四国88ヵ所 79番天皇寺高照院

78番郷照寺の大師様にご挨拶をして急いで坂を下りる。新町という古そうな町をとおり、国道をくぐって小さな峠を上る。うどん屋があったが本日終了。香川県はうどん県と称しているが、まだ讃岐うどんを食べていない。残念。

峠を越えると田尾坂公園にでる。眼の下にまっすぐな道が坂出の駅方面につづいている。荷物がないので快適に本町アーケードを行き、坂出の駅を右手に見て進む。線路を越えて山麓をまわるいい道を歩き八十場(やそば)の水場をすぎる。この水で日本武尊は生き返ったという由緒ある湧水だ。日本武尊はいろんなところに出没するものだ。

八十場の「ところてん」清水屋さんをすぎると大きな椎の木がある建物の境内に入る。境内に入ると反対側に赤い鳥居が見えるのでそちらに回る。近所の人に「天皇寺はここかな?」と聞くと、「ここは神社だけど、天皇寺といっしょだ!」と教えてくれる。赤い鳥居は三つ鳥居、我が三輪神社の鳥居と同じで「三輪鳥居「」ともいう。その鳥居の右手の大きな岩に「四国79番霊場天皇寺」と彫りこんである。さらに白峰宮という柱もたっている。何がなんだかよくわからないがみんなごっちゃになっているらしい。

とりあえず本堂と大師堂にご挨拶をするが、正面にある神社の拝殿、本殿に比べると見劣りがする。それもそのはず、ここは明治まで神仏混淆の天皇寺だったが、神仏分離で寺は廃寺になりその後末寺だった高照院が再興したようだ。したがって天皇寺高照院というのが正しい。お遍路地図などには79番天皇寺とあるが、それじゃ高照院はかわいそうだ。天皇寺高照院と書くのが正しそうだ。

さて天皇とは第75代の崇徳天皇だという。ちょっと調べてみたら
小倉百人一首の『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ』
の詠み人で、文化人らしい。
しかし崇徳天皇は平将門、菅原道真をしのぐ大怨霊であるとされている。

崇徳天皇の祖父は白河天皇、父は鳥羽天皇だが、実際は祖父の子だったようで、父は崇徳のことを忌み嫌った。権力者だった祖父は息子の鳥羽を上皇にし、崇徳を天皇にした。

白河法皇がなくなった後、鳥羽上皇は崇徳天皇を廃して近衛天皇をたてた。近衛天皇はすぐに亡くなるが、崇徳が呪い殺したという噂が立った。近衛天皇の後に立った後白河天皇は平清盛と組み戦いを起こした。「保元の乱」である。負けた崇徳上皇は四国の讃岐へ流された。

自分の血をとって書いた写経を京都に送り、帰還を願ったが、破り捨てられたのを知り絶望して、1164年舌をかみ切って死んだ。「日本国の大魔縁となって、天皇を民とし民を天皇となさん」と呪ったという。その後、後白河法皇の近親者に次々と不幸が襲った。崇徳が予言したように武士が台頭し、天皇の地位は地に落ちた。

その後100年ごとに起こる大きな事件は崇徳上皇の呪いだとされてきた。怨霊をおそれた明治天皇は崇徳天皇の御霊を京都に戻し白峰神宮を創建してから即位した。亡くなって800年後の1964年には、昭和天皇が崇徳天皇陵に勅使を派遣し、霊を鎮めた。そのおかげで東京オリンピックは無事成功したという話も残っているそうだ。

100年ごとに呪いを発揮するなんてまさに大怨霊だ。私にはなんの関係もないが、崇徳上皇の呪いが残っている場所には長く居たくない。赤い鳥居をあとに一の鳥居に向かって急いで駈け下りた。そのせいで、行先の表示をちゃんと確認しなかった。ふつうは門前にある案内板(下の写真)を確認して次の札所に向かう。私はあわてていたので鳥居前の参道をまっすぐ下って行った。おかげで翌日「へんろ転がし」の難所に苦労をした。翌日出会った外国人の歩き遍路はみな「へんろ転がし」の急坂を下りに使っていた。

彼らのもつ案内書には、79番天皇寺から81番白峰寺にあがり、82番根香寺に参ってから一本松にもどり「へんろ転がし」を下って80番に行くと書いてある。この道の方が昔のへんろ道であると書いてある。日本人は順番通りに行かなければいけないような気がしているが、ここは 79→81→82→80 と順序を変えたほうが合理的である。その時には知らなかった。残念。

四国88ヵ所 78番郷照寺

78番郷照寺
宇夫階神社の鳥居前は参道になっているのだろう。まっすぐな道が付けられている。鳥居からすぐのところに立派なお寺が、きっと郷照寺に違いないと思ったが、実は別の寺だった。郷照寺はそのさき、右手に入り少し登ったところにあった。

一番下には鐘楼がある。そこから宇多津の街が一望できる。坂出の街は峠を越えた向こう側らしい。鐘楼から石段を上がると納経所がある。本堂はさらに数段あがり、さらにその上に大師堂がある。1日目でまだ石段登りに慣れていないので庭園脇の緩い坂を上る。立派な池を巡る庭園があった。なかなかいい感じだった。

ご本堂と庚申堂  四国88カ所の中で唯一「時宗」の寺だ。

大師堂のさらに上には淡島様がある。女性の守り神様だ。奥さまはお参りしたが、私はちょっと近づきがたく、地下にある阿弥陀堂に降りて行った。小さな阿弥陀様の像が千体万体並べらられている。奉納した方々の気が満ち満ちているようで、急いで外に出た。まだ修行が足りないのでどう対処してよいかわからない。

四国88ヵ所歩き旅:77番道隆寺

今年3月に、5泊6日で76番の金倉寺までまわった。後半の2日は雨の中、弥谷寺の555段の石段登りはかなりハードだった。帰ってきてしばらくは体調が戻らなかった。ほぼ1週間、休みなしに歩くのはきつい年齢になったことを悟った。次回は交通費はかかるが2泊3日ぐらいにしたいと考えた。

今年中に何とか88番まで回りたいと考えていたが、残り1回で12札所をまわるのはムリになった。そこで暑くならないうちに6札所をまわり、残り6札所を秋に回り完成させることにした。全部札所をまわれば結願ということになるが、我が家は仏さまになんの願いもしていないので「結願」とは言えない。そこで歩き旅の完成ということにした。
東京駅を7時10分の「のぞみ」で出発したら多度津に11時40分には到着する。4時間半で四国の年に着くのだからすごいものだ。ヒコーキでもこれぐらいはかかる。5月の最初は暑い日が続いたが、本日は日差しはあるもののかなり涼しい。暑さにはたいへん弱い我が家の奥さんでも十分に歩くことは可能だった。多度津駅から30分、距離は1.5キロほどだが駅前にあった太胡石を見ていたら遅くなった。この石は先日訪れた上海で見た石だった。説明文を読むと友好都市になったので上海のなんとかいう町から送られたとのことだった。

第77番 道隆寺
多度津駅から行ったので、寺の裏手にでた。76番から歩いてくる場所が正面なのでぐるっと回って大門前に出た。道隆というのは領主さまの和気道隆から名をとった。彼は怪しい光を放つ桑の木に向かって矢を射た。その矢は乳母に当たってしまった。それを悔いた道隆は桑の木で薬師如来を彫った。息子は唐から戻った空海に頼み、さらに大きな薬師如来を彫って、その体内に道隆の薬師如来を本尊とした。本尊は「眼直し薬師」として今も信仰は厚い。眼がよくなってご典医になった京極左馬造の御廟がある。

丸亀へ
寺の裏から国道に出る。先を歩く本格遍路さんについていくが、すぐに見えなくなる。途中民家の壁にこんな看板があった。セクハラ・パワハラの財務省幹部に読ませたい。お遍路をしていると人間ができてくるそうだが、私はどんどん不満や怒りが増して来る。お遍路をしてもあまり得るものはないかな。
本日は丸亀のホテルに泊まることにしてあるので、荷物を預けて先に進む。貴重品とカメラだけになったら、足はすいすい進み、気分はよくなって、財務省大臣への怒りも和らいだ。

宇多津には宇夫階(うぶしな)神社があった。
宇多津を通り越し県道の下をくぐってすぐにわき道に入る。気を付けていないと見過ごす。少し登って下るとなにやら不思議な神社前に出る。宇夫階(うぶしな)神社と名前が付けられているが石段を登るといくつもの鳥居があり、かなりの神社が集合している。末社や摂社ではなく並立しているようだ。伊勢の社をもらってきた社殿もあるし金毘羅さんもある。
本殿の裏に回ってみると巨大な花崗岩がある。注連縄がはられているので磐座(いわくら)だと分かる。これぐらい大きいと何となく神秘性が感じられる。ここに神さまが降臨されるのだろう。私は無神論者ではない。人知を超えた偉大な存在があると考える方が合理的で自然だと考えているからだ。