第4章 天孫降臨から日向三代へ


生まれてからしばらく大分県の日田にいた、らしい。数年前に筑後一宮高良神社の上から見た筑後川、そのあと朝倉地域を歩いた。近くには「三輪小学校」があり、三輪の神をまつる大己貴神社もあった。この風景は夢の中で見たような気がした。私の中には九州的な記憶がほんの少しだけど残っているのかもしれない。九州は私の国のまほろば! そんな気がしている。

出雲で大国主神は天照大神に「国譲り」をした。天照大神は「うけひ」で生まれた長男の「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」(長い名前だなぁオシホミミ命に省略)を出雲に降臨させようとした。しかし彼は「天の浮橋」に立って下界を見た。
「葦原は豊かだが、ひどく騒がしい。私は行きたくない」
と言って高天原に戻ってしまった。

神話の時間なので何年たったかわからないが再び天照大神は
「もう話がついて豊葦原は穏やかになった。そろそろ降臨するように」
とオシホミミ命を促した。しかし彼は
「我が家には子が生まれたので、彼が成人したら行かせる」
とまたもや下界に行くことを拒否した。

そんな時間が流れたので、オシホミミ命の子が成長した時にはすでに出雲には天降る余地がなくなっていた。天照大神は「しかたなく」九州に降臨させることにした。
成人したオシホミミ命の子、すなわち天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)は八重にたなびく雲を押し分け「天の浮橋」に立って筑紫の日向の国の高千穂の峰に天降りした。先導したのは天ウズメで、多くの神さまも後に続いた。
天孫ニニギ命は日向の高千穂に下る。
「韓国に相対しており、朝日と夕日が光り輝くいい場所だ」
と言って大きな宮殿を作った。

「エエッ!高千穂から韓国が見えるの?」
私は一瞬そう思ったが韓国は「韓国岳」の事だ。
ニニギ命は「笠沙の岬」で桜島の神さまである木花咲夜姫(コノハナサクヤ姫)に出会い、結婚する。笠沙の岬は鹿児島県の野間岬のことである。

地図を作って高千穂峰、韓国岳、桜島、笠沙の岬、青島神社、鵜戸神社などの位置関係を記してみた。なかなかスケールの大きい話になっている。それぞれの場所を巡ってみた。大和や出雲を回った時には自分の足を使ったが、この地を巡るには何日間かレンタカーを使うしかなかった。

しかし昔の人は車など使うことはできなかった。物語はかなり狭い範囲で繰り広げられたのではないか。私は宮崎県の高千穂の方がコンパクトにすべてがそろっているので、こここそが天孫降臨の地と思っている。私が愛読する梅原猛氏は宮崎県の高千穂こそがその地であるとしている。

■4-1 日向初代 いまならセクハラ親父だ!

高千穂に降臨した天孫ニニギ命はこの峰の上から韓国岳を眺め、笠沙の岬を見ていた。ちょうど笠沙の岬へ出かけた超美人の木花咲夜姫(コノハナサクヤヒメ)を見つけてプロポーズする。姫の父、大山津見(オオヤマヅミ)神は
「それはすばらしいことだ」
と言って、姉の石長比売(イワナガヒメ)と二人一緒に嫁に出した。ところがニニギ命は、自分が結婚したいのは美人のコノハナサクヤ姫で、器量の悪いイワナガ姫はいらないと言って姉だけを追い返した。今でいえばとんでもないセクハラ男、いや神だ。

当然のことだが大山津見神は怒って言った。
「イワナガ姫を嫁がせたのはニニギ命の子孫が岩のように丈夫で末長くあれと念じてのこと。送り返したので、ニニギ命の子孫は木の花のようにもろくはかないことになる」
ニニギ命の子孫の天皇の命が長くないのはこのようないわれがある。

韓国岳はお隣の韓国からとった名前ではなく古くある名前だった。2009年アキレス腱断裂の治療中に、奥さんに連れられ松葉杖をついて登った覚えがある。目の前に大きな火口がありその先にすっくと立った高千穂の峰を見て、これぞ天孫降臨の場と思った。
翌年韓国岳と高千穂峰の間の新燃岳が大噴火し、世間をにぎわした。その後に東日本大震災が起こったので新燃岳の噴火のことは何も報道されなかった。今はどうなっているのか?

火山噴火などはめったに起こるものではないが、南九州では桜島をはじめ活動的な火山がいくつもあって噴煙を上げている。肥前、肥後国は「肥国」すなわち「火の国」であった。古代においては「火」は敬うべきものだったのだろう。天孫降臨神話の中にも「火」の話が出てくる。

セクハラ親父のニニギ命は結婚したばかりのコノハナサクヤ姫が妊娠したと聞くと
「一夜の契りで子はできない。お腹の子は俺の子ではない!」
という。疑われた妻のコノハナサクヤ姫は怒り狂って言う。
「まちがいなくあなた(ニニギ命)の子です。神の子だから例え火の中でも無事に生まれます」

コノハナサクヤ姫は産屋に火をつけて燃え盛る火の中で三人の子どもを出産した。生まれたのは3人の男の子。

長男が火照命(ホデリノミコト)……海幸彦
次男が火須勢理命(ホスセリノミコト)、
三男が火遠理命(ホオリノミコト)……山幸彦

コノハナサクヤ姫は高千穂からも近い桜島の神であるが、今は富士山の神としても親しまれている。剛毅で気高いコノハナサクヤ姫は、先の大戦の時には大変人気があった。一方セクハラ親父のニニギ命は今も人気がない。まあ当然のことだが、天孫はなぜこんな人でなしとして描かれたのだろうか。私には理由は分からない。

ともかくこの二柱(ニニギ命とコノハナサクヤ姫)が天皇家の祖、「日向三代」の初代ということになる。しかし気になるのは、高天原の神と日向三代の神の関係だ。大山津見神は山の神、綿津見神は海人族の神さまである。日向三代の神さまの神話はおそらく南方の海洋民族の神話からもたらされたものだろう。天皇家の祖先は南方民族の血を引いていることを暗示しているのではないだろうか。

 

■4-2 日向二代目は竜宮城に行く! 

日向二代目は高千穂から離れて「竜宮城」に行く。
コノハナサクヤ姫が火の中で産んだ三人の息子の長男は山幸彦、三男は海幸彦と呼ばれる。本名は火照命(ホデリノミコト)火遠理命(ホオリノミコト)で、「火」の兄弟であるがあるが、なぜか山と海の関係になる。
海幸彦は漁師、山幸彦は山仕事をしていた。ある時山幸彦は兄の海幸彦に仕事道具を取り換えっこしてみないかと提案した。兄は大事な釣り針を貸すのは嫌だったが、山幸彦がしつこく頼むのでしかたなく貸してやった。ところが山幸彦は慣れない仕事のために大事な釣り針を魚に取られてしまった。

兄はそれ見たことかと怒った。山幸彦は十握の剣から500本の釣り針を作って兄に返すが、海幸彦は「もとの釣り針を返さないと許さない!」
と言った。
弟は塩椎神(しおつみのかみ)の勧めで、竜宮城に行った。
山幸彦が竜宮城の門の前にいると豊玉姫(トヨタマ姫)が出てきてひとめぼれをする。その時の様子を描いたのが青木繁の「「わだつみいろこの宮」の絵だ。宮崎県の青島の海岸を走っているときに写真のようなモニュメントを見つけた。青島の「鬼の洗濯板」の地層は竜宮城へ下る階段なのかもしれない。

竜宮城でトヨタマ姫から飲めや歌えの歓待を受け山幸彦は三年も過ごした。
ある日彼が「フーッ」とため息をついたのを見てトヨタマ姫は
「なにか心配事があるのですか?」
とたずねる。釣り針を探していることを告げるとトヨタマ姫は海の中の魚を集めて尋ねた。
「釣り針のありかを知らないか?」
すると釣り針は赤鯛ののどにかかっていることが分かった。

その釣り針を持って故郷に帰り、兄に返すことにした。
帰り際に綿津見(わたつみ)神は、山幸彦に言った。
「きっとお兄さんはあなたが成功したことをねたみ、恨んで攻めてきます。その時にはこの『塩満玉』を出して兄さんを溺れさせなさい。許してくれと言ったら『塩乾玉』を出して生かしてやりなさい」、
実際にその通りになり、お兄さんの海幸彦は
「これ以降、あなたの守り人になります」
と謝った。

この話も現代風に考えるとよくわからない。なぜ釣り針を貸した海幸彦が誅せられて、借りた釣り針を無くした山幸彦の方が栄えるのか?

海幸彦の子孫が南九州の「隼人」(はやと)族で、いまも溺れたときの仕態(隼人舞)をして天皇にお仕えしていると古事記には書いてある。古事記の時代から21世紀の現代でも隼人の子孫は天皇にお仕えしている。山幸彦の子孫が天皇に、海幸彦の子孫が隼人として天皇に仕えているのだ。

韓国岳付近から流れ出す天降川(あもり)は国分で錦江湾にそそぐ。天孫の「天降り」にちなんだ名前だが昭和になってからつけられた名前らしい。その川の近くに日豊本線の隼人駅があり、さらに隼人塚がある。いまも薩摩隼人、大隅隼人などと呼ばれることがあるが海幸彦の末裔なのだ。

 隼人の近くの国分に「上野原縄文の森」という遺跡がある。南九州に珍しい縄文遺跡で定着した海洋民族がつくった集落があった。珍しいというのは、7300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州の縄文人はほとんど絶滅したからである。ごく少数の生き延びた人々はカルデラ噴火による津波で溺れた記憶がのこっていたかもしれない。上野原縄文人の脳の中に刻まれた洪水記憶が隼人舞として伝えられのではないかと考えている。

鬼界カルデラからの火山灰はアカホヤと呼ばれている。この火山灰は関東地方まで飛んでいる。この火山灰を研究したのがわが恩師の町田洋さんだ。大学時代にフラフラ遊んでいないで町田先生にくっついて研究していれば、こんな遺跡の発見ができたかもしれない。いまさら何を言っているのか・・・!

 

■4-3 日向三代目のトヨタマ姫はワニだった!

  山幸彦は赤鯛ののどに引っかかっていた「釣り針」をもって竜宮城から戻ってきて、兄の海幸彦に返した。しかし大成功した弟に対して不満を持った海幸彦は山幸彦を攻めてきた。山幸彦は綿津見神のアドバイス通り塩満玉を出して兄を溺れさせた。降伏した海幸彦を配下にして、山幸彦は海も支配することになった。

山幸彦の海辺に宮殿を作った。その宮殿に山幸彦の子を身ごもったトヨタマ姫がやってきた。山幸彦のもとで子供を産む計画だった。まさか追っ掛けてくるとは思っていなかった山幸彦はおおいそぎで産屋を建てようとした。しかし屋根を鵜の羽で葺く前に子が生まれてしまった。この子が鵜葺屋葺不合(ウガヤフキアエズアエズ)命である。「産屋の屋根を葺く前に生まれちゃった子」といういい加減な名前が付けられた。

青島神社から日南海岸を都井岬の方に進んだ断崖海岸に鵜戸(うど)神社がある。海に向かった断崖絶壁に開いた洞窟の中に朱塗りの立派な神殿がある。トヨタマ姫(豊玉姫)がお産のために海の宮殿から屋てきた場所なのだろうか。

トヨタマ姫は山幸彦に言う。
「子を産む私の姿を見ないで!」
山幸彦は「見るな」と言われたらよけい見たくなる性格だった。当然覗いてみた。トヨタマ姫はワニの姿で這いまわっていた。
「見るなと言ったのに見たワニー!」
姿を見られたトヨタマ姫さんは恥じて、子どもを置いたまま海の宮殿に帰った。

鵜戸神宮の産屋の洞窟の床は、天井から滴り落ちる水で濡れ、磨かれている。薄暗い洞窟内を見ると、ワニの姿で床を這いまわりながらお産をしている姿を思い浮かべ、不気味になる。しかしワニは爬虫類だから卵を産むはずだ。でもまあ目くじらを立てるほどの事でもない。因幡の白兎の話にも出てきた「ワニ」、たぶん海洋民族の和爾氏のことなのであろう。

水の滴る産屋でワニがはい回りながら子を産む姿を想像するとかなり恐ろしいので早々に引きあげた。しかしこの強烈ワニパワーにひかれて、大勢の若い人たちがやって来ていた。鵜戸神社は日本古来の神社と違ってなかなかユニークな神社である。ここで産まれたウガヤフキアエズアエズ命が日向三代目で、日本国の初代天皇のお父さんである。

神社の背後の山の上にはウガヤフキアエズの墓がある。神さまにも墓があるのか疑問もわくが、日向三代は神と人間をつなぐ役割を持った神々なので、墓があってもおかしくない。海から登るとかなりの高低差で、大変きつい。軽い気持ちで登ったが、汗びっしょりになった。
宮内庁は「陵墓参考地」として保護している。しかし私が見たところでは、これは古墳ではなく、ただの山の頂上。しかし神の依り代としては、いい場所だった。

日向二代目は燃え盛る火の中で生まれ、三代目はワニのお腹から生まれる。いずれも尋常なお産ではない。その意味するところは何なのか、私にはよくわからない。でもまあ古事記にはそう書かれているのだからしょうがない。

 

■4-4 日向四代目、初代天皇の誕生

  さて四代目の誕生であるが日向三代の神話の続きには詳しく記されていない。鹿児島と宮崎の海側の神社には日向三代のご夫婦が祭られているのだが、第四代をまつる神社はその地域のどこにもない。宮崎神宮には第三代のご夫婦(ウガヤフキアエズ命とタマヨリ姫)とその子である神武天皇が祀られている。しかし宮崎神宮は明治天皇が王政復古を掲げて作ったものだから歴史はない。

実は日向四代目を祭るのは宮崎県高千穂地方の高千穂神社が一番重要である。高千穂には天の安河原や天岩戸神社など高天原の伝承の地もあり、天孫が降臨したという「久士布流多気」もある。私は近くの九重山が「クジフル」にあたるのではないかと思っている。古事記の記述には天孫が降臨したのは高千穂の「クジフル岳」となっている。高千穂地方の神話には日向三代の話は出てこない。天孫の子孫である鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の子がのちの神武天皇であるとされており、竜宮城のことは除外されている。

四代目の系図はちょっと複雑である。出産の姿を見られた母トヨタマ姫は生まれたばかりの子を山幸彦の宮殿に置いて竜宮城に帰った。しかしトヨタマ姫は残してきた子が心配で、妹のタマヨリ姫(玉依姫)を乳母として地上に送った。乳母のタマヨリ姫の育児のおかげでウガヤフキアエズ命はすくすくと育った。成人した彼は、育ててくれた乳母のタマヨリ姫と結婚する。すなわち母の妹と結婚したのだ。

結婚した二人の間に四人の子どもができた。
長兄はイツセ神、次の兄はイナヒ命、その次がミケヌ命で、一番下が、のちに神武天皇になる若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)である。すぐ上の兄の御毛沼命(ミケヌ命)が高千穂神社の主祭神で、地元のために働いた神さまである。
その順番と祀られている神社を示しておこう

◆日向初代 ニニギ命=コノハナサクヤ姫、・・・霧島神宮、鹿児島神社
◆日向二代 山幸彦=トヨタマ姫、・・・青島神社
◆日向三代 ウガヤフキアエズ命=タマヨリ姫・・・鵜戸神社
日向四代目は日向の高千穂神社に祀られている。

日向の三世代からひきつづいて、ワカミケヌが日本の初代天皇、神武天皇になる。
ということは、日本の初代天皇はワニの孫ということになる。
前に因幡の白兎の時に書いたが、ちちろんワニは「和邇」一族の事だろう。

たぶん、海人系の和邇族が話の根底にある。天皇家の祖先は高天原系と大山津見神、綿津見神などの海人系統と混血していったことが伝えられているのだろう。
日本の国を支配するためにはただ天下りではうまくいかない。地の神、海の神と協力して築いていったことを示している。

■4-5 日向四代目、神武の船出

「宮崎」という地名は宮崎神宮の前にある町としてつけられた名前で、明治以前には「日向」と言った。宮崎「神宮」とある通り、初代の神武天皇を祀る神社である。昭和天皇をはじめとして皇族の方々の参拝も多かった。しかし江戸時代には地方の小さな社だった。明治維新の王政復古「神武創業の始め」の大号令がかかり急に脚光を浴び、明治六年には神武天皇の最初の宮として特別待遇をうけ、八年に国幣中社、十八年には官幣大社へと破格の大出世をした。

2013年にここを訪れるまで、日向一宮は当然この神社だろうと思っていたが、実際は少し北にある都農(つの)神社が一宮だった。都農神社は天津神ではなく国津神の総帥大国主神を祭っている。このことはどう説明すればいいのか。宮司さんは
「都農神社の大国主神にお祈りをして、神武さんは美々津から船出したんですよ」
と説明してくれた。

今でこそ宮崎神宮の方が格上だが、神武のころにはまだ都農神社しかなかったのだ。美々津港から神武軍は船出した。港の脇には「日本海軍発祥の地」が立っている。   耳川河口の立磐神社にある神武天皇が座ったという腰掛岩に触ってみた。大きな岩だ。神武天皇はさぞ身長も高かったのだろう。
近くのレストランの展望テラスでは、地元のおじさんが
「神武天皇の船はあの岩の向こうを回って出て行ったんだ!」
と沖の岩を指して、見てきたような説明をしてくれた。
この地では神話は完全に歴史とされている。神話を身近に感じて生活する。心の中にご先祖様を描きながら生きるのは悪いことではない。なかなかいい感じだ。

ワカミケヌ命(のちの神武天皇)は兄の五瀬(イツセ)命と相談をした。
「ご先祖の天照大神との約束の地である出雲に行こう」
日向を発って、まず豊(トヨ)の国の宇沙(うさ)に向かう。豊前の宇佐神宮のことである。辺鄙な田舎に住む兄弟が、巨大国家の出雲に向うのだから、各地で仲間を集めなければならない。当時宇沙には大きな勢力があった。

イツセ命と神武の兄弟は、宇沙から出雲に行くために関門海峡を抜けて、北九州の岡田の宮に向かった。しかし彼らは岡田の宮から再び関門海峡をもどって瀬戸内海にはいり、安芸、吉備に向かう。
関門海峡は狭くて流れも速い。今でも航海の難所である。そこを古代の船で行き来するのはあまりにも危険が伴う。なぜ関門海峡を行きつ戻りつをしたのだろう。

情報が少なかった田舎出身の神武軍は玄界灘に面した岡田の宮で
「国の都はいまでは出雲から大和に拠点を移っている」
という新情報を得た。
日本海沿いに出雲に行くためにやっとのことで関門海峡を越えたが、目的地を大和に変えて再び海峡を戻って瀬戸内海をへて浪速に向かったのだ。神武が難所の関門海峡を行き来したことへの私の説明である。

この後、神武天皇は安芸のタケリノ宮、吉備の高島宮を経て大和へ向かう。その間の話は次章に譲る。

この章では天孫降臨した日向の国での三代にわたる歴史をたどった。しかし日向各地を回ってみて、宮崎県の高千穂以外の「歴史」はとってつけたような気がして、違和感がある。それは天照大神、大国主神の物語がまるで感じられないからだ。私の「三輪の神紀行」に日向三代はなくてもいいかなと思った。

しかしよく考えると神話というのは時間と距離は関係なく様々に話が展開するからおもしろいのだ。初代天皇のお父さんはワニから生まれたなど突拍子もないことが描かれるのが神話である。ワニは爬虫類だから子どもは産まないなどと目くじらを立てることはないのだろう。

第4章 日向三代はこれで終了。日向三代の活躍の地は広かった。おかげで南九州各地を走り回ることができた。かなりの時間はアメリカ大陸を走って横断したジャーニーランナーの下島伸介さんに助けてもらって実際に走った。自分の足で地面を測るといろいろなものが見えてきた。もう一人忘れていた。アキレス腱断裂後松葉杖で韓国岳に登った時には三輪倫子さんにも介助をしてもらった。それぞれ感謝!

第5章では瀬戸内海を大和に向かう神武天皇の話である。その他にもう一つ九州から大和に向かった神功皇后の話にも踏み込もうと思っている。乞うご期待!

第3章 豊葦原瑞穂の国の抗争劇

■3 出雲の平野は遠くから引っ張ってきた!

三輪山に鎮座する大物主神、大国主神、少彦名神の三柱の神は出雲出身であると聞いた。そこで神さまのふるさと出雲に行ってきた。しかしそこで見聞きしたことは、私の先入観とは大きく違っていた。
大国主神は国津神の総帥で大物主神と少彦名神が協力して出雲の国をつくったとばかり思っていた。ところが出雲では大国主神の姿は少なく、スサノオ神、伊邪那美神など天津神の活躍ばかりがめだった。

私の思い違いの一つは、今の出雲市と古代出雲の場所が違うことだった。古代出雲の国府は意宇(おう)の風土記の丘の近くにあった。そこには条里が整った広い平野、豊葦原瑞穂の国が広がっていた。この広い平野は太古の時代からあったものではなく中国山地から流れ出した土砂が積もってできた沖積平野である。新しく作られた土地であることを古代の人たちは知っていたのだ。出雲神話に新しい陸地ができたことが語られている。

この地に住む八束水臣野命(ヤツカミズオミツノミコト)という神が三瓶山を杭にして大綱で朝鮮半島から日御碕を引っ張ってきた。その大綱が国引き浜(引佐の浜)である。さらに弓ヶ浜を大綱に見立て大山(だいせん)に足をかけて、「よいしょ」とひっぱった。
「やったぜ! おう!」と言ったかどうかはわからないが、この地は「意宇」(おう)と呼ばれるようになった。
引っ張ってきた陸地(島根半島)と本土の間には海峡ができたが、両側には大綱に見立てた砂州が伸びていき、海峡の両側を塞いで、平野ができたのである。豊葦原の瑞穂の国は神さまの「国引き」のおかげで成立したのだ。

 埋め立ての進行には時間差があった。最初は意宇に広く豊かな平野はでき、のちに現在の出雲大社のある場所に豊かな国が作られた。意宇にあった出雲国造(昔の国主)家も新しい出雲大社(当時は杵築大社と呼ばれていた)に移転した。
もしかすると大昔に意宇国と出雲国があって勢力争いをした結果、政治の中心が出雲大社に移ったことを示しているのかもしれない。

いずれにせよ、豊葦原瑞穂の国は豊かであったために勢力争うがしばしば起こったのだ。影の薄かった大国主神も大物主神も少彦名神も一時期勢力を持った一族の長(おさ)だったのだ。

出雲を訪れてみたら、出雲神話はスサノオと八岐大蛇との抗争、大国主と因幡白兎連合との抗争、大国主とスサノオの抗争、大国主と天照大神との争いなどの抗争を物語したものだということがよく分かった。豊かな国というのはいつの時代も周りから狙われるのだ。

■3-1 最初の抗争 八岐大蛇を退治!する

3-1 スサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する

高天原で伊邪那岐神から海を支配するようにと言われたスサノオ神は
「母の伊邪那美神のもとに行きたい!」
とわがままを言った。
父伊邪那岐神は、別れた妻伊邪那美を慕うなんて許せないと怒り、スサノオ神を高天原から追放することにした。
しかしスサノオ神は居座って、姉の天照大神と「誓詞(うけひ)」で正邪を決することにした。

天照大神はスサノオの剣を噛み砕いてプッと吹くと三柱の女神が生まれた。
その名は多紀理姫(タギリヒメ)、市寸嶋姫(イチキシマヒメ)(弁財天)、多岐都姫(タギツヒメ)通称宗像(ムナカタ)三女神である。

スサノオ神は天照大神の勾玉を噛み砕いて吹くと五柱の男神が生まれた。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(オシホミミ)、天之菩比命(アメノホヒ)、
天津日子根命(アマツヒネコ)、活津日子根命(イクツヒネコ)、熊野久須比命(クマノクスヒ)である。

この神さまの名前をワープロ打つのはちょっと大変。以後は省略してカタカナで示すことにする。正勝吾勝の名前がしめすように、天照大神の方が「うけひ」では勝ったはずなのに、スサノオは自分が清い心を持っているから女神が生まれたといい、自分の正義が証明されたと言って高天原に居座り、天照大神の侍女たちに乱暴狼藉を働いた。
驚き怒った天照大神は岩屋の中に隠れてしまった。
前の章で述べた高天原の大事件、「天岩戸隠れ」である。

天照大神の岩戸隠れが解決した後、大事件を起こした張本人(神)のスサノオは全財産を没収され髭を抜かれ爪をはがされて高天原を追放された。
高天原の極悪神スサノオがたどり着いたのが出雲の簸川(ひかわ)上流だった。豊かな出雲を治めていたのは老夫婦だったが近隣の遠呂智族からたびたび侵略をうけていた。神話では遠呂智族は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という頭と尾が八つに分かれた大蛇と言いうことになっている。

スサノオ神は嘆き悲しむアシナズチ、テナズチという老夫婦の話を聞く。近々娘のイナダ姫が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の人身御供になるのを嘆いていたのだ。これまで7人の娘がヤマタノオロチに食われてしまい、イナダ姫が最後の娘だと聞いたスサノオはイナダ姫を嫁にすることを条件にして、八岐大蛇と戦うことにした。神さまと言っても、そう簡単には相手を倒すことは難しい。スサノオは策略をめぐらす。

アシナズチ、テナズチに指示し、強い酒を八個の酒樽に入れて門の前に置きヤマタノオロチが現れるのを待った。やってきたヤマタノオロチは八つの頭を酒桶に突っ込んでがぶがぶ飲んだ。完全に酔っ払ったのを見計らってスサノオは十握の剣(とつかのつるぎ)でヤマタノオロチ(大蛇)をバラバラに切り刻んだ。簸川は大蛇の血で真っ赤になった。切り刻んだ大蛇の尾からすばらし太刀が出てきた。

スサノオはこれを「ツムガリの太刀」と名付け、高天原の天照大神に奉納しお詫びした。その剣は高天原で「天の群雲の剣」と名付けられ、その後に大和のヤマトタケルにわたり今度は「草薙の剣」と名づけられた。現在この剣は尾張の熱田神宮に納められている。天皇家の三種の神器の一つだが、なぜ熱田神宮にあるのかよくわからない。一方「十握の剣」は「布都(ふつ)御魂」とよばれ、大和の石上神宮のご祭神になっている。

ヤマタノオロチを退治したスサノオ神はイナダ姫と結婚する。アシナズチ、テナズチの豊かな国の支配を任されたことになった。