狛犬行脚:今八幡宮(山口総鎮守)

 山口県庁に近いところに神社が集まっている。その中でも重要なのが今八幡宮だが、ここには朝倉八幡宮も合祀されているという。今も朝倉八幡宮はあるのになぜ?と思った。理由はもとの今八幡宮は「宇治皇子」だけを祀っていた。八幡なのにおかしいということで朝倉八幡から「応神天皇、神功皇后、仲哀天皇」を追加したらしい。よくわからないが大内氏の一番重要な神社ということは宮司さんに聞いてよくわかった。

 ここの神社の狛犬の大きさは前の写真と比べるとわかる。おかっぱ髪の立派な姿はなかなかいい。石段の上の拝殿前にもう一対の狛犬がいる。

 境内社はいくつかあるが「客人神社」が気に入った。石段途中にあるので狛犬はいない。客人と書いて「まろうど」と読む。

 もう一つ境内社がある。八柱神社で、狛犬がいる。これは門前の立派な狛犬とは違って普通のよくある狛犬。

豊栄神社(とよえい) 

今八幡のすぐ背後に豊栄神社と野田神社がまとまって並んでいる。ここには立派な能舞台があり先日野村萬斎が来たという。なかなか由緒ある場所のようだが、今八幡宮に比べればごく新しいようだ。

野田神社

 阿吽の吽の方には角がある。これは本来の狛犬を示す。阿の方は珠を口の中に入れている。こちらは獅子である。

狛犬行脚 山口大神宮

  山口大神宮は1520年に大内氏が伊勢神宮の分霊を勧請した神社である。
14世紀頃から京都が兵火で疲弊する中、山口の町は平和で豊かで『西の京都』といわれる程の繁栄を誇った。伊勢神宮の分霊を受けた神宮は明治までは山口大神宮だけであった。江戸の頃から中国地方、北九州各地の参拝者も多くなり『西のお伊勢さん』と呼ばれ賑わったという。

 山口大神宮の中にある内宮、外宮は長い階段の上にある。途中には稲荷神社、多賀神社がありそれぞれに狛犬がいる。山口大神宮の参道狛犬は途中1カ所にいる。    

 下の左は稲荷神社入り口の鳥居前に居り、耳が大きな狛犬だ。もう一つは山口大神宮の内宮外宮に上がる参道石段の両脇にいる。寛政3年(1791年)奉納したものだが石工名はよめない。なかなかユニークな狛犬である。耳の大きな狛犬に比べると小ぶりである。

 石段を最後まで上がると伊勢の内宮外宮の建物が見えてくる。ここの内宮は伊勢神宮と同じ鰹木は10本、内削ぎ千木で女神がいることを示している。外宮は豊受神宮と同じで鰹木9本、千木は外削ぎで男神であることがわかる。

山口大神宮の中にある多賀神社

 この狛犬はよく見るもので端正な感じ。尾も大きく毛並みの彫刻もすばらしい。多賀大社はイサナギ神を祀る式内社で、山口大神宮の多賀神社はここから分霊をしたものだ。

高峰稲荷神社 狐がたくさん!

いろいろな狛狐?がいた。下は見返り狐、なぜかここに陶器製の狛犬がいた。おそらくどこかにあったものを、この場所に一時保管してあるのでは??

 山口大神宮の下には山口県庁がある。付近には食べ物屋もコンビニもないので県庁の食堂でお昼を食べて、元気を出して次の八坂神社に向かった。

狛犬行脚 山口市の狛犬1

01 赤田神社の紅葉と狛犬

 山口に来て最初に訪れた狛犬は赤田神社のものだった。ここは周防の四宮(しのみや)だ。狛犬に出会う前にこの美しい紅葉を堪能した。ここまで運んでくれたタクシーの運転手さんを呼んで一緒に眺めた。地元の人なのにこの紅葉は初めてだという。

 祭神は出雲系の大貴己神だが、出雲大社のような大きなしめ縄はない。狛犬も出雲型の威嚇狛犬ではなくやさしいものだ。

阿吽ともに口を開けているみたいだが、左側は口は開いていても歯は閉じているみたいだ。いずれも過大な装飾はなくシンプルでなかなかかわいい。

 拝殿の天井には地元の絵師内藤鳳岳が描いた龍がこちらをにらんでいる。拍手しても共鳴はないので鳴き龍ではないようだ。隣にえびす神社があったが、狛犬がいないので無視してしまった。ゴメンなさい!

02 土師八幡宮 土師はいない!

  赤田神社から山口大神宮に向かう途中の岡の上に八幡様があった。かなり石段の登りできつかったので下りは石段ではない山道を下ったら人家に出た。奥さんが通れないから戻れというが我々の姿を見た旦那さんが「通っていいですよ!」という。通り抜けるとタクシーの待つ道だった。なんか夫婦で言い合っている。もめなければいいのだが・・

 やっとこさ登ったが石段の両脇や石垣の上の塀の細工がなかなかおしゃれである。ここの祭神は八幡宮なので八幡大神、応神天皇、息長帯姫(神功皇后)を祀っているのはどこも同じ。

 なかなかかわいい狛犬。作られた年代が文化5年(1808年)と刻んである。左の吽の頭には角のようなものがあるが写真ではよくわからない。狛犬はこの一対だけであった。

03 朝倉八幡宮 七卿落ち!

 まだ山口大神宮につかない。山の端に神社が見えたので運転手さんに行ってもらう。湯田温泉神社と朝倉神社が並んでいた。メインの朝倉神社の方に狛犬がいた。温泉神社にはいなかった。  

 難波型の狛犬だと言われているそうだが、私にはよくわからない。なかなか愛嬌があっていいのだが。文政8年(1825年)奉納と書いてある

 朝倉神社、なんとなく由緒ありそうな名前だ。幕末の動乱期に湯田温泉に滞在していた京都のお公家さん7人(七卿落ち)はこの神社に参っていた。三条実美らの歌が奉納された。明治になると彼らは赦免され明治政府の要職を担った。

  やっと3社を回ったが、まだまだメインの山口大神宮、今八幡宮には到着しない。お昼も食べていないので奥様は不満そうだ。    2024年12月3日

狛犬行脚 小金井神社

 武蔵小金井駅からハケの急崖を下ったところに小金井神社、天満宮がある。当然牛の像はあるが、私の興味は狛犬だけ。この神社には二対の狛犬がある。.


上の狛犬は拝殿前で、江戸流れの狛犬である。昭和 年に奉納。石工の名前は不明。


稲穂神社(小金井)

学芸大学の近くにあるこの神社、境内には疱瘡神社、稲荷神社もある。狛犬は一対だけ。耳が大きく阿が子持ち、吽が玉乗りでなかなか良い。

狛犬行脚 飯能の加治神社の狛犬

  西武線の奥に飯能市がある…昔は子供連れで川遊びや天覧山登山、巾着田などに行ったものだ。先日若い友人達が「薪火と発酵のレストラン」でランチ会をやります。いま紅葉真っ盛りで素晴らしいですよというので、池袋から最新式の特急「ラビュー」に乗って飯能に行った。

  せっかく飯能に行くのだから狛犬探さなきゃと調べてみたら加治神社に笑い狛犬がいるという。ランチ会に行く前に駅からタクシーで加治神社に行った。ちょうど前の日が例大祭だったようで綺麗に整備されていた。

鳥居をくぐって石段を登るとこの狛犬がお出迎え、でも笑う狛犬ではなく岡崎型のまあ平凡なものだ。さらに進むと拝殿の前にいたぞ!

確かに笑っているでしょ! すばらしい👍👍

おいしいお食事をして、レストランの隣の能仁寺の紅葉を見に行きまいした…すばらしい紅葉をご覧ください。おしまい!

 

狛犬 杉山神社の狛犬たち

延長5年(927年)に作られた延喜式神名帳に載せられた神社のことを『式内社』と呼ぶ。式内社は官立神社のことで全国で2861社あった。

 杉山神社は『式内社』である。しかし現在70数社が武蔵国の南西部にあるが、どれが本当の式内社かはわかっていない。その中でたぶんこの神社だろうという神社を『論社』という。杉山神社の『論社』は6社ある。

ということは式内社全部回ると言う賀曽利さんは2861社の何倍かの論社も回らなければならない。これはとてつもない数である。

 私は狛犬巡りをしているので論社かどうかはどうでもいいのだが、数多い杉山神社に興味を持ち、論社といわれる6つの杉山神社を巡ってみた。


横浜市都筑区 茅ケ崎 杉山神社

本日は都筑区を中心にめぐった。横浜地下鉄の「センター南」駅で降りて近くの茅ケ崎杉山神社に行ったがここには狛犬はいなかった。

勝田町 杉山神社

写真を撮っただけで早淵川を下り勝田町の杉山神社に上がって行った。 阿吽の江戸流れ狛犬がともに子供を抱いている。産めよ増やせよの時代に作られた狛犬は、たいてい両方とも子持ちだ。

 勝田杉山神社は高台にあるが、次の新吉田の杉山神社は高速道路の都築インターの向こう側の高台にある。下がって上がってくぐって越えてやっとたどり着いた。ここはかなりの山の中。近くにお店も自動販売機もない。

 狛犬は昭和の岡崎型で、おそらくどこかの工場で大量生産されたものだろう。一説には中国で加工して持ってきたという。あまりありがたみはない。


新吉田 杉山神社

大熊町 杉山神社

 新吉田の杉山神社への上り下りですっかり疲れたので休みたがったが、店は何もない。高速道路をくぐって大きな道に出たとたんバスがやって来た。行先も見ずにのったら幸運なことに次の大熊町の近くを通る。スマホの地図を見て一番近そうなところで降りる。ラッキーだった。降りたところのコンビニで遅いお昼。

ここも高台にあり柿の実を見ながらやっと上る。ここも子だくさんの狛犬。背景が明るくていい写真が撮れないので背後から撮った。

新羽(にっぱ) 杉山神社

 本日の論社めぐりは終了と思ってバス停に行くと「杉山神社」の幟がはためいていた。そこここに杉山神社があるのだ。こちらは論社ではないが立派な神社。弱った足には応える登りだったが、おいい狛犬がいたので満足!

新羽の杉山神社からすぐのところに地下鉄ブルーラインの新羽(にっぱ)駅がある。新横浜で東急の新線に乗り換え一気に池袋へ。

狛犬24-11 豊岡 気多神社の狛犬

円山川の堤防から見下ろした。神様失礼します。

 この辺り、昔は但馬の国で近くに国府、国分寺、国分尼寺があった。とすれば当然「総社」があってもいいはずなのだが、現在それにあたる遺跡などは見つかっていない。おそらくこの気多神社が総社だったと私は思っている。

この神社の社殿の彫刻はすばらしい。地元に移住した森さんに聞いたら、中井権次という作家によるものだという。この集団は但馬の多くの神社の彫刻をしていることで有名という。右の木鼻の彫刻もすばらしい。

拝殿前の露地にきちんとお座りしている。

竹野 宇日神社の狛犬

 城崎温泉よりも先の海岸部に竹野の集落がある。ここにも立派な神社がある。宇日神社とは珍しい名前である。参道には新しい狛犬が2対あり丘の上の拝殿前には古い狛犬が一対いる。

長屋門のような門を入ると拝殿がある。右下は隣の丘の上から見た竹野の海岸。トンボロ地形である。

拝殿の彫刻は前出の気多神社と同じで中井権次の作品である。残念ながら古い狛犬の製作者の名前はわからなかった。

竹野 鷹野神社 

 豊岡の観光ガイドを見ていたら宇日神社のすぐそばに式内社の鷹野神社があることが分かった。前回行っていないので来年はぜひ行こうと思っている。ここも中井権次の彫刻が見事だそうだが、その写真はなかった。また宮司さんが祝詞を上げている写真には拝殿内に小さな狛犬がいる。それも見てこなければ。とりあえず観光ガイドと「たんぽぽろぐ」の写真を借りてありますが、近々入れ替えます。

狛犬行脚24-11 出石神社の狛犬

 豊岡市出石(いずし)にある出石神社は但馬の国の一宮である。但馬の一宮はここのほかに和田山に粟鹿神社がある。一宮が決められたのは千数百年前のことなので紆余曲折があり一国に数カ所の一宮がある例は多い。越中国などは4カ所が一宮を名乗っている。

 出石神社は天の日槍(あめのひぼこ)神を祀っている。この神は朝鮮半島からの渡来の神であり、子孫に多遅摩毛理(文部省唱歌に唄われた)息長たらし姫(神功皇后)がいる。神功皇后は第15代応神天皇の母である。

ここには2対の狛犬がいる。木像狛犬は両方に角がある。首の鈴は中国の影響か

鳥居前の狛犬は出雲型! 阿形の下あごは欠けている。拝殿の前の木造狛犬

 今は豊岡市の文化観光の中心の一つ街だ。下の芝居小屋の「永楽館」が復元された(2012年11月)。復活こけら落としの時に私たち夫婦も招待され、片岡愛之助の「鯉つかみ」を見た記憶がある。

狛犬行脚24-11 粟鹿神社の狛犬

但馬の国には一宮が2カ所ある。こちらは和田山の近くにあるが、車を持たない私には訪問は大変であった。静かな森の中にたたずむいい神社だった。

左は隋神門、この裏側に木造狛犬がいる。右はッ拝殿と本殿。いずれも平入だが拝殿前の狛犬は妻入り本殿の出雲大社と関係ある出雲型である。

通常は向かって右が阿吽の阿形で口を開けているのだが、ここでは逆で子供を抱いた阿形の獅子が左にいる。

木造狛犬で昔は彩色が施されていた。右の阿形、左の吽形の像には角がある。豚鼻だがこちらは狛犬である。

相撲は神事で古い神社にはたいてい土俵があった。右の石に丸い穴が開いているのは何かの意味があるかと思うが、調べていない!あとで!

狛犬行脚24-10 豊岡荒神社の狛犬

日高 荒神社 

 日高郵便局の脇に鳥居があり、奥に入ると左手に天満宮の跡がある。右手に荒神社がある。拝殿は壁がなく開放感があり、背後の円山川の堤防を望める。この神社の中には多くの摂社がありそれぞれに狛犬がいる。この狛犬は出雲型で威嚇する感じだ。

上の左は荒神社正面の鳥居脇の狛犬。右は境内の金毘羅宮の前の狛犬。いずれも阿吽の阿形の顎が完全に欠け落ちている。いずれも出雲型と呼ばれる。

左は正面の出雲威嚇型の狛犬。右は金毘羅宮の拝殿の中の狛犬、新しいし風化はない。下はやはり金毘羅宮の狛犬。形は他のものと全く違う。阿形はまったく獅子、吽形は角があり狛犬だ。この神社の中では特別な感じがする狛犬だ。

金毘羅宮の社殿の「木鼻」に彫刻された阿吽の狛犬と阿吽の獏?

左側は金毘羅宮、たくさんの狛犬がいる。右写真は境内摂社、背後に円山川!

浅倉兵主神社 

荒神社の南1キロほどのところに式内社の浅倉兵主神社がある。「兵主神社」は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内社が19社記載されている。そのうちの7座がここ但馬の国の円山川沿いに集中している。先に見た久斗兵主神社は式内社ではないが、兵主の名を持つ。
出石神社の祭神である渡来系の神、天の日槍(あめのひぼこ)神と関連があると言われるが、否定する意見も多い。渡来系の神をあがめることを嫌う勢力も多かったのだろう。


狛犬行脚24-10 豊岡久斗兵主神社

豊岡市に編入されたがもとは日高町。旧日高町役場の近くの街道沿いにこの神社はある。正面に久斗兵主神社の社殿があり、境内にはいくつかの社殿が集まっている。それぞれに狛犬がいるのだが、やはり正面の狛犬が一番立派だ。

鳥居の下にいるのが一番大きい。出雲型だそうだ。この神社は式内社でスサノオを祀っているので出雲型なのだろう。右下も同じもので顔アップしてます。

八幡様の前の狛犬は阿形の開けた口の下あごが欠けていてちょっとかわいそう。凝灰岩の柔らかい岩石なので、昭和の時代製作なのにもう欠けている。他の社殿前の狛犬も同じように顎が欠けている。かわいそう、寂しい!

上の久斗兵主神社から西へ100mほど行ったところに粟島さんがある。兵主神社の摂社に当たるものかもしれない。この狛犬は近年奉納されたもので花崗岩製、いわゆる岡崎型で長持ちするだろう。

狛犬行脚24-10 狛江の狛犬

 小田急線の多摩川近くに狛江という駅がある。慈恵第三病院にしばらくお世話になっていた身には、なじみの駅である。狛江の「狛」は狛犬となにか関連があるのか、狛犬愛好家としては気になっていた。

 先日会った狛江の岩戸在住の友人に聞くと「なんか小さな鳥居のある神社に狛犬があったなあ!」という。 早速行ってみることにした。

喜多見氷川神社の小さな鳥居、世田谷区最古の鳥居。小さい!

 地図を見ると北見駅からの方が近そうだった。二の橋通りをしばらく行くと森が見える。都会では森があるのは神社か寺である。しかしに二の橋通りはだんだん離れていく。狛江市は昔は畑の広がる地域で今の道路はあぜ道を広げたものだからまっすぐ続いているわけではない。やっとたどり着いた場所には弁天池があった。

  彼の言う小さな鳥居はなかったが、 拝殿前になかなかいい狛犬がいた。向かって右側は阿形で子供が足元でじゃれている。通常は珠を抱えているなどするがここでは両方の狛犬が子供を持っている。

狛犬は一対だけと思っていたら、なんと見上げたところにもいた。これは木鼻に作られた狛犬なので通称は木鼻狛犬。たいていは長い鼻のゾウやバクが彫刻されていることが多い。

喜多見氷川神社の参道 特に大小の鳥居が見える

地図を見ると世田谷区と狛江市の境目に神社がある。そちらに歩いて行く。裏手から入ったのでまず拝殿に、その後狛犬をみて参道を戻って小さいけど区最古の鳥居を見てから外に出た。

昔の雑誌投稿1980年代

 我が家の本棚を整理するためにだいぶ本を捨てたのだが、まだいろいろなものが残っている。昔はいろんな雑誌などに記事を書いていたようで、ファイルケースにいくつか残っている。たいていの雑誌は廃刊になっている。きちんと年月日を取っておけばいいのだが、ほとんどが記事だけを切り取ってファイルしたのでいつのものかわからない。しかしこのままではあすにもゴミに出されてしまうので、データとしてまず3枚アップしておく。

It’s 走 nice01 1980年代 まだ清瀬高校にいたころのものだろう。


この三枚だけでした。沙原の会は清瀬高校のOBで結成されました

狛犬行脚24-02 いわき 諏訪神社の狛犬

 2024年いわき市を滝野澤さんの車に乗せてもらって巡った。いわきには諏訪神社がやたらに多かった。なぜなのか、その理由を調べるには至っていない。私の興味はその神社にいる狛犬をみたかっただけなのだ。以下の紹介するのは神社ではなく狛犬(獅子)がメインです。



小名浜 諏訪神社

石段上には青い鉄製の鳥居が見える。このような色の鳥居を見るのは初めてだ。小名浜の造船所が寄進した。造船所の技術を象徴して作られたものだろう。

鳥居の横にいるのが見える。阿形が玉取り、口にも玉をくわえている。吽形が子取り、爪がかからないようにやさしく子供の頭に載せている。昭和4年奉納、石工名は不明。この神社にはこの一対のみ。両方とも獅子だな。

湯本から住吉神社をへて小名浜の諏訪神社にきた。途中「ウロコジュウ」で海鮮丼を食べた。地元の人は港にある「ららみゅー」よりも安くておいしいという。


江名 諏訪神社(高台にあり津波被害なし)

合磯(かっつお)岬へでる峠の途中にこの鳥居がある。赤い鳥居からさらに急こう配の石段がありその上に社殿がある。

拝殿前のブロンズ製の狛犬。左の狛犬の頭には角がある。右は獅子!昭和11年奉納

街道沿いの鳥居の下にいる。小名浜諏訪神社の狛犬と同じテーマ。
おそらく同じ作者が作ったものだろう。

沼ノ内  諏訪神社

 沼ノ内弁財天は高い場所にあるが、諏訪神社は平地にある。正面の鳥居の前の狛犬は新しい。手前の赤い花崗岩には平成23年奉納と書いてあるので大震災の年に建てられたものだ。  

きっと津波で流されたものと思うが、そんなに早く狛犬を作ることができのだろうか。実は鳥居の奥に津波で折れた鳥居、狛犬が記念物として置かれている。  

 おそらく津波で台座から転がり落ちたが、遠くまで流されなかったものを回収し少し修復したが、新しくした方がよいと判断した氏子の方々が岡崎型ですぐに据え付けることができる機会彫りの狛犬と交換したのだろう。  この神社には拝殿前にもう一対の狛犬がいるが、そちらは被害がなかったようで従来の姿で立っている。


豊間 諏訪神社(両諏訪神社)

ちょっとした石段の上にある鳥居のもとには平成28年12月建立と書いてある。この鳥居の手前にも新しい鳥居がある。豊間は津波被害が大きかったところだが、奥の狛犬社殿には津波被害はなかったようだ。

昔はこの狛犬たちは海を眺めるていただろうが、広い大きな堤防ができたので海とは隔絶された。周囲には人家はまだまばらだ。

拝殿前の狛犬は珍しい顔つきだ。細い直線状の足、バカでかい阿吽の口、腕の下には翼が付いている。さらに珍しいのは社殿に対してお尻を向けていることだ。通常の獅子狛犬は横向きで顔だけ正面を向いている。東南アジアの獅子はみなこれと同じように社殿に尻を向けている。同じ形の狛犬が沼ノ内弁財天にもいる。たぶん同じ作者の製作だろうが時期、石工名は不明。

地図には諏訪神社とあるが、拝殿の額には「両諏訪神社」となっている。


四倉 諏訪神社

少し高台にあり、津波の被害は受けなかったようだ。諏訪神社と書いてある額の中に「本宮宮司三輪磐根謹書」と書いてある。私としては親しみがわいた。


最初に示した通り、いわき市には諏訪神社はたくさんある。今回回れたところは5社だけだったがいずれも狛犬がおり、地震、津波の被害を受けていた。しかし地元の皆さんのおかげで早急に復元されていた。すばらしいことだ。

狛犬行脚24-01 いわき市周辺

 2024年3月8日、賀曽利さんの第何回かの東北旅の前夜祭に参加するためにいわき市に行った。彼らはバイク旅だが、私は滝野澤さんの車の助手席でもっぱら神社、狛犬巡り。おかげさまでたくさんの狛犬を見ることができました。満足して「よこ川荘」の宴会で盛り上がりました。

まず今回巡ったいわき市の式内社の三社を紹介します。

大國魂神社(延喜式内社・縣社)

古代この辺りに磐城郡の郡衙(郡の役所)があったそうだ。目の前の田んぼの中には古墳がある。郡の長の墓かも知れない。

甲塚古墳 6世紀後半のものだが詳細は不明・国指定の史跡

鳥居をくぐり小川にかかる太鼓橋を渡る。右手には大杉があり根元には「ごもっともさま」という立派な〇〇がおかれている。目の前には見上げるような石段がありその上に社殿があるはずだが下からは見えない。石段下の両側には新しい狛犬がいる。

狛犬は氏子の方が還暦祝いとして奉納したものだ。左の写真には「初老祈念」という文字がある。初老というのは何歳のことかな??次の狛犬は石段上、さらに拝殿前である。

石段上、阿が子取り、吽が玉取 角がないのでいずれも獅子だ。
これも両方が獅子、かなり奥目、鼻の穴が大きい!なびかせている髪、尻尾がすばらしい。
昭和11年3月15日奉納、石工の名前はわからなかった

温泉神社(延喜式内社)いわき湯本駅近く

滝野澤さんは温泉ライターでもある。福島の温泉はほとんど回ったというが、温泉神社の境内に温泉が湧き出していることは知らなかったとのこと。神域なので足湯というわけにはいかないが手をつけて暖をとった。ここの狛犬は石段の上と拝殿前にいる。

狛犬に目をとられていたので危うく参拝するのを忘れそうになった。この神社の祭神は

大己貴(おおなむち)神、・・・大国主神の別名

少彦名(すくなひこな)神・・・大国主とともに出雲国を作った神

出雲系の祭神だが、社殿の造りは出雲系ではない。

住吉神社(いわき 延喜式内社)

  • 祭神は 住之江の三神
  • 表筒之男命(うわつつのおのみこと)
  • 中筒之男命( なかつつのおのみこと )
  • 底筒之男命( そこつつのおのみこと )

本家の摂津の住吉神社はこの三神に加えて神功皇后が祀られている。しかしいわきの住吉神社は住吉の三神のみが祀られている。住吉神社は海の神様で海辺に置かれている。この住吉さんも小名浜港に近い場所にある。

この神社には1対の狛犬しかない。ちょっと寂しい!

ふつうは阿が玉取、吽が子取りなのだが、この吽の狛犬(獅子)は何を手にしているのだか不明

ウズベキスタン旅行1

 ウズベキスタンと言うよりも私たち年代の人間には「サマルカンド」という方がよくわかる。1980年代にNHKでシルクロードの放映があり石坂浩二の語りと喜多朗の音楽が流れるとテレビの前に家族も集まってきた。サントリーオールドのCMも夢街道シルクロードだった。実際の放映はカシュガルまでだったがさらにその先にタシュケント、サマルカンドなどのオアシス都市につながっていることがたびたび話題になっていた。いつか行ってみたいと思っていたが1991年の独立まではソ連邦の国でなかなかいくことはできなかった。喜多朗のシルクロード(YouTube)

コロナ禍が一段落したのでどこか海外へと思った時に真っ先に浮かんだのがサマルカンドだった。もう個人で行くのは難しいのでツアーを調べたらタシュケントまでの直行便があるという。「それ!」とばかりに申し込んだ。もう傘寿だという年も考えずに。かなりきつい旅になりそうで、出発前は心配になった。

飛行ルートは成田を出ると能登半島からほぼ真西に向かってソウル上空、北京上空を飛んでいく。きりのないほど広い砂漠の中を飛んでいくと天山の山々が出てきた。このルートを2002年に中山嘉太郎さんは単独で走ってトルコまで抜けた。どんな気持ちがあればこんな砂漠を走ることができるのか。雪山を超えるとすぐに大きな町が出てきた。

中央アジアでは一番の大都市であるタシュケント(石の街)はソ連邦の直轄地でモスクワ、レニングラードにつぐ大都市であったが、独立後はロシア人は引き上げ今はウズベキスタン人の街である。若い人たちの間ではロシア語はまったく通じなくなっている。1966年大地震にあって日干し煉瓦の町は壊滅したが、直ちにロシアはコンクリートのアパートを何棟もたてて復興を果たした。その後ロシア人は出て行ったが、まさにロシアの街のようである。マックもケンタッキーもセブンイレブンなどアメリカ、日本の影はない。世界中どこに行ってもあるはずの中国料理の姿もない。トルコ航空だけが空港にいた。ウズベク語はトルコ語系なのである。

成田を午前11時に出てタシケントには午後4時に着いた。時差は4時間だから東京時間は午後8時。直行便でも9時間かかることになる。早速夕食とホテルへ。おいしそうなスープ肉料理、初日にちょっと食べすぎたのであとがきつくなった。何事も適度が肝心なのだが、出だしから食に、目がくらんだ。

初日は最上級のウズベキスタンホテルに泊まるだけで、翌日はやくウルゲンチ空港に飛ぶ。タシュケント市街見学は帰る日に回すことになっているので、早々に寝た。