旧国説明(賀曽利隆さんHPから勝手に借用)

古代日本の行政区画は「五畿七道」といわれるように大和、山城、河内、摂津、和泉の畿内の5国を中心に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7道から成っていた。現在では東海道や北陸道というと街道名として使われているが、もともとは行政区域名だった。古代日本は「道州制」を敷いていた。畿内・七道の下に全部で68ヵ国の国があった。それぞれの国はさらに郡に分けられ、郡の下に里があった。
 大宝元年(701年)に出された大宝律令で「五畿七道」の行政区画が定まったわけだが、それから1300年たった今でも68ヵ国の影響は色濃く残っている。
「日本一周」で何がおもしろいかというと、あちらこちらで日本の原点を見られることだ。それだから日本を県単位で見るのではなく、旧国単位で見ていくほうがよりおもしろいことになる。100年ほどの歴史しかない県と違って、旧国には1300年以上の歴史がある。
 日本の全都道府県名をいえる人は多くいると思うが、68ヵ国の旧国名を全部いえる人はそうはいないであろう。この「68ヵ国」は日本を見てまわる上での基本といってもいい。ぜひとも68ヵ国全部をおぼえよう。そうすると日本がよりおもしろくなってくるし、日本がよりおもしろく見えてくるのは間違いない。
五畿七道

国名      略称        都道府県名
畿内
山城(やましろ) 城州(じょうしゅう)京都(南部)
摂津(せっつ) 摂州(せっしゅう) 大阪(北西部)
兵庫(南東部)
河内(かわち) 河州(かしゅう) 大阪(東部)
和泉(いずみ) 泉州(せんしゅう) 大阪(南西部)
大和(やまと) 和州(わしゅう) 奈良
東山道
陸奥(むつ) 奥州(おうしゅう) 青森・岩手・宮城・福島
出羽(では) 羽州(うしゅう) 秋田・山形
下野(しもつけ) 野州(やしゅう) 栃木
上野(かうづけ) 上州(じょうしゅう) 群馬
信濃(しなの) 信州(しんしゅう) 長野
飛騨(ひだ) 飛州(ひしゅう) 岐阜(北部)
美濃(みの) 濃州(のうしゅう) 岐阜(南部)
近江(おうみ) 江州(ごうしゅう) 滋賀
東海道
常陸(ひたち) 常州(じょうしゅう) 茨城(中部・東部)
下総(しもふさ) 総州(そうしゅう) 千葉(北部)・茨城(西部)
上総(かずさ) 総州(そうしゅう) 千葉(中部)
安房(あわ) 房州(ぼうしゅう) 千葉(南部)
武蔵(むさし) 武州(ぶしゅう) 埼玉・東京・神奈川(東部)
相模(さがみ) 相州(そうしゅう) 神奈川(中部・西部)
甲斐(かい) 甲州(こうしゅう) 山梨
伊豆(いず) 豆州(ずしゅう) 静岡(伊豆半島)
駿河(するが) 駿州(すんしゅう) 静岡(中部)
遠江(とおとうみ) 遠州(えんしゅう) 静岡(西部)
三河(みかわ) 三州(さんしゅう) 愛知(東部)
尾張(おわり) 尾州(びしゅう) 愛知(西部)
伊勢(いせ) 勢州(せいしゅう) 三重(北部・中部)
志摩(しま) 志州(ししゅう) 三重(志摩半島)
伊賀(いが) 伊州(いしゅう) 三重(中西部)
北陸道
越後(えちご) 越州(えっしゅう) 新潟(佐渡島を除く)
佐渡(さど) 佐州(さしゅう) 新潟(佐渡島)
越中(えっちゅう) 越州(えっしゅう) 富山
加賀(かが) 加州(かしゅう) 石川(南部)
能登(のと) 能州(のうしゅう) 石川(北部)
越前(えちぜん) 越州(えっしゅう) 福井(北部)
若狭(わかさ) 若州(じゃくしゅう) 福井(南部)
山陰道
丹後(たんご) 丹州(たんしゅう) 京都(北部)
丹波(たんば) 丹州(たんしゅう) 京都(中部)・兵庫(中東部)
但馬(たじま) 但州(たんしゅう) 兵庫(北部)
因幡(いなば) 因州(いんしゅう) 鳥取(東部)
伯耆(ほうき) 伯州(はくしゅう) 鳥取(西部)
出雲(いずも) 雲州(うんしゅう) 島根(東部)
石見(いわみ) 石州(せきしゅう) 島根(西部)
隠岐(おき) 隠州(いんしゅう) 島根(隠岐)
山陽道
播磨(はりま) 播州(ばんしゅう) 兵庫(南西部)
美作(みまさか) 作州(さくしゅう) 岡山(北部)
備前(びぜん) 備州(びしゅう) 岡山(南東部)
備中(びっちゅう) 備州(びしゅう) 岡山(西部)
備後(びんご) 備州(びしゅう) 広島(東部)
安芸(あき) 芸州(げいしゅう) 広島(西部)
周防(すおう) 防州(ぼうしゅう) 山口(東部)
長門(ながと) 長州(ちょうしゅう) 山口(北西部)
南海道
紀伊(きい) 紀州(きしゅう) 和歌山・三重(南部)
淡路(あわじ) 淡州(たんしゅう) 兵庫(淡路島)
讃岐(さぬき) 讃州(さんしゅう) 香川
伊予(いよ) 予州(よしゅう) 愛媛
阿波(あわ) 阿州(あしゅう) 徳島
土佐(とさ) 土州(としゅう) 高知
西海道
筑前(ちくぜん) 筑州(ちくしゅう) 福岡(北西部)
筑後(ちくご) 筑州(ちくしゅう) 福岡(南部)
豊前(ぶぜん) 豊州(ほうしゅう) 福岡(東部)・大分(北部)
豊後(ぶんご) 豊州(ほうしゅう) 大分(中南部)
肥前(ひぜん) 肥州(ひしゅう) 佐賀・長崎
肥後(ひご) 肥州(ひしゅう) 熊本
日向(ひゅうが) 日州(にっしゅう) 宮崎
大隅(おおすみ) 隅州(ぐうしゅう) 鹿児島(東部・島嶼部)
薩摩(さつま) 薩州(さっしゅう) 鹿児島(西部)
対馬(つしま) 対州(たいしゅう) 長崎(対馬)
壱岐(いき) 壱州(いっしゅう) 長崎(壱岐)

石見国総社国分尼寺

今は最も小さい県の一つである島根県だが、昔は出雲、石見、隠岐の3国からなるなる国だった。一つの県に3つもの空港があるのその名残である。石見は今は山口県の長門国に接する国で、国府があった浜田市あたりが中心であった。

国府
国府は「こう」と読むことが多い。浜田駅の隣の駅は「下府」と書いて「しもこう」と読む。昔は下国府と書いた名残らしい。下府駅のすぐ近くに伊甘神社がありその周囲に国府があったとされるが発掘調査はなされておらず、確定的ではない。しかし地元では、国府跡の碑を立て、御所池を整備して「国府」あとが確定的である。

総社
伊甘(いかん)神社が総社とされている。国府碑(最近作ったもの)はこの神社の境内にある。式内社で昔はもっと大きな神社であったようだが、今は村の鎮守ほどの規模で、椋の木とイチョウの大木が目立っている。しかし社殿の作りは見ることはできないのだが神社には「印鑰大明神」の文書があるという。印鑰(いんにゃく)とは国府の倉庫の鍵と国司の印を納めた社のことであり、この社があったということは国府の総社であることの証拠になる。境内には清い水の湧きだす御所池がある。国司の館にはこのような池があったというがちょっと小ぶりである。

国分寺
下府から国道9号線を少し北に行くと国分の集落がありそこに金蔵寺がある。地元の人に「国分寺はどこですか?」と聞いてもわからないという。そのはずで金蔵寺の前に石碑と解説板があるだけである。この寺は元の国分寺の跡に立っていることがわかっている。道路を隔てたところに国分寺の瓦を焼いた窯跡があり史跡に指定されている。広大な国分寺と国分尼寺が造営されるにあたって専用の窯が作られたのであろう。

国分尼寺跡
国分寺から500mほど離れた台地の上に尼寺跡がありその一角が発掘整備されている。近年まで寺があったようだが今は石組のみ。石垣の寺あとに佇むとなんとなく気分が落ち着く。寺から小さな谷を隔てた高台に国分寺霹靂(かんたけ)神社がある。国分寺の鎮守だったのだろう。石段途中に珍しい焼き物の狛犬がいた。こんな狛犬は初めて見るものだ。なかなか面白い。

浜田から江津へ、石見二宮多鳩神社、日笠寺
いつもなら浜田駅から歩いただろうが、今回が68か国中67カ国目ということで奥さんが一緒だったのでバスに乗ることになった。奥様は合理的で交通手段があるなら乗れば効率がいいじゃん!という。私は昔の人は歩いて行き来したんだからその感覚を感じたい。しかし奥さんが資金提供者なので言うことを聞くしかない。

殺風景な史跡を見るだけではつまらないので石見神楽の神社を訪ねることにした。石見一宮は遠いので、二宮の多鳩神社を訪ねた。社殿は大社造だが、拝殿の前にさらに神楽殿(弊殿)がある。弊殿で石見神楽が奉納されるそうだ。なかなか素晴らしい神社で奥様は満足。

さらにその後は江津の日笠寺に泊めていただく。住職のYAMASAKIさんとは昔一緒に旅をした仲間である。驚いたことに本堂の中に立派な狛犬(獅子)は鎮座していた。永平寺にある一対の獅子と同じものだという。国府巡りと一緒に、狛犬探しの旅を続けているが寺にこんな立派な狛犬がいるとは知らなかった。最後になってこんな出会いがあるとは!、神様か仏様のご褒美かも!

出雲国府、総社、国分寺跡

古代の出雲地方では「国造」がこの地を治めていた。律令制が整い大和政権から全国に国司が派遣されたが出雲国造はそのまま継続した。朝廷の力が弱まった平安時代には国府、国司の制度は形骸して姿を消して行った。しかし出雲国造は出雲大社を拠点として北島家、千家が国造家として現在まで残っている。

出雲国府

さすが古代の王国だけあって、古い遺跡などよく調査されており、指導表なども整備されている。出雲国府跡は出雲市ではなく松江市の南の「意宇(おう)」という地区にあり、「八雲立つ風土記の丘」という博物館が作られており、国府跡だけでなく由緒ある神魂神社、八重垣神社、眞名井神社などは徒歩で回れる範囲にある。

出雲総社

国庁跡の一角に六所神社がある。この神社が出雲の総社であると国造家が碑を建てている。六所とは古代からの重要六社のことで揖屋神社、神魂神社、八重垣神社、熊野神社、眞名井神社、と六所神社で出雲大社は入っていない。出雲大社はもとは杵築大社という名前で、出雲と名乗ったのは明治4年からである。

出雲国分寺・国分尼寺

意宇(おう)の付近
「意宇」は不思議な呼び名だ。出雲風土記では八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が大山を杭に夜見が浜を綱にして朝鮮から土地を引き寄せて美保岬を作った時に「おう!」と言ったことからこの名前がついたという。この地は古代から豊かな地で、大和と対抗できる巨大国家だった。スサノオ神、大国主神など日本神話で重要な神の故郷である。

筑後国府・国分寺・高良神社

筑後川下流部は古くから開けた地域である。その中心にある高良神社は何やら意義深く不可思議な神社である。私は高良山山麓の水縄断層遺跡を見るためにこの地を訪れて以来気になる神社だった。今回筑後国府、総社遺跡を見に行ったが、国府のヘリが千本杉断層によって区切られていることをみて、こりゃ興味深いことだと改めて感じた。高良山、断層、筑後川が私の筑後国イメージである。
筑後国府
筑後国府は高良山の麓、筑後川の屈曲部の低湿地に作られていた。朝廷の権威が届かなくなった中世以降は完全に埋まったが、今から50年ほど前から発掘がなされその姿がおぼろげながら復元されている。国府の建物は4回移転していることがわかっている。3回目まではJR久大線の北側、千本杉断層の下側の低地にあったが第4期の国庁は台地の上の南筑高校の敷地に移ったことが判明している。説明版、石碑が建てられているのは第2期政庁の国司館跡である。下右写真は第2期政庁跡にある阿弥陀堂。

総社
JR久大線の久留米大学駅は千本杉断層の真上にある。駅の北側は急崖で、がけ下に池と神社がある。池の水は断層外から湧く清らかな水であった。ここに味水御井
(うましみずみい)神社がある。国府の役人らがこの水で曲水の宴を張った石組みが発見されたという。現在は朝妻神社となり、朝妻の清水が高良神社のみそぎの水として使われているという。

国分寺・国分尼寺
国分寺跡、国分尼寺跡は少し離れた陸上自衛隊の近くにある。国分寺という寺はなく、神社の境内に碑だけが立っている。尼寺跡はさらに寂しく民家の角に石碑が建つだけ。この前を2回行ったり来たりしたのに見つからなかったぐらい見つけにくい。

高良大社

周防国衙・国分寺・周防大仏

山口県は旧国の長門国、周防国からなっている。周防国は大内氏が支配した国で、中心だった山口は西の京として大いに繁栄した。しかし古代の周防国府が置かれたのは防府だった。他国の国府は10世紀には衰退していったがここは東大寺領となり長く継続した。国分寺は今も威容を誇っている。
周防国府(防府)
広い国府の跡がのこっている。国庁があった部分に国衙の石碑がある。国府は役所の区域のこと、国庁は役所のこと、国衙は役所の建物のことである。ここにある石碑は江戸時代に建てられたものだ。

多々良大仏
防府は東大寺領になったために長く保護されてきた。大仏も作られ、今もその姿を作られた当時とほぼ同じ多々良さんの麓で国府の北隅にのこされている。

周防国総社(佐波神社)
総社(惣社)は国司が赴任した際に、その国中の神社に参詣するのが習いであったが、それは容易なことではないので国府に諸神を集めて祀る惣社(総社)を建立する制度ができた。防府市惣社町にある。

周防国分寺
周防国分寺は昔の形式を残したまま現在に至っている。10世紀ころには朝廷の威力は無くなり、地域に密着しない官立の寺は衰退した。しかしここは東大寺の管轄になったために現在までその姿を残している。ただし規模は縮小差荒れており七重の塔ものこっていない。

法花寺(国分尼寺)
国分尼寺との表示はなかったが、奈良の国分尼寺の総本山である法華寺を名乗る寺が旧国にある。おそらく国分尼寺を意識してつけた名前であろう。この寺がいつできたか聞くことはできなかったが、私の中ではここが国分尼寺跡であると確信している。

防府天満宮

大宰府に左遷されることになっていた菅原道真は防府にとどまって朝廷からの許しの方を待っていた。しかしその使者は来なかった。寂しい思いをして九州の太宰府に流され、その地で亡くなった。菅原道真が亡くなった日に遥か西の空から五色の光が射し、酒垂山の空には瑞雲が棚引いた。国司をはじめ里人たちは道真公の魂が光となり雲となりこの地に帰ってこられたと悟り祠を建立して松崎の社とした。これがのちの防府天満宮で最初の天神様と言われている。大宰府、北野とならんで日本三大天神というそうだ。

長門国・国府・国分寺

もとは日本海側にあり穴門と呼ばれていた。しかしヤマト政権が安定してくると瀬戸内海側に中心部が移ったようだ。穴門は長門と呼ばれるようになり長府(長門国府)がおかれた。中世には毛利氏の城下町になったことで国府時代の遺跡は失われてしまった。
長門国府忌宮神社の一角にある図書館に国衙の説明書がある。今回訪れたがその説明版は見つけられなかった。ネットで見つけた説明版の記述を書いておく。
中国の律令制にならって全国五畿七道の68か国に国府をさだめた。従来の国造を廃してあらたに国司を派遣した。長門の国においては長府の地を国府と定めた。別の記事には最初の国司は三輪高市麻呂とあった。急に親しみがわいてきたが、この人は実は柿本人麻呂のことであるとの記述もあり、何が何だか分からなくなってきた。

総社
総社の跡は毛利邸の入り口にあり、石碑が立っている。現在も総社があるとのことで探して歩いたら、小さな社が見つかった。これが総社とは思えないのだが!

国分寺
長門国分寺は長府、宮の内町にあった。今は道路の片隅に国分寺跡の碑が建ち、その脇に礎石が一基残っている。長門国分寺は大内氏、毛利氏による庇護を受けていたが、明治維新後に衰退した。現在の国分寺は真言宗の寺院で、長府から赤間神社の近くに移転した。 木造不動明王立像と絹本著色十二曼荼羅図(国指定重文)は現在の国分寺に引き継がれている。国分寺跡の石碑のすぐ近くに覚苑寺がある。この中に和同開珎の鋳造所があった。長門の国には長登銅鉱山があり、日本では最大の鉱山だった。

国分尼寺
国分尼寺も建設されただろうが、その痕跡は残っていない。

長門一宮住吉神社
新下関駅から国道に沿って行くと長門一宮の住吉神社に出る。住吉神社から峠を越えていくと長府の街にでる。この道は住吉道と呼ばれていた。私はこの道を数回歩いたことがある。住吉神社の青銅製の狛犬に興味をひかれた。

筑前国・大宰府・国分寺

 7世紀の筑紫国にはヤマト政権の出先機関である大宰府がおかれていた。663年白村江の敗戦で、大宰府は防衛ラインの最前線になり「水城」がつくられたりした。もともとは西の都として諸外国との交流、祖国の防衛などの任に当たっていた。しかし菅原道真など都での政争に敗れ大宰府に左遷される貴族が何人もあり、反乱などが起こったため大宰府の役目は縮小された。律令制の施行とともに筑前、筑後の国に分割され、それぞれに国府がおかれ国司が派遣された。筑前国府はたぶん大宰府の広大な敷地にあっただろうが、発掘はされていない。

大宰府 国府?
西鉄線の二日町駅から都府楼駅の間に大宰府の敷地があったようだ。今も朱雀などの地名も残っている。大宰府という駅は天満宮の参道にある駅で大宰府跡からは少し離れている。

総社不明なので榎社
総社の存在自体がわからない。一宮は住吉神社だがここからは離れた博多区にある。近くにある太宰府天満宮は総社にはなりえない。大宰府の敷地の端に菅原道真が住んだという榎社があるが、もちろんこれも総社ではない。ということで総社は不詳だが榎社の写真を入れておく。

国分寺
都府楼駅から水城小学校のわきの国分寺通りを上がっていくと突き当りに八角灯篭がありその奥に国分寺がある。国分寺わきには国分寺跡の礎石がいくつもあり広い敷地も確認できる。さらに奥には博物館(文化ふれあい館)がある。博物館の庭には国分寺にあったはずの七重の塔の復元模型があった。なかなか立派でいい。

国分尼寺
尼寺跡の礎石は一個だけ。地区の施設に保管してあるそうだ。

太宰府天満宮
左遷されて大宰府に来た菅原道真だが、怨霊になって都人に危害を加えるようになった。しかし今見ても大宰府は立派な都だったように思う。菅原道真はそれなりにこの地を楽しんでいたのではないかと私は思うが、怨霊になってもらわないと困る人たちがいてでっち上げた話ではなかろうか。それはともかく、今年は三大天満宮、京都の北野、防府、大宰府と廻った。今は怨霊などどこにも感じないいい神社だ。コロナでまだ海外旅行は解禁になっていないのだが太宰府天満宮は浅草以上の賑わいだった。しかし聞こえてくる言葉は韓国語ばかり。まあどこの国の人でも賑わうのはいいことなのだろう。

観世音寺
空海は遣唐使として長安の都に行くが20年滞在予定を2年で切り上げ戻ってくる。見つかると死罪なのでここ観世音寺に膨大な経典とともに隠れ住んだ。この経典の価値を様々な方法で表し嵯峨天皇のお許しを得て京都に戻ることができた。空海の生涯においてこの観世音寺は重要な場所である。空海ファンとしては何としても見ておかなければならない寺である。

讃岐国府・国分寺・法華滅罪之寺

讃岐国は四国88札所巡り最終章!しかし最後の五色台の山地に難儀した。八十場の79番天皇寺から歩き始め80番国分寺から五色台に上り山の中を81番へ行き、引き返して81番根来寺についたころはもう日が傾いていた。鬼無駅に降りた時には夕闇、疲れ果てて電車で高松まで行き宿泊。翌日ゆっくり鬼無駅に戻り駅前のカフェで朝食をとって82番へ向かった。国分寺資料館を見学する余裕は全くなかったことを思い出した。復元したミニ七重の塔があったことにも気が付いていなかった。4年ぶりの訪問は雨にたたられたが、新しい発見がいくつもあって楽しかった。讃岐国府

国府というのは律令制になって国から国司が派遣された場所である。それまでは地方豪族の国造が支配していたが大和の中央集権が確立したことの証明だろう。讃岐の国府は讃岐府中駅のそばにある。しかし国府跡には石碑が建つだけで周辺は田んぼが広がっている。国府が現在の県都になる例はごく少なく讃岐国も今は高松に県庁があり、国府のあった讃岐府中あたりはごく普通の田舎になっている。

ちょっと気になったのは周辺の発掘によって畑の中にいくつかの遺跡が残っていることである。その中に印にゃく神社跡というのがあった。印にゃくというのは国司の印と国衙のカギのことである。他の国府遺跡を歩くと国府のそばの総社の中に印にゃく神社があったことが知られている。しかし讃岐国の場合2社の関係は不明。

讃岐総社
総社は国司が常にお参りする神社である。なので国府とセットになっているはずである。しかし讃岐総社は綾川の6キロほど下流にある。当時は水運が使われたかもしれないがちょっと遠いような気もする。印にゃく神社の場所に総社があった、その後にこの地に移ったと考えてもいいように思う。

讃岐国分寺
讃岐国府は坂出市になるが国分寺は高松市にある。四国の4国分寺はいずれも当初の地に現在も残っている。讃岐国分寺も聖武天皇の詔の場所にあり、現在も立派なお堂がたち法灯を継いでいる。元の寺は敷地はさらに広く、現在も発掘が続き成果は隣にある資料館で発表されている。
現在の国分寺は四国第80番霊場になっており大勢のお遍路さんが訪れている。私も4年前に訪れたが人が多すぎて朱印を受けることはできなかった。ここから青峰山の第82番根来寺を目指したことを思い出した。

現在の国分寺

国分尼寺・法華寺
国分尼寺が残っているところはごく少ない。讃岐は本山である奈良の法華寺(法華滅罪之寺)の表示した寺が現存していた。「法華滅罪之寺」を掲げているのはごく少なく、私が見たのは初めてである。敷地はもっと広かったはずだが現在は境内のいくつかの礎石を残すのみである。すぐ近くに春日神社があるが何らかの関係があったのかもしれない。備前焼きの狛犬がなかなか良い。

雨の国府国分寺めぐり
天気予報は9時ごろから雨は上がると言っていたが10時になってもあがらなかった。カッパを着て自転車で端岡駅を出発し国分尼寺から国分寺、国府、総社へと回り坂出駅にもどった。坂出駅に上がると讃岐の富士山型の山には日が当たるようになっていた。残念ながら時間、体力切れでマリンライナーで岡山へ、新幹線で東京に戻った。

 

 

 

伊予国府は古国府?


『和名抄』によれば伊予国の国府は越智郡、現在の今治市にあったとされているが遺跡は見つかっていない。しかし今治平野にあったことはたぶん確実である。今治は「いまばり」と呼ぶが地元のおじさんはほんとうは「いまはる」と言ったんだ、と教えてくれた。「いまはる」の方が和語のようで優しい感じがする。

伊予国府
国府の候補はいくつかある。私は「古国分」という地名に着目してまず最初に古国分に行ってみた。地元の人は何もないところだと言うが今治藩主の墓があるという高台に上がってみて驚いた。三代藩主の墓がならんでいる。おそらくこの地は今治藩としても重要な場所だったことがわかる。さらにこのちには城が築かれていたという。昔国府として整備された地はのちの時代になっても重要な地として使われていたのだろうと思う。隣に広い交通公園があるがその地域まで国府の範囲があったのではないか。今のところ国府跡は確定していないので勝手なことが言える。私的にはこの地に国庁があったとする。

伊予総社・伊加奈志神社
伊予総社は伊加奈志神社とされている。私は四国遍路の時に寄った覚えがあるが、どこにも総社との記述はなかった。今回も確かめてみたが現地には総社との記述はなかった。それにこの場所では国府の地を「古国分」とすれば遠すぎる。どちらか、あるいはどちらも間違えているということもある。とりあえずはwikipediaの記述に従っておく。

伊予国分寺
四国札所59番が国分寺である。四国には4か所の国分寺があり、それぞれ旧国分寺遺跡の上、あるいは隣接地に建物が立っている。お遍路の時には奥さんがお大師様と握手をしたが今回は私も握手をしたいと願っていた。握手をしたあと案内板を見ると「願いは一つだけ」と書いてあった。「しまった!別のこと願うんだった!」

伊予国分尼寺・法華寺
国分尼寺の総本山は平城京わきにある法華寺(法華滅罪之寺)であり、地方の国分尼寺も法華寺と呼ばれることが多かった。伊予国分尼寺も当初は華厳宗東大寺に属していたがその後は真言宗になり現在に至っている。国分尼寺が今も法灯を継いでいるのは全国でも珍しいことである。法華寺と桜井駅の間の畑の中に国分尼寺の跡の看板が立っている。

四国遍路
私たち夫婦は2015年から18年にかけて四国札所巡り、お遍路を歩いた。全長1200キロを10回に分けて歩きとおした。今治周辺には10か所ほどの札所が続いており、出だしの徳島周辺並みの札所の数である。ここで一気に稼いでおきたいところであるが山の上まで歩かなければならずけっこう難儀をする。59番国分寺は58番の仙遊寺から降りて海の近くまで来た場所にある。
ほっと一息の場所にいいカフェがあり、同行の奥さんは大いに気にいった。今回も寄ってみたがすでに廃業していた。コロナの影響か何かわからないが、この数年で世の中が大変革した影響の一つであろう。
難儀して歩いた道だが、今回は自転車を使った。一日かけて歩いたところを3時間ほどで廻った。自転車ならお遍路ももっと簡単だったなあ、いったい何を考えてやっていたのだろう。いや、楽をするだけが人生じゃない!・・・

志摩国府・国分寺

 もう40数年前のことだが、近鉄が宮本常一さんに依頼して鵜方に民俗博物館を作ることになった。民俗資料を集める手伝いで私も志摩を歩き回った。今は大学の偉い先生たちも汗を流して民俗資料を運んでいた姿が思い出される。賀曾利さんや山口君も民家を訪ねて歩き回っていたなぁ。

私は博物館のパンフレットに志摩のリアス式の地形の説明文を書いた。しかし2016年に伊勢志摩サミットが行われるまですっかりその存在を忘れていた。パンフレットに書かれた宮本先生の文章に加えて私の説明文も復刻されて真珠飾りのついた桐の箱入りの豪華本になってサミットのお土産になったのだ。企画したのは地元の竹内千鶴さん。送られた豪華本は我が家の家宝になっている。志摩国府 総社

鵜方駅から東の安乗岬方面に向かうと国府(こう)という集落がある。ここに志摩国府があったことは想像されるが発掘調査はなされていない。
総社である国府神社が存在しているのでこのあたりに国府の建物などがあったのだろう。総社神社というが正式の表示はなかった。

志摩国分寺 国分尼寺?
志摩国分寺は国府海岸から少し丘陵にあがる斜面にある。ここまで上がれば津波の被害は受けないかもしれない。三重県にはもとは伊勢、伊賀。志摩の3か所に国分寺があったが現存するのは志摩だけだという。安乗岬に向かう道路近くに立派な建物がある。この寺の本尊は秘仏であるが重要文化財になっているので観光案内書には記載されている。お尋ねしたらご住職が秘仏の扉を開けてくださった。ありがたい!
国分尼寺は詳細不明で跡地に関しても資料はない。残念!

安乗岬
志摩はリアス式の海岸が続いており、深い入り江と細長い半島が交互に訪れる。志摩国府、国分寺の先には安乗岬が海に突き出している。私は志摩の岬巡りもしていたのでそれぞれの岬、灯台にも思い入れがある。さらに岬の根元にある安乗神社もいい神社なので写真を入れておきます。

猪子家住宅
国府国分寺とは関係ないが、サミットみやげの豪華本「志摩という国」を企画した竹内さんは、賢島の近くの猪子家の邸宅を買い取って復元するプロジェクトを実施中。最初に行った時には豪邸だがもうボロボロだった家を自力で復元し始めていた。今回めでたく登録有形文化財に認定された。文化財の家に泊まってもいいよ!とのことだった。残念ながら次の予定があったので夕方に豪邸を辞したら、電車の中で食べてと言ってお弁当をくださった。志摩の人はいい人たちだ。

摂津国分寺・難波宮

摂津国は大阪府と兵庫県の一部を含んだ国であった。律令国は国司が任命されていたが、摂津国は飛鳥の都の外港として特別の摂津職(せっつしき)がおかれた。
摂津国府 難波宮
今の大阪は深い湾入になっていた。旧淀川河口付近には良港があり交通至便の土地であった。仁徳天皇はこの地に都をおいたし聖徳太子は四天王寺をつくった。大昔から主要な土地であった。良港は渡辺の津、難波津と呼ばれていた。その「津」を治める「摂」がおかれ、摂津国になった。たぶん摂津国では難波京が国府の役割をしたのではないか!上の地図の難波京がある場所は上町台地の最も高いところである。法円坂を登ったところにある。坂の下は谷町筋であるが、全体を何と呼ぶかは私は知らない。東京では山の手と下町であるが、大阪では上町台地と谷町低地かな?

摂津国総社 難波神社
摂津国の総社は不明である。この辺りでは古くから住吉神社が最も重要な神社であった。国司がいないのだから、わざわざ国司が詣でる総社を作らなくてもよかったのかもしれない。難波神社が総社であるという説もあるが境内を見渡しても「総社」との文字はどこにもなかった。まあとりえず難波神社を総社としておこう。

摂津国分寺跡
摂津の国分寺跡は天王寺区国分町にある。環状線の寺田町駅の近くに国分公園がありその中に教育委員会が建てた国分寺跡の石碑が立っている。近くに現存の国分寺はない。

摂津国分寺
摂津国分寺は長柄の国分寺町に現存する。真言宗の大本山である。古代の国分寺とどういう関連があるかよくわからないがこの国分寺が聖武天皇の詔の国分寺の法灯を継ぐと考えられている。私が訪れた時にちょうど地蔵盆が行われており、大いににぎわっていた。天王寺の国分寺跡とはだいぶ離れており、その関係は不明である。

摂津国分尼寺
奈良の都に作られた総国分寺は東大寺、総国分尼寺は法華寺である。摂津の法華寺は摂津国分寺と淀川を挟んだ反対側、島駅のすぐ前にある。塔の礎石が残っているがその他は遺跡はない。もともとは浄水場の敷地にあったという。

大阪府は狭いし地下鉄網も発達しているので、新幹線の乗換えの間に全部回れるのではないかと思っていたが、途中寄り道が多くて結局い一日がかりになってしまった。昼前に難波の駅から難波神社に行ったが、すぐに寄り道して摂津一宮の坐摩神社に寄り、御堂筋の御堂により歩いて法円坂を昇った。上町台地を体感するためである。難波宮からは森ノ宮駅に降りて環状線で天王子に行った。四天王寺に向かったが途中に堀越神社があった。ここに熊野第一王子がある。前の日に紀伊田辺の千里王子を見たばかりだったので気になって写真を撮ったり解説文を読んだりした後、やっと国分寺跡に行った。寺田町から天満駅まで行き長柄の国分寺に行ったらちょうど地蔵盆。多くの人達が集まってたので話を聞いているうちに時間がたった。そこから阪急電車で一駅のって柴島(くにしま)駅前で国分尼寺をみて、歩いて新幹線の駅に到着。地図では近かったが歩いて行くには遠かった。大汗をかいていたんでトイレで全部着替えて新幹線いのったのはもう6時を過ぎていた。珍しくビールを飲んだら、目が覚めた時には品川だった。ちょっとのつもりが長い時間がかかった。2万8千歩だった。

紀伊国府は府守神社

紀伊国の昔の名前は古事記にあるように木国だった。その後律令制の国は二文字にするという命令が出たので「紀伊」国になった。しかし呼び名は「紀の国」が使われた。紀伊国屋書店は「きのくにや」である。現在の和歌山県、三重県がその範囲であった。

紀伊国国府
和歌山市に府中という地名がある。そこに府守神社がある。国府を守るという意味か? このあたりだろうと推定されているが発掘はなされていない。地元の皆さんの信仰は厚く、生まれたばかりの娘さんを神さまに見せるという御夫婦がやってきた。暑いのですぐに涼しい家に戻っていった。

紀伊総社 大屋津姫神社
昔は総社があったが明治のころに紀伊駅に近い大屋津姫神社に合祀されたという。総社の社殿は見つからないので確認はできなかった。とりあえず大屋姫神社を総社の代わりにアップしておきます。この神社の周囲は発掘されており宇田森遺跡として保存されている。狛犬は境内摂社にあった。

紀伊国分寺 紀伊国府から紀伊国分寺に行くには紀伊駅から阪和線で和歌山駅まで行き紀ノ川に沿う和歌山線で下井坂に行かねばらならない。なんとか直接行く方法がないかと思っていたら、紀伊駅から近畿大学に行くバスが近くをとおるという。紀ノ川の段丘をバスは進む。近畿大学は根来寺のさらに上部にある。曲がり角でおりて下井坂への道を下る。本日は猛暑日、日陰がまったくないので下り道なのに難行になる。15分ぐらい下ると日吉神社があった。なかなかいい狛犬があった。

日吉神社の隣に国分寺跡がある。礎石などが復元保存されている。国分寺の建物も残っているようだが、資料館はまたまた休館で確かめることはできなかった。本日は火曜日、月火は休館日とか。残念。

国分尼寺跡
資料館が休みなので暑い中休むところがない。国分尼寺は塔跡しか残っていないという。地図を見ると簡単そうだが影をたどって歩いて行くと探し当てるのはなかなか難しく時間がかかった。そこから下井坂駅へやっと戻ったが、涼むところがない。電車は1時間後。自販機でコーラ2本一気に飲んだらさらに厚くなった。こんな時期に国府めぐりなどやってはいけない。

おまけ和歌山駅で紀伊みなべに行くために特急くろしおを待っていると、駅員が「みなべに行く方ですか?」と聞く。天王寺駅で間違った切符を売ってしまったので取り換えるために待ってましたとのこと。私の切符は和歌山―海南間のわずか一駅分の特急券だ。一駅特急であとは鈍行というのはおかしいなとは思っていたが、コロナで特急は海南までしか行かないと聞いて納得するしかなかった。しかしあとで気が付いたのか天王寺の駅員が和歌山駅に連絡したようだ。和歌山海南駅の特急券は1000円、鈍行に乗り換えるのだから特急券は必要ないので返金しますとのこと。そのためにわざわざ待っていてくれたのだ。JR西日本の親切に感激。暑さは飛んで行った。

肥後国府国分寺は水前寺公園そば!

「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ!」
手毬を突きながら遊ぶ子供を想像するが、もうそんな風景は残っていない。もともとは肥の国だったが7世紀末に肥前肥後に分けられたという。阿蘇山の火から来た名前かと推測するが意見はいろいろあるようだ。

肥後国府
肥後国府は何回も移転したらしいが国府(こくぶ)という地名は水前寺公園の近くにあり、国府(こくふ)高校、国府郵便局などがある。国府の範囲は次の写真のようで熊本国府高校のHPに乗っていたのを借用した。地名は「こくぶ」だが高校は濁らないで「こくふ」だそうだ。

総社
総社神社は少し離れたところにある。駅そばの北岡神社内にあると書いてあったが、飛び地のようだ。ここには行っていないので写真はない。(賀曽利さんがすぐに送ってくれた)地震で壊れた鳥居は復元されている。

国分寺
当時の法灯が続く国分寺がある。HPに昔の絵図があったので借用した。昔の国分寺の範囲は水前寺公園のあたりまで広がっていたが現在は曹洞宗の寺である。寺の中に旧国分寺の遺跡はないが隣の熊野神社に七重の塔の塔心の礎石がある。神社の敷地を覆うほどの大きな礎石で往時の壮大な塔の姿が思い起こされる。

陣山廃寺跡(国分尼寺?)

水前寺公園を挟んだ場所に古い寺の遺構が発掘された。遺跡の報告書(1996年)には平安時代には大きな寺があったと書かれている。位置関係からみるとここに国分尼寺があったとしても不思議ではない。とりあえず私はこの場所を国分尼寺跡としたい。しかし2021年10月に肥後国府を訪ねたときには水前寺公園の見学で時間切れになって陣山廃寺には行っていない。陣山廃寺に行く時間はあったが、我が家の奥さんは水前寺公園の方に引かれたからだ。スポンサーである奥さまに逆らうわけにはいかないので肥後国分尼寺は次の機会に回さざるを得なくなった。

飛騨総社、国分寺

飛騨国府というJRの駅がある。当然ここに飛騨の国府があると信じて無人駅を降りた。駅前の案内板を見ても国府や国分寺の印はない。しかし国府大仏(国分尼寺)の案内があった。やはりそうだ!と思いながら地図の地点に行った。ちょっとかわいい国府大仏はあったが想像していた大きな寺ではなかった。

飛騨(斐陀)は古い国で国造の時代にはこの場所に国府があったらしいが聖武天皇が国分寺の詔を出した741年ごろには10キロほど南の高山市内に国府が移り国分寺、国分尼寺が建立されたと考えらえるそうだ。JR線に乗って高山市に移動した。飛騨国府・総社

飛騨国府は今の市役所のあたりにあったと予測されるが発掘調査はなされていない。総社はその近くにあった。総社には下のような神さまが祀られている。さすが総社!

<正殿主神>
大八椅命(最初の斐陀国造、天火明命の後裔)
<脇殿(延喜式神名帳所載八座)
水無神(飛騨一宮 位山) 槻本神(大山津見神) 荏名神(高皇産靈神)
大津神(大彦命、武渟河別命)  荒城神(大荒木之命)
高田神(高魂命) 阿多由太神(大物主神) 栗原神(五十猛命)
<脇殿(国史記載社十座)
大歳神 走淵神 四天王神 遊幡石神 渡瀬神 道後神
気多若宮神 本母国津神 剣緒神 加茂若宮神

飛騨国分寺
立派な三重塔(1820年再建)が残る。しかし元の国分寺には七重の大塔があったはずである。その礎石が境内に残っている。現在は真言宗の寺で法灯を継いでいる。境内にはイチョウの巨木がある。これはすごい大きさ!

飛騨国分尼寺跡
国分寺の前を通る道は飛騨盆地を東西に横切る道である。高山線の線路を挟んで反対側に国分尼寺があった。その場所に今は辻が森神社が立っている。そのあたりが本堂であったことが発掘調査で分かっている。旧国分尼寺の跡地の小さな部分だけが公園になっている。

高山祭り
春秋に行われる桜山八幡宮の高山祭には多数のきらびやかな屋台がでて町中が活気づく。国の無形文化財で内外の人が多く集まる飛騨地方の大イベントである。宮川沿いに大鳥居がそびえたち他を圧倒している。昔から飛騨の材木を使った大工(飛騨の匠)が有名で、多くの大工が奈良や京都の神社仏閣の造営に活躍した。地元には大変な数の寺社があり、それぞれ匠の技が光っているそうだ。

雪深く、昔は交通も困難だったが今は高山本線の起点である富山駅には新幹線が開通し、特急ひだ号を使えば東京から3時間ちょっとで来ることができる。今回私は日帰りだったが、十分に時間が取れて高山の街を歩き回ることができた。