ウズベキスタン旅行2:ホレズム王国遺跡

タシュケント空港から2時間ほど国内線で飛んでウルゲンチという町に飛んだ。目の下にはキジルクム砂漠が広がる。見たことがない風景が広がっており興味深い。この地形を見ただけでも中央アジアに来たかいがある。中山嘉太郎はこんなところをどうやって走って行ったのだろう。川の跡があるが途中で消滅している。どちらが上流かわからない。風紋のようなものができているが、これはとんでもない大きさのはずだ。黒い山、白く干上がった湖、いろいろな地形がある。

キジルクム砂漠

しばらくすると突然アムダリアの流れに出会う。水が少ないのは上流で綿花栽培などのために取水しているからだ。昔はこの流れはアラル海に注いでいた。注ぐ水がなくなってアラル海は干上がった。この地のアムダリアの流れを見れば、納得するしかない。カスピ海も同じような運命を遂げるのか??カラカルパクスタン自治共和国

バスはウルゲンチ空港からアムダリア(アム川)を渡った。ここからカラカルパクスタンですとガイドさんが言う。よく聞くとウズベキスタンの中にある自治共和国で、アラル海の河岸にあった地域だという。今はアラル海が干上がり漁業もできなくなり町も人もいなくなったという。

門があるだけで通行は自由のようだが、人々の生活水準にはちょっと差があるような気配はあるが、詳しく見ていないので雰囲気だけである。

ウルゲンチからバスで2時間ほどのところに、古代遺跡がある。ゾロアスター教の人々が住んでいた地区だった。ゾロアスター教(拝火教)はイランの宗教のように思えるが始祖はウズベキスタンの人だそうだ。

トップラクカラ
こんな砂漠の中に紀元前からのホレズム王国の城の遺跡がある。ゾロアスター教の人々が住んでいた場所だ。城の周りは何重もの土塀でかこまれていたという。このスタイルは今も続いている。これから行くヒヴァは現在も土塀に囲まれているそうだ。かなりきつい行程だったが、この遺跡に来たことは意義深かった。

アヤズカラ(古城)
トプラクカラからバスで1時間ほど砂漠の中の道をとおって別の遺跡に行く。ここもホレズム王国の軍の駐屯地だったという。周囲を土塁で囲まれた空間が広がっている。目の下に出城の一つが見える。城の壁は10mほどの高さだが30mの丘の上にあるので砂の中の登山になる。お疲れの奥さんを置いていこうと思っていたが、頑張って登るというので上がっていったが、ツアーのメンバーの皆さんには後れを取った。年には勝てないなあ。写真のように結構な登りです。

城の上は下3枚の写真のような広場!ここに都市があったという。後で行ったヒバの場内よりも広いのではないかと思った。ここに数万人が住んでいたというが、ほんどうだろうか?ちょっと疑問だが、ともかく紀元前から町が形成されており、その繁栄をアレキサンダー大王軍が打ち破ったのだ。

この遺跡の手前にテントがある。モンゴルではゲルだが、ここでは「ユルタ」という。中国ではパオだったかな? 中は広くクーラーもあり食事ができるようになっている。しかし水や電気はどこからくるのか??我らはここでお昼を頂くことになった。きゅうりトマトなど野菜が多く出てきたのには驚いた。

このツアーは「青の都」がテーマだったのでこんな古代遺跡を訪れるとは思っていなかった。おかげでこの地域の歴史に大いに関心が持てるようになった。

紀元前4世紀といえばアレキサンダー大王が東征をおこないヘレニズム文化が広がった時代なのだ。アレキサンダー大王はサマルカンドまで来ていた。こんなとこまで来たことは知らなかった。古代ギリシャだけが文明世界ではなかったのだ!

ウズベキスタン旅行3:ヒヴァ

世界遺産:ヒヴァウルゲンチの町を挟んで古代遺跡と反対側にヒヴァの町がある。私たちはバスで行ったがウルゲンチからはトロリーバスが連絡している。30分ほどで土塁の城壁に囲まれたヒヴァの町に着く。城壁の中は「イチャンカラ」(城内)とよび、数多くの神学校(メドレッセ)やモスクが所狭しと立ち並んでいる。1990年、ウズベキスタンで最初の世界遺産になった。

私たちのホテルは城の西門の真ん前にあるので着くとすぐに場内に入りライトアップされた建物を見学した。入場料は150000スム(2000円)である。15万スムと言われると「高い!」と思うがこちらは超インフレ。狭い城内には土産物屋が並びその間をヨーロッパ系の観光客が大勢歩いている。日本で見るような中国人観光客が全くいないのはどうしてだろう。この街には中華料理屋もない。中国との縁が薄い国のようだ。

もともとは小さな村だったが16世紀、アムダリア川の流れが変わりヒヴァは水の豊かな街になった。ここには奴隷市場ができ、おおくの労働力と富が集まった。その財力で狭い城内に20のモスク20の神学校6基のミナレットが建てられた。

下左はイスラムホジャミナレット(45m)で登ることもできるが、私にはムリ!短いミナレットはカルタミナル(26m)。中央アジア1のミナレットを作るはずだったがアミンハーンが亡くなったのでこの高さで中断した。右は名前を聞いたが忘れた。

1876年、帝政ロシアは奴隷解放を名目にヒヴァハン国を攻撃した。その時に解放された奴隷は3万人、うち5千人がロシア人だったという。帝政ロシアは中央アジアに侵略し植民地化していった。各都市は破壊されたが、なぜかヒヴァのイチャンカレだけは無傷で残った。中央アジアで昔の姿が残る城塞都市はヒヴァだけであるという。

ソ連は宗教を嫌ったため神学校やモスクは破壊されたりした。このメドレッセ(神学校)は一番格式のある学校だったが閉鎖され、ホテルへ生まれ変わった。神学生の住む部屋はホテルの部屋にちょうど良かったのだろう。見学可能だったので部屋も見せてもらった。ここで神学生は学んでいたのだろうが、今の時代神学校はどうなっているのだろうか。

翌日の夕方レストランで日が沈むのを見ながら夕食! 緑色の香草を練り込んだスパゲッティがヒヴァの名物という。ここでつい食べ過ぎて、翌日からおなかの具合が悪くなった。楽しくおいしく食べたのはこの日だけで後は様子を見ながらと言うことになった。ちょうどよく食べるというのは難しい。

一日泊まっただけで次に移動したが、考えどころは多かった。

まずカラカルパクスタンと言う憲法を持つ国がウズベキスタン国内部にあることに驚き。

カラカレパクスタンの北半分はアラル海だったが干上がって現在は作物もできない塩ノ原になっている。綿花畑を作るためにアムダリア川の水が採られたためで、カラカレパクスタンの国力は一気に下がりウズベキスタンに取り込まれた。

ヒヴァのイスラム教施設がよくもまあ残っていたなあという驚き。中央アジアを席巻したのはチンギスハンをはじめ諸将はみな都市を破壊しつくした。青の都のサマルカンドもしかりである。

しかしここはほとんどの施設がそのまま残っている。ソ連もこの素晴らしさには手を付けられなかったのだろうか。色々考えるテーマができた。

もう少し反芻する時間が欲しいが、ツアーは非情。夜のヒコーキでブハラに向かう。第2日目終了。

ウズベキスタン旅行4:ブハラ

4:ブハラ(ウズベキスタンの奈良かな?)
 ウズベキスタンの首都タシケントを東京とすれば前の都サマルカンドは京都、さらなる古都のブハラは奈良に当てはまるかもしれない。ブハラの歴史は紀元前からソグド人らが小集落をつくっていた。709年のアラブの侵入以降は様々な王朝の支配下にはいり交易の町として繁栄していたが1220年ジンギスカンが侵入し町は焼かれ人々は皆殺しになった。廃墟を残してジンギスカン軍はサマルカンドに向かいそこも壊滅させた。サマルカンドは全く何も残らないまで破壊されたが、ブハラは少しだけ全盛期の建物が残りそこを中心に16世紀になって町は復活をした。昨日と言うよりも日が変わった真夜中、ウルゲンチからヒコーキでブルサについた。このツアーは交通の関係もあるがかなり過酷な日程になっている。事前にもらった日程表では出発が早朝、ホテル着が夕方などとなっており時刻は書いていなかった。昨日も夜にホテル着ということだったが深夜になった。それでも皆さん頑張って行動をしているが、年長者の我が家はもう限界に近い。ブルサでは連泊することになっているので私たちはこの日自主的に休養ということにした。離脱届を提出しバスで出発する皆を見送りもいちどベッドに戻った。

しかし10時ごろになると、せっかく来たんだから少しだけ観光に行こうよと言うことになり中心街に出かけることにした。町中までタクシー代は10000スム、150円ほどだ。なんか間違えているのではないかと思ったが運転手はOKと言う。おろされたのはラビハウズという場所。ハウズは四角い人工の池の意味だという。砂漠の中で水は貴重。水辺を中心に街は開けるのだろう。さっそく街歩き開始。

イスタンブールやダマスカスのバザールをイメージしていたがここはキャラバンサライ(隊商宿)や神学校などの建物を利用したもので長く店が並んでいるわけではない。ハサミなどの刃物類、絨毯、金属のポットなど細工物が多い。細密画の店もある。奥さんはお皿を買いたいらしいがまだ先は長い。重たいものを背負わされるのはきついので買い物厳禁!見て回るだけにした。

バザールを抜けたところにブハラで一番のカラーンモスクとミナレットがあった。1万人の人が礼拝できる巨大なモスクである。チンギスハンの破壊の程度が低かったものを16世紀になって復元したそうだ。「ハイつきにいきましょう!」ではなく、休養中の私たちはここでゆっくりイスラムモスクの偉大さを味わうことができた。と思っていたら朝バスで出た我がツアーの仲間にであった。「どうして?なんでここにいるの?」と不思議がられた。添乗員さんには申し訳ないが、かってに歩くのは気楽でいい。いい休養ができて明日からの過酷ツアーに復帰できそうだ。

あまりにもゆっくりしすぎてアルク城など有名なところを見なかったのは少々心残りだが、体調が回復したことでOKとしよう。ホテルに戻ってしばらくすると一行が戻ってきた。このあと民族舞踊ショーを見ながら食事だそうだ。私たちも復帰することにした。舞踊ショーの場所は私たちがタクシーで降りたラビハウズのメドレッセの中庭だった。どの神学校もモスクも観光用に供用されているのはちょっと不思議だ。

下の写真をクリックすると動画につながります。

ウズベキスタン旅行5:シャフリサブス

5.ティムールの故郷 シャフリサブス
ジンギスカンは中央アジアの都市を徹底的に破壊したが、ティムールは廃墟を復活させ大帝国を作り上げたウズベキスタンの大英雄である。生まれ故郷はブハラとサマルカンドの間にあるシャフリサブスである。最初ティムールはシャフリサブスを首都とし、巨大なアクサライ宮殿を作った。しかしこの地は交通不便であったので彼は首都をサマルカンドに移した。シャフリサブスはいまは人口5万人の小さな町だが、特別に大きなティムール像と超巨大な宮殿の門、ティムールの墓があり世界遺産に登録された世界的な観光地として整備されている。この朝、バスでブハラのホテルを出た。昨日休養を取ったので少しは回復した。バスの窓から中山嘉太郎さんが走った道路を見る。彼の話のように綿花畑が広がり道端ではスイカ、メロンを売る人々がいる。小さなチャイハナが点々とある。中国の沙漠地たち違って人々の姿が濃いようだ。この道ならば中山さんなら楽しく走って行けたかもしれない。しかし政治状況はバスの中からはわからないので警官とのいざこざは常にあったようだ。私は「よく走って行ったなぁ!」と感心するしかない。今は10月の半ばで暑さは半減しているが、綿花摘みの作業は重労働だろう。広い綿花畑、この作業はいつ終わるのだろう。この畑の脇には灌漑用の水路がついているがそのそばに黄色い(錆びているが)パイプラインが通っている。これは天然ガスの供給用のパイプで、村の家々にもガスがいきわたっている。この国は資源大国でもあるのだ。しばらくバスの窓から道路わきを観察しながらうとうとする。

ティムールについて
ティムールは1336年にシャフリサブス近郊で生まれた。チャガタイハン国の内乱に乗じてのし上がりチンギスハンの一族の女性を奥さんにして「ハン家の婿」という立場で実権を握った。1370年のことであり、この年をティムール朝の成立とする。ティムールはサマルカンドを首都として再構築した。そしてチンギスハンの事業の再現をかかげてイラン、ロシアに遠征し、さらにインドにも侵入した。デリーを占領し捕虜10万人を殺戮した。膨大な戦利品と有能な職人、技術者を多数連行しサマルカンドのモスクなどの造営にあたらせた。さらに1400年にはシリアに侵攻しダマスカスを破壊、アンカラの戦いでオスマン帝国のバヤジット1世を破った。アンカラの戦いからすぐに軍を中国に向かわせた。明の永楽帝との戦いになるところだったが、1405年遠征の途中で酒を飲みすぎて没した。墓所はサマルカンドのグルアミール廟である。ティムールは生涯「ハン」ではなくアミール(指導者)だった。ティムールの宮殿の奥に見事なネギ坊主のドームを持つモスクがある。中に入るとすばらしい彫刻がある。しばらくそこで落ち着きたくなるようなモスクである。瞑想のモスクと言われるとのことだ。ティムールの墓はサマルカンドにあるが彼は死後は故郷のシャフリサブスに葬られたいと墓所を作っていた。その場所は今は地元の男たちの礼拝の場所になっている。シャフリサブスからサマルカンドまで80キロある。高速道路があれば1時間ぐらいだが、途中に2000mもの山がありそれを越えなければつかない。3時にバスに乗ったがサマルカンド郊外に着くころには真っ暗になった。おそらく3時間はかかったことだろう。ホテルはレギスタン広場のすぐ裏だったのでライトアップしたメドレッセを見ることができた。ちょっとやりすぎのライトショーだった。今日もつかれた、一日を反芻する間もなくベッドに入ると爆睡だった。

ウズベキスタン旅行6:サマルカンド

今回の旅のハイライト「青の都」サマルカンドである。吉田拓郎の曲に
サマルカンドブルー」ってのがある。私たちの時代シルクロードとか胡人なんてのが人々の会話の中にも上がっていたのだ。青くなっているところをクリックするとサマルカンドの音が聞こえてきますよ!この地図を見てもサマルカンドは天山山脈の支尾根から流れ出る川に沿いブハラの間にある砂漠との間と言う好位置にあることがわかる。中央アジアの乾燥地帯にありながら水には恵まれていたのだろう。中国のオアシス都市を結んできたシルクロードはサマルカンドでイラントルコに続く平原に出るのだ。この地はソグド人(胡人)の商人たちが都市を作り貿易で大いに栄えていた。
紀元前4世紀マケドニアからやってきたアレキサンダー大王に支配されたこともある。この地に中央アジア人とギリシャ人文化が融合したへレニズム文化が花開いた。しかし大いに繁栄したソグドの国は13世紀モンゴルからやってきたチンギスハンによって何物も残らない廃墟になりソグドの人々は殺された。ほんの数%の人が各地に散らばって行った。その後ティムールによって町は再建されたがその時にはすでにソグド人はおらずゾロアスター教もなくなり、チュルク系のイスラム教徒が支配することになった。この3つの建物が「青のサマルカンド」を象徴している。真ん中の広場はレギスタン広場と呼ばれている。私は「レジスタン」だとばかり思っていたが「砂の土地」と言う意味だそうだ。昔のサマルカンドは少し離れた土の高台にあったが、ティムールのサマルカンドは川が運んだ砂のある低地だったということらしい。

ウルグベク・メドレッセこれは360度カメラで撮ったウルグベク神学校(正面左)のは内部の博物館だ。ウルグベクはティムールの孫でサマルカンドの繁栄を築いた。さらに彼は世界でも例のない大きさの天文台を作った学者でもあった。この建物の天井には彼らの星座が描かれている。

左上の写真が今回のもの。後は古い写真と絵画である。ちょっと短めのミナレットは本来もっと高かったことが絵画からわかる。倒れそうだったミナレットを縄で引っ張って元の位置に直したこともわかる。現在でもそれぞれの塔はまっすぐ立っているわけではない。

シェルドル メドレッセ

右側のシェルドル神学校(メドレッセ)の内部である。まさに宝石をちりばめたような美しさ。ずっと眺めていたい感じである。この部屋ごとにイスラムの神学生が住んで学んでいたのだ。しかしソ連のころは神学校はすべて廃止され現在は土産物店が内部にひしめいている。

この広場はシルクロードを行く隊商が通っていた。その様子が描かれている。広場の真ん中には昔は池があったらしい。ところでこの門の上にライオン?トラ?が描かれている。イスラム教は生きているものを描くことはご法度である。アラブ人が入ってきたときに教義に反すると怒った。しかしトラの首は切り離されており、人の顔に見えるのは太陽である、と抗弁した。太陽はゾロアスター教の影響を残そうとした職人の仕業であったというが真相はわからない。しかし偶像を描いた門はここだけだという。ティムール朝のイスラムとアラブのイスラムの違いは今も残っているようだ。

ティラカリメドレッセこれは正面に立つティラカリメドレッセの内部の黄金の間を360度カメラで撮ったものだ。このメドレッセは変な門を作ったことを詫びて王様が謝罪のために作ったものだそうだ。今では正面にあり中心建物のようだが一番最後にできた神学校である。

現在は建物の左手に緑色のネギ坊主(ドーム)があるは古い写真には青いドームはない。最近作ったことがわかる。ここも隊商の宿になっていた時期もあるらしい。いまは建物内まで土産物屋である。ところで横から見るとミナレットはだいぶ傾いているなぁ!「サマルカンドの斜塔」で売り出すといいかも!

ビビハヌム モスク
サマルカンドはティムールの帝国の首都である。ここに彼を象徴する巨大なモスクが建設された。彼がインドに遠征している間に第一夫人のビビハヌム妃が指揮をして建てたと言われるモスクだ。レギスタン広場と旧サマルカンドのシャーヒズンダ廟の間にある。このモスクの中は広くすばらしいがまだ復元工事中である。

グリアミール廟
まだまだ見どころがあるけど、もう一つだけ。それはティムールの墓所、グリアミール廟である。彼は故郷に埋葬されたかったが1405年に急死したため、戦死した孫のために作った墓所に秘密裏に埋葬された。私が見たサマルカンドの廟、神学校、モスクの中で最も青が美しい場所だった。バザールなど
サマルカンドではイスラム建築だけの写真を撮っていたわけではないが結果的には、ほとんどがメドレッセやモスク、廟の写真だった。人の写真もバザールの写真も撮っている。ほんの少し載せておこう。

サマルカンドで秋を見た!
明日はタシケント、もうイスラム建築は見ることができないが、まあ十分に堪能した。あまり気にしていなかったが木々の葉は紅葉していた。2023年の黄葉はサマルカンドだと記憶に残るだろうな。

ウズベキスタン旅行7最終章:タシケント

タシケントがウズベキスタンの首都である。これまで見たイスラム教の観光都市とは全く違って生産、流通、教育などすべてをもつ近代都市である。1966年に大地震があり古い隊商都市の建物がすべて壊れた。ソ連邦の大都市であったためにロシアが威信をかけて復興がなされた。街はロシア風に生まれ変わった。サマルカンドなどで見るイスラム建築はほとんどなく東京タワーよりも高いテレビ塔があり近代的ホテルがたち中央アジアではめずらしく地下鉄が走っている。

中央アジアの乾燥地だがタシュケントは水に恵まれている。それを誇るかのように各地に噴水が作られている。ちょっともったいない気がするが豊かさの象徴なのだろう。

今タシュケントの人口は260万人いるという。昔はロシア人が70%近くいたが、1991年のソ連崩壊以降はロシア人は15%以下になっている。街の看板などの表記はウズベク語(ローマ字表記)、ロシア語(キリル文字)、英語などである。ウズベク語はトルコ語とよく似ており、私も少し理解ができる。真ん中の写真の文字はウズベク語、O’Z はウズベキスタンの「ウ」=「Ö」、 havo yollari はトルコ語では hava yollari(点のないi) で空港のことだ。中山さんはロシア語が通じなかったと言っていたが、2001年当時はソ連から離れたばかりでワザとロシア語を使わなかったのかもしれない。

中山さんはタシュケントでおいしい「ポロウ」を食べたと言っていた。ガイドブックには「プロフ」と書いてある。耳で聞けば中山さんの方が正しいのだろうなぁ。タシケントのプロフレストランには驚いた。五右衛門ぶろで作っている感じ。

日本人墓地
タシケントには日本人墓地がある。第二次大戦の終了間際、突然参戦したソ連は満州にいた何十万の日本軍人を捕虜にして、労働力としてシベリアの各地に送った。もちろん国際法違反である。ほとんどの日本人は食べ物もなく重労働、寒冷気候に耐えられず亡くなった。タシケントには2万数千人の日本人が送られた。彼らはナボイ劇場の建設などに従事させられた。生き残って帰還した人は
「シベリヤ送りになった人に比べればタシケントの人は優しくて助けられた」   という。
人々は優しかったかもしれないがソ連という国は人権に関してはまったく無茶苦茶な国だった。ロシアのプーチン大統領はそのソ連を復活したくてウクライナに侵略している。敵国の人々に対する人権などお構いなしというのは今も同じだ。
いま日本人墓地はウクライナの篤志家の方々によって守られており日本政府も力を入れているのできれいに整備されている。私たちもしっかりと抑留者の思いを受け止めて来た。

2001年にシルクロードを走った中山さんの話ではウズベキスタンでは一番沢山検問を受け不愉快だったという。中には警官だとだましてわいろを要求する輩もいたとか。彼らの顔は日本人によく似ていたと書いている。今回私たちは中山さんのような地元の人たちとの付き合いはできなかったが彼らの暮らしを少しは眺めることができた。20年前とは違ってウズベックの皆さんは穏やかになっていると思った。その背景には恵まれた地下資源を使って近代化を図っている結果ができているからだろう。日本人と似た人も多いがやはり西域という感じはする。

今はタシュケントでも観光客は珍しくないのだろう。我々日本人がウロウロしていても興味深く寄ってくる人は少ない。時々背中に「鬼滅の刃」のイラストを描いたTシャツを見せに来る若者もいたが町中には日本の影、トヨタやホンダの車はほとんどない。お隣の韓国は大韓航空が来ていることもあって日本よりも親しみを持たれているようだ。
日本国とは違って圧倒的に影響力があるのはトルコ国のようだ。空港にはトルコ航空の赤いマークが見える。聞くところによればトルコ語とウズベク語は方言のようなものでお互いにすぐに通じるという。トルコ国はソ連邦を離れた中央アジアの国と縁を深めようと様々な交流をしている。中国の一帯一路のように汎トルコルートを作ろうとしているようだ。
トルコとはよい関係のようだが、中国とはどうなんだろう? ウズベキスタン料理に飽きた私たちは中華料理を食べたいと思ったがタシケントの町中には中国料理店はなかった。そのことはある程度の中国との関係の推測の役に立つかもしれない。

今回のツアーでは仏教伝来のシルクロードに接する機会はなかった。どこかで三蔵法師に会わないかと思っていたが、仏教遺跡があるのは北側のフェルガナ盆地、最南部のアムダリア(川)のほとりのテルメズという町であった。残念ながら私たちの体力ではもうそこへ行くことはできそうもない。寂しいが仕方がない。
しかし文化人類学者の加藤九祚さんは91歳で亡くなるまでテルメズで仏教遺跡の発掘を続けていた。なんだ私たちの年齢の11年も先ではないか。もしかするとテルメズで三蔵法師に会えるかもしれないな。

2023年 ウズベキスタン紀行 終了!

 

 

狛犬行脚‐14 逆立ち狛犬が岩木山にいた

逆立ちする狛犬 上海の豫園という名所庭園の前にいた獅子像です。こんな逆立ち狛犬は上海でも珍しかった。日本の逆立ち狛犬は前回に示したが、上海の獅子とはだいぶ様子は異なっている。
ところがである。2年前に津軽新一宮の動画を見ていたらちらっと柱にへばりついた狛犬の姿が見えた。ネットで調べたら確かに上海の逆立ち獅子に似た狛犬がいる。 大急ぎで岩木山神社に行った。コロナで旅行は禁止?だったので、昔の夜行日帰りを思い出して午後に新幹線で東京を立って夕方に弘前駅についた。

 翌朝一番のバスで、嶽温泉まで行きそこから8合目行きのバスに乗った。8合目からはがんばって歩いた。頂上は1624m、北海道までみえるいい天気だった。

下りは岩木山神社まで一気に下った。途中で頂上にいたおっさんが下から駆け上がってきた。「今日は2往復だよ」という。嫌味なおやじだが、昔は私も同じことをやっていたのだろう。

岩木山神社には狛犬が3対いた。拝殿の前にこの登り狛犬と下り狛犬がいた。苦労すればするほど出会いは感激的である。下り狛犬が「人生下り坂、最高ー!」と叫んでいるような気がした。下の写真の木鼻の動物は狛犬ではなく獏?かな?

神社前から一日数本しかないバスを捕まえて弘前駅に着いた。列車は少ないので駅ピアノを聞きながら待って新青森経由で我が家に。1泊1日という感じで津軽の岩木山まで行って来た。大昔の登山の夜行日帰りと言う感じ。翌日から疲れでしばらく体調不良になった。無視はできない年齢なのだ。

 

狛犬行脚-13 石都々古和気神社 空飛ぶ狛犬

空飛ぶ狛犬!

 陸奥国の一宮の石都都古和気(いわつつこわけ)神社の鳥居奥にいる狛犬である。こどもをつれて波の上を泳いでいるのか、雲の上を飛んでいるのか? 地に足がついた狛犬ではない。なぜこのような形になったのかわからないが、この子づれ狛犬の作者の思いを託したものだといわれている。

製作者は小林和平という地元の石工。師匠の小松寅吉の技術を受け継ぎ、獅子像彫刻を芸術として開花させた名工であり、福島県内の狛犬のファンが多くおり見学の観光客は絶えないという。この狛犬は川辺八幡神社の阿形の狛犬である。吽形は別の作者である。実は私は見たことがないので写真を模写した。この方が体にある模様がよりよく表現できたかなと思う。(模写するのに時間がかかっているのでしばらく人の写真を借用)

空飛ぶ狛犬は他にもある!

小林和平のものとはだいぶ違うが、「空飛ぶ狛犬」という感じはする。能登の二ノ宮の天日陰神社のものである。備後一宮のスサノオ神社の狛犬である。阿形の狛犬が逆立ち玉乗りをしている。

栃木県の大平山の石段上にいた狛犬。阿形の狛犬が空を飛んでいる。ここの石段は1000段ほどある。もう登るのが嫌だという場所にある。この狛犬のように飛んでいきたいものだと思った。

神武天皇が東征した時にいったん筑紫の岡田宮に寄ってから瀬戸内海に入ったという。筑紫の岡田宮にはこんな玉のり逆立ち狛犬があった。

足を蹴り上げ飛んでいくような狛犬は各地にいくつもある。しかしいずれもそれほど芸術性に富んでいる感じはしない。福島の小林和平の狛犬とはだいぶ違う。小林和平狛犬が人気があるわけがわかる。この夏小林和平の狛犬を探しに行き予定なので、この項は未完です!

 

 

 

狛犬行脚-12 子持ち狛犬

何匹子どもがいるの? 太田区には大勢の子どもを持つ狛犬がいる。上の写真の狛犬は両方に1頭ずつ育てている。下の写真は大田区の式内社磐井神社の狛犬であるがそれぞれに3匹ずつ子供の狛犬(子獅子)を持っている。たぶん日本の子持ち狛犬の中で最高の子宝に恵まれた狛犬である。わかりにくいので数字を振っておいた。

これらの大勢の子持ち狛犬は昭和初期に奉納されたもので当時の「産めよ増やせよ!」の風潮に合わせたものだろう。

もともとは子獅子と玉(鞠)の組み合わせ!

下の写真は中国上海で見かけた獅子である。両方とも口を開けているので阿吽ではないが、玉と子獅子を持っている。日本にもこのパターンがもたらされたのだろう。 中国では両方とも獅子であるが日本に来たら阿形が獅子で吽形が狛犬である。したがって日本の場合狛犬が子獅子を持っていることになる。写真は志摩の安乗神社の狛犬である。向かって右の阿形の獅子の足元に鞠があり左の吽形の狛犬の足元に子獅子がいるのが通常のパターンである。

ところで湯島天神(わかりにくいので練馬区の春日神社の狛犬の写真に変えた)の狛犬は両方ともお手をしたような形である。もともとこんな形だったのだろが、私は足の下に子どもと玉を置くとちょうどいいのに!などと思っているが、これはいかに???

靖国神社には威張り狛犬の他に写真のような異様な狛犬がいる。両方とも口を開けており片方に2匹の狛犬もう一方には玉を持っている。この狛犬は日清戦争の戦利品として日本に運ばれ明治天皇に献上されたものだという。満州の三学寺にあった獅子と言われている。獅子なので子供はどちらがもってもいいわけだ。

子持ちの獅子のかわいいのを見つけた。陸奥国一宮の都都古和気神社のものだ。磐城には名工がいたようですばらしい狛犬がいる。いずれ磐城特集をします。本日はこれまで。

狛犬行脚-11 威張っている狛犬

そっくり返っているような威張り狛犬!  靖国神社の車の入り口の巨大な狛犬は左右とも正面を向いている。そっくり返って、そのまま台座から転がり落ちそう。なんでこんなに威張っているのかだろうか!この狛犬は東大寺の山門の中にある威張っている狛犬である。日本で一番古い狛犬(1196年鎌倉時代)と言われているが両方の狛犬の口が開いている。実は日本製ではなく中国製で宋の時代にもので獅子だろう。この狛犬も両方とも口を開いている。奉納されたのは1944年と言うがおそらく東大寺の獅子を模倣したものだろう。両方が明らかに獅子のものは狛犬ではなく「獅子吼」という。 羽咋市の気多大社の狛犬、これもかなり威張った感じがする。気多大社も北陸では最も大きな神社の一つだ。  この狛犬もすっくと立っており立派だ。浅草の鳥越神社。三社祭が行われることで有名な神社だ。1932年に建てられた。石工の名前は八柳五兵衛とある。 寒川神社は相模の一宮でここも有力な神社だ。新しい狛犬だが胸板が厚く威張り狛犬の感じだ。左の頭の上に角があり狛犬である。   玉前神社は上総一宮で房総では最も格式がある神社である。この狛犬も胸板が厚くちょっとそっくり返っている。この狛犬は赤と黒の輸入御影石で作られている。普通の狛犬よりもはるかに高価な岩石だ。櫛田神社は博多の総鎮守で祇園山笠で賑わう有名な神社だ。 これは香取神宮の木造狛犬。神門の中に置かれている。香取神宮も下総の一宮で東国三社の一つである。

私が勝手に「威張り狛犬」と呼んでいる。狛犬愛好家の間では招魂社系の狛犬と言われているようだ。いずれも大きな神社、寺にいる狛犬はかなり威張っている。やはり背後組織が大きいと狛犬も威張る傾向にあるようだ。

狛犬行脚‐10 狛犬に雌雄はあるの?

阿形はメスで吽形はオス?

阿吽(あうん)は仏教用語で、始まりから終わりを意味している。一対の狛犬は向かって右が口を開けた阿形で左が口を閉じた吽形である。女に生まれた人は転生をし男となって往生するのだそうだ。江戸雑学に詳しい関根さんが「そりゃ女はアヘー(阿)で男はムムー(吽)だよ! 浮世絵に書いてあるよ」と教えてくれた。目黒不動の新しい狛犬であるがよく見ると左右どちらにも〇〇が付いているように見えるではないか。これは新しいので間違えたのではないかと他も確かめてみた。

函館八幡宮の狛犬である。やはり両方に〇〇が付いている。阿吽の両方ともオスである。大正11年の奉納であるから、もっと古いものは別々になっているかもしれない。これまで神社の狛犬の股間をしげしげと眺めるのは失礼にあたると思い控えてきた。しかし実際には〇〇が付いているのは多くはないが、あることはある。 靖国神社の正面の大きな狛犬も両方にちゃんとついていた。この狛犬は最初に出てきた目黒不動の新しい狛犬と同じであり、その大本は丹後半島の天橋立の先にある籠(この)神社の日本最古の狛犬をかたどったものである。

これは神武天皇が東征の際に立ち寄ったと言われる北九州岡田宮である。この狛犬の右側だけに〇〇が付いている。雌雄を意識したのだろう。阿形が女性と言う関根説とは違っているのだが・・・

これはCMで有名になった日が没する参道を持つ北九州宮地嶽神社である。片方だけしか写真がないが、これも阿形の狛犬に〇〇が付いている。阿形なのにオスである。ご存じ八坂神社の通りに面した場所にある獅子狛犬である。大勢の人が上がってくるのでしげしげとみるわけにはいかないが、両方に立派な〇〇が付いている。 前に載せたが、デパートのショーケースにあった現代的狛犬である。拡大してみると両方に〇〇が付いていることがわかる。

結論から言うと、獅子狛犬に雌雄はないようだ。関根説は江戸の特定の場所で使われたものだろう。しかしこれからもついいつものように狛犬の股間を覗くかも知れない。ちょっとまずいかな。

 

狛犬行脚-09 狛犬の左右の配置

日本の狛犬の配置 前向き?横向き?

獅子狛犬は左右に一対になっていることが多い。下の写真は台湾の故宮博物館前の獅子である。守るべき建物を背にして正面に向かっているのが特徴である。 この写真はラオスの王宮の前で撮ったもの(山下佐都子さん撮影)中国のものと同じく正面を向いている 。なんかかわいいね! つぎは日本の普通の神社。狛犬はお互いに対峙しているが、顔だけは正面を向いている。むかって右が阿吽の阿、左が阿吽の吽の形をしている。 津山の中山神社の狛犬。尻尾を立てているのと蹲踞の狛犬の二対がいる。どちらも横向き!手前の狛犬はかなり大きい。 青梅の御嶽神社の青銅製の狛犬。正面を見ないでお互いを見あっている。北村西望作、鋳型があるので同じ狛犬が各所にある。 糸魚川のヌナカワ神社、檻に入っているみたいでちょっとかわいそう。 戸隠奥社の隋神門前の新しい狛犬。最強のパワースポットだそうで雪中でもお参りの人は多い。これも顔だけ正面向き! 日本にも正面向きの狛犬(獅子と書いてある)がいました。四国霊場88カ所の結願寺の大窪寺。お遍路さんをお迎えしているような感じです。魔物を排除する感じではないところがいい。  日本の狛犬配置はほとんどが左右が対峙する関係。顔は正面向き。神様や高貴な人が住む館に門番が尻を向けるのは失礼だという思いがあったのではないか。だから日本の狛犬(門番)は正面向きではないのだろう。

狛犬行脚-08 子獅子と獅子山

赤坂氷川神社の獅子山と子獅子

東京には氷川神社がたくさんあるがここ赤坂氷川神社はその中で最も大きいものである。もとは武蔵一宮の氷川神社、さらにその昔は出雲の斐伊川にあった神社から神様を呼び寄せたという。溶岩で作った獅子山が鳥居の両側にある。

 赤坂氷川神社には狛犬の奉納が多く様々な種類のものがある。その中で一番興味深いのは「獅子山」である。獅子は子供を千尋の谷に突き落とし生き延びて上がってきた子獅子だけを育てたという故事にのっとったものである。
矢印のところに子獅子がいるのがわかるかな? 右はお母さんで「しっかりあがってくるんだよ!」と見守っているような感じだ。両方とも獅子である。狛犬ではないなあ。 同じような獅子山の子持ち狛犬が西武池袋線の長崎神社にいる。こっちはお母さん獅子が「上がっておいで!」と見守っているように見える。 落合の天祖神社の狛犬であるが獅子山はない。しかし台座の下に子獅子がいるのがわかる。石工は獅子と狛犬の組み合わせではなく両方とも獅子と考えて作ったのだろう。
 こちも子獅子がいるが親は両方ともあたりを見渡して尻尾をあげて威嚇しているように見える。氷川神社はもとは出雲系であるので、威嚇型の名残があるのかもしれない。子獅子を待つ狛犬は尻尾を上げているように見える。 赤坂の氷川神社には7種類の狛犬がいると書かれている。私は何回も見ているが6種類しか探せていない。それはそれとして、写真の狛犬は両方が子供を抱えている。千刃の谷に蹴落とした子獅子が戻ってきた。その子獅子を両親が育てているようだ。 氷川神社の狛犬の写真をもう少し上げておきます。これには子供はいない。両方とも角はないので獅子であろう。ちょっとかわいい豪華な江戸型の獅子である。

ここでは獅子と狛犬を区別したが通常は獅子狛犬の対を狛犬と呼ぶことが多い。私もあまり区別せずにあいまいに狛犬と呼んでいる。次回母親獅子と父親狛犬、狛犬の雌雄について考えてみたいと思う。‥‥23年6月18日

 

狛犬行脚-07 目黒不動にはたくさんの狛犬が!

目黒不動(瀧泉寺)
たくさんの狛犬を見たければ目黒不動に行くとよい。都内最古の狛犬からつい最近奉納された新しい狛犬を見ることができる。狛犬はたいていは神社にいるが目黒不動(天台宗瀧泉寺)のような寺にもいる。明治以前は神仏習合といって寺も神社も一緒だったのだ。 しかし明治政府は廃仏毀釈の政策をとって仏教的なものは廃棄した。五重塔や仏像など文化財は破壊された。一部は外国に売られたりした。ボストン博物館にある日本の文化財はこの時に二束三文で売り払われたものだ。明治政府の幼稚な政策で日本の多くの文化が失われた。もちろん今になって返せと言うわけにはいかない。上の写真を見てほしい。立派な石工が技術を駆使して彫り上げた狛犬である(1841年作成)。台座の彫刻もすばらしいのだが正面から見ると左半分がかけてている。さらにこれは向かって右側にある阿形の狛犬であるが吽形の狛犬の姿が見えない。はっきりした証拠はないが廃仏毀釈によって狛犬も叩き壊されたものだろう。ほかの寺社でもこんな例はいくつもある。3匹の子供を持つこの狛犬も石段の下に寄りかかるようにしているが反対側には相棒がいない。狛犬を単独で奉納することはほとんどないのでこの母親狛犬も夫狛犬を失ったのだろう。
 この二つの狛犬はふつうにみる狛犬とはだいぶ違う。外国産の狛犬ではなく和犬型狛犬で1862年に奉納されている。たて髪豊かな狛犬とは違って何か愁いを持っているような感じだ。私は上のうつむき狛犬を反省型と呼んでいるが、ほかにあまり例はない。獅子狛犬と言われるがこの二つは獅子の要素はなくまさに犬だね。 石段の上には寺なのに山王鳥居がある。その両脇に東京で最も古い狛犬がいる。顔はちょっと怖いが背中の模様などはすばらしく、かわいい感じだ。1654年製というから江戸時代の初め。今から370年ほど前のものだがきれいの保存されている。すばらしい。まだまだ狛犬はいます。
 上の二つは入口の仁王門前と仁王門内側にある。それぞれ1999年と1978年にここに置かれた新参狛犬である。門内にある獅子狛犬は丹波一宮籠(この)神社の石造狛犬をコピーしたものだろう。籠神社の狛犬は日本で最も古い(安土桃山時代)と言われている。(矢印のところを石見重太郎が切り落とした?)東京で一番古い狛犬、日本で一番古い狛犬のコピーまでいろいろたくさんあるのがここ目黒不動である。おまけに3つの狛犬写真をアップしておきます。

上は境内の八大童子まえの岡崎型狛犬、次は女坂途中のブロンズの狛犬である。もう一つは仁王門脇の門柱の上に置かれた石の象。これも狛象と言うのだろうか。同じようなものはしばしばお寺でみる。仏教の起源はインドにあることと関連するのだろう。

これだけ見ればおなか一杯ですが、さらに門前の「八ツ目やにしむら」のウナギを賞味あれ!

狛犬行脚-06 狛犬のルーツはライオン?

二荒山神社の狛ライオン
1999年12月「日光の社寺」として世界遺産に登録された。それを記念して二荒山神社に一対の狛犬が奉納された。それが下の写真である。私はこれは狛犬ではない、ライオンじゃないかと思ったが、説明文を読むとちょっとだけ納得した。 先日中国の上海で見た狛犬?獅子像は日光のものと似ている。上のめずらしいライオン狛犬は中国の獅子、さらにインド、中近東の獅子像を参考にして現代に作られた「狛犬」なのだろう。たかが「狛犬」と言ってもなかなか奥深いのだ! 日光のライオン狛犬は阿吽にはなっていない。ところが上海の獅子はちゃんと阿吽になっている。あれ、常とは逆ではないか。阿吽狛犬は日本独特のものだからこの上海の獅子像は日本からの逆輸入かもしれない。ところで三越デパートの前にはライオン像がおかれていた。たぶん中国の商店の前に置かれる獅子像と同じ発想だっただろう。1914年に開業するにあたって英国トラファルガー広場に置かれた4頭のライオンをモデルに鋳造され、各地の支店にも置かれた。しかし近年廃業に伴いライオン像の保管が問題になった。池袋三越のライオンは浅草の三囲(みめぐり)神社に置かれている。この神社は稲荷神社であるが三井家の守護社にもなっている。社殿のまえにはライオン、狛犬、キツネが並んでおり、さらに奥の摂社には陶器製のちょっとかわいい狛犬がいる。ひとつの神社の中に、いくつもの狛犬がいる。伊勢神宮は庶民からの奉納は受け付けないので賽銭箱も狛犬なども全くない。しかし庶民は神様に何かの奉仕をしたいのが人情である。神社によっては狛犬だらけのものもある。三遊亭円丈さんはもちろん落語家だが、それ以外に狛犬の愛好家、分類者として有名だ。日本参道狛犬研究会(狛研・こまけん)の会長で、各地の狛犬情報を収集していた。残念なことに2021年に76歳で亡くなった。生前この狛犬を見て「立川談志狛犬」と呼んでいたそうだ。よく見ると似ているな!