八戸三社と根城

八戸市の中心は新幹線の八戸駅周辺ではなく「うみねこレール八戸市内線」の本八戸駅の近くである。駅前の馬淵川の低地から段丘崖を上がると「龗」神社にでる。難しい字で読み方を聞くと「おがみ」神社だそうだ。この神社が八戸三社の一つである。

八戸城跡(三八城神社)
おがみ神社の並び、八戸市役所の横に八戸城の大きな石柱がある。南部氏の居城だったが今は神社になっている。現在の八戸の町並みは八戸城の城下町だった。その街並みが良く残っている。この神社は八戸三社ではない。

神明社

市内の小さな神社であるが、ここが八戸三社の一つである。大きなイチョウがすばらしい。八戸三社の一つ!

新羅神社
1678に八戸藩藩主南部直政が建てたのが始まり。祭神は新羅三郎である。本殿・拝殿は県の重宝に指定されている。毎年2月17日には冬の郷土芸能「八戸えんぶり」の奉納舞が行われる。また8月の八戸三社大祭ではおがみ神社より神輿の渡御が行われ、8月2日には騎馬打毬の一つ「加賀美流騎馬打毬」が行われます。

根城
八戸城からほど近い段丘上に「根城」がある。ここも南部氏の居城であり、整備がよくきれいに保存されている。隣には八戸市の博物館がある。博物館で調べてみるとここは根城南部氏の居城であるが三戸にいた南部氏が八戸を支配し根城南部氏を遠野に追いやったそうだ。同じ南部氏でも本家や宗家などいろいろあったらしい。今の八戸城下町はもとは根城の城下町を移転したもので八戸の人たちは根城南部氏びいきが多いそうだ。八戸城は草ぼうぼうだが根城はすばらしい。八戸の人々の思いがこもっているのだろう。

南部一之宮 櫛引八幡宮

  全国の一宮は全て回ったつもりだった。しかし青森県の八戸市の櫛引(くしひき)八幡宮に来たらここも一之宮と書いてあった。一宮は律令国( 701年から)に一つづつあったが、近年は我こそが一宮と名乗る宮が複数あるため100ヶ所ほどの一宮がある。

八戸のあたりは律令制のできた頃にはまだ蝦夷地であった。神社の方に聞くと、律令国ではなく、「南部藩の総鎮守、南部一宮です」とのことだった。古代の陸奥国の多賀城の北方は実質的にはアテルイらの英雄が支配する蝦夷の国だった。

陸奥国の一宮は仙台の塩釜神社で、その北の岩手県、青森県に大和政権は支配が及んでいなかった。坂上田村麻呂ら征夷大将軍の力によって支配地は徐々に広がって行ったが、陸奥国が陸前、陸中、新陸奥に分かれたのは明治になってからだ。

陸前一宮は塩釜神社、陸中の新一宮は水沢市の駒形神社とされた。しかし新しい陸奥国には新一宮は認められなかった。八戸市の櫛引八幡宮は南部一之宮と称しているが新一宮には入っておらずローカル一宮である。
 しかし大変立派で東北には数少ない「国宝」の鎧もある。私は新一宮に昇格させてもいいのではないか!と感じている。

雨が降っていたのでかなり端折っての参拝だったが拝殿本殿にはここが発祥の駒犬が居り、警備をしていた。普通の石の狛犬のほかに灯篭の間から顔を出したかわいい狛犬も珍しい。通常弁天様がいる水辺には河童がいる。なかなか興味深い神社であった。もし可能ならもう一度寄って南部氏との関連をもう少し掘り下げてみたい。

肝心の祭神を忘れてはいけない。八幡宮と言うことからわかるように「八幡大神」(誉田別命)を祀っている。

 

 

琉球国一宮 波上宮


全国一宮巡りは一応終わったが、明治以降に新たに加わわった新一宮があることを知った。東北地方はまとめて陸奥国だったが明治になって津軽国、岩代国などが追加された。それらの国の一宮も巡ったが沖縄はどうしても同等にできないとおもっていた。。沖縄の新一宮は波上宮とされているが、その神社の元は琉球国の重要なお城であり信仰の場所でもあった。琉球国は律令制の国とは違ってれっきとした独立国であった。それを明治政府がムリヤリ日本国に組み込み神社として古事記の神様を祀ったのだ。新一宮とされているが武蔵国とか越後国など旧国(律令制の国) と同じレベルではない。琉球国に対してリスペクトがあれば私は新一宮とすることに異論はない。祭神に昔の琉球の神様を追加してくれれば、私はなんとか納得するのだが!沖縄の人が納得するかどうか、それはわからない。

とりあえず今の波上宮の様子を写真で示しておきます。もう少し考えたい。

都内超低山登山 第22座 御田亀塚山

 今回は京浜国道と国道1号線の間に挟まれた狭い尾根道の上にある亀塚古墳に上った。尾根道は二本榎通りに続く聖坂と呼ばれている。この道に面した亀塚公園から見ればわずか高度5mほどの高度だが、第一京浜国道に面している御田八幡神社から上ると20mほどになる。国道から見たらかなりの高度になる。暑い中での登山?は階段上りだけで面白くもない。

 御田(みた)八幡の先は昔は海だった。その様子は広重の浮世絵にある「月の岬」、ちょうど同じような場所にテラスがあったので写真をとった。海なんか見えないし、妖艶そうな女性ではなく、私と同じような徘徊おじさんが体操をしていた。
 今回の一番の見どころは古墳前の二本榎通りを東海大学方面に向かったところにある承教寺の狛犬(狛件)、いったいこれはなんじゃ!
 人面で胴体は牛、この辺りには牛供養碑もあるようで牛と人間の合体狛犬ができたのかもしれない。でもやっぱり気持ち悪い。なんでこんな狛犬を作ったのか置いたのか、もう少し調べてみよう。
Wikipediaをみるとこの動物は「件(くだん)」というそうだ。人編に牛という奇妙な想像の動物らしい。件は時々一言だけ発する。その言葉は決して嘘ではなかった。そのために人々はこの獣を大事に扱ったという。
ところで書状の最後に「件の如し(如件)」という定型句を付けることがある。「くだんのごとし」は枕草子にも使われている言葉という。件が嘘をつかなかったことから、この書状に嘘はありませんという意味で「如件」と書くのだそうだ。私は証文など書いたことはないのでこの言葉を使ったことはないが、友人のビジネスマンは使ったことはあると言っていた。

小松左京は1970年の大阪万博をてがけ「日本沈没」という大ベストセラーを書いたSF作家だ。「くだんのはは」と作品がある。私は当然「九段の母」だろうと推測していたが実は「件の母」というホラー小説なのだそうだ。私は怖いのは嫌いなので読んでいないが、「件」(くだん)という言葉は結構使われている言葉だったようだ。でも私は使いたくないな。

都内超低山登山 2301 池袋富士

 昨年から都内超低山登山をやっています。超低山は3mほどから50mほどの山に登ろうということです。3mなんて登山とは言えないと言われるだろうが、足腰の弱った老人にはこれくらいでも若い人が高尾山に登るくらいのキツサガあります。先日登った大泉の中里富士(10mくらい)では両手を使ってやっと上り下りをしました。

まあ上り下りはそれほど大変ではないのでなるべく遠くからそこまで歩いて行くとそれなりに運動になります。中里富士にはたいていは大江戸線の光が丘駅から4キロほど歩いています。

さて今回は1月2日で初詣で「池袋富士」に行きました。我が家からほぼ2キロの池袋氷川神社分の境内にあります。昔はいつで7mほどの山頂に登ることができたのだが、2011年の東日本大震災の折に山頂付近に亀裂ができて、現在は修理中。登ることはできなかった。

いまは周辺にマンションが立ち並んでいるが昔は谷端川の崖上の場所に立っていたので周辺からはよく見えただろうと思う。本日は裏手に回ることができたので小御岳神社の洞穴を見ることができた。

ところで私は超低山登山家であると同時に狛犬の愛好家でもある。この神社の狛犬はなかなかユニークな感じだ。いつもは片側だけ日が当たっていい写真が撮れなかったが、本日は夕方なので両方同じように撮ることができた。帰りは谷端川の谷に降りて、といっても緩やかな坂なのであまりよくわからないかもしれない。私は昔自転車で通勤していたので坂があることはわかっていたが・・・ 谷端川を渡ると東上線の線路に出る。昔はここに転車台があったが今は電車の車庫になっている。

淡路国府、総社、国分寺

淡路国
イザナギ、イザナギのご夫婦神が混沌の中に「天の沼矛」を差し込んで引き上げたときにたれた滴が固まってできたのが「おのころ島」である。この島の「天の御柱」を廻ってご夫婦は日本の島々を産む。最初が淡路島、次に伊予の二名島、隠岐の島と続く。地質学的にはもちろん何の根拠もないが神話では日本列島で最初にできたのが淡路島ということになっている。淡路島は「おのころアイランド」と称して観光誘致をしているが、神話の世界では(淡路島=おのころ島)ではない。淡路国府・淳仁天皇陵
淡路国府は今の南あわじ市にあったがその場所は特定されていない。府中とか国衙の地名は残っているのでそのあたりだろうとウロウロした。社殿はないがそこに国司館跡の石碑があった。その近くに淳仁天皇の墓所があった。淳仁天皇といってもわからないが、全国に国分寺を作るように命じた聖武天皇の娘である孝謙上皇が擁立したが途中で僧の道鏡を天皇に仕立てようとして淳仁天皇を廃位させた。天皇は淡路島に流され淡路国司に預けられたがすぐに暗殺された。国司館跡のすぐそばに墓所があるのには理由があったのだ。ちなみに淳仁天皇というおくり名は明治時代になってつけられたものである。

総社十一明神神社
淳仁天皇を祀る野辺の宮のすぐそばにある神社で扁額に、合わせた11神社名が掲げられている。しかしその神名は書かれてはいない。11神社名に淡路一宮の伊弉諾神社名はない。ということは三原郡(南あわじ市)の総社ということなのか、そのあたりのことは不明である。扁額には「當国総社」とあるが當国が淡路国を表すのかどうかはよくわからない。

国分寺
南あわじ市役所の近くに現国分寺と跡がある。寺の区画はわかっているが伽藍配置などはわかっていない。この寺が元の国分寺の後継寺院であり、本尊の木造釈迦如来坐像は重要文化財。丈六の釈迦如来は国分寺本来の本尊で、現在も本尊としているのは淡路国分寺のみである。

国分尼寺
南あわじ市八木新庄の稲荷神社付近に存在が推定されているが、確信はないという。

おのころ神社
淡路一宮は淡路市の伊弉諾(いざなぎ)神社であるが、淡路国府近くにはおのころ神社という巨大な赤鳥居を持つ神社がある。国府との関係はないだろうが観光資源としてはいいかもしれない。近くには天の浮橋跡などがあるが神話を使って町おこしをしようという感があって面白い。

沼島
「ぬしま」と読む。私はこの島が「おのころ島」のモデルだと思っている。それはイザナギ、イザナミのご夫婦神が回った「天の御柱」があるからだ。今回もこの天の御柱、上立神岩を見に行った。昔の人はこの岩を見て天の御柱の物語を作ったのだろう。この島こそ「おのころ島」だと確信した。

旧国 国府巡り 終了

昨年6月から旧国(大宝律令によって制定された国々、明治の廃藩置県まで続いていた)の国府(県庁所在地)と国分寺、国分尼寺をめぐってきました。旧国は五畿七道、68か国になります。
四国遍路は全部歩きましたが、今回はヒコーキ、新幹線、高速バスなど文明の利器を使って回ったので1年半でめぐりました。全国と言いましたが当時は東北、北海道、沖縄には大和朝廷の意向は及ばなかったのでその場所は含まれません。
私に国府巡りをそそのかした賀曽利隆さんは3か月で全部回ってしまいましたが私とは交通手段と財力が違っています。私は我が家の財務省にお暇とお金を頂いて行き来したので時間がかかりました。
国府巡りはブログに投稿していましたが、その成果を一覧表にしました。興味があればちょっと覗いてみてください。下をクリックしてください。

旧国説明(賀曽利隆さんHPから勝手に借用)

古代日本の行政区画は「五畿七道」といわれるように大和、山城、河内、摂津、和泉の畿内の5国を中心に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7道から成っていた。現在では東海道や北陸道というと街道名として使われているが、もともとは行政区域名だった。古代日本は「道州制」を敷いていた。畿内・七道の下に全部で68ヵ国の国があった。それぞれの国はさらに郡に分けられ、郡の下に里があった。
 大宝元年(701年)に出された大宝律令で「五畿七道」の行政区画が定まったわけだが、それから1300年たった今でも68ヵ国の影響は色濃く残っている。
「日本一周」で何がおもしろいかというと、あちらこちらで日本の原点を見られることだ。それだから日本を県単位で見るのではなく、旧国単位で見ていくほうがよりおもしろいことになる。100年ほどの歴史しかない県と違って、旧国には1300年以上の歴史がある。
 日本の全都道府県名をいえる人は多くいると思うが、68ヵ国の旧国名を全部いえる人はそうはいないであろう。この「68ヵ国」は日本を見てまわる上での基本といってもいい。ぜひとも68ヵ国全部をおぼえよう。そうすると日本がよりおもしろくなってくるし、日本がよりおもしろく見えてくるのは間違いない。
五畿七道

国名      略称        都道府県名
畿内
山城(やましろ) 城州(じょうしゅう)京都(南部)
摂津(せっつ) 摂州(せっしゅう) 大阪(北西部)
兵庫(南東部)
河内(かわち) 河州(かしゅう) 大阪(東部)
和泉(いずみ) 泉州(せんしゅう) 大阪(南西部)
大和(やまと) 和州(わしゅう) 奈良
東山道
陸奥(むつ) 奥州(おうしゅう) 青森・岩手・宮城・福島
出羽(では) 羽州(うしゅう) 秋田・山形
下野(しもつけ) 野州(やしゅう) 栃木
上野(かうづけ) 上州(じょうしゅう) 群馬
信濃(しなの) 信州(しんしゅう) 長野
飛騨(ひだ) 飛州(ひしゅう) 岐阜(北部)
美濃(みの) 濃州(のうしゅう) 岐阜(南部)
近江(おうみ) 江州(ごうしゅう) 滋賀
東海道
常陸(ひたち) 常州(じょうしゅう) 茨城(中部・東部)
下総(しもふさ) 総州(そうしゅう) 千葉(北部)・茨城(西部)
上総(かずさ) 総州(そうしゅう) 千葉(中部)
安房(あわ) 房州(ぼうしゅう) 千葉(南部)
武蔵(むさし) 武州(ぶしゅう) 埼玉・東京・神奈川(東部)
相模(さがみ) 相州(そうしゅう) 神奈川(中部・西部)
甲斐(かい) 甲州(こうしゅう) 山梨
伊豆(いず) 豆州(ずしゅう) 静岡(伊豆半島)
駿河(するが) 駿州(すんしゅう) 静岡(中部)
遠江(とおとうみ) 遠州(えんしゅう) 静岡(西部)
三河(みかわ) 三州(さんしゅう) 愛知(東部)
尾張(おわり) 尾州(びしゅう) 愛知(西部)
伊勢(いせ) 勢州(せいしゅう) 三重(北部・中部)
志摩(しま) 志州(ししゅう) 三重(志摩半島)
伊賀(いが) 伊州(いしゅう) 三重(中西部)
北陸道
越後(えちご) 越州(えっしゅう) 新潟(佐渡島を除く)
佐渡(さど) 佐州(さしゅう) 新潟(佐渡島)
越中(えっちゅう) 越州(えっしゅう) 富山
加賀(かが) 加州(かしゅう) 石川(南部)
能登(のと) 能州(のうしゅう) 石川(北部)
越前(えちぜん) 越州(えっしゅう) 福井(北部)
若狭(わかさ) 若州(じゃくしゅう) 福井(南部)
山陰道
丹後(たんご) 丹州(たんしゅう) 京都(北部)
丹波(たんば) 丹州(たんしゅう) 京都(中部)・兵庫(中東部)
但馬(たじま) 但州(たんしゅう) 兵庫(北部)
因幡(いなば) 因州(いんしゅう) 鳥取(東部)
伯耆(ほうき) 伯州(はくしゅう) 鳥取(西部)
出雲(いずも) 雲州(うんしゅう) 島根(東部)
石見(いわみ) 石州(せきしゅう) 島根(西部)
隠岐(おき) 隠州(いんしゅう) 島根(隠岐)
山陽道
播磨(はりま) 播州(ばんしゅう) 兵庫(南西部)
美作(みまさか) 作州(さくしゅう) 岡山(北部)
備前(びぜん) 備州(びしゅう) 岡山(南東部)
備中(びっちゅう) 備州(びしゅう) 岡山(西部)
備後(びんご) 備州(びしゅう) 広島(東部)
安芸(あき) 芸州(げいしゅう) 広島(西部)
周防(すおう) 防州(ぼうしゅう) 山口(東部)
長門(ながと) 長州(ちょうしゅう) 山口(北西部)
南海道
紀伊(きい) 紀州(きしゅう) 和歌山・三重(南部)
淡路(あわじ) 淡州(たんしゅう) 兵庫(淡路島)
讃岐(さぬき) 讃州(さんしゅう) 香川
伊予(いよ) 予州(よしゅう) 愛媛
阿波(あわ) 阿州(あしゅう) 徳島
土佐(とさ) 土州(としゅう) 高知
西海道
筑前(ちくぜん) 筑州(ちくしゅう) 福岡(北西部)
筑後(ちくご) 筑州(ちくしゅう) 福岡(南部)
豊前(ぶぜん) 豊州(ほうしゅう) 福岡(東部)・大分(北部)
豊後(ぶんご) 豊州(ほうしゅう) 大分(中南部)
肥前(ひぜん) 肥州(ひしゅう) 佐賀・長崎
肥後(ひご) 肥州(ひしゅう) 熊本
日向(ひゅうが) 日州(にっしゅう) 宮崎
大隅(おおすみ) 隅州(ぐうしゅう) 鹿児島(東部・島嶼部)
薩摩(さつま) 薩州(さっしゅう) 鹿児島(西部)
対馬(つしま) 対州(たいしゅう) 長崎(対馬)
壱岐(いき) 壱州(いっしゅう) 長崎(壱岐)

石見国総社国分尼寺

今は最も小さい県の一つである島根県だが、昔は出雲、石見、隠岐の3国からなるなる国だった。一つの県に3つもの空港があるのその名残である。石見は今は山口県の長門国に接する国で、国府があった浜田市あたりが中心であった。

国府
国府は「こう」と読むことが多い。浜田駅の隣の駅は「下府」と書いて「しもこう」と読む。昔は下国府と書いた名残らしい。下府駅のすぐ近くに伊甘神社がありその周囲に国府があったとされるが発掘調査はなされておらず、確定的ではない。しかし地元では、国府跡の碑を立て、御所池を整備して「国府」あとが確定的である。

総社
伊甘(いかん)神社が総社とされている。国府碑(最近作ったもの)はこの神社の境内にある。式内社で昔はもっと大きな神社であったようだが、今は村の鎮守ほどの規模で、椋の木とイチョウの大木が目立っている。しかし社殿の作りは見ることはできないのだが神社には「印鑰大明神」の文書があるという。印鑰(いんにゃく)とは国府の倉庫の鍵と国司の印を納めた社のことであり、この社があったということは国府の総社であることの証拠になる。境内には清い水の湧きだす御所池がある。国司の館にはこのような池があったというがちょっと小ぶりである。

国分寺
下府から国道9号線を少し北に行くと国分の集落がありそこに金蔵寺がある。地元の人に「国分寺はどこですか?」と聞いてもわからないという。そのはずで金蔵寺の前に石碑と解説板があるだけである。この寺は元の国分寺の跡に立っていることがわかっている。道路を隔てたところに国分寺の瓦を焼いた窯跡があり史跡に指定されている。広大な国分寺と国分尼寺が造営されるにあたって専用の窯が作られたのであろう。

国分尼寺跡
国分寺から500mほど離れた台地の上に尼寺跡がありその一角が発掘整備されている。近年まで寺があったようだが今は石組のみ。石垣の寺あとに佇むとなんとなく気分が落ち着く。寺から小さな谷を隔てた高台に国分寺霹靂(かんたけ)神社がある。国分寺の鎮守だったのだろう。石段途中に珍しい焼き物の狛犬がいた。こんな狛犬は初めて見るものだ。なかなか面白い。

浜田から江津へ、石見二宮多鳩神社、日笠寺
いつもなら浜田駅から歩いただろうが、今回が68か国中67カ国目ということで奥さんが一緒だったのでバスに乗ることになった。奥様は合理的で交通手段があるなら乗れば効率がいいじゃん!という。私は昔の人は歩いて行き来したんだからその感覚を感じたい。しかし奥さんが資金提供者なので言うことを聞くしかない。

殺風景な史跡を見るだけではつまらないので石見神楽の神社を訪ねることにした。石見一宮は遠いので、二宮の多鳩神社を訪ねた。社殿は大社造だが、拝殿の前にさらに神楽殿(弊殿)がある。弊殿で石見神楽が奉納されるそうだ。なかなか素晴らしい神社で奥様は満足。

さらにその後は江津の日笠寺に泊めていただく。住職のYAMASAKIさんとは昔一緒に旅をした仲間である。驚いたことに本堂の中に立派な狛犬(獅子)は鎮座していた。永平寺にある一対の獅子と同じものだという。国府巡りと一緒に、狛犬探しの旅を続けているが寺にこんな立派な狛犬がいるとは知らなかった。最後になってこんな出会いがあるとは!、神様か仏様のご褒美かも!

出雲国府、総社、国分寺跡

古代の出雲地方では「国造」がこの地を治めていた。律令制が整い大和政権から全国に国司が派遣されたが出雲国造はそのまま継続した。朝廷の力が弱まった平安時代には国府、国司の制度は形骸して姿を消して行った。しかし出雲国造は出雲大社を拠点として北島家、千家が国造家として現在まで残っている。

出雲国府

さすが古代の王国だけあって、古い遺跡などよく調査されており、指導表なども整備されている。出雲国府跡は出雲市ではなく松江市の南の「意宇(おう)」という地区にあり、「八雲立つ風土記の丘」という博物館が作られており、国府跡だけでなく由緒ある神魂神社、八重垣神社、眞名井神社などは徒歩で回れる範囲にある。

出雲総社

国庁跡の一角に六所神社がある。この神社が出雲の総社であると国造家が碑を建てている。六所とは古代からの重要六社のことで揖屋神社、神魂神社、八重垣神社、熊野神社、眞名井神社、と六所神社で出雲大社は入っていない。出雲大社はもとは杵築大社という名前で、出雲と名乗ったのは明治4年からである。

出雲国分寺・国分尼寺

意宇(おう)の付近
「意宇」は不思議な呼び名だ。出雲風土記では八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が大山を杭に夜見が浜を綱にして朝鮮から土地を引き寄せて美保岬を作った時に「おう!」と言ったことからこの名前がついたという。この地は古代から豊かな地で、大和と対抗できる巨大国家だった。スサノオ神、大国主神など日本神話で重要な神の故郷である。

筑後国府・国分寺・高良神社

筑後川下流部は古くから開けた地域である。その中心にある高良神社は何やら意義深く不可思議な神社である。私は高良山山麓の水縄断層遺跡を見るためにこの地を訪れて以来気になる神社だった。今回筑後国府、総社遺跡を見に行ったが、国府のヘリが千本杉断層によって区切られていることをみて、こりゃ興味深いことだと改めて感じた。高良山、断層、筑後川が私の筑後国イメージである。
筑後国府
筑後国府は高良山の麓、筑後川の屈曲部の低湿地に作られていた。朝廷の権威が届かなくなった中世以降は完全に埋まったが、今から50年ほど前から発掘がなされその姿がおぼろげながら復元されている。国府の建物は4回移転していることがわかっている。3回目まではJR久大線の北側、千本杉断層の下側の低地にあったが第4期の国庁は台地の上の南筑高校の敷地に移ったことが判明している。説明版、石碑が建てられているのは第2期政庁の国司館跡である。下右写真は第2期政庁跡にある阿弥陀堂。

総社
JR久大線の久留米大学駅は千本杉断層の真上にある。駅の北側は急崖で、がけ下に池と神社がある。池の水は断層外から湧く清らかな水であった。ここに味水御井
(うましみずみい)神社がある。国府の役人らがこの水で曲水の宴を張った石組みが発見されたという。現在は朝妻神社となり、朝妻の清水が高良神社のみそぎの水として使われているという。

国分寺・国分尼寺
国分寺跡、国分尼寺跡は少し離れた陸上自衛隊の近くにある。国分寺という寺はなく、神社の境内に碑だけが立っている。尼寺跡はさらに寂しく民家の角に石碑が建つだけ。この前を2回行ったり来たりしたのに見つからなかったぐらい見つけにくい。

高良大社

周防国衙・国分寺・周防大仏

山口県は旧国の長門国、周防国からなっている。周防国は大内氏が支配した国で、中心だった山口は西の京として大いに繁栄した。しかし古代の周防国府が置かれたのは防府だった。他国の国府は10世紀には衰退していったがここは東大寺領となり長く継続した。国分寺は今も威容を誇っている。
周防国府(防府)
広い国府の跡がのこっている。国庁があった部分に国衙の石碑がある。国府は役所の区域のこと、国庁は役所のこと、国衙は役所の建物のことである。ここにある石碑は江戸時代に建てられたものだ。

多々良大仏
防府は東大寺領になったために長く保護されてきた。大仏も作られ、今もその姿を作られた当時とほぼ同じ多々良さんの麓で国府の北隅にのこされている。

周防国総社(佐波神社)
総社(惣社)は国司が赴任した際に、その国中の神社に参詣するのが習いであったが、それは容易なことではないので国府に諸神を集めて祀る惣社(総社)を建立する制度ができた。防府市惣社町にある。

周防国分寺
周防国分寺は昔の形式を残したまま現在に至っている。10世紀ころには朝廷の威力は無くなり、地域に密着しない官立の寺は衰退した。しかしここは東大寺の管轄になったために現在までその姿を残している。ただし規模は縮小差荒れており七重の塔ものこっていない。

法花寺(国分尼寺)
国分尼寺との表示はなかったが、奈良の国分尼寺の総本山である法華寺を名乗る寺が旧国にある。おそらく国分尼寺を意識してつけた名前であろう。この寺がいつできたか聞くことはできなかったが、私の中ではここが国分尼寺跡であると確信している。

防府天満宮

大宰府に左遷されることになっていた菅原道真は防府にとどまって朝廷からの許しの方を待っていた。しかしその使者は来なかった。寂しい思いをして九州の太宰府に流され、その地で亡くなった。菅原道真が亡くなった日に遥か西の空から五色の光が射し、酒垂山の空には瑞雲が棚引いた。国司をはじめ里人たちは道真公の魂が光となり雲となりこの地に帰ってこられたと悟り祠を建立して松崎の社とした。これがのちの防府天満宮で最初の天神様と言われている。大宰府、北野とならんで日本三大天神というそうだ。

長門国・国府・国分寺

もとは日本海側にあり穴門と呼ばれていた。しかしヤマト政権が安定してくると瀬戸内海側に中心部が移ったようだ。穴門は長門と呼ばれるようになり長府(長門国府)がおかれた。中世には毛利氏の城下町になったことで国府時代の遺跡は失われてしまった。
長門国府忌宮神社の一角にある図書館に国衙の説明書がある。今回訪れたがその説明版は見つけられなかった。ネットで見つけた説明版の記述を書いておく。
中国の律令制にならって全国五畿七道の68か国に国府をさだめた。従来の国造を廃してあらたに国司を派遣した。長門の国においては長府の地を国府と定めた。別の記事には最初の国司は三輪高市麻呂とあった。急に親しみがわいてきたが、この人は実は柿本人麻呂のことであるとの記述もあり、何が何だか分からなくなってきた。

総社
総社の跡は毛利邸の入り口にあり、石碑が立っている。現在も総社があるとのことで探して歩いたら、小さな社が見つかった。これが総社とは思えないのだが!

国分寺
長門国分寺は長府、宮の内町にあった。今は道路の片隅に国分寺跡の碑が建ち、その脇に礎石が一基残っている。長門国分寺は大内氏、毛利氏による庇護を受けていたが、明治維新後に衰退した。現在の国分寺は真言宗の寺院で、長府から赤間神社の近くに移転した。 木造不動明王立像と絹本著色十二曼荼羅図(国指定重文)は現在の国分寺に引き継がれている。国分寺跡の石碑のすぐ近くに覚苑寺がある。この中に和同開珎の鋳造所があった。長門の国には長登銅鉱山があり、日本では最大の鉱山だった。

国分尼寺
国分尼寺も建設されただろうが、その痕跡は残っていない。

長門一宮住吉神社
新下関駅から国道に沿って行くと長門一宮の住吉神社に出る。住吉神社から峠を越えていくと長府の街にでる。この道は住吉道と呼ばれていた。私はこの道を数回歩いたことがある。住吉神社の青銅製の狛犬に興味をひかれた。

筑前国・大宰府・国分寺

 7世紀の筑紫国にはヤマト政権の出先機関である大宰府がおかれていた。663年白村江の敗戦で、大宰府は防衛ラインの最前線になり「水城」がつくられたりした。もともとは西の都として諸外国との交流、祖国の防衛などの任に当たっていた。しかし菅原道真など都での政争に敗れ大宰府に左遷される貴族が何人もあり、反乱などが起こったため大宰府の役目は縮小された。律令制の施行とともに筑前、筑後の国に分割され、それぞれに国府がおかれ国司が派遣された。筑前国府はたぶん大宰府の広大な敷地にあっただろうが、発掘はされていない。

大宰府 国府?
西鉄線の二日町駅から都府楼駅の間に大宰府の敷地があったようだ。今も朱雀などの地名も残っている。大宰府という駅は天満宮の参道にある駅で大宰府跡からは少し離れている。

総社不明なので榎社
総社の存在自体がわからない。一宮は住吉神社だがここからは離れた博多区にある。近くにある太宰府天満宮は総社にはなりえない。大宰府の敷地の端に菅原道真が住んだという榎社があるが、もちろんこれも総社ではない。ということで総社は不詳だが榎社の写真を入れておく。

国分寺
都府楼駅から水城小学校のわきの国分寺通りを上がっていくと突き当りに八角灯篭がありその奥に国分寺がある。国分寺わきには国分寺跡の礎石がいくつもあり広い敷地も確認できる。さらに奥には博物館(文化ふれあい館)がある。博物館の庭には国分寺にあったはずの七重の塔の復元模型があった。なかなか立派でいい。

国分尼寺
尼寺跡の礎石は一個だけ。地区の施設に保管してあるそうだ。

太宰府天満宮
左遷されて大宰府に来た菅原道真だが、怨霊になって都人に危害を加えるようになった。しかし今見ても大宰府は立派な都だったように思う。菅原道真はそれなりにこの地を楽しんでいたのではないかと私は思うが、怨霊になってもらわないと困る人たちがいてでっち上げた話ではなかろうか。それはともかく、今年は三大天満宮、京都の北野、防府、大宰府と廻った。今は怨霊などどこにも感じないいい神社だ。コロナでまだ海外旅行は解禁になっていないのだが太宰府天満宮は浅草以上の賑わいだった。しかし聞こえてくる言葉は韓国語ばかり。まあどこの国の人でも賑わうのはいいことなのだろう。

観世音寺
空海は遣唐使として長安の都に行くが20年滞在予定を2年で切り上げ戻ってくる。見つかると死罪なのでここ観世音寺に膨大な経典とともに隠れ住んだ。この経典の価値を様々な方法で表し嵯峨天皇のお許しを得て京都に戻ることができた。空海の生涯においてこの観世音寺は重要な場所である。空海ファンとしては何としても見ておかなければならない寺である。