伊勢国府は能褒野の近く!


伊勢国の主要部分は鈴鹿市にあった。国府町がその場所だと思ったが、能褒野神社に近い広瀬町の長者屋敷遺跡が最初の国府であったそうだ。この場所は国指定史跡になっている。広瀬町の国府はそのあと「国府町」に移ったらしい。国府町には総社の三宅神社がある。お互いの国府の場所は直線で5キロほどある。今の道は川に阻まれ曲がりくねっているので歩くと2時間はかかる。前回井田川駅に来た時バスもレンタ自転車もないことがわかっていたので、今回は自転車を輪行した。これならちょっと離れた伊勢国分寺までもいくことができるだろう。

伊勢国府(長者屋敷遺跡)

能褒野神社
国府とは直接の関係はないが鈴鹿地域は「ヤマトタケル」の終焉の地として多くの伝説が残る。たぶん複数いたヤマトタケルが日本各地の敵対勢力を征服して大和政権を作った。大和政権によって律令国(旧国)が作られた。少しだけど関係はあるので国府巡りでも取り上げた。

国府(国府町)・総社

加佐登神社・白鳥塚

伊勢国分寺:国分尼寺伊勢は大国、さすがに立派な国分寺があった。子どもたちが国分寺跡で遊んでいた。史跡あとにある歴史博物館では「国府展」開催中。同年代のボランティアの方が「自転車、いいですね、私もやりたいんですが・・・」国分寺の話にはならなかった。

杖衝坂・ヤマトタケルここで三重に足が折れた
国分寺から国道1号線を行くと分岐があり自転車ではとても降れないような杖衝坂の急坂にでる。坂の下には四日市の街が見える。ヤマトタケルは伊吹山の神(イノシシ)に敗れて逃げる途中この坂にでた。足が三重に折れて坂が上れなかった。坂上から加佐登に行き果て、白鳥塚に葬られたが、白鳥に姿を変え大和に飛び去った。その時に「大和は国のまほろば・・・」と歌った。国府巡りとは直接関係ないが、国府巡りには欠かせない脇役だ。実は前回九州大隅国国府でも隼人塚の時にヤマトタケルは登場している。

薩摩国府国分寺は薩摩川内市に!


薩摩一宮新田神社と薩摩国分寺は島津氏と縁が深い。新田神社は延喜式内社ではないが、もう一つの薩摩一宮牧聞神社よりも優遇された。全国の国分寺も鎌倉時代には衰退するがここでは長く続いていたのは島津氏の威力である。

薩摩国府
資料館でみると国府の位置が示されていたが、発掘調査は行われていない。この国府に大伴家持が国司として赴任していた。薩摩川内駅の前に像が立っていた。大伴家持は多賀城、越中、因幡でも見かけた。何か所で国司をしていたのだろう?

大伴家持は万葉集を編纂した歌人だが政治家としても大きな力を持っていた。しかしなんとかの乱に関連したとして中央から左遷され薩摩の守になって赴任した。その後復活して最後は多賀城の陸奥守となり、陸奥の地で亡くなった。

薩摩の総社
薩摩総社は新田神社の大鳥居のそぐそばにある九樓(楼)守公神社だとされている。しかしちょっと規模が小さすぎる。新田神社の末社ということだが、薩摩の総社は新田神社とする方が合理的であると思うのだが? この神社の祭神は九樓社は甕速日(みかはやひ)神、守公社は「ひの」速日(ひのはやみ)神ということになっている。しかし他の資料では饒速日(にぎはやひ)神となっている。饒速日神は大阪の石切劔箭命神社に祭られている。神武天皇を大和へ招いた神である

薩摩国分寺跡
大隅国分寺とは違ってずいぶんきれいに整備されている。国分寺跡の下に歴史博物館があり、七重の塔の図が飾られている。国分寺跡の一角に大隅国府近くの隼人塚で見たような3つの層塔があった。こちらの方が規模は小さいが似た構造である。ほんとうは何なのだろうか。


国分寺跡の崖下に薩摩川内市の歴史資料館がある。階段脇に七重の塔の写真があった。賀曽利さんが早速その写真を送ってくれた。ありがとう!

薩摩一宮 新田神社 もしかすると薩摩の総社?

薩摩一宮は開聞岳の下の牧開神社とここ薩摩川内市の新田神社の二か所である。新田神社は可愛(えの)山の上にある。ここの子を抱いている狛犬がよかった。

神社の奥には天孫ニニギノミコトの可愛山陵(御陵)がある。天孫は高千穂に降臨し、コノハナサクヤ姫と結婚し、ここ可愛山に葬られたということになっている。

大隅国府 花は霧島、たばこは国分


鹿児島県には国府が2か所ある。薩摩と大隅の国が今の鹿児島県になった。大隅の国府は霧島市の国分駅の北側にある総社祓戸神社の周辺にあった。町の名前は国分府中町である。国分駅の南東側には大隅国分寺跡があり、国分中央町である。国府という地名はない。

大隅国府

祓戸神社は総社と称しており、上の図のような位置に重要な寺社がおかれていたとしている。戌亥(北東)には鹿児島神宮の弥勒寺、丑寅(北西)には日枝山王神社の台明寺、辰巳(南東)には国分寺がある。未申(南西)には隼人塚がある。この位置関係から南西の隼人塚の場所には国分尼寺があったのではないかとの説が出てくる。国分尼寺はまだ見つかっていない。 下は祓戸神社!

国分寺

駅の南に国分寺の跡がある。もっと広かったはずだが、今は石造りの五重塔が一基置かれているだけの場所だ。国分の地名は残っているが、国分寺も国分尼寺も国府も跡はよくわかっていない。桜島の火山灰に覆われたのか、島津藩の政策だったのか、大隅国府、国分寺の解明は難しい。

国分尼寺(隼人塚)

最初に載せた国府を中心とする位置関係から隼人塚の場所が国分尼寺であるという説があるそうだ。私はそうであってほしいと思うが信頼性はかなり低い。
隼人というのはこの地に住んだ海洋系の部族で、熊襲と同じように大和朝廷にはなかなか服従しなかったが、ヤマトタケルによって征服された。

隼人塚は昔は熊襲塚と呼ばれたそうで、大和朝廷(ヤマトタケル)が多くの熊襲・隼人を残忍に服従させた鎮魂のために作ったものらしい。海幸彦、山幸彦の話で語られるように、隼人は海幸彦の子孫とされている。

山幸彦の子孫は神武天皇でのちに大和朝廷を作って日本全国を統一する。その過程で多くの征服の話が残っている。

大隅一之宮 鹿児島神宮
祭神は山幸彦である。竜宮城のトヨタマヒメと結婚した山幸彦は兄弟の海幸彦を溺れさせて滅ぼす。トヨタマヒメはお産のためにやってきたとき山幸彦はまだ産屋の準備ををしていなかった。なので生まれてきた子は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と呼ばれる。このお方が神武天皇の父である。日南海岸にある鵜戸神宮は鵜葺草葺不合命を祭っている。大隅国府一帯は天孫族と海洋隼人族の争奪の場所だったのだ。

京セラホテル
国府巡りの資金を出してくれる我が家の奥さんの機嫌を損ねてはいけないので今回は超高級ホテルに泊まった。昔上野原縄文遺跡を見に来た時、このホテルの中に博物館があり出土品などが治められている知り恐る恐る見学した。
「こんな立派なホテル、どんな人が泊るんだろうね」
と話したことがある。今回コロナのおかげ?で我らが泊れる値段になっていた。奥さんは大満足、これでしばらくは国府巡りを続けられそうだ。

豊後国府は印鑰神社の付近だった

大分から久大本線で一つ目の駅が「古国府」(ふるごう)である。わざわざ古い国府とされているので新しい国府もどこかにあったはずだろう。駅舎は写真のように段丘崖の真下にある。古国府は段丘の下の川に近い場所だったので、のちに段丘の上に移ったのではなかろうか。その場所は岩屋石仏、元町石仏の周辺だとの意見もあるそうだ。現地を見ると確かにそう感じる。

豊後国府 総社
大国社という小さな神社が総社であったという。印鑰(いんにゃく)さんともいわれる神社である。印は国司の印、鑰は税を納める蔵の鍵である。これらを納めた神社が印鑰社で、国府のなかにあった。大国社が印鑰神社であることはこの付近に国府があったことを示している。

豊後国分寺
豊後国分寺は大分川から見上げるような河岸段丘の上にある。豊後国分駅は久大線の古国府駅の2つ先にある。駅脇に大分市歴史資料館(歴史博物館は宇佐市にある)があり、その周辺が豊後国分寺跡である。その一角に現在の国分寺もある。国分尼寺もこの辺りにあったらしいが発掘はされていない。豊後国分寺には最大の七重の塔があった。その模型が歴史館にあると聞いていたが、月曜日で休館だった。館のHPにあった写真を借用しました。


早速賀曽利さんから写真が届きました。そのうちの一枚を追加します。上の写真は資料館のHPの写真なので、しばらくは使わせてもらいます。

豊前国府はみやこ町にあった


豊前国は今の大分県の一部と福岡県の一部である。国府は京都郡みやこ町にあった。ここには宇佐八幡から大宰府に到る道があり、古代の要衝であった。みやこ町は新しい名前であるが京都(みやこ)郡は古代の文書に出てくる名前で、古代から都との交流が深かったことが知れる。

国府

地図・交通

豊前国総社

惣社は八幡宮で、国府跡公園の隣にある。今は田舎の鎮守という感じ。狛犬がかわいらしい。

豊前国分寺

三重塔をもつ立派な国分寺がある。古代の国分寺は戦火により消滅したが小倉藩の支援を受け徐々に復興し、明治期に三重塔が完成し寺の再建は果たされた。境内には巨大な弘法大師像があった。唐から密かに戻った弘法大師・空海は大宰府に身をひそめるがその前にこの寺に隠れていたらしい?

豊前国分尼寺跡
歩き疲れて国分尼寺まで到達できなかった。なので写真はみやこ町の文化財マップから借用。いずれ入れかえます。・・・すぐに賀曽利さんから写真が送られてきました。入れ替えました。

北九州空港から朽網(くさみ)へ出て、列車で行橋から新豊津に行った。川沿いの駅には何もなかった。歩くのはなかなかきつそうだがほかに手段はない。坂を上っていくと古い感じの良い街並みがあった。豊津は豊の国の川湊だったのだろう。豊前国は九州の島だが瀬戸内海に面しており、都との交流は頻繁だったのだろう。国府跡と国分寺跡の間には豊前一宮の宇佐八幡から大宰府に向かう道路が通っていた。交通の便は悪いが、見どころが多い豊前国府だった。2021年10月24日訪問

日向国府は西都にあった!


日向の国は今の宮崎県付近である。神武天皇を祭る宮崎神宮が宮崎市の中心と思われがちだが古代の中心は西都市にあったようだ。西都市の高台の上には日本最大級の西都原古墳群がある。この古墳群は大和朝廷の支配の後に作られたもの。ということは大和からの逆輸入ということである。

日向国府
西都市のランドマークである都萬(つま)神社脇の交差点に「お舟塚」がある。ニニギ命(天孫)が高天原から降臨した際に乗ってきた船があった。その塚から少し稚児が池の方に登ると広い敷地がある。発掘調査が進み国府の構成がわかるようになっている。現在はまだ整備が進んでいないのでただの原っぱに見える。

都萬神社
西都の街の北方に「妻」という地名がある。都萬(つま)神社からでた名前である。天孫ニニギ命の妻となったコノハナサクヤ姫がこの神社の祭神である。ちなみに天孫ニニギ命は霧島神社の祭神になっている。
日向二宮で日向国の総社ともいわれていた。格式ある延喜式内社であるが「総社」の表記はどこにもない。日向国府にこの神社は欠かせない存在だったようだ。

総社 三宅神社
総社を名乗っているのはこちらの三宅神社である。ヤクルト2軍のキャンプ地であるグランド脇にある小さな神社である。台地の上にあるので町を見下ろす大変いい立地である。

日向国分寺
国分寺跡の位置もわかっており報告書も出されている。のちの世になって国分寺が荒れたのを見かねて「木喰上人」が木像の五智如来を作った。現在は4体しかないが1体は九州博物館に展示中だとか。

日向国分尼寺
国分尼寺跡は県立妻高校の構内にあり、発掘も進んでいる。今コロナ禍で構内に入れなかったので石碑、説明の写真を撮れなかった。賀曽利さん持ってたら借用させてください。写真は学校前と急坂「尼寺坂」のみ。

印鑰神社
印は国司の印璽、鑰(にゃく、やく)は税を納めた建物の鍵である。大事な印と鍵を象徴する印鑰神社は重要な役所だった。信濃国では印鑰神社を総社としていた。

博物館には印璽があった。これま国司の印ではなく郡司の印であるが、実に大事なものであった。なので神社に納められたのだろう。

日向国は国府、総社2社、国分寺、国分尼寺、印鑰神社の跡が全部残っている稀有な例だろう。さらに台上には1000基ほどの古墳があり、その中には陵墓参考地もある。

一体どうなっているのだというほど楽しい場所だった。おまけに古墳写真を入れておみます。

鬼の窟古墳!

信濃国分寺、松本惣社を追加

信濃国は昔「科野」とかいた。今の長野県であるがこの国(県)には核になる場所がいくつもある。信州大学は本部が松本にあり長野、上田、伊那の各地域にキャンパスは分散している。さらに諏訪には信濃一宮の諏訪神社がある。中心がどこだかわからない。「信濃の国」の歌でまとめなければならない国、地域なのだろう。

律令国の頃、科野国府は上田にあったらしい。その後松本の惣社(伊和神社)あたりに移った。現在上田には総社の科野大神宮がありその近くに国分寺、国分尼寺跡が発掘調査されている。松本の総社近くには国分寺はないので、私は信濃国府は上田でいいかな、と思っている。しかし賀曽利さんからは「松本ですよ!」と言って写真を送ってくれるだろうと期待して、今回は松本行はやめた。

国府 総社

上田駅に近い段丘崖の上の高台に総社・科野(しなの)大神宮がある。2021年7月18日、とても暑い日だったので坂を上るのに大汗をかいた。大宮社であるが境内はそれほど大きなものではない。

国府の発掘がなされていないのでもともとの規模はわからない。日本の神社は鳥居から拝殿まで直っすぐではなく、ちょっと傾いているのが普通だ。鳥居前から写真を撮ると拝殿がちょっと首をかしげておりカワイイ。境内にはシナノの木ではなくケヤキの巨木がある。

松本にある惣社 伊和神社(ダミー写真 賀曽利さんお願い!)

早速賀曽利さんから松本の国府町交差点と総社伊和神社の写真を送ってもらいました。お願いすればどの場所でも写真を送ってくれる! すごい。感謝!ダミー写真と入れ替えました。

松本の国府(こくぶ)、惣社(そうざ)
機会があって松本に行った。賀曽利さんに教わった松本の国府と総社に行ってみた。賀曽利さんが松本駅前の国府町については首をかしげていたが、その通りで昭和になってからつけた名前だと書いてあった。地名だけから国府を推定するのは気をつけなければいけない。

惣社
駅から美ヶ原へ行く道の途中に「惣社」という地名がある。「そうざ」と読むそうだ。総社は国府の中にあることが多い。上田から移った第2次信濃国府はこの近くにあったようだが未発掘。確定はされていない。この惣社は伊和神社であるが、その謂れが書いてあった。美作一宮も「伊和神社」だが同じいわれがあるのだろうか?
もとは印鑰(いんやく)神社であった。印は国司の持つ印璽、鑰は蔵のカギだという。その印→伊 になり 鑰を間違えて輪と記して「伊輪神社」となりさらに「伊和神社」となったと説明されているけど、あまり根拠はなさそう。

ということで、信濃国府の追加です。ところで「印鑰」って難しい字だし読みもいろいろあるようです。珍しい名字としても知られている。

国分寺

信濃国分寺という駅がある。線路をまたいで旧国分寺跡が発掘調査されている。道路の反対側の高台に現国分寺がある。なかなか由緒ありそうな寺で、三重塔もある。裏手には蓮池があってちょうど開花時期で見物客があふれていた。

国分寺跡、国分尼寺跡
暑いので上田駅から昔の信越線で一駅行った。電車の窓から国分寺遺構が見える。遺構は線路をまたいで広がっている。現在の国分寺側に国分僧寺があり地下道で越えた千曲川側に国分尼寺があった。両方の寺がきちんと発掘されている場所は少ない。ここは偉い。

国分寺跡

 

国分寺歴史資料館、まだ朝早かったので空いてなかった。

国分尼寺跡

資料館前にバス停があったが日曜日なので本数は少ない。上田駅に向かって北国街道を歩いた。駅までは3キロもあり暑い暑い! まもなくオリンピックが始まる。こんなに暑くて大丈夫なのか。コロナも感染者が増えてきた。こっちも大丈夫なの?上田駅前で唐風の狛犬が出迎えてくれたが、なんで唐風か?ちょっと違和感あり。

 

備中国府は総社市にあった


総社町や総社という地名は各所にあるが「総社市」は岡山県のここだけである。近くには作山古墳、造山古墳など日本有数の大きさをもつ前方後円墳がある。古代の吉備国の頃から栄えていた場所なのだろう。
国府の場所の発掘はされていないが、東総社駅近くの「国府」という場所付近が想定され、国府跡の碑がたてられている。

国府

総社宮
備中一宮の奥に温羅(うら)の釜殿にむかう長い回廊がある。この総社の回廊は吉備津神社とは違ってまっすぐに伸びて拝殿につながっているが、造りはほぼ同じ。印象的な感じである。境内には多くの神さまが集まっている。神楽面は種々の神さまのお顔が飾られている。神さま好きの人には嬉しいだろ。

国分寺 国分寺跡

旅のパンフレットには吉備の国分寺としてよく出てくる。広い田んぼの中の台地の上に国分寺の五重塔が眺められる。いつ行っても大勢のカメラマンで賑わっている。私の知っている国分寺の五重塔としては一番立派である。古代国分寺は現国分寺の敷地続きに広がる田んぼの中にある。発掘資料は資料館で見ることができる。

国分尼寺跡

国分寺の前を自転車専用道路がとおっている。古代吉備の主要な古墳、寺社を見て回られるようになっている。2008年には私も自転車で回り、国分寺隣のこうもり穴古墳を通って国分尼寺跡に行った。今回は車だったのでこうもり穴をパスして尼寺跡にいく。尼寺跡は前よりも整備されていた。

造山古墳
自転車道路沿いにある造山古墳。日本第4位の巨大な前方後円墳。大和のものと違い、宮内庁の管理ではないので誰でも登れるし、副葬品は全部盗掘されている。2008年

吉備の一宮 (一宮巡りのページを参照してください)

備前一宮 吉備津彦神社

備中一宮 吉備津神社

備後一宮 吉備津神社

 

備後国 JR府中駅がある

府中 国府のあった場所

府中市は広島と東京にの2か所にある。同じ名前は使わないのが原則だが、1954年に同時に成立してしまったので例外的に現在に至っている。さらに広島県には府中市と府中町がある。いずれも古代国府があった場所だ。現在の広島県は安芸の国、備後の国が合わさってできたので2か所の府中が存在するのだ。広島県の府中市は福山からJR福塩線で行く。東京の府中市にJR府中駅は存在しない。
国府
国府は府中にあったと考えられているがまだ確定した場所は特定されていない。候補になる場所、金龍寺地区とツジ地区の2か所を歩いてみた。いずれもJR府中駅の北側500mほどの場所なので、惣社と合わせて歩いてまわることができる。

總社(総社)小野神社
ツジ地区の背後の丘の上にある小野神社が備後国総社とされている。登るのが大変で、急傾斜の石段の上に拝殿社殿がある。府中の町を見渡すのには絶好の場所である。

備後国分寺
神辺駅から井原鉄道で御領という駅から歩くことができる。今回は地元の友人に新市駅から車で送ってもらった。感謝!国分寺跡には立派な国分寺があり、法灯を引き継いでいる。国分尼寺は見つからなかった!

備後一宮 吉備津神社(リンクあり)
備後の国はもとは吉備国で備前、備中、備後に分かれた。それぞれの国に吉備津彦を祀った吉備津神社が置かれている。青いところクリックしてください

備後一宮 スサノオ神社(クリックしてください)
備後の国にはもう一つ一宮がある。スサノオ神社がそれである。新装なった朱色の吉備津神社と比べるとだいぶ地味に見えるが、吉備津神社より古い歴史があるようだ。スサノオは出雲の神さまである。

府中の先は
JR府中までは電化されているが、その先は非電化区間である。上下(じょうげ)という駅は中国山地の分水嶺にある。上下駅は峠にある。ここから先は江の川水系に入り三次を通って島根県の江津に行く。以前は江津に行く三江線の鉄道があったが廃止になった。福山、府中を通って鉄道で江津までは行くことができなくなくなった。
古代はこの水系を通って出雲と吉備の交流があったのだろう。

安芸国府 多祁理宮(埃宮)かもしれない


古事記(712年成立)によれば、初代神武天皇は高千穂を出て東征の途中、安芸国多祁理宮(埃宮)(たけりのみや・えのみや)で7年間過ごし、さらに備前の高島宮で数年すごし大和に向かった。多祁理宮(古事記){埃宮(日本書紀)}その場所は府中町の多家神社である。その後ここに国府がおかれ、総社がつくられた。しかし安芸の国分寺とはずいぶん離れている。国分寺のそばの西条の町は条里に作られた国府があったとする説もある。

国府 多祁理宮 
古代山陽道は奥深く湾入した海岸を通っていた。今の向洋駅の前の鹿籠(こごもり)神社のあたりに港があった。「こごもり」は国府守(こうもり)が転じたものだ。鹿籠神社(移転後)の写真を入れておきます。

総社 田所明神社
田所氏は国府の高級官僚で、のちにこの地に広大な勢力を持った。のちに国府跡に田所神社が作られ、安芸の国の総社とされた。現在総社会館などが立っている。

国分寺 国分尼寺
国分寺は府中町からはるか離れた東広島市の西条にある。最初の国府はこの地にあったとする説もあり、西条は国府の条理の跡ではないかと考えられている。しかし発掘はなされていない。

国分寺は西条駅の北側に広がっていた。現在は公園になっており、現国分寺が法灯を継いでいる。西条は賀茂鶴などの酒どころ、国の醸造研究所もあるという。私はこの近くに小学校まで住んでいたが、酒蔵の街ということは知らなかった。さらに国分寺があったことなど知る由もなかった。

ところで国分尼寺については調べる時間はなかった。たぶんまだ発掘されていないのだろう

旧乃美尾村
私は小学校5年生まで黒瀬町の乃美尾小学校で過ごしたので、懐かしい故郷である。と言ってももう知り合いも親戚も誰もいない。西条の国分寺からはちょっと遠いが久しぶりに訪れて写真を撮ってきた。おまけ写真!

播磨国印鑰大神宮は国府?


播磨国は現在の兵庫県の大部分だった。国府、国分寺は姫路市にあった。国分寺は御国野町(みくにのちょう)の御着駅の近く、旧山陽道に沿って広がっていた。そこには印鑰大神宮という小さな宮があった。印鑰(いんやく)というのは国司の印璽をつかさどる役所のことである。この近くに国府があったのではないか。

国府 総社

姫路城の近くの播磨国総社付近に国府寺町がある。ここも国府候補地であり、郵便局の建設時に発掘がなされ、ほぼ国庁と考えられている。しかし遺構は保存されていないので写真はこの石柱のみ。私は、もともと国府は国分寺付近にあり、その後姫路城に近い総社隣の郵便局下に移転したのではないか、と素人考えをしている。

御着の印鑰大神宮のそばに埋蔵文化センターがあり、国分寺、尼寺の発掘をしている。国分寺付近で国府跡を探しているのかもしれない。これも素人考え!

印鑰大神宮

社殿には印鑰大神宮の表示はなく、幟旗に書いてるだけ。拝殿内には絵馬多数!

国分寺 国分尼寺
御着駅のすぐ近くに国分寺跡が整備されている。その一角には法灯を守る現国分寺がある。門は閉ざされているので、話は聞けなかった。説明版によると塔は七重の塔、現国分寺の本堂は元の国分寺の金堂の上に立っている。敷地端には築地塀が復元されている。その向こうを山陽本線、新幹線が通るのが見える。

国分尼寺は石柱と説明版のみ。発掘時の写真は埋蔵文化センターのHPから借用

播磨国一宮 伊和神社
一宮の伊和神社は揖保川の上流部の宍粟市にある。
上の青くなったところをクリックしてください。
 

親切な地元民
御着駅を降りて案内板を見たら「印鑰神社」との名前があった。事前の調べではこの神社について何も知識がなかった。「印鑰」(いんやく、いんにゃく)は国司の印璽を預かる役所のことで、国府の中にあった。先日行った能登国ではその場所が能登国府とされていたので、ここ播磨国でも印鑰神社が国府内にあったと、私は考えた。

さっそくその神社を目指して旧山陽道を歩いたのだが、近くにいるはずなのに見つからない。地元の方に聞いたら「知らないけど、聞いてみるよ」とのこと。「わかったわ、車を持て来るから待ってて!」という。車で15分ほど走った場所には八幡様はあったが「印鑰神社」ではない。親切はありがたいほど身に染みたが、残念。

元に戻ってGoogle Map で探すが入り口の路地が見つからない。最後に民家の敷地を通り越したら山裾にその神社はあった。幟旗を見えた時、歩数計はすでに1万五千歩にもなっていた。この印鑰大神宮が国府と関係があるのか、御着駅前の図書館で聞いてみたが何の資料もなし。

皆さんとても親切に接してくれたのだが、成果はなかった。国府の権威の賀曽利さんに聞いてみよう!

播磨国伊和神社 (sakura.ne.jp)

三河国 国分尼寺がすばらしい


国府 総社

愛知県には尾張、三河の二つの国府があった。尾張は総社国府宮だけが立派だが三河には総社、国庁、国分寺、国分尼寺のワンセットが狭い範囲に集まっていた。東海道の御油、赤坂宿から近い場所に名鉄「国府」(こう)駅があった。こから数百メートルいった白鳥台地の上に総社(旧村社)があり、そのわきに鎮守の森がある。その森が国庁跡として発掘されている。国府は台地の上全体に広がっていたようだ。

国分寺
総社国庁の森の横をとおる姫街道の先に八幡宮があり並んで国分寺遺跡と現在の国分寺がある。国分寺にはふつうの七重の塔ではなく五重の塔があったらしい

国分尼寺
国分尼寺の前に「三河国分尼寺跡、天平の里資料館」がある。その資料に全国の国分寺国分尼寺の分布があった。国分尼寺の跡がない、あるいは見つかっていない場所は多いようだ。現在の三河国では国分尼寺の方がメインである。

八幡宮
国分寺の総本山、東大寺を守る神さま手向山八幡宮がある。同じように三河国分寺をまもる八幡宮が国分寺の隣にある。鳥居前には国分寺にあった五重塔を模した石の五重塔が飾っておある。神さまと仏さまは親しく共存していた。

コンパクトに国府、総社、国分僧寺、国分尼寺がそろっている場所はあまりない。小さいながらも資料館があり、国府巡りの場所としては最高である。三河では一番大きな船山古墳もあり、旧東海道御油の松並木も近くにあり、散歩道としてはすばらしい。

尾張国府と総社国府宮


尾張国は大国であった。一宮の真清田神社、総社の国府宮は大変立派なものである。しかし国府、国分寺に関してはあまり力が入っていない。愛知県はいまも大県である。もう少し発掘、復元などに力を入れてほしいものだ。

国府・国衙
国府の位置は分からない。国府宮の駅近くに「国衙(こくが)」跡があるが、これは10世紀の頃に大江匡衡が国司として赴任した館である。国府がこの辺りにあったと推測されている。しかし私は、稲沢駅の東側に下津(おりづ)町東国府、西国府という地名があることを見つけた。地元の人に聞くと「国府山阿弥陀寺の東と西だよ!」というが、国府があったので国府山と名付けたと思っている。

総社 国府宮
名鉄に国府宮駅があり、線路に沿って長い参道が伸びている。三本の鳥居をくぐって楼門に入る。儺追(なおい)神事で大鏡餅は楼門を通るギリギリの大きさだそうだ。儺追神事は「はだか祭」として知られている。檜皮葺のすばらしい社殿の前では早めの七五三のお参りをする人がいた。

国分寺
矢合(やわせ)観音行のバス終点が国分寺の前である。本数は少ないので私は市役所から歩いた。新幹線をくぐるとすぐに現在の国分寺が見える。この国分寺は古代の国分寺とは直接の関係はない。国分寺跡は鈴置(すずおき)神社の先にあるが、発掘の途中?で何の整備もされていない。雨のあとだったので塔の跡へいくのは大変だった。そこには礎石が一つ、石碑が一つだけ。草刈りもしてない。

国分尼寺
法華滅罪之寺というのが正式の名前であり、法華寺、法花寺という名前が残っていることも多い。国分尼寺跡は「法花寺」という地名の場所にあったことが想像される。現在の法華寺が関係あるかもしれない。

9月10日、東京は22℃と涼しかったが、名古屋は暑かった。稲沢市役所までバスで行き、その後は歩きだった。帰りのバスがなくて、珍しくやってきたタクシーに乗って国府宮まで戻った。だんだん自分の足に頼れなくなった!ちょっとだけ寂しいことだ。

陸奥多賀城総社国分寺国分尼寺


陸奥国は広い。7世紀以前に大和政権は白河の関の北側に住む人々を抑えてはいなかったのに勝手に「陸の奥」と呼称してだけである。律令制度になる8世紀初め陸奥国最前線は多賀城にあり、そこに鎮守府が置かれた。数百年かかって坂上田村麻呂によってまつろわぬ人々を征服して岩手県の胆沢城に進出した。陸奥の国府(鎮守府)は城と同意だった。

国府多賀城
仙台から4つ目に「国府多賀城」(2001年開業)というJRのえきがある。

壺の碑
多賀城の正面に「多賀城碑」壺の碑(いしぶみ)がある。松尾芭蕉は「おくの細道」でこの碑が西行の訪れた歌枕の地であると感激している。しかし本当の壺の碑(いしぶみ)は野辺地の近くにある「都母の碑」(日本中央の碑)である。芭蕉は知っていたが伊達藩が推奨する壺の碑をあえて歌枕の地としたのだ。碑には多賀城国府の位置(都などから)が記してある。

陸奥国総社
奏社との石碑があった(写真なし)多賀城政庁の東門の近くにその神社があった。鳥居前に陸奥国の延喜式内社の名前が並べられていた。それらの神社の総社なのだ。

アラハバキ神社
総社には延喜式内社が並べて書いてあったが、すぐ近くの「荒脛巾」神社の名前はない。しかしこの神社は東北では有名である。元は大和政権にまつろわぬ人々の間で信仰された「荒脛巾(あらはばき)神」を祀っていたが、今は足腰の痛みにご利益のあるローカルな神さまと言うことになっている。お参りの人はなにやら怪しいが足腰、子孫繁栄にはご利益があるとのことだった。この神さまは武蔵国一宮の氷川神社の摂社にもなっている。アキハバラと名前が似ているが関係はないようだ。

陸奥国 国分尼寺
多賀城国府からはだいぶ離れた仙台駅の近くに国分寺跡、国分尼寺跡があり、それぞれ法灯を引き継ぐ立派な寺が残っている。地下鉄東西線の薬師堂駅は国分寺と国分尼寺のちょうど真ん中にある。現在の寺と跡を国分尼寺から順に載せておきます。

陸奥国 国分寺

陸奥国は大国だっただけあってみるところも多かった。国府、国分寺と直接関係ないが、「壺のいしぶみ」「アラハバキ神社」を絡めて見るのは興味深い。さらに国府多賀城駅のすぐそばにある浮島神社は大和政権と関係深いが、今回載せる余地は無くなった。国府、国分寺を見て日帰りで東京に戻った。
1999年だったか?私は芭蕉を追う走り旅で8日間かけて深川芭蕉庵から多賀城の「壺のいしぶみ」まで走って来た。さらに本物の「都母(つぼ)の石ぶみ」まで6日かけて走った。新幹線はエライ。日帰りで往復できるのだから。

伊豆国分寺と三島大社

伊豆国の国府は三島にあった。三島駅南の楽寿園あたりで富士山からの湧き水が噴出している。こんなきれいな水の湧きだす町は珍しい。三島は富士山の賜物だ。

国府
国府が三島にあったことは確かだが,その位置は確認されていない。国府とか府中という地名もない。ところが三島大社の脇にある祓戸神社に「国司」の文字があった。国司は国庁から歩いて三島大社に参拝したとある。祓戸神社の前から鎌倉街道が国分寺に通じている。そのどこかに国庁があったのだろう

総社 三島大社
国司が参拝するのが総社である。伊豆国の国司は三島神社に参拝していたという。そのことは今ほど大きな神社ではなかったはずだ。神社が大きくなったのは鎌倉時代、源頼朝の庇護を受けたからだ。神社のどこにも総社の印はないが伊豆国一宮の三島神社が総社の役目を負っていたのではないか。平氏の厳島神社に対して源氏は大三島神社を奉じていた。「三島大社」とあるが明治の時代になって名乗ったもので、元は三島神社であった。

国分寺
三島大社の摂社の祓戸神社の前から鎌倉古道がとおっている。この古道にそって広小路のほうに行くと現在の国分寺がある。現国分寺の境内に七重の塔の礎石が発見された。国分尼寺については不明。

富士山と三島の街
富士山と三島の街の間には愛鷹山がある。しかし富士山の溶岩は愛鷹山と箱根山の間の狭い通路を通って三島の街に流れてきた。こんなに長い距離を流れたのは山梨県の富士吉田から猿橋に流れた溶岩に匹敵する。三島は富士山によってつくられた町と言ってもよいかも。