讃岐国府・国分寺・法華滅罪之寺

讃岐国は四国88札所巡り最終章!しかし最後の五色台の山地に難儀した。八十場の79番天皇寺から歩き始め80番国分寺から五色台に上り山の中を81番へ行き、引き返して81番根来寺についたころはもう日が傾いていた。鬼無駅に降りた時には夕闇、疲れ果てて電車で高松まで行き宿泊。翌日ゆっくり鬼無駅に戻り駅前のカフェで朝食をとって82番へ向かった。国分寺資料館を見学する余裕は全くなかったことを思い出した。復元したミニ七重の塔があったことにも気が付いていなかった。4年ぶりの訪問は雨にたたられたが、新しい発見がいくつもあって楽しかった。讃岐国府

国府というのは律令制になって国から国司が派遣された場所である。それまでは地方豪族の国造が支配していたが大和の中央集権が確立したことの証明だろう。讃岐の国府は讃岐府中駅のそばにある。しかし国府跡には石碑が建つだけで周辺は田んぼが広がっている。国府が現在の県都になる例はごく少なく讃岐国も今は高松に県庁があり、国府のあった讃岐府中あたりはごく普通の田舎になっている。

ちょっと気になったのは周辺の発掘によって畑の中にいくつかの遺跡が残っていることである。その中に印にゃく神社跡というのがあった。印にゃくというのは国司の印と国衙のカギのことである。他の国府遺跡を歩くと国府のそばの総社の中に印にゃく神社があったことが知られている。しかし讃岐国の場合2社の関係は不明。

讃岐総社
総社は国司が常にお参りする神社である。なので国府とセットになっているはずである。しかし讃岐総社は綾川の6キロほど下流にある。当時は水運が使われたかもしれないがちょっと遠いような気もする。印にゃく神社の場所に総社があった、その後にこの地に移ったと考えてもいいように思う。

讃岐国分寺
讃岐国府は坂出市になるが国分寺は高松市にある。四国の4国分寺はいずれも当初の地に現在も残っている。讃岐国分寺も聖武天皇の詔の場所にあり、現在も立派なお堂がたち法灯を継いでいる。元の寺は敷地はさらに広く、現在も発掘が続き成果は隣にある資料館で発表されている。
現在の国分寺は四国第80番霊場になっており大勢のお遍路さんが訪れている。私も4年前に訪れたが人が多すぎて朱印を受けることはできなかった。ここから青峰山の第82番根来寺を目指したことを思い出した。

現在の国分寺

国分尼寺・法華寺
国分尼寺が残っているところはごく少ない。讃岐は本山である奈良の法華寺(法華滅罪之寺)の表示した寺が現存していた。「法華滅罪之寺」を掲げているのはごく少なく、私が見たのは初めてである。敷地はもっと広かったはずだが現在は境内のいくつかの礎石を残すのみである。すぐ近くに春日神社があるが何らかの関係があったのかもしれない。備前焼きの狛犬がなかなか良い。

雨の国府国分寺めぐり
天気予報は9時ごろから雨は上がると言っていたが10時になってもあがらなかった。カッパを着て自転車で端岡駅を出発し国分尼寺から国分寺、国府、総社へと回り坂出駅にもどった。坂出駅に上がると讃岐の富士山型の山には日が当たるようになっていた。残念ながら時間、体力切れでマリンライナーで岡山へ、新幹線で東京に戻った。

 

 

 

伊予国府は古国府?


『和名抄』によれば伊予国の国府は越智郡、現在の今治市にあったとされているが遺跡は見つかっていない。しかし今治平野にあったことはたぶん確実である。今治は「いまばり」と呼ぶが地元のおじさんはほんとうは「いまはる」と言ったんだ、と教えてくれた。「いまはる」の方が和語のようで優しい感じがする。

伊予国府
国府の候補はいくつかある。私は「古国分」という地名に着目してまず最初に古国分に行ってみた。地元の人は何もないところだと言うが今治藩主の墓があるという高台に上がってみて驚いた。三代藩主の墓がならんでいる。おそらくこの地は今治藩としても重要な場所だったことがわかる。さらにこのちには城が築かれていたという。昔国府として整備された地はのちの時代になっても重要な地として使われていたのだろうと思う。隣に広い交通公園があるがその地域まで国府の範囲があったのではないか。今のところ国府跡は確定していないので勝手なことが言える。私的にはこの地に国庁があったとする。

伊予総社・伊加奈志神社
伊予総社は伊加奈志神社とされている。私は四国遍路の時に寄った覚えがあるが、どこにも総社との記述はなかった。今回も確かめてみたが現地には総社との記述はなかった。それにこの場所では国府の地を「古国分」とすれば遠すぎる。どちらか、あるいはどちらも間違えているということもある。とりあえずはwikipediaの記述に従っておく。

伊予国分寺
四国札所59番が国分寺である。四国には4か所の国分寺があり、それぞれ旧国分寺遺跡の上、あるいは隣接地に建物が立っている。お遍路の時には奥さんがお大師様と握手をしたが今回は私も握手をしたいと願っていた。握手をしたあと案内板を見ると「願いは一つだけ」と書いてあった。「しまった!別のこと願うんだった!」

伊予国分尼寺・法華寺
国分尼寺の総本山は平城京わきにある法華寺(法華滅罪之寺)であり、地方の国分尼寺も法華寺と呼ばれることが多かった。伊予国分尼寺も当初は華厳宗東大寺に属していたがその後は真言宗になり現在に至っている。国分尼寺が今も法灯を継いでいるのは全国でも珍しいことである。法華寺と桜井駅の間の畑の中に国分尼寺の跡の看板が立っている。

四国遍路
私たち夫婦は2015年から18年にかけて四国札所巡り、お遍路を歩いた。全長1200キロを10回に分けて歩きとおした。今治周辺には10か所ほどの札所が続いており、出だしの徳島周辺並みの札所の数である。ここで一気に稼いでおきたいところであるが山の上まで歩かなければならずけっこう難儀をする。59番国分寺は58番の仙遊寺から降りて海の近くまで来た場所にある。
ほっと一息の場所にいいカフェがあり、同行の奥さんは大いに気にいった。今回も寄ってみたがすでに廃業していた。コロナの影響か何かわからないが、この数年で世の中が大変革した影響の一つであろう。
難儀して歩いた道だが、今回は自転車を使った。一日かけて歩いたところを3時間ほどで廻った。自転車ならお遍路ももっと簡単だったなあ、いったい何を考えてやっていたのだろう。いや、楽をするだけが人生じゃない!・・・

志摩国府・国分寺

 もう40数年前のことだが、近鉄が宮本常一さんに依頼して鵜方に民俗博物館を作ることになった。民俗資料を集める手伝いで私も志摩を歩き回った。今は大学の偉い先生たちも汗を流して民俗資料を運んでいた姿が思い出される。賀曾利さんや山口君も民家を訪ねて歩き回っていたなぁ。

私は博物館のパンフレットに志摩のリアス式の地形の説明文を書いた。しかし2016年に伊勢志摩サミットが行われるまですっかりその存在を忘れていた。パンフレットに書かれた宮本先生の文章に加えて私の説明文も復刻されて真珠飾りのついた桐の箱入りの豪華本になってサミットのお土産になったのだ。企画したのは地元の竹内千鶴さん。送られた豪華本は我が家の家宝になっている。志摩国府 総社

鵜方駅から東の安乗岬方面に向かうと国府(こう)という集落がある。ここに志摩国府があったことは想像されるが発掘調査はなされていない。
総社である国府神社が存在しているのでこのあたりに国府の建物などがあったのだろう。総社神社というが正式の表示はなかった。

志摩国分寺 国分尼寺?
志摩国分寺は国府海岸から少し丘陵にあがる斜面にある。ここまで上がれば津波の被害は受けないかもしれない。三重県にはもとは伊勢、伊賀。志摩の3か所に国分寺があったが現存するのは志摩だけだという。安乗岬に向かう道路近くに立派な建物がある。この寺の本尊は秘仏であるが重要文化財になっているので観光案内書には記載されている。お尋ねしたらご住職が秘仏の扉を開けてくださった。ありがたい!
国分尼寺は詳細不明で跡地に関しても資料はない。残念!

安乗岬
志摩はリアス式の海岸が続いており、深い入り江と細長い半島が交互に訪れる。志摩国府、国分寺の先には安乗岬が海に突き出している。私は志摩の岬巡りもしていたのでそれぞれの岬、灯台にも思い入れがある。さらに岬の根元にある安乗神社もいい神社なので写真を入れておきます。

猪子家住宅
国府国分寺とは関係ないが、サミットみやげの豪華本「志摩という国」を企画した竹内さんは、賢島の近くの猪子家の邸宅を買い取って復元するプロジェクトを実施中。最初に行った時には豪邸だがもうボロボロだった家を自力で復元し始めていた。今回めでたく登録有形文化財に認定された。文化財の家に泊まってもいいよ!とのことだった。残念ながら次の予定があったので夕方に豪邸を辞したら、電車の中で食べてと言ってお弁当をくださった。志摩の人はいい人たちだ。

摂津国分寺・難波宮

摂津国は大阪府と兵庫県の一部を含んだ国であった。律令国は国司が任命されていたが、摂津国は飛鳥の都の外港として特別の摂津職(せっつしき)がおかれた。
摂津国府 難波宮
今の大阪は深い湾入になっていた。旧淀川河口付近には良港があり交通至便の土地であった。仁徳天皇はこの地に都をおいたし聖徳太子は四天王寺をつくった。大昔から主要な土地であった。良港は渡辺の津、難波津と呼ばれていた。その「津」を治める「摂」がおかれ、摂津国になった。たぶん摂津国では難波京が国府の役割をしたのではないか!上の地図の難波京がある場所は上町台地の最も高いところである。法円坂を登ったところにある。坂の下は谷町筋であるが、全体を何と呼ぶかは私は知らない。東京では山の手と下町であるが、大阪では上町台地と谷町低地かな?

摂津国総社 難波神社
摂津国の総社は不明である。この辺りでは古くから住吉神社が最も重要な神社であった。国司がいないのだから、わざわざ国司が詣でる総社を作らなくてもよかったのかもしれない。難波神社が総社であるという説もあるが境内を見渡しても「総社」との文字はどこにもなかった。まあとりえず難波神社を総社としておこう。

摂津国分寺跡
摂津の国分寺跡は天王寺区国分町にある。環状線の寺田町駅の近くに国分公園がありその中に教育委員会が建てた国分寺跡の石碑が立っている。近くに現存の国分寺はない。

摂津国分寺
摂津国分寺は長柄の国分寺町に現存する。真言宗の大本山である。古代の国分寺とどういう関連があるかよくわからないがこの国分寺が聖武天皇の詔の国分寺の法灯を継ぐと考えられている。私が訪れた時にちょうど地蔵盆が行われており、大いににぎわっていた。天王寺の国分寺跡とはだいぶ離れており、その関係は不明である。

摂津国分尼寺
奈良の都に作られた総国分寺は東大寺、総国分尼寺は法華寺である。摂津の法華寺は摂津国分寺と淀川を挟んだ反対側、島駅のすぐ前にある。塔の礎石が残っているがその他は遺跡はない。もともとは浄水場の敷地にあったという。

大阪府は狭いし地下鉄網も発達しているので、新幹線の乗換えの間に全部回れるのではないかと思っていたが、途中寄り道が多くて結局い一日がかりになってしまった。昼前に難波の駅から難波神社に行ったが、すぐに寄り道して摂津一宮の坐摩神社に寄り、御堂筋の御堂により歩いて法円坂を昇った。上町台地を体感するためである。難波宮からは森ノ宮駅に降りて環状線で天王子に行った。四天王寺に向かったが途中に堀越神社があった。ここに熊野第一王子がある。前の日に紀伊田辺の千里王子を見たばかりだったので気になって写真を撮ったり解説文を読んだりした後、やっと国分寺跡に行った。寺田町から天満駅まで行き長柄の国分寺に行ったらちょうど地蔵盆。多くの人達が集まってたので話を聞いているうちに時間がたった。そこから阪急電車で一駅のって柴島(くにしま)駅前で国分尼寺をみて、歩いて新幹線の駅に到着。地図では近かったが歩いて行くには遠かった。大汗をかいていたんでトイレで全部着替えて新幹線いのったのはもう6時を過ぎていた。珍しくビールを飲んだら、目が覚めた時には品川だった。ちょっとのつもりが長い時間がかかった。2万8千歩だった。

紀伊国府は府守神社

紀伊国の昔の名前は古事記にあるように木国だった。その後律令制の国は二文字にするという命令が出たので「紀伊」国になった。しかし呼び名は「紀の国」が使われた。紀伊国屋書店は「きのくにや」である。現在の和歌山県、三重県がその範囲であった。

紀伊国国府
和歌山市に府中という地名がある。そこに府守神社がある。国府を守るという意味か? このあたりだろうと推定されているが発掘はなされていない。地元の皆さんの信仰は厚く、生まれたばかりの娘さんを神さまに見せるという御夫婦がやってきた。暑いのですぐに涼しい家に戻っていった。

紀伊総社 大屋津姫神社
昔は総社があったが明治のころに紀伊駅に近い大屋津姫神社に合祀されたという。総社の社殿は見つからないので確認はできなかった。とりあえず大屋姫神社を総社の代わりにアップしておきます。この神社の周囲は発掘されており宇田森遺跡として保存されている。狛犬は境内摂社にあった。

紀伊国分寺 紀伊国府から紀伊国分寺に行くには紀伊駅から阪和線で和歌山駅まで行き紀ノ川に沿う和歌山線で下井坂に行かねばらならない。なんとか直接行く方法がないかと思っていたら、紀伊駅から近畿大学に行くバスが近くをとおるという。紀ノ川の段丘をバスは進む。近畿大学は根来寺のさらに上部にある。曲がり角でおりて下井坂への道を下る。本日は猛暑日、日陰がまったくないので下り道なのに難行になる。15分ぐらい下ると日吉神社があった。なかなかいい狛犬があった。

日吉神社の隣に国分寺跡がある。礎石などが復元保存されている。国分寺の建物も残っているようだが、資料館はまたまた休館で確かめることはできなかった。本日は火曜日、月火は休館日とか。残念。

国分尼寺跡
資料館が休みなので暑い中休むところがない。国分尼寺は塔跡しか残っていないという。地図を見ると簡単そうだが影をたどって歩いて行くと探し当てるのはなかなか難しく時間がかかった。そこから下井坂駅へやっと戻ったが、涼むところがない。電車は1時間後。自販機でコーラ2本一気に飲んだらさらに厚くなった。こんな時期に国府めぐりなどやってはいけない。

おまけ和歌山駅で紀伊みなべに行くために特急くろしおを待っていると、駅員が「みなべに行く方ですか?」と聞く。天王寺駅で間違った切符を売ってしまったので取り換えるために待ってましたとのこと。私の切符は和歌山―海南間のわずか一駅分の特急券だ。一駅特急であとは鈍行というのはおかしいなとは思っていたが、コロナで特急は海南までしか行かないと聞いて納得するしかなかった。しかしあとで気が付いたのか天王寺の駅員が和歌山駅に連絡したようだ。和歌山海南駅の特急券は1000円、鈍行に乗り換えるのだから特急券は必要ないので返金しますとのこと。そのためにわざわざ待っていてくれたのだ。JR西日本の親切に感激。暑さは飛んで行った。

肥後国府国分寺は水前寺公園そば!

「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ!」
手毬を突きながら遊ぶ子供を想像するが、もうそんな風景は残っていない。もともとは肥の国だったが7世紀末に肥前肥後に分けられたという。阿蘇山の火から来た名前かと推測するが意見はいろいろあるようだ。

肥後国府
肥後国府は何回も移転したらしいが国府(こくぶ)という地名は水前寺公園の近くにあり、国府(こくふ)高校、国府郵便局などがある。国府の範囲は次の写真のようで熊本国府高校のHPに乗っていたのを借用した。地名は「こくぶ」だが高校は濁らないで「こくふ」だそうだ。

総社
総社神社は少し離れたところにある。駅そばの北岡神社内にあると書いてあったが、飛び地のようだ。ここには行っていないので写真はない。(賀曽利さんがすぐに送ってくれた)地震で壊れた鳥居は復元されている。

国分寺
当時の法灯が続く国分寺がある。HPに昔の絵図があったので借用した。昔の国分寺の範囲は水前寺公園のあたりまで広がっていたが現在は曹洞宗の寺である。寺の中に旧国分寺の遺跡はないが隣の熊野神社に七重の塔の塔心の礎石がある。神社の敷地を覆うほどの大きな礎石で往時の壮大な塔の姿が思い起こされる。

陣山廃寺跡(国分尼寺?)

水前寺公園を挟んだ場所に古い寺の遺構が発掘された。遺跡の報告書(1996年)には平安時代には大きな寺があったと書かれている。位置関係からみるとここに国分尼寺があったとしても不思議ではない。とりあえず私はこの場所を国分尼寺跡としたい。しかし2021年10月に肥後国府を訪ねたときには水前寺公園の見学で時間切れになって陣山廃寺には行っていない。陣山廃寺に行く時間はあったが、我が家の奥さんは水前寺公園の方に引かれたからだ。スポンサーである奥さまに逆らうわけにはいかないので肥後国分尼寺は次の機会に回さざるを得なくなった。

飛騨総社、国分寺

飛騨国府というJRの駅がある。当然ここに飛騨の国府があると信じて無人駅を降りた。駅前の案内板を見ても国府や国分寺の印はない。しかし国府大仏(国分尼寺)の案内があった。やはりそうだ!と思いながら地図の地点に行った。ちょっとかわいい国府大仏はあったが想像していた大きな寺ではなかった。

飛騨(斐陀)は古い国で国造の時代にはこの場所に国府があったらしいが聖武天皇が国分寺の詔を出した741年ごろには10キロほど南の高山市内に国府が移り国分寺、国分尼寺が建立されたと考えらえるそうだ。JR線に乗って高山市に移動した。飛騨国府・総社

飛騨国府は今の市役所のあたりにあったと予測されるが発掘調査はなされていない。総社はその近くにあった。総社には下のような神さまが祀られている。さすが総社!

<正殿主神>
大八椅命(最初の斐陀国造、天火明命の後裔)
<脇殿(延喜式神名帳所載八座)
水無神(飛騨一宮 位山) 槻本神(大山津見神) 荏名神(高皇産靈神)
大津神(大彦命、武渟河別命)  荒城神(大荒木之命)
高田神(高魂命) 阿多由太神(大物主神) 栗原神(五十猛命)
<脇殿(国史記載社十座)
大歳神 走淵神 四天王神 遊幡石神 渡瀬神 道後神
気多若宮神 本母国津神 剣緒神 加茂若宮神

飛騨国分寺
立派な三重塔(1820年再建)が残る。しかし元の国分寺には七重の大塔があったはずである。その礎石が境内に残っている。現在は真言宗の寺で法灯を継いでいる。境内にはイチョウの巨木がある。これはすごい大きさ!

飛騨国分尼寺跡
国分寺の前を通る道は飛騨盆地を東西に横切る道である。高山線の線路を挟んで反対側に国分尼寺があった。その場所に今は辻が森神社が立っている。そのあたりが本堂であったことが発掘調査で分かっている。旧国分尼寺の跡地の小さな部分だけが公園になっている。

高山祭り
春秋に行われる桜山八幡宮の高山祭には多数のきらびやかな屋台がでて町中が活気づく。国の無形文化財で内外の人が多く集まる飛騨地方の大イベントである。宮川沿いに大鳥居がそびえたち他を圧倒している。昔から飛騨の材木を使った大工(飛騨の匠)が有名で、多くの大工が奈良や京都の神社仏閣の造営に活躍した。地元には大変な数の寺社があり、それぞれ匠の技が光っているそうだ。

雪深く、昔は交通も困難だったが今は高山本線の起点である富山駅には新幹線が開通し、特急ひだ号を使えば東京から3時間ちょっとで来ることができる。今回私は日帰りだったが、十分に時間が取れて高山の街を歩き回ることができた。

土佐国 国府総社国分寺

四国88札所には4つの国分寺がある。土佐国の国分寺は第29番札所でいい季節にはお遍路さんでにぎわう。私も2016年から季節の良い時を選んで1週間歩いてきた。全行程は1200キロもあるので私たち夫婦は4年ほどかかった。急ぐ旅でもないので88カ所のほかに一宮や番外札所、国府などにも寄り道をした。

土佐の国府は28番の大日寺から物部川を渡り国分川を渡ったところにあった。すぐそばに29番の国分寺があり、その隣に総社もあった。今回の国府めぐりは四国遍路のおまけだった。

国分橋の欄干にカメラを置いて記念写真を撮ろうとしたら、台の上からカメラが転げ落ち固い岩の上に落ちてしまった。土佐国府、国分寺の写真は古いスマホで撮ったもので美しくない。困っていると賀曽利さんが私の写真を貸しますよとのこと。もう一度行かなければと思っていたが、彼の手を借りてこのページを仕上げることができる。ありがたい。

国府(国衙)
高知の埋蔵物文化センターでは比江廃寺跡付近の発掘を行っており、多くの資料が出ている。国府の跡もほぼ特定できるが全域の発掘はまだである。平安時代紀貫之は929年から5年間土佐守(国司)として土佐国府で過ごした。60歳という年齢での赴任は何らかの政情の変化があったのだろう。帰国の時の様子を描いたのが「土佐日記」である。紀貫之の邸宅とされるところが公園になっている。おそらくこの辺りまでは国府の範囲だったのだろう。バイクが映っているのが賀曽利さんから借用した写真。

比江廃寺跡(国分尼寺?)
国府の一角に比江廃寺跡がある。そこに大きな塔の礎石がでてきた。これは県下では最大の礎石穴である。大きな寺があった。おそらく国分尼寺だったのではないかとの説もある。しかし国分尼寺に塔はなかったとされているので国分尼寺ではないとの意見も多い。写真はWikipediaから借用。

国分寺
国分川を少し下った土手に地蔵の渡しがあり、目の前の田んぼの先に四国第29番の国分寺がある。国分寺の敷地ははるかに広かったはずである。現在は真言宗智山派の寺である。石柱を見ると、十を横に並べて20と読ませている。

総社
国分寺の隣に総社神社がある。この神社が国司が参詣する土佐国の総社とされているが、国分寺の敷地の狭いところに押し込まれている。元は国府のそばにあり、ここにい引っ越してきたとのことである。祭神は「延喜式二十一社祭神」ということで総社にふさわしい。バイクはないが狛犬以外は賀曽利さんの写真。

伯耆国府、総社の狛犬は地震で落下した!

 伯耆の国は大山の麓に広がる地域である。国府国分寺は今の倉吉市にある。倉吉市は天神川と小鴨川の合流地域にできた盆地で、流域には三朝温泉など温泉郷がありその玄関口として賑わった。現在は鳥取県で3番目の人口を持つ市であるが人口は4.5万人(22年3月推定)と少し寂しい。しかし白壁土蔵がいまも残り、観光客はおおい。

国府 国庁
倉吉駅は白壁土蔵の街の中心から離れている。さらに国府地区は国府川を渡った先にある。したがって倉吉駅から国府遺跡に行くには交通の便がない。それを予想して私は携帯式の軽量(6キロ)自転車を用意した。これはなかなか快適であった。倉吉駅から国府地区までの道沿い風景を入れておく。

国府地区に国庁跡の史跡があるがただの原っぱで遺構跡はみあたらない。地図をみて想像するしかない。すぐ近くに法華寺畑遺跡があり、門や囲いが復元されているので、想像の根拠にはなる。

伯耆総社 国庁裏神社
国庁の案内板にもある通り国庁の中にあった神社である。「裏」にあったと読めるが「うち」というのが正解である。しかし今は「こくちょうり」神社と呼ばれる。もともと総社大明神などといわれたこともある。出雲に近いこともあって大貴己神、少彦名神を祀っている。

狛犬も何対かある。昔の写真を見ると台座の上にしっかり立っていたるが、実際に行くと、地面に置かれているものがいくつもある。私の推測だが2016年におこった大地震の被害ではないか。どういうわけか私のカメラではうまく撮れていない。国庁裏神社の建物の写真は賀曽利大明神からお借りしたものである。

国分寺跡
倉吉駅から自転車をこいできた。かなり暑い日で、国分寺の瓦が展示してある地域センターを見つけた時にはほっとした。場所を聞くと坂を昇った上にあるという。冷たいものを飲んで坂を昇る。そこには国分寺遺構があったが、じいさんばあさんがゲートボールに興じていた。「史跡の上でプレーできるなんて豪勢ですね!」というとみなさんきょとんとしていた。山上憶良の歌碑があった。憶良は国司として伯耆に赴任してここで過ごした。同じ万葉歌人の大伴家持も各地の国司を務めた。しかし憶良はこの地にかかわる歌は残していないという。政務に追われていたのだろうか?

国分尼寺跡 法華寺畑遺跡
伯耆の国分尼寺はいい。国分寺と並んで作られていたが発掘状況は国分尼寺の方が良好で、尼寺(法華寺)を中心として伯耆国府の遺跡が保存されている。法華寺という名前は総国分寺=東大寺に対して総国分尼寺=法華寺(ともに平城京にある。)からきている。国分尼寺を見つけるには、法華寺(法花寺)という地名を見つけることである。

伯耆の国府は思いの外、倉吉駅から遠かった。年取って体力がなくなったせいなのかもしれない。倉吉の白壁土蔵の街、賀茂神社の狛犬など見逃してしまった。また来る機会があればぜひそちらも見たいものだが・・・

追加:国庁裏神社の狛犬の落下について倉吉市の教育委員会に問い合わせをしたところ、すぐにお返事を頂いた。鳥取大学では石造物、特に狛犬については全県の調査をしたそうだ。その結果を示したPDFもいただいた。私の疑問は解消した。ありがとうございました。

・・・・お問い合わせの狛犬についてですが、ご指摘のとおり、鳥取県中部地震で国庁裏神社の狛犬は破損していますが、賀茂神社の狛犬は破損していません。その違いとしていくつか要因があるかもしれませんが、その一つとして狛犬の石材(来待石)の劣化が考えられます。来待石は凝灰岩質砂岩で加工しやすい反面、風化し軟質化しやすいという特徴があります。国庁裏神社と賀茂神社の狛犬はいずれも来待石ですが、劣化の程度が異なっていた可能性があります。鳥取県中部地震により狛犬だけでなく来待石製の灯籠や石仏などが数多くが破損しました。製作から100年以上経過したものが多く、劣化が進んでいたものと考えられます。・・・・

備前国府と国分寺は離れている

 古代には吉備国があったが律令制により備前、備中、備後にわけられた。備前国はさらに美作国を分離した。古代吉備国は超巨大な国だった。その国の中心は吉備の中山付近にあり、吉備神社ははそこにあった。しかし中山を境に備中、備前に分かれたため一宮も吉備津神社、吉備津彦神社にわかれた。なのでそれぞれの神社はほぼ背中合わせの位置にある。
 備前国の宮は旧吉備国の中心にあるが、備前国府は旧吉備国の中心とは離れ、旭川の東側の高島宮(神武天皇の聖跡)の近くにある。さらに備前国分寺は山越えをした赤磐市にある。前回一宮巡りをした時には、国府国分寺に足を延ばすことができなかったので、今回は半年おいての2回目の備前国入りである。

備前国府
岡山駅の隣の高島駅近くには高島宮がある。この宮は明治政府が定めた神武天皇聖跡地であってここに都が営まれていたわけではない。しかし備前国府はこのすぐ近くにあったようで聖跡とまったく無関係ではないかもしれない。

現在の「国府市場」の地名のあるあたりに国府があり役所の建物(国衙)があったがが、現在遺構はなく小さない社があるだけである。

総社
国府市場あたりは東西南北に道路が敷かれており条里制の名残がある。国府市場を北に1キロほど進んだ山裾に賞田廃寺跡の遺構がある。かなり大きな寺があったことが知れる。私はここが国分寺だったのではないかと思ったがそうではないそうだ。この賞田廃寺から少し西へ行った山裾に総社宮がある。

国分寺
桃太郎温泉前の県道(旧山陽道)に出てしばらく行くと高速道路が見えてくる。高速道路と交差する手前に国分寺の跡が見えてくる。発掘跡は整備されている。遺構の先には岡山県で3番目に大きな前方後円墳である両山古墳がデンと構えている。なかなかいい風景だ。

国分尼寺
旧山陽道を挟んで国分寺とは反対側に尼寺があったらしい。しかし今は大きな溜池の下になっており実態はまったくわかっていない。看板だけ立っており往時を想像するしかない。

今回は自転車
備前国の国府跡と国分寺跡はかなり離れているが、バス便など公共交通機関はない。「タクシーで行けば!」と奥さんに言われるが「望むところに行くには苦労がある方が感激は多い!」という私のポリシーに従えば、それは選択肢にはない。

今回は持ち運びのできる自転車を購入して持ってきた。重さは約6キロ、年寄りでも運べる重さだ。岡山駅前には電動レンタル自転車がたくさんあったが借りると元の場所に戻らなければならない。自分の自転車なら疲れたら折りたたんで袋にいれて電車にのればいい。

低い山だが峠越は結構きつい。しかし環太平洋大学(?)のキャンパスから聞こえるマーチングバンドの音楽に励まされ、案山子君たちに見送られて無事に走りきることはできた。帰りは津山線の玉柏駅から岡山に戻った。

因幡国府と国府神社、国分寺

因幡国
鳥取県は因幡国と伯耆国の2カ国からなっている。スタバもない県など(今はある)と言われたが 昔は重要な国だった。因幡の国府は史跡公園として整備されている。広い田圃、畑が広がる中、今木山の麓に「因幡万葉の里」があり史跡の解説をしてくれる。鳥取駅から5キロ程の距離なので、歩けない距離ではではない。しかし年寄ったので今回は携行できる(重さ6キロ)自転車を担いできた。

因幡国府
数年前因幡一宮の宇倍神社を訪れた。その時に本殿の脇に「国府神社」があることに気が付いた。先日壺阪山に行ったときに「国府神社」を見つけ、この名前は他にはないなどと書いた。しかし数年前に「国府神社」を見ていたのだ。忘れっぽくなっているなぁ! しかしこの神社の場所に国府があったわけではなく国府地区にある神社なのでその名前になったようで古い神社ではない。

鳥取駅近くの交通案内に「国府(こくふ)」という案内板がある。国府地区に行くルートだ。いま国府地区に「国庁跡」の史跡公園がある。いまつつじの真っ盛りで色とりどりの公園であるが、私のほかには誰もいない。華々しさの中ちょっと寂し感じがする。大伴家持が国司として赴任していたそうだ。「新しき・・・・・」の歌が、そばにある「因幡万葉歴史館」に当時の衣装とともに掲げられていた。

総社
因幡国に総社の記録はない。国府に赴任した国司はまず国内の有力神社に詣でる。しかし一宮は離れていることが多いので国内の神社を集めた総社が設けられた。因幡国は一宮の宇倍神社と国府がごく近いので国司は簡単に参拝することができる。わざわざ総社を設置する必要はなかったのではないかと私は考えている。

宇倍神社の中には「国府神社」があるが、これは明治時代に作られたもので総社の意味ではない。ということで私的に宇倍神社を勝手に総社としておく。長い石段を登って社殿に登って、総社ということにしいいですか?とお尋ねしたが、もちろん返事はない。神社の総代の石破茂議員に聞かなければならないかな?

国分寺

国庁跡から500mほどのところに現国分寺がある。境内には旧国分寺の礎石がたくさん転がされている。遊んでいた子供たちが「なんでこんな大きな石があるの?」聞いてきた。確かに田んぼと畑の広がる土地には大石はない。よく気がついた、いい子たちだ。

国分尼寺、法華寺

国分寺の西、500mほどの今木山の麓に法花寺という集落がある。私はピンときた。法華寺は奈良の「総国分尼寺」であり、総国分寺の東大寺に匹敵する寺である。法花寺集落に国分尼寺(法華寺)があるはずだと集落に入ってみた。おばあさんい聞くとそこにお寺があるよという。小さなお堂と礎石らしい石が苔むしていた。私的にはここが国分尼寺跡とすることにした。

今回は国府、国分寺、国分尼寺、総社らしき神社の四ヶ所を効率よく回ることができた。たいていの国では国府と国分寺はかなり離れており、こんな近場に集まっているのは珍しい。と書いたが、国分尼寺と総社は私の判断であって学術的には根拠もない。しかし国府跡愛好家としてはなかなか楽しい場所であった。

次はすぐ隣の伯耆の国府のある倉吉に向かう。

美作国府総社は津山盆地に!

古代の吉備国は、大化の改新後に備前、備中、備後の3国に分割された。さらに和銅6(713)年に、備前国北部から6郡を割いて美作(みまさか)国が作られた。美作の中心は津山盆地にあった。津山は現在も中国山地の中心で、岡山県でも第3の市である。

国府
駅からは川を越えてお城よりもさらに北側の高台に国府跡、総社宮ある。国府跡バス停の前にあるのが国府台寺だがこの辺りに国府があったとされている。この寺とは関連はなさそうだ。

総社宮

国分寺 国分尼寺不明
国府跡、総社宮は吉井川の北側、津山城の背後の丘にあった。しかし国分寺は川の反対側、さらに支流が巾着状になった孤立した場所にあった。私は駅から自転車で回ったが吉井川にはあまり橋がなく、なり遠回りになった。
人神という集落を通り国分寺に向かう。河辺小学校の下に美作国分寺跡が広がり、きれいに整備された現国分寺があった。

津山盆地
今回赤磐市の備前国分寺から津山線で来た。数年前に美作一宮の中山神社を訪問した折は新見から姫新線でやってきた。ここから鳥取方面は因美線、姫路方面には姫新線など津山盆地は中国山地の中の交通の要衝だったことが分かる。しかし近年は人の移動は少なくなったようで、因美線で鳥取に行くには5時間も待たなければならない。かなり遠回りになるが姫新線で佐用まで行き智頭急行線で鳥取に行くことにした。因美線経由よりも2時間も早く到着する。さらに智頭急行線は初めての搭乗だ。うまくすると郡家(こうげ)から若桜鉄道に乗れるかもしれない。

などなど考えながら東津山から列車に乗った。駅前のエリエールの広告、黄色いホテルには見覚えがあった。一宮巡りの時に泊まった宿だ。姫新線佐用(さよ)駅で智頭急行に乗り換えたが、数年前もここで数時間待った。
JR線はいくつも通って交通の要衝のようだが、列車の本数は少ないので結局佐用駅経由になるみたいだ。郡家からの若桜鉄道の駅は「寅さん」の撮影地だが、今日中に行き来して鳥取に行くの無理なのであきらめた。少々残念。

大和国府は国府神社の近くに?

明治の初めまで全国は68の国に分けられていた。武蔵の国、相模の国などである。古代から国があり地方豪族の「国造」が支配していた。しかし律令制度によって中央から「国司」が派遣され中央集権が確立した。その後1200年間人々はその区分になじんできた。いまでも旧国名で呼ぶ地域も多い。武蔵小金井、相模大野、越後湯沢など数知れない。

「大宝律令が制定されたのは701年、第41代持統天皇の都は藤原京で、710年に平城京に遷都した。いずれの都も大和国の中にあった。聖武天皇による国分寺建立の詔が出されたのは741年で、総国分寺である東大寺が平城京の近くに作られた。       「大和の国府、国分寺は平城京と東大寺だろうだろう」
と私は思ったがそれは間違いだった。

現在の東京には国の政府と天皇宮が千代田区にあるが、ローカル政府は新宿区にあり都知事(国司)がいる。この構造と同じで、大和国には大倭国の首都平城宮とローカルな大和国府、国分寺があった。飛鳥板葺宮、藤原京、平城京など倭国の遺構の発掘には力がそそがれているが、ローカルな国府跡はまだはっきりしていない。

平城京 総国分寺 総国分尼寺
聖武天皇が国分寺建立の詔を発布したのが741年で、その時の宮は平城京で、周囲に総国分寺の東大寺、総国分尼寺として法華寺が作られた。まずその写真を並べておこう。

大和国府
薬師寺の近くに「今国府(いまご)」という地名がある。奈良の一番大きな工業団地があるが周辺に国府の跡は見当たらない。文献には13世紀に高市郡からこの地に国府が移ったという記述があるそうだが、高市郡にも国府あとは見つかっていないという。

しかし行ってみなけりゃわからない。城跡巡りに高取城を訪れたときに壺阪山駅近くに国府神社があることを地図で見つけた。賀曽利さんに知らせると「すぐ行ってきます!」と言って1週間後に写真を送ってくれた。先を越されて悔しいが本日(22年5月22日)私も行ってみた。

大和国府2  総社
壷坂山という駅から土佐街道といういい道を10分ほど行くと国府神社がある。案内書によればこの近くに国府があり国司が国内の神社を回る代わりに総社に参詣したのだという。総社が国府神社と名乗っているのは他にはみていない。さらに余計なことを言えばこの神社は古墳の上に作られている。後円の上に社殿が置かれており鳥居のある場所が前方部になる。

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大和国分寺
国府は何回か移動しているので、今畝傍駅のそばにある大和国分寺はどの時代のものか不明だ。聖武天皇の詔の時代のものとは違うのではないかな。

大和国分尼寺
国分尼寺はなかったと言われているが、私はもしかすると壷坂寺が国分尼寺だったのではないかと思っている。壺阪寺は南法華寺とよばれているとのこと。平城京の総国分寺は法華寺である。各国にある法華寺(法花寺)が尼寺であることが多い。なので私は勝手に尼寺としてここに載せておく。

出羽国府は城輪柵跡と秋田城跡

  七世紀までは東北地方は蝦夷の住む地であった。大和政権は勢力を拡大し和銅元年(708年)に出羽郡を置いた。さらに712年陸奥国から置賜、最上郡を譲られて出羽国ができた。733年に出羽柵(秋田城)が現在の秋田市に置かれたが蝦夷の反乱によって国府は酒田市の城輪(きのわ)柵に後退した。秋田城に国司は置かれず武士の長である城介(のちの征夷大将軍)が鎮守した。
従って出羽国府は秋田城跡と城輪柵跡であるとされている。

国府1  秋田城跡
秋田駅から秋田港にすすむと八橋の帝石前をとおり高清水の台地上に出る。八橋は日本には珍しい油田のあったところである。台地の上に護国神社があるがその地域は古代の秋田城があった場所である。その発掘現場の一角に歴史資料館が作られている。
ブラタモリでこの場所が紹介された。その時の注目施設が古代の水洗トイレである。古代の渤海国の施設が使ったことがあるそうだ。その証拠は当時日本にはなかった豚食民族特有の寄生虫の卵が見つかったそうだ。タモリさんも喜んでいた。

総社
総社神社という名前の神社はあるが、国府に付属した総社ではないだろう。たくさんの神さまを祀った神社なので総社と名乗ったようだ。もとは千秋公園のなかにあったそうだ。

国府2  城輪(きのわ)柵跡
出羽柵(秋田城)は奈良時代には秋田の高清水地区にあったが蝦夷の反撃が激しく、出羽柵は再び元の酒田市の城輪柵跡付近まで後退せざるを得なかった。秋田城には秋田城介(のちの征夷大将軍)を残し城輪柵で出羽国司が政務をとった。
遊佐駅から南の田畑の中にある。5月4日に訪れたが雪解けの鳥海山が雄大に見えた。蝦夷は鳥海山を越えては,やってこなかったのだろう。

総社
城輪柵跡の近くに城輪神社があった。この神社が総社かと思ったが、酒田市にある六所神社が総社であるとの資料があった。訪問時には、しらなかったので先に進んだ。機会があたら行ってみたいが、酒田まではちょっと遠い。来年の鳥海山登山の時に行くことにする。とりあえず城輪神社の写真を入れておきます。

出羽国 国分寺 国分尼寺
出羽の国分寺は山形県東根市の東根国分寺とされている。しかし今回は友人の旅行に便乗したので、あちこち探しまわることはできなかった。総社と同様に次に予定することにした。
国分尼寺は当初から建設されなかったと思われる。

山形の歴史から:
国分寺薬師堂は山形市薬師町に境内を構えています。国分寺の創建は天平13年(741)聖武天皇が仏教の力により国家安寧を導く為、各国一宇づつ設けた寺院の1つで行基菩薩が勅命により開山したと伝えられています。国分寺は国府の近くに設けられる例が多く、当時の出羽国の国府は秋田城(出羽柵)に置かれていた事から当初は現在の秋田市周辺に境内を構えていたとも考えられますが、記録上も遺跡などもそのような形跡が見られません。延暦23年(804)に秋田城が停止された事から、庄内地方に出羽国府が移ったと考えられ、国分寺も随行したと思われますが、その場所についても旧東田川郡渡前村、旧飽海郡本楯村、旧最上郡豊里村など諸説あり、酒田市の城輪柵跡が出羽国府の有力地である事から酒田、鶴岡付近とも考えられます。
記録的には承和13年(846)に安慧(天台宗の高僧)が国分寺に講師として派遣された事が記載され平安時代には寺運が隆盛していた事が窺えます。平安時代末期から鎌倉時代初期に国府が山形市北方の府中に移った記録がある事から国分寺も府中周辺に移り、東根市にある東根国分寺も当初は護国山薬王院国分寺と称していたと伝えられています。

肥前国府と印鑰(いんにゃく)神社

 肥前国は今の佐賀県あたり、近くに吉野ケ里遺跡もあり古くから栄えた地域である。大化の改新によって各国に国府が置かれた時、肥前国府は大和町久池井(惣座)に置かれた。私は10数年前に肥前一宮である与止日女神社に来たことがある。その時に嘉瀬川にかかる「惣座橋」を渡った記憶がある。しかしそれが国府と結びつかず、国府史跡を見逃していた。今回は国府跡を見るために「惣座」に向かった。すぐ近くに国分寺、国分尼寺跡もある。私の興味のワンセット(国府、総社、国分寺、尼寺、一宮)がそろっている珍しい場所だと感じた。
国府
佐賀駅の北方にある「惣座」(そうざ)という地区が国府の地であったと推定されていた。高速道路の準備調査で国府遺跡の発掘が進み「国史跡」に指定され整備された。版築で作られた築地塀の一部と大門が復元されている。この国庁には吉備真備などが赴任していることからも重要な拠点であることがわかる。敷地内に「肥前国庁資料館」がある。

国庁・国衙・国府

国庁:各国に置かれた役所の中心となる大型の建物群からなる一郭を国庁と呼ぶ。
国衙:国庁周辺の役所が置かれた範囲を国衙という
国府:国司の館や国衙の周辺の諸施設を含めた大きな範囲を国府とよぶ。

総社:印鑰神社
 資料では肥前国総社は不明となっている。私は1キロほど北にある与止日女神社が総社であれば面白いと思ったが一宮が総社である例はない。
もう一つ、印鑰神社(いんにゃく神社)というのがある。国司の印と鑰(にゃく)=蔵のカギを守る神社である。他の国では印鑰神社が総社である場合もある。ここ肥前でも印鑰神社が惣社であってもおかしくない。

肥前国分寺
印にゃく神社の角に「尼寺」(にいじ)の案内板がある。ここを曲がると国分尼寺跡とその奥に国分寺跡がある。いずれも跡だけで後継の寺はない。国分寺の場所には近年まで寺があったとのことで墓石、石塔などが無造作に置かれている。案内板によると200m四方のかなり大きな敷地を持ち七重の塔もあったことが確認されている。

国分尼寺
春日小学校の前に国分尼寺の案内板が立っている。国分寺と同じように後継寺もなく石塔、墓石などがあるだけである。敷地はたぶん小学校の敷地まであったであろう。

肥前一宮 与止日女神社
国庁遺跡よりも1キロほど北の嘉瀬川沿いにある古社である。前に来た時にも川を渡して数十匹の鯉のぼりが泳いでいたが、今回はまだ三月なのに同じように大量の鯉のぼりが川を覆っていた。さらに満開の桜、「よくおおいでくださいました」の感じであった。「ありがとう!」はお賽銭を奮発?してあらわした。

今回の巡りは佐賀駅からタクシー2時間で一巡り。なんと観光タクシーは2時間で2000円なり。「SAGA MADO」という観光案内所で3月31日までやっている企画とか。吉野ケ里観光には4時間コースがいいが、この企画を22年4月以降もやっているかどうかは係りの人も不明とか!