら、面倒なので大部分をトンカチで壊して捨てた。
さらに懐かしい牛丼パソコンが出てきた。当時牛丼が398円だったが、このパソコンが39800円だったのでその名がついた。山梨の中山さんと一緒に買った覚えがある。このパソコンにはMOとZIPの読み取り器機がSCSI接続でついている。でもケーブルを先日捨てたばかりなので、秋葉原まで行って2本見つけてきた。無事動くようになったので、MO・ZIPの写真をHDに入れ替えた。日本縦断などの文書はすべてページメーカーで作ってある。今のパソコンにはPMは入っていないので、牛丼パソコンで読むしかない。それをPDFに変換して保存することにした。今のパソコンでPDFからワードに戻すことはできるようだ。暇ができたらやってみよう。
ということでここ数日は牛丼パソコンに張り付いている。でも牛丼パソコンからはインターネットができないので、時々はこちらのパソコンを見ている。いまのパソコン能力はすごいね。「遅い!」とか怒るが、牛丼パソコンに比べれば超特急。牛丼はしょっちゅうフリーズする。ファイル移動も20分とかかかる。のんびりしていたなあ。