我が奥さんの舞囃子「田村」

我が奥さんの旧姓は田村。すでに現姓の「三輪」は舞ったことがあるので、今回は「田村」を水道橋の宝生能楽堂で舞った。奥さんの母の田村美知代さんは15年前の今日亡くなった。その追悼でもあった。

77歳にしてはなかなかなで、キレもよく舞うことができたようで本人も満足していた。写真班の私はモタモタして最初の場面をうまく撮影することができなかった。あまりにも慣れ過ぎていたことが失敗原因。奥さんは「これが最後!」と言っていたが、うまく撮影できなかったのでもう一度やってもらうことにした。

次も撮影失敗すれば奥さんはさらに続けることになるかも。いま辞めてしまったら、老化するだけだからもう少しやった方がいいかも。ビデオを見るとなかなかいい動きをしているのでまだできるだろう。私の撮影の腕が衰えていないといいのだが。

 

冬のお花見 蝋梅 

オミクロンに狼狽しながら過ごしている。しかし3度目のワクチンも先日すませたので、人のいないところでお花見するぐらいは許されるだろうと勝手に判断し、立川の昭和記念公園に行ってきた。ネットで見たら公園の一番奥の池のそばに咲いているそうだ。この公園には桜の季節に何回も来たことがあるが、梅の時期には初めてだ。

お弁当を買って立川駅から歩いた。昔の飛行場の跡だから広い広い。その広い公園には数十人の人しかいないのでさびしい。午前中に足の魚の目を液体窒素で焼く治療をしたばかりだったので足の裏が痛い。手の親指のイボも同じ治療をしたので缶コーヒーのキャップが回せない。気分も体調も不調で疲れが一段と増した。
しかし奥のほうで紅梅、白梅、などを見ているうちに気分は回復、足もびっこを引きながら歩けるようになった。蝋梅は普通の梅とはちょっと違う。本当の梅のなのかな?   ロウバイ科ってのがあるそうだ。梅はバラ科。

それぞれの咲き方を見てみよう。

梅だけでなく水仙も咲いていた。昨年の暮れは暖冬で水仙は1月中に満開になったそうだ。毎年宮本先生の水仙忌に水仙を飾るのだが今年はオミクロンで中止。もしあったとしても水仙を飾ることはできなかったかもしれない。ほんのちょっと咲いていた水仙の写真と節分草。セツブンソウも節分の頃花開くのだが、今年はもう終わりそうだった。

のんびり日向ぼっこしている鴨だが、温暖化が進むと北へ帰る日も早くなるのかな?

第5章 神武東征、神功皇后東征!

「思えば伊勢と三輪の神 一体分身の御事 今さら何を磐座や!」
伊勢の天照大神と三輪山の大物主神はもともと一体の神さまだよ!そんなこと今さら聞くなんて何を言うのか(言うと磐座の掛詞)
謡曲『三輪』の言葉をきっかけにして天照大神の故郷、三輪山の神の故郷を訪れてみた。天照大神の故郷は「高天原」で、「天の浮橋」でつながっているが、この世のものではなかった。高天原を追放された天照大神の弟のスサノオ神が「豊葦原の中原」に降りてきて八岐大蛇を退治して出雲の国を豊かにした。

大国主神はスサノオ神の娘と結婚し出雲の国を譲り受けた。さらに大物主神や少彦名神と一緒になって大和の国を作り上げた。豊葦原の中原である大和国が豊かになったのをみて、天照大神はこの国は弟の国なので大国主神から返還、すなわち「国を譲り」をさせた。しかし高天原のゴタゴタの間に状況は変わり自分の孫(天孫)を降臨させる場所は南九州だけになっていた。

南九州で力を蓄えた神武天皇(もちろんそんな名前ではなかったが)は兄と一緒に
「ご先祖様の約束の地に向かおう!」
と南九州を出立した。
これが有名な「神武東征」で、そのコースを地図に落としてみた。

この章では神武東征のコースを歩いて見つけた様々な出来事を述べていくが、もう一つ同じような東征があったことを知った。神功皇后と皇子(応神天皇)の東征である。この東征は神武東征よりもはるかにスケールが大きい。新羅と百済を攻略してその勢いで瀬戸内海を東に進み、浪速で待ち伏せた勢力を打ち破って大和に入るのである。神功皇后は稀代の英雄であるが、天皇になったとの記述は日本書紀の片隅にしかない。天皇空位の後に敦賀で名前を変えた息子が大和に入り第15代応神天皇となった。

天皇家は126代続いているが贈り名に「神」がつくのは神武天皇、崇神天皇、応神天皇の三天皇と神功皇后だけである。そのうち二人は九州からやってくるが、直接大和入りできず、熊野からの南コースと日本海からの北コースを迂回して大和入りをした。なぜそんな迂回をしたか古事記に合理的な説明はない。しかし何か大きな意味があったのだろうが、疑問は残る。まず二つの東征について話を進めよう。

地学かわら版 復刻で

昔地学の教員をやっていたころ、その日の授業内容とは関係のないが、面白そうなトピックを集めて「地学かわら版」を発行していた。当時はガリ版で作ったものなので「わら半紙」に印刷したものしか残っていない。コロナで巣ごもりの中、机の整理をしていたら何枚か出てきた。それをワープロで打ちなおした。せっかくなのでここにアップしておく。皆さんに見ていただきたいということではなく、私の記憶の整理という意味だが、暇で困っていたらちょっと覗いてみてください。

1984年、戸山高校にいるときに作ったものだろうと思います。夏休みに北海道の函館から札幌まで走り、さらに稚内の近くの豊富町に行き、隣の幌延町の高レベル放射性廃棄物の埋め立て候補地をみてきました。当時はまだ風評被害という言葉は使われていなかったようですが、明らかな風評被害が出ていることを知りました。そんな意味で言えば、こんな文章でも残しておく意味はあるかなと思っています。

ほかにもまだありそうなので探して時々ここにアップしておこうと思います。ガリ版刷りなのでイラスト、写真などはありません。(恐竜の時にはガリペンで描いていたかもしれない)

地学かわら版 1984年8月ー1

夏休み報告 1
今年の夏は以上に暑かったですね。この暑さの中で、何をやっても能率が上がらないので(私の場合は涼しくても同じですが)これを理由にして涼しい北海道へ行くことにしました。貧しい生活なので東京青森は当然「青春18切符」を使いました。(注:1983年から8000円、1日1600円)

朝6時10分上野発の鈍行列車乗り継ぎでその日のうちに青森に行くことができます。あと10分早く着けば青函トンネルの海峡線で函館に行くことができるのに、ここがJRのせこいところです。仕方なく青函連絡船で函館に行きました。船の中では寝ることができるのでかえって安上がりかもしれません。4時間ほどで函館到着。道路標識に「札幌まで270㎞」とありました。
「おお!これなら3日間で走れる!」

5時15分、カメラ、電池、着替えなど重たいものは袋詰めにして友人宅に送り、短パン、ランニングシャツにディパックを背負って国道5号線を走り出しました。5分もしないうちに雨が降り出したが、どうせ汗でぬれるので雨の中20㎞を走った。8時30分大沼の近くでやっと晴れてきた。靴の中はぐちゃぐちゃで気持ち悪いが、目の前には駒ケ岳が若駒のように(我ながらダサい表現)そびえていました。

しばらく歩いているうちに衣服も乾いてきたので近くのセブンイレブンに入ってあったかコーヒーとあんまんを食べて元気を出し、森町を通過(10時16分)。目の前に噴火湾が見えてきた。このあたりで(11時7分)函館から40㎞。「今何時、そーねだいたいね!」などといながら快調に進むが、車が多くなって閉口する。
途中ブンブン族(ミツバチ族)のオートバイ連中とすれ違う。皆ピースサインをしていく。多少「バイクは楽でいいなあ!」と思うが、人をうらやむことはやめて、こっちの方が楽しいんだぞと無理やり自分に言い聞かせる。落部という集落で2時20分、60㎞、足が火照って熱を持ってきたので、湧き水に足を浸す。横を見たら近所の家のスイカとトマトが冷やしてある。汚い足と一緒にしてゴメン!

昔植村直己さんは北海道の宗谷岬から九州の佐多岬まで2800㎞の徒歩旅行をしたが、最初の日は張り切って74㎞を歩いたと言ってました。私は75㎞先にある八雲という町を目指していましたが、50㎞を超えたあたりから足は痛いし体はバテバテになり5分走っては15分歩きという状態で時速は6㎞に落ちてしまいました。それでもなんとか5時ごろ八雲駅に到着。駅前の「まるみ」という商人宿に泊まりました。1泊2食で4000円、まあ妥当な値段です。お風呂につかりながら
「あの偉大な植村直己に1㎞勝った」
という満足感に浸りました。

8月19日 缶コーヒー 100円 新聞90円 週刊朝日250円
     アイス 100円 連絡船1400円 夕食 550円
8月20日 朝食セブンイレブン 400円 パインジュース 100円 
     昼セブンイレブン 250円 宿賃 4000円

地学かわら版 その2

夏休み報告 2

植村さんは初日74㎞歩いたのがたたって翌日は、這って歩くような状態だったというが、私は親指の脇にマメができただけで快調そのもの。朝5時に「まるみ」を出発。しかし八雲から長万部までの30㎞の直線道路にはうんざり。並行する函館本線には北斗星やトワイライトエクスプレスなどJR自慢の豪華特急が、楽しそうな旅客の顔を乗せて追い越していく。その列車の姿が一直線の線路の先にいつまでたっても消えない。高石ともやさんの「長い道」が実感できる。単調な道だが時々大型トラックどうしが追い越しをするので、右側通行をしているのにすれすれのところを通過して恐怖を感じる。

10時20分に到着した長万部(おしゃまんべ)の町は寂しい感じだが、なんと「東京理科大学」があり、大勢の学生がいるという。基礎工学科の1年生はみなここで学ぶのだ。しかしなんで東京理科大学がここにあるのだろう。
国道5号線は長万部から内陸に入るが、私は札幌までの近道の230号線に入る。しかし洞爺まではトンネルだらけなので30㎞は列車に乗ることにした。トンネルは歩道があっても狭いし音もすごい。空気も悪いし、車にも迷惑になることは私も経験している。列車の中では「カニめし」(820円)を食べながらしばらく列車のゆれに身を任せた。

洞爺(11時)から洞爺湖までは昔の軌道跡を快適に上る。79年に大噴火をした有珠山がまだ異様な姿を見せていた。湖岸には快適なジョギングコースになっているが私の足は言うことを聞かない。てくてく歩いていると、サイクリングの連中が「お先に!」と言いながら追い越していく。「自転車は楽だなあ!」とうらやましく思う。でも「他人の庭はきれいに見える!」ということわざ通り、それぞれが勝手に羨ましがっているだけ。

洞爺湖岸を半分まわったところで昭和新山が見えてきた。この山は昭和19年、当時は麦畑であったが、その一部分が少しずつ隆起し、2年ほどで300mもの山になったのです。その様子を近くの郵便局長であった三松正夫さんが毎日記録したものは三松ダイヤグラムと呼ばれ、火山の成長を正確に記録した資料として世界で認められました。

三松さんの方法は自分の顎を固定台に乗せて目の前に数本の釣り用のテグスを張ってグラフ用紙のようにして成長の様子を記録していったのです。時期は昭和19年から20年、戦争のさなかで新聞もラジオもこれだけの大事件のことは報道しませんでした。戦後何年かたってやって昭和新山のこと、三松さんのことが世界に知られたのです。三松さんは昭和新山をわが子のように思い、その土地を買い取ってほかの人に荒らされないようにしたとのことです。したがって今もその地域に入ったり登ったりすることはできません。

湖畔道路を走り2時半、松浦武四郎展望台の上にあがる。大原小学校がある。教え子の田中雄次郎君が日本縦断徒歩旅行(注:1979年)の時に泊ったことがあると後で聞いた。
5時半、ルスツ高原のLilla Huset というペンションに泊まる(6000円)。ルスツはスキー場、童謡「赤い靴」の歌の発祥地!本日の走行距離は70㎞。 今日も植村直己に勝った!

地学かわら版 その3

夏休み報告 3

 ルスツ高原は何もないところだったが4、5年前に突然ディズニーランドみたいな遊園地とスキー場と巨大なホテルができ、地元だけでなく本州からも多くの人が来るようになったとのこと。もう8月も末でこの地では学校も始めっているので人影はまばらだった。スペースマウンテンに2人が乗って「キャー」と叫んでいるがなんとなく白々しい。遊園地ってのは混雑していないと寂しさが募るものです。
「おもしろて やがてさびしき 遊園地かな」字余り。

 またも夜半から雨、朝5時の出発予定はずるずる伸びて、出発は7時。今日は最大難所の中山峠越えがある。山はもっとひどい雨に違いない。そう思うと気分が滅入る。ルスツ高原から喜茂別に降りる。ここには昔国鉄の胆振戦が通っていた。線路は残っているが、何となく寂しい気分。

 喜茂別から登りにかかる。と言っても20㎞近く緩やかな登りなので走るのはそれほど苦ではない。それよりも雨と風を何とかしてほしい。北海道の夏だが寒くて仕方がない。途中の店に入ってあんパンを食べ温かい牛乳を飲んで朝食にする。
 3日目だが、難所があり気象も悪いので緊張感が増して疲れは感じない。中山峠は標高800m、喜茂別は200mだから600mを3時間かけて登るし、適度のカーブ、湧き水があるので気分は悪くない。

 途中で自転車ヤロウに抜かれるが、だいぶ疲れているようで「ガンバレヨー!」と言っても返事もなし。15㎞ほどは人家も何もない。休む口実もないので2㎞走っては3㎞の歩きを繰り返しているうちに突然中山峠に出た。最後の急坂で先ほどの自転車ヤロウを追い越した。急坂は走りの方が速い。峠にはドライブインがあり観光バスがあふれている。ベンチに座ってジュースを飲んでいると自転車ヤロウが上ってきたが、私を見るとプイと避けていった。ムリもない。機械力が人力に負けたのだから。

 私のほかに人力の旅行者がいた。彼は東京の学生で函館から歩き始め今日で5日目だという。私の2倍ぐらいの荷物を持っているので大変だったろう。つい「私は函館から3日目だ」というとさっきの自転車ヤロウ同様にいやな顔をする。2人を刺激してもいけないので、早々に札幌側に下り始めた。こちら側は緩やかな下りで、「下り坂サイコー!」と叫びながら行く。しかし途中に1.5㎞の長さの定山渓トンネルがあった。排気ガスがすごく、轟音が聞こえてくる。恐ろしい。

 中山峠から2時間ほどで定山渓温泉についた。500円で温泉につかる。急に体中から疲れが噴出した。この先のことを考えると気力体力とも失せた。恐ろしいトンネルはもう通りたくない。定山渓は札幌の奥座敷でバスが何本も通っていると思うと、ここで今回の走り旅は終了ということにした。ルスツから中山峠まで27㎞、峠から定山渓温泉まで20㎞、これだけ走れば十分。札幌まで25㎞を残してバスに乗った。

 市内だがかなりの山の中の盤渓に住む友人宅に泊めてもらった。この友人は高校生のころ超能力に目覚め、よくUFOに出会ったそうだ。今回通った八雲や喜茂別はその筋の人たちの聖地で、多くのUFO目撃がなされている。東京からUFO本場の北海道に移って10年。最近は安定した家庭を営んでおり、普通の生活者になったらUFOと出会わないようになったという。
 今回の走り旅は定山渓でほぼ210㎞走った。札幌に2日ほど泊って、ここから再び青春18切符で北海道の北端、稚内を目指すことにした。

待乳山にリフトがあった!

11月28日にぶらりバークラブの散策会を行う予定だったが、コロナの感染者、重症者が増えてきたので中止にした。しかし私は行く予定の牛島神社にある「狛丑」(これは私の造語)を来年丑年の年賀状に使う予定だったので、浅草駅から歩いて牛島神社に行ってきた。下の写真の橋は鉄道橋だと思っていたら、その脇に歩道がついていた。橋の上からうんこビルと浅草付近の景色はなかなかだ。

牛島神社の正面の鳥居はなかなかいいでしょ。三つ鳥居あるいは三輪鳥居といいます。奈良の大神(おおみわ)神社(三輪明神)にあるとりいなのでそう呼ばれています。ここには狛犬が4対と狛丑が一対、単独の牛が2頭います。皆さんがなでるので「撫で牛」は磨かれて光っています。                     狛丑の写真を撮ったあと三囲(みめぐり)神社に行く。先日檻の中に入っていたないっていた陶器製の狛犬の写真を撮ることができた。ちょうどNHKの「魂の焚火」という番組の収録準備で大勢のカメラが並んでおり、私も仲間のような顔をして中に入ることができた。それにしても一つの番組のためにあんなにたくさんのカメラが必要なのだ。NHKだからできることなのだろうな。いつ放送するのか聞くの忘れた。この狛犬隣の狛犬に近づこうとしている感じか愛らしい 境内にある「三角鳥居」本日は珍しい鳥居を二つ見た。その後桜餅を食べて桜橋を渡って待乳山聖天に行く。巾着と交差大根がシンボル。ちょっと驚いたが、高台にあるので登山用モノレールがあったので乗せてもらった。高低差5メートルほどかな?

COVID-19 感染者2000人越え

11月19日、東京都の感染者は500人を超えた。全国では2千人を超えている。政府はまだGoToトラベルキャンペーンを続けるつもりのようだ。下のグラフはアメリカの感染者数(上)と東京都の感染者数(下)だ。桁は各段に違うが、東京に先駆けること1か月前に感染の波のピークが来ているように見える。

私は11月28日㈯にぶらりバークラブ(狛犬楽会)の散歩で、来年の干支、狛牛見学をするつもりで準備してきた。すでに参加を表明してくれた方々もいるが、このグラフ感染拡大を見て、直ちに「中止」を決めてブログで告知した。何人か方々から「当然」という返信をいただいている。「もし決行しても行かないよ!」という人もいる。こんなにも明白な関連があるのに政府はGoToをやるかやらないかなどなにも決められない状況だ。政府と自治体長が責任を押し付けている間にどんどん感染が広がっていく。アホとしか言いようがない。

  12月になってもたぶん減少することはないだろうから、年内は狛犬楽会の探索会は再開しないことにしました。来年になれば少しは減るだろうと期待しているが、「それは神のみぞ知る」である。私がそういうのは良いが、政府がそんなこと言っちゃまずい。このグラフを見てもかなり信頼のおける予測はできているはずである。しかしそれを言ったら「オリンピック中止」など政府のダメージが大きくなるのでいまは黙っているのだろう。しかしそんなことで人々が危険にさらされるのは大変迷惑だ。来年の干支の狛牛がいるのでぜひみんなで行きたいのだが、残念なことだ。もし可能なら個人で三密を避けて行って欲しい場所です。以下が狛牛!

向島百花園

家からバスを乗り継いで向島の百花園にいく。帰りは三ノ輪橋から都電で西巣鴨まで。三田線で板橋区役所へもどる。私は王子で降りて石神井川を板橋経由で我が家まで。家に着いたのはほぼ同じ。いずれも本日交通費なしの散歩だった。 隅田川を渡って向島へ行くと空は晴れて秋の雲。暦の上ではもう冬だが温かい秋の空。菊の花展をやっていたが、その写真は最初の一枚だけ。

園内からは東京スカイツリーがまじかに見える。紅葉の下の池に写ったツリーを写真に撮りたかったが、なかなかうまくいかない。下の写真。わかるかな?
さらにいろいろな花! 上の写真:もやもやとしたのは「仙人草」の花!

上の写真は「十月さくら」先日の大山ケーブルカー乗り場にも咲いていました。さらに墨堤の桜餅やの前の小さな公園にも咲いていました。十月桜がこんなに目立つようになったのは最近のような気がしますが、どうなんだろう。昔は私が気がつかなかっただけなのだろうか。

本日は11月7日㈯、アメリカ大統領選挙は4日前に終わっているのに、まだ開票作業中だという。ほぼ決っているのだが、トランプ大統領が悪あがきしているので、決定はまだ先になりそうだ。世界のリーダーの国がこの体たらく。見習えないよな。写真はおまけ!

 

来年は丑年、牛島神社の狛牛

今年は子年(ねどし)だった。年賀状に「狛ねずみ」を入れた。来年も干支の狛犬を入れるべく、狛牛を探していた。牛の神社は天神さんだ。文京区にある牛神社に行ったが、そこには1頭の牛が寝そべっているだけで、社殿の両側に相対しているわけではない。もしかすると隅田川沿いの牛島神社には狛牛がいるのではないかと隅田川沿いを歩いて行ってみた。この神社の鳥居は三連の「三輪鳥居」であることは知っていたが、昨年新しく作り直したそうだ。東京で「三輪鳥居」が見えるのはこの神社だけかな。狛犬もなかなか良かった。境内には獅子山の上の狛犬など3対の狛犬がいた。


狛犬と同じように牛が左右に一対いることなど予想はしていなかったが、ちょっと奥の方に「狛牛」がいた。かなり驚き、感動した。昨年は「狛ネズミ」を探しに京都まで行ったが、今年は遠くまで行かなくてもオーケーだ。よかった。
隅田川の堤、墨堤通りから、見番通りを通って長命寺の「桜もち」に行ってみたら月曜日お休み。三囲神社にある三越のライオンを見て白髭橋まで歩いてバスを乗り継いて戻る。交通費はなし。

おまけに三囲神社の中の顕名(あきな)霊社の檻の中に入っている陶器?の狛犬。

錦秋、錦繍

紅葉が錦(にしき)の織物のように美しい秋。なので錦秋という。
いつのころからか知らないが錦繍を錦秋と書くようになった。群馬のKOBAYASHIさんから谷川岳のロープウェーが再開とNHKでやっていましたよ。との連絡を受けた。この日は全国的に快晴。しかし谷川岳の上だけに曇りマークがついていた。水上(いまはひらがなで書く)から土合に向かうことから曇天になってきたが、ロープウェーに乗るとほんのちょっとだけ太陽が顔を出した。

終点の天神平から1時間ほど登ってみた。上から降りてくる人は「みぞれだよ」と言う。もう上の方には紅葉はない。適当なところで元に戻る。目の下に虹が見えていた。写真には写らないと思っていたが、かすかに映っていた。 天神平から下り、宝台樹の「角彌」という有名なお蕎麦屋さんに連れて行ってもらった。おいしすぎていつもの倍は食べた。そこから奈良俣ダム、照葉峡と回る。昔は私も家族を連れてドライブ、ハイキングでこの辺りを歩いたが、いまは若い人に連れてきてもらうのみ。

若い人と言ったが、彼ももう60代も後半。これまで黒塗りの社長車だったが、今回から身の丈に合った車になりましたとのこと。下写真の左の方にちょっとだけ写っている。私にはこの方が乗り心地がいい。おかげさまでコロナ禍の今年もいい錦繍を堪能することができました。ありがとうございました。

東海道 狛犬めぐり

蒲田で人に会う用事があった。三密をさけて3分で用件を済ませて東海道を品川へ向かて歩き始めた。振り返ると羽田に向かう京浜急行線の線路は高架になっている。むかし箱根駅伝の選手はしばしば踏切で待たされたこともあった。それはそれでおもしろかったのだが、今は分秒を争うゲームになっており、楽しい時代の箱根駅伝ではなくなっている。そんなことを思いだし、しばらくは広い京浜第一国道を歩く。

今は「大森」であるが「王森」と書くこともあるようだ。第一京浜にそって旧東海道が品川宿まで続いている。旧東海道にはお寺や神社がいくつもある。鈴ヶ森刑場で旧街道に名入り、狛犬を見学しながら歩くことにした。

鮫洲は自動車免許証で有名な場所。昔から街道の名所で神社寺も多い。

鮫洲八幡様に寄ってみる。入り口から3対の狛犬がいる。真ん中の狛犬(下の写真左二つ)は前の天祖諏訪神社と似た江戸流れの様式。化粧直しをしているが江戸時代のもの。奥の狛犬(下右二つ)は白っぽい花崗岩質の現代風の狛犬。

ここには富士塚らしいものもある。私の江戸60の富士塚リストには入れていない。これは入れた方がよさそうだが、富士講の石碑がちょっと少ないので躊躇する。

品川宿に入ると品川寺(ほんせんじ)、ここには大仏さんがあった。目黒川を渡ると荏原神社があった。海辺に近い神社だけあって恵比須様が鳥居下におられる。ここの狛犬も前の二つと同じ黒っぽい江戸風のもの。両狛犬とも二頭づつ子どもをもっている。雄雌とも子育てにかかわっていたのだ。実際には産めよ増やせよの地合い背景があったのだが。

品川宿に行ったら、街道文庫に行かなければならない。なにせここには我がジャーニーランの師匠のTA中義己さんの店。街道に関しては日本で一番の蔵書をもつがなにせ狭い店なのでお客はほとんどない。コロナの影響で街道歩きもできないというので書庫の奥の狭いスペースからほとんど出ないそうだ。早くコロナから脱出したいがまだ難しそうだ。どなたかこの蔵書を引き受けてくれないかと、私は思うのだが。本日の歩行時間3時間半、歩数は32687歩。今月も過剰歩行の感じあり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京オリンピック遺跡散策!

NHKで2020東京オリンピックの選手村がゴーストタウンになっているという言っていた。私も常々選手村、豊洲市場などどうなっているの気になっていた。先日築地本願寺から霊岸島に行った時に、ついでに寄ってこようと思っていたが、雨が降っていたので止めた。

本日はいい天気、本来は赤城山でキャンプをしているはずだったが、処々の事情でキャンセルしたのでヒマになった。我が家からママチャリで出かけた。あとで見ると45キロ、4時間半の小旅行。ヤマップというアプリを使うと走ったコースがちゃんと出ている。板橋駅、巣鴨のお地蔵さんはジジババだらけで迂回して染井墓地経由で本郷、上野に出る。昭和通りをずっと進んで歌舞伎座脇から築地へ。朝日新聞社の前から築地大橋に出る。

オリンピック用に作られた隅田川最下流の橋だが、築地市場の移転が遅れたので取り付け道路ができなかい中途半端な道路だった。築地が移転してやっと半分だけ通行できるようになった。もし今夏にオリンピックがあったら大渋滞になるところだった。「築地大橋」は舛添要一の墨蹟だ。橋から勝鬨橋を見る。なかなかいい眺め。

橋を渡ると高層ビルが林立しているのが見える。一段と立派なのは都の清掃作業所。まるでどこかのホテルみたいだ。その周辺のオリンピック選手村のビルは完成しているが警備員が立っていて立ち入り禁止。このままさらに一年放置されるというのはもったいない。といって誰かを住まわせるわけにはいかない。オリンピックができてもたぶんリモートになるだろう。選手は地元国で走ったり泳いだりして同時中継をすればいい。サッカーや野球などのゲームは中止などいろいろな方法が考えられるが、オリンピック村に選手が集うということはほぼないだろうから、分譲で買った人たちにもう住んでもらったら! もし選手団が来てもどうせ外交人観客は入国はできないのでホテルはたくさん余っているから、そちらに泊てもらえばいい。

写真を撮った場所は晴海ふ頭、この一角がオリンピックの選手村になる。外国に来た感じだが、今はだれも住んでいない。右写真の奥に見える豊洲大橋を渡ると豊洲市場。すばらしく大きくきれいな市場だ。これまでの築地市場のぼろっちい建物から見ると天と地の違いだ。小池都知事はなんで移転の延期をしたのだろう。ここからさらに進むと有明けテニスの森、モノレールの駅がある。さらに進むと高速道路に突き当たるので左(東)に進んで東雲の高層マンション群に進む。こちらは人々が住んでおり町ができている。同じ建物群があっても人の気配がないと気味悪い。

東雲、豊洲の新しい市街を見て三目通りを進むと富岡八幡宮の近くに出た。久しぶりに不細工狛犬と伊能忠敬さんに出会った。さらに住むむと清澄庭園脇の江戸史料館にでた。道路わきにこんな人物が!「なにしてるの?」と声を掛けそうになった。史料館の隣に「霊巖寺」があった。先週行った「霊岸島」の名前になった寺だ。ここに移転してんだ。霊巖寺前に出世不動尊があった。サラリーマン風の人が熱心に願っているのでなかなか写真が撮れなかった。私は出世には関係ないので写真を撮っただけでお賽銭も入れなかった。

舞囃子「高砂」再録

先日動画を入れましたが、容量が大きくて見ることができないと聞きました。今回は写真を入れます。

事前に申合せ(練習)もありました。

先生からご指導を頂きました。本番では間違いもなく、うまく舞えたそうです。

次は傘寿の記念と思いますが、そこまで体がもつか、思案のしどころです。