和泉(いずみ)国は泉州(せんしゅう)なのだ!

 子どもの頃、こんな番組を毎週見ていた。「せんしゅうしのだの生まれ」、と言われても全く理解できなかった。あれから60年経ってやっと大阪南部の和泉国に信太という場所があることがわかった。そこに和泉国の国府、総社があることも知った。

和泉国府
和泉国は河内国から分かれた国で、国府は現在の和泉府中駅の近くに置かれていたようだ。しかし発掘はされておらず、推定であるが児童公園に国府跡の石碑が建てられている。

実は隣の信太には旧府神社というのがある。私はここに国府があったのではないかなどと思っている(願望)この神社は一時期は信太森葛葉稲荷神社に合祀されていた。信太の森神社は白狐が葛の葉という女性になって陰陽師の安倍晴明を生んだとされた場所である。もちろん清明の霊力を権威づけるのに作られた話である。しかし信太という場所はなかなか面白い。葛葉稲荷神社と旧府(ふるふ)神社の写真を入れておきます。

和泉国総社
国府のすぐ近くに河内国総社がある。泉井上神社で、ここに泉がわいたことから和泉国となった由緒ある神社である。立派な本殿、五社総社殿があるが現在は建て替え中である。古い社殿の写真が飾られていたのでコピー写真を入れておきます。

和泉国一宮
和泉国一宮は大鳥神社で、少し離れて堺市のJR鳳駅の近くにある。だんじりで有名な神社である。下のURLをクリックすると私の一宮巡りのページに行きます。
http://kazmiwa.sakura.ne.jp/ichinomiya/006ohtori-sakai/ohtori.htm

和泉国 国分寺
和泉国が河内国から分離独立したのは757年で、国分寺建立の詔が出た741年よりも後である。そこで前からあった安楽寺を昇格させて国分寺にしたそうだ。国分尼寺は最初から作られなかったようだ。
和泉府中駅からバスがあるが50分ほどかかる。自転車を借りていたので往復しようと思ったが、国分峠を越えて河内長野に出る方が合理的なのでバスに乗った。昔なら10キロ走っても汗もかかなかったのだが今は5キロも歩けない。ちょっと悔しいがまあ年相応にやらなけりゃだめだろう。

和泉国分寺は国府、総社からかなり離れたところにある。なぜだろうと考えながらバスに乗っていたが、峠を越えたらすぐに河内長野市にでた。和泉国は河内国から分離されたが、国分寺は河内国に近い関係にあったのだろう。それで勝手に納得した。峠越えの賀曽利さんは当然ここを越えていったのだろう。

古墳の中に河内国府、惣社がある


大阪の藤井寺市は古墳の中に家々が間借りしているという感じの街である。奈良盆地から流れ出す唯一の川が大和川である。周囲の山を削って流れ出した扇状地は難波の港ととの間にあり、石器時代から多くの人々が住んでいた痕跡がいくつもある。実はこの題字の国府遺跡の「国府(こう)」はただの地名で国府の意味ではない。

河内国府
土師ノ里駅近くに允恭天皇陵古墳がある。その遥拝所の近くに国府(こう)という集落がある。ここには石器時代の遺跡があるり、国府遺跡とよばれ発掘は行われた。国府は地名であり「国府、国衙」遺構は見つかっていない。しかしここが国府であったと信じられているようだ。

河内惣社・志貴縣主神社
国府(こう)の隣に惣社という集落がある。ここには志貴縣主という神社があり「河内惣社」との記述がある。祭神は神武天皇の長男である神八井耳命であり、楠木正成の祈願所であり大いに繁栄していたが、正成が没落すると同時に衰えたようだ。各地の総社に比べると規模は小さいが隆盛の時代はあったのだろう。

河内国分寺
河内の国分寺は惣社からは3キロほど離れている。この距離が近いのか遠いのかは不明だが、土師ノ里で借りた自転車の私はかなり遠いと感じた。国分寺跡には毘沙門堂などがあるが河内国分寺の跡を継いでいるのかどうか?聞くことはできなかった。大和川からはかなり上がった高台にあり、景色は良い。川の向かい側には孝謙天皇の迎賓館があったという。

国分尼寺
国分寺の近くにあったとされている。柏原市東条町尼寺という地名があると聞いたが、どこかわからず、時間切れで引き上げた。実はこの後奈良で個展をやっている緒方さんのもとに行くことになっていたからだ。

近江国衙は神領にある


近江は「淡海」と書いたこともあるらしい。淡海すなわち琵琶湖から流れ出る唯一の瀬田川にかかる唐橋の近くに近江一宮の建部神社がある。その背後の丘の上にかなり広い芝原が近江国府跡である。国府という地名が残っている場合が多いがこの地は「神領」という場所にある。建部神社は古くからあるのでこの地域を神の領域と考えてつけられた名前なのだろうか。

国府(国衙)

近江には天皇の宮が2か所作られている。天智天皇の近江京、聖武天皇の紫香楽宮である。この天皇宮と国府の関係はよくわからない。しかし聖武天皇が国分寺を作る詔を発した741年ころには神領の地に国衙(国庁の建物)があったようだ。私は建部神社を通って坂を上り丘の上に上がった。坂の上には公営住宅が何棟も建てられているがその一角が芝原になっている。そこに木製の外構で作られた基壇が復元されている。

建物や築地塀の一部も復元されている。国衙(国庁の建物)は藤原京、平城京とよく似た配置になっており、かなり大規模なものだったようだ。近江国府は国府の典型と考えられており、各地で復元されている遺構遺跡は近江国府の復元に倣っているとのことだ。

総社?近江国一宮建部神社
総社は不明とされており候補になる神社も知られていない。私は国衙のすぐ下にある建部神社が総社であったらいいのに!と思っている。近江一宮で古い時代から信仰を集めていた神社である。神領と地名は建部神社にまつわるものである。国を治める国司からも信頼が厚かったのではないかと思うのだが・・・みな願望である。

国分寺
国分寺ももとは紫香楽にあったらしいが、国府がこの地にあったころに近くに移ってきたようだ。「近くに」と言ったが、衰えた私の足では国府(国衙)から1時間半かかった。直線では3キロほどだがバス電車はみな石山駅へ行くので歩く外はない。(タクシーがあるじゃないか…奥さんと一緒の時以外はタクシーは使わない)のでかなり疲れた。
近江国分寺は新幹線の線路近くの高台にある晴嵐小学校の敷地内に石碑が一基あるだけ。ここには国昌寺という国分寺があったらしい。しかしこの場所は「国分」ではなく北小路という地名である。新幹線を越えたところに「国分」の地名があったので行ってみた。そこには国分大塚古墳があるだけで国分寺的なものはなかった。

国分尼寺
残念ながら国分尼寺は見つからない。あきらめて帰京。

今回のおまけ!
北小路の御霊神社にいた空飛ぶ狛犬、なかなかこういう狛犬は見ない。

我が奥さんの舞囃子「田村」

我が奥さんの旧姓は田村。すでに現姓の「三輪」は舞ったことがあるので、今回は「田村」を水道橋の宝生能楽堂で舞った。奥さんの母の田村美知代さんは15年前の今日亡くなった。その追悼でもあった。

77歳にしてはなかなかなで、キレもよく舞うことができたようで本人も満足していた。写真班の私はモタモタして最初の場面をうまく撮影することができなかった。あまりにも慣れ過ぎていたことが失敗原因。奥さんは「これが最後!」と言っていたが、うまく撮影できなかったのでもう一度やってもらうことにした。

次も撮影失敗すれば奥さんはさらに続けることになるかも。いま辞めてしまったら、老化するだけだからもう少しやった方がいいかも。ビデオを見るとなかなかいい動きをしているのでまだできるだろう。私の撮影の腕が衰えていないといいのだが。

 

冬のお花見 蝋梅 

オミクロンに狼狽しながら過ごしている。しかし3度目のワクチンも先日すませたので、人のいないところでお花見するぐらいは許されるだろうと勝手に判断し、立川の昭和記念公園に行ってきた。ネットで見たら公園の一番奥の池のそばに咲いているそうだ。この公園には桜の季節に何回も来たことがあるが、梅の時期には初めてだ。

お弁当を買って立川駅から歩いた。昔の飛行場の跡だから広い広い。その広い公園には数十人の人しかいないのでさびしい。午前中に足の魚の目を液体窒素で焼く治療をしたばかりだったので足の裏が痛い。手の親指のイボも同じ治療をしたので缶コーヒーのキャップが回せない。気分も体調も不調で疲れが一段と増した。
しかし奥のほうで紅梅、白梅、などを見ているうちに気分は回復、足もびっこを引きながら歩けるようになった。蝋梅は普通の梅とはちょっと違う。本当の梅のなのかな?   ロウバイ科ってのがあるそうだ。梅はバラ科。

それぞれの咲き方を見てみよう。

梅だけでなく水仙も咲いていた。昨年の暮れは暖冬で水仙は1月中に満開になったそうだ。毎年宮本先生の水仙忌に水仙を飾るのだが今年はオミクロンで中止。もしあったとしても水仙を飾ることはできなかったかもしれない。ほんのちょっと咲いていた水仙の写真と節分草。セツブンソウも節分の頃花開くのだが、今年はもう終わりそうだった。

のんびり日向ぼっこしている鴨だが、温暖化が進むと北へ帰る日も早くなるのかな?

美濃国府は関ヶ原の近くにある


畿内から東国に抜ける要衝、不破の関の東、関が原にある美濃国は政権にとっては重要な場所で国司は重要人物が派遣された。国府の場所は「府中」の名前が残る安立寺付近にあったと考えられていた。しかし近年の発掘調査によって安立寺より少し南側の南宮御旅神社付近が国指定史跡(2006年)となった。民有地がほとんどなので、美濃国分寺のような整備はなされていない。

国府
東海道線の垂井駅から北へ行くと相川に出る。上流に歩くと御幸橋がありその橋を渡って北に行くと府中郵便局の手前左手に白髭神社・南宮御旅神社が見える。中に入った左手に国府跡が広がっている。周囲にはいくつもの古墳があり古くから大きな集落があったことがわかる。

総社
国府跡に隣接する神社は南宮御旅神社と白髭神社が並立している。南宮御旅神社は南雲大社の神輿が渡御する重要な神社であり元の南宮神社ではないかとされている。この南宮御旅神社が美濃国総社とされている。

南宮神社
国府の中心道路(朱雀大路)は御幸橋に通じさらに南下すると南宮神社に行きつく。その距離は1.5キロ橋を渡り線路を越え新幹線をくぐるが20分ほどでつく。昔の人にとっては目と鼻の先。国府と南宮神社(美濃一宮)との関係は深かったのだろう。国府と一宮がこんなに近しい関係は珍しい。ついでに言うと新幹線からこんな近い一宮はほとんどない。新幹線が速すぎて赤鳥居の写真をとるのは難しい。

美濃国分寺
現在も美濃国分寺は旧国分寺跡の山側に存在している。国分寺跡はきれいに整備されており歴史民俗博物館も作られている。近隣には巨大な昼飯(ひるい)古墳や小さな名もない古墳がいくつもある。多くの人たちの住む集落があったことがわかる。

美濃国分尼寺
国分寺と国分尼寺がセットで作られたことは分かっているが国分尼寺が確かめられてい居るところは少ない。現在願正寺境内に国分尼寺の碑が立っているがこの寺と尼寺の関係は分かっていない。背後には蓮如の御廟がある。

おまけ
今回は美濃赤坂駅から垂井駅まで15キロほど歩いた。なぜなら美濃赤坂駅に行く東海道枝線に乗りたかったからだ。東海道線だが大垣からわずか二駅の枝線だ。鉄チャンにとっては一度は乗りたい路線だ。さらに大垣から関ヶ原にかけて東海道本線が日本に分かれている。国分寺の裏を通っているのは下り列車専用線(上り勾配だが)。荒尾駅手前で四つに分かれる線路の写真を撮ることができて満足だった。

伊勢国府は能褒野の近く!


伊勢国の主要部分は鈴鹿市にあった。国府町がその場所だと思ったが、能褒野神社に近い広瀬町の長者屋敷遺跡が最初の国府であったそうだ。この場所は国指定史跡になっている。広瀬町の国府はそのあと「国府町」に移ったらしい。国府町には総社の三宅神社がある。お互いの国府の場所は直線で5キロほどある。今の道は川に阻まれ曲がりくねっているので歩くと2時間はかかる。前回井田川駅に来た時バスもレンタ自転車もないことがわかっていたので、今回は自転車を輪行した。これならちょっと離れた伊勢国分寺までもいくことができるだろう。

伊勢国府(長者屋敷遺跡)

能褒野神社
国府とは直接の関係はないが鈴鹿地域は「ヤマトタケル」の終焉の地として多くの伝説が残る。たぶん複数いたヤマトタケルが日本各地の敵対勢力を征服して大和政権を作った。大和政権によって律令国(旧国)が作られた。少しだけど関係はあるので国府巡りでも取り上げた。

国府(国府町)・総社

加佐登神社・白鳥塚

伊勢国分寺:国分尼寺伊勢は大国、さすがに立派な国分寺があった。子どもたちが国分寺跡で遊んでいた。史跡あとにある歴史博物館では「国府展」開催中。同年代のボランティアの方が「自転車、いいですね、私もやりたいんですが・・・」国分寺の話にはならなかった。

杖衝坂・ヤマトタケルここで三重に足が折れた
国分寺から国道1号線を行くと分岐があり自転車ではとても降れないような杖衝坂の急坂にでる。坂の下には四日市の街が見える。ヤマトタケルは伊吹山の神(イノシシ)に敗れて逃げる途中この坂にでた。足が三重に折れて坂が上れなかった。坂上から加佐登に行き果て、白鳥塚に葬られたが、白鳥に姿を変え大和に飛び去った。その時に「大和は国のまほろば・・・」と歌った。国府巡りとは直接関係ないが、国府巡りには欠かせない脇役だ。実は前回九州大隅国国府でも隼人塚の時にヤマトタケルは登場している。

薩摩国府国分寺は薩摩川内市に!


薩摩一宮新田神社と薩摩国分寺は島津氏と縁が深い。新田神社は延喜式内社ではないが、もう一つの薩摩一宮牧聞神社よりも優遇された。全国の国分寺も鎌倉時代には衰退するがここでは長く続いていたのは島津氏の威力である。

薩摩国府
資料館でみると国府の位置が示されていたが、発掘調査は行われていない。この国府に大伴家持が国司として赴任していた。薩摩川内駅の前に像が立っていた。大伴家持は多賀城、越中、因幡でも見かけた。何か所で国司をしていたのだろう?

大伴家持は万葉集を編纂した歌人だが政治家としても大きな力を持っていた。しかしなんとかの乱に関連したとして中央から左遷され薩摩の守になって赴任した。その後復活して最後は多賀城の陸奥守となり、陸奥の地で亡くなった。

薩摩の総社
薩摩総社は新田神社の大鳥居のそぐそばにある九樓(楼)守公神社だとされている。しかしちょっと規模が小さすぎる。新田神社の末社ということだが、薩摩の総社は新田神社とする方が合理的であると思うのだが? この神社の祭神は九樓社は甕速日(みかはやひ)神、守公社は「ひの」速日(ひのはやみ)神ということになっている。しかし他の資料では饒速日(にぎはやひ)神となっている。饒速日神は大阪の石切劔箭命神社に祭られている。神武天皇を大和へ招いた神である

薩摩国分寺跡
大隅国分寺とは違ってずいぶんきれいに整備されている。国分寺跡の下に歴史博物館があり、七重の塔の図が飾られている。国分寺跡の一角に大隅国府近くの隼人塚で見たような3つの層塔があった。こちらの方が規模は小さいが似た構造である。ほんとうは何なのだろうか。


国分寺跡の崖下に薩摩川内市の歴史資料館がある。階段脇に七重の塔の写真があった。賀曽利さんが早速その写真を送ってくれた。ありがとう!

薩摩一宮 新田神社 もしかすると薩摩の総社?

薩摩一宮は開聞岳の下の牧開神社とここ薩摩川内市の新田神社の二か所である。新田神社は可愛(えの)山の上にある。ここの子を抱いている狛犬がよかった。

神社の奥には天孫ニニギノミコトの可愛山陵(御陵)がある。天孫は高千穂に降臨し、コノハナサクヤ姫と結婚し、ここ可愛山に葬られたということになっている。

大隅国府 花は霧島、たばこは国分


鹿児島県には国府が2か所ある。薩摩と大隅の国が今の鹿児島県になった。大隅の国府は霧島市の国分駅の北側にある総社祓戸神社の周辺にあった。町の名前は国分府中町である。国分駅の南東側には大隅国分寺跡があり、国分中央町である。国府という地名はない。

大隅国府

祓戸神社は総社と称しており、上の図のような位置に重要な寺社がおかれていたとしている。戌亥(北東)には鹿児島神宮の弥勒寺、丑寅(北西)には日枝山王神社の台明寺、辰巳(南東)には国分寺がある。未申(南西)には隼人塚がある。この位置関係から南西の隼人塚の場所には国分尼寺があったのではないかとの説が出てくる。国分尼寺はまだ見つかっていない。 下は祓戸神社!

国分寺

駅の南に国分寺の跡がある。もっと広かったはずだが、今は石造りの五重塔が一基置かれているだけの場所だ。国分の地名は残っているが、国分寺も国分尼寺も国府も跡はよくわかっていない。桜島の火山灰に覆われたのか、島津藩の政策だったのか、大隅国府、国分寺の解明は難しい。

国分尼寺(隼人塚)

最初に載せた国府を中心とする位置関係から隼人塚の場所が国分尼寺であるという説があるそうだ。私はそうであってほしいと思うが信頼性はかなり低い。
隼人というのはこの地に住んだ海洋系の部族で、熊襲と同じように大和朝廷にはなかなか服従しなかったが、ヤマトタケルによって征服された。

隼人塚は昔は熊襲塚と呼ばれたそうで、大和朝廷(ヤマトタケル)が多くの熊襲・隼人を残忍に服従させた鎮魂のために作ったものらしい。海幸彦、山幸彦の話で語られるように、隼人は海幸彦の子孫とされている。

山幸彦の子孫は神武天皇でのちに大和朝廷を作って日本全国を統一する。その過程で多くの征服の話が残っている。

大隅一之宮 鹿児島神宮
祭神は山幸彦である。竜宮城のトヨタマヒメと結婚した山幸彦は兄弟の海幸彦を溺れさせて滅ぼす。トヨタマヒメはお産のためにやってきたとき山幸彦はまだ産屋の準備ををしていなかった。なので生まれてきた子は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と呼ばれる。このお方が神武天皇の父である。日南海岸にある鵜戸神宮は鵜葺草葺不合命を祭っている。大隅国府一帯は天孫族と海洋隼人族の争奪の場所だったのだ。

京セラホテル
国府巡りの資金を出してくれる我が家の奥さんの機嫌を損ねてはいけないので今回は超高級ホテルに泊まった。昔上野原縄文遺跡を見に来た時、このホテルの中に博物館があり出土品などが治められている知り恐る恐る見学した。
「こんな立派なホテル、どんな人が泊るんだろうね」
と話したことがある。今回コロナのおかげ?で我らが泊れる値段になっていた。奥さんは大満足、これでしばらくは国府巡りを続けられそうだ。

豊後国府は印鑰神社の付近だった

大分から久大本線で一つ目の駅が「古国府」(ふるごう)である。わざわざ古い国府とされているので新しい国府もどこかにあったはずだろう。駅舎は写真のように段丘崖の真下にある。古国府は段丘の下の川に近い場所だったので、のちに段丘の上に移ったのではなかろうか。その場所は岩屋石仏、元町石仏の周辺だとの意見もあるそうだ。現地を見ると確かにそう感じる。

豊後国府 総社
大国社という小さな神社が総社であったという。印鑰(いんにゃく)さんともいわれる神社である。印は国司の印、鑰は税を納める蔵の鍵である。これらを納めた神社が印鑰社で、国府のなかにあった。大国社が印鑰神社であることはこの付近に国府があったことを示している。

豊後国分寺
豊後国分寺は大分川から見上げるような河岸段丘の上にある。豊後国分駅は久大線の古国府駅の2つ先にある。駅脇に大分市歴史資料館(歴史博物館は宇佐市にある)があり、その周辺が豊後国分寺跡である。その一角に現在の国分寺もある。国分尼寺もこの辺りにあったらしいが発掘はされていない。豊後国分寺には最大の七重の塔があった。その模型が歴史館にあると聞いていたが、月曜日で休館だった。館のHPにあった写真を借用しました。


早速賀曽利さんから写真が届きました。そのうちの一枚を追加します。上の写真は資料館のHPの写真なので、しばらくは使わせてもらいます。

豊前国府はみやこ町にあった


豊前国は今の大分県の一部と福岡県の一部である。国府は京都郡みやこ町にあった。ここには宇佐八幡から大宰府に到る道があり、古代の要衝であった。みやこ町は新しい名前であるが京都(みやこ)郡は古代の文書に出てくる名前で、古代から都との交流が深かったことが知れる。

国府

地図・交通

豊前国総社

惣社は八幡宮で、国府跡公園の隣にある。今は田舎の鎮守という感じ。狛犬がかわいらしい。

豊前国分寺

三重塔をもつ立派な国分寺がある。古代の国分寺は戦火により消滅したが小倉藩の支援を受け徐々に復興し、明治期に三重塔が完成し寺の再建は果たされた。境内には巨大な弘法大師像があった。唐から密かに戻った弘法大師・空海は大宰府に身をひそめるがその前にこの寺に隠れていたらしい?

豊前国分尼寺跡
歩き疲れて国分尼寺まで到達できなかった。なので写真はみやこ町の文化財マップから借用。いずれ入れかえます。・・・すぐに賀曽利さんから写真が送られてきました。入れ替えました。

北九州空港から朽網(くさみ)へ出て、列車で行橋から新豊津に行った。川沿いの駅には何もなかった。歩くのはなかなかきつそうだがほかに手段はない。坂を上っていくと古い感じの良い街並みがあった。豊津は豊の国の川湊だったのだろう。豊前国は九州の島だが瀬戸内海に面しており、都との交流は頻繁だったのだろう。国府跡と国分寺跡の間には豊前一宮の宇佐八幡から大宰府に向かう道路が通っていた。交通の便は悪いが、見どころが多い豊前国府だった。2021年10月24日訪問

日向国府は西都にあった!


日向の国は今の宮崎県付近である。神武天皇を祭る宮崎神宮が宮崎市の中心と思われがちだが古代の中心は西都市にあったようだ。西都市の高台の上には日本最大級の西都原古墳群がある。この古墳群は大和朝廷の支配の後に作られたもの。ということは大和からの逆輸入ということである。

日向国府
西都市のランドマークである都萬(つま)神社脇の交差点に「お舟塚」がある。ニニギ命(天孫)が高天原から降臨した際に乗ってきた船があった。その塚から少し稚児が池の方に登ると広い敷地がある。発掘調査が進み国府の構成がわかるようになっている。現在はまだ整備が進んでいないのでただの原っぱに見える。

都萬神社
西都の街の北方に「妻」という地名がある。都萬(つま)神社からでた名前である。天孫ニニギ命の妻となったコノハナサクヤ姫がこの神社の祭神である。ちなみに天孫ニニギ命は霧島神社の祭神になっている。
日向二宮で日向国の総社ともいわれていた。格式ある延喜式内社であるが「総社」の表記はどこにもない。日向国府にこの神社は欠かせない存在だったようだ。

総社 三宅神社
総社を名乗っているのはこちらの三宅神社である。ヤクルト2軍のキャンプ地であるグランド脇にある小さな神社である。台地の上にあるので町を見下ろす大変いい立地である。

日向国分寺
国分寺跡の位置もわかっており報告書も出されている。のちの世になって国分寺が荒れたのを見かねて「木喰上人」が木像の五智如来を作った。現在は4体しかないが1体は九州博物館に展示中だとか。

日向国分尼寺
国分尼寺跡は県立妻高校の構内にあり、発掘も進んでいる。今コロナ禍で構内に入れなかったので石碑、説明の写真を撮れなかった。賀曽利さん持ってたら借用させてください。写真は学校前と急坂「尼寺坂」のみ。

印鑰神社
印は国司の印璽、鑰(にゃく、やく)は税を納めた建物の鍵である。大事な印と鍵を象徴する印鑰神社は重要な役所だった。信濃国では印鑰神社を総社としていた。

博物館には印璽があった。これま国司の印ではなく郡司の印であるが、実に大事なものであった。なので神社に納められたのだろう。

日向国は国府、総社2社、国分寺、国分尼寺、印鑰神社の跡が全部残っている稀有な例だろう。さらに台上には1000基ほどの古墳があり、その中には陵墓参考地もある。

一体どうなっているのだというほど楽しい場所だった。おまけに古墳写真を入れておみます。

鬼の窟古墳!

信濃国分寺、松本惣社を追加

信濃国は昔「科野」とかいた。今の長野県であるがこの国(県)には核になる場所がいくつもある。信州大学は本部が松本にあり長野、上田、伊那の各地域にキャンパスは分散している。さらに諏訪には信濃一宮の諏訪神社がある。中心がどこだかわからない。「信濃の国」の歌でまとめなければならない国、地域なのだろう。

律令国の頃、科野国府は上田にあったらしい。その後松本の惣社(伊和神社)あたりに移った。現在上田には総社の科野大神宮がありその近くに国分寺、国分尼寺跡が発掘調査されている。松本の総社近くには国分寺はないので、私は信濃国府は上田でいいかな、と思っている。しかし賀曽利さんからは「松本ですよ!」と言って写真を送ってくれるだろうと期待して、今回は松本行はやめた。

国府 総社

上田駅に近い段丘崖の上の高台に総社・科野(しなの)大神宮がある。2021年7月18日、とても暑い日だったので坂を上るのに大汗をかいた。大宮社であるが境内はそれほど大きなものではない。

国府の発掘がなされていないのでもともとの規模はわからない。日本の神社は鳥居から拝殿まで直っすぐではなく、ちょっと傾いているのが普通だ。鳥居前から写真を撮ると拝殿がちょっと首をかしげておりカワイイ。境内にはシナノの木ではなくケヤキの巨木がある。

松本にある惣社 伊和神社(ダミー写真 賀曽利さんお願い!)

早速賀曽利さんから松本の国府町交差点と総社伊和神社の写真を送ってもらいました。お願いすればどの場所でも写真を送ってくれる! すごい。感謝!ダミー写真と入れ替えました。

松本の国府(こくぶ)、惣社(そうざ)
機会があって松本に行った。賀曽利さんに教わった松本の国府と総社に行ってみた。賀曽利さんが松本駅前の国府町については首をかしげていたが、その通りで昭和になってからつけた名前だと書いてあった。地名だけから国府を推定するのは気をつけなければいけない。

惣社
駅から美ヶ原へ行く道の途中に「惣社」という地名がある。「そうざ」と読むそうだ。総社は国府の中にあることが多い。上田から移った第2次信濃国府はこの近くにあったようだが未発掘。確定はされていない。この惣社は伊和神社であるが、その謂れが書いてあった。美作一宮も「伊和神社」だが同じいわれがあるのだろうか?
もとは印鑰(いんやく)神社であった。印は国司の持つ印璽、鑰は蔵のカギだという。その印→伊 になり 鑰を間違えて輪と記して「伊輪神社」となりさらに「伊和神社」となったと説明されているけど、あまり根拠はなさそう。

ということで、信濃国府の追加です。ところで「印鑰」って難しい字だし読みもいろいろあるようです。珍しい名字としても知られている。

国分寺

信濃国分寺という駅がある。線路をまたいで旧国分寺跡が発掘調査されている。道路の反対側の高台に現国分寺がある。なかなか由緒ありそうな寺で、三重塔もある。裏手には蓮池があってちょうど開花時期で見物客があふれていた。

国分寺跡、国分尼寺跡
暑いので上田駅から昔の信越線で一駅行った。電車の窓から国分寺遺構が見える。遺構は線路をまたいで広がっている。現在の国分寺側に国分僧寺があり地下道で越えた千曲川側に国分尼寺があった。両方の寺がきちんと発掘されている場所は少ない。ここは偉い。

国分寺跡

 

国分寺歴史資料館、まだ朝早かったので空いてなかった。

国分尼寺跡

資料館前にバス停があったが日曜日なので本数は少ない。上田駅に向かって北国街道を歩いた。駅までは3キロもあり暑い暑い! まもなくオリンピックが始まる。こんなに暑くて大丈夫なのか。コロナも感染者が増えてきた。こっちも大丈夫なの?上田駅前で唐風の狛犬が出迎えてくれたが、なんで唐風か?ちょっと違和感あり。

 

備中国府は総社市にあった


総社町や総社という地名は各所にあるが「総社市」は岡山県のここだけである。近くには作山古墳、造山古墳など日本有数の大きさをもつ前方後円墳がある。古代の吉備国の頃から栄えていた場所なのだろう。
国府の場所の発掘はされていないが、東総社駅近くの「国府」という場所付近が想定され、国府跡の碑がたてられている。

国府

総社宮
備中一宮の奥に温羅(うら)の釜殿にむかう長い回廊がある。この総社の回廊は吉備津神社とは違ってまっすぐに伸びて拝殿につながっているが、造りはほぼ同じ。印象的な感じである。境内には多くの神さまが集まっている。神楽面は種々の神さまのお顔が飾られている。神さま好きの人には嬉しいだろ。

国分寺 国分寺跡

旅のパンフレットには吉備の国分寺としてよく出てくる。広い田んぼの中の台地の上に国分寺の五重塔が眺められる。いつ行っても大勢のカメラマンで賑わっている。私の知っている国分寺の五重塔としては一番立派である。古代国分寺は現国分寺の敷地続きに広がる田んぼの中にある。発掘資料は資料館で見ることができる。

国分尼寺跡

国分寺の前を自転車専用道路がとおっている。古代吉備の主要な古墳、寺社を見て回られるようになっている。2008年には私も自転車で回り、国分寺隣のこうもり穴古墳を通って国分尼寺跡に行った。今回は車だったのでこうもり穴をパスして尼寺跡にいく。尼寺跡は前よりも整備されていた。

造山古墳
自転車道路沿いにある造山古墳。日本第4位の巨大な前方後円墳。大和のものと違い、宮内庁の管理ではないので誰でも登れるし、副葬品は全部盗掘されている。2008年

吉備の一宮 (一宮巡りのページを参照してください)

備前一宮 吉備津彦神社

備中一宮 吉備津神社

備後一宮 吉備津神社

 

備後国 JR府中駅がある

府中 国府のあった場所

府中市は広島と東京にの2か所にある。同じ名前は使わないのが原則だが、1954年に同時に成立してしまったので例外的に現在に至っている。さらに広島県には府中市と府中町がある。いずれも古代国府があった場所だ。現在の広島県は安芸の国、備後の国が合わさってできたので2か所の府中が存在するのだ。広島県の府中市は福山からJR福塩線で行く。東京の府中市にJR府中駅は存在しない。
国府
国府は府中にあったと考えられているがまだ確定した場所は特定されていない。候補になる場所、金龍寺地区とツジ地区の2か所を歩いてみた。いずれもJR府中駅の北側500mほどの場所なので、惣社と合わせて歩いてまわることができる。

總社(総社)小野神社
ツジ地区の背後の丘の上にある小野神社が備後国総社とされている。登るのが大変で、急傾斜の石段の上に拝殿社殿がある。府中の町を見渡すのには絶好の場所である。

備後国分寺
神辺駅から井原鉄道で御領という駅から歩くことができる。今回は地元の友人に新市駅から車で送ってもらった。感謝!国分寺跡には立派な国分寺があり、法灯を引き継いでいる。国分尼寺は見つからなかった!

備後一宮 吉備津神社(リンクあり)
備後の国はもとは吉備国で備前、備中、備後に分かれた。それぞれの国に吉備津彦を祀った吉備津神社が置かれている。青いところクリックしてください

備後一宮 スサノオ神社(クリックしてください)
備後の国にはもう一つ一宮がある。スサノオ神社がそれである。新装なった朱色の吉備津神社と比べるとだいぶ地味に見えるが、吉備津神社より古い歴史があるようだ。スサノオは出雲の神さまである。

府中の先は
JR府中までは電化されているが、その先は非電化区間である。上下(じょうげ)という駅は中国山地の分水嶺にある。上下駅は峠にある。ここから先は江の川水系に入り三次を通って島根県の江津に行く。以前は江津に行く三江線の鉄道があったが廃止になった。福山、府中を通って鉄道で江津までは行くことができなくなくなった。
古代はこの水系を通って出雲と吉備の交流があったのだろう。