安芸国府 多祁理宮(埃宮)かもしれない


古事記(712年成立)によれば、初代神武天皇は高千穂を出て東征の途中、安芸国多祁理宮(埃宮)(たけりのみや・えのみや)で7年間過ごし、さらに備前の高島宮で数年すごし大和に向かった。多祁理宮(古事記){埃宮(日本書紀)}その場所は府中町の多家神社である。その後ここに国府がおかれ、総社がつくられた。しかし安芸の国分寺とはずいぶん離れている。国分寺のそばの西条の町は条里に作られた国府があったとする説もある。

国府 多祁理宮 
古代山陽道は奥深く湾入した海岸を通っていた。今の向洋駅の前の鹿籠(こごもり)神社のあたりに港があった。「こごもり」は国府守(こうもり)が転じたものだ。鹿籠神社(移転後)の写真を入れておきます。

総社 田所明神社
田所氏は国府の高級官僚で、のちにこの地に広大な勢力を持った。のちに国府跡に田所神社が作られ、安芸の国の総社とされた。現在総社会館などが立っている。

国分寺 国分尼寺
国分寺は府中町からはるか離れた東広島市の西条にある。最初の国府はこの地にあったとする説もあり、西条は国府の条理の跡ではないかと考えられている。しかし発掘はなされていない。

国分寺は西条駅の北側に広がっていた。現在は公園になっており、現国分寺が法灯を継いでいる。西条は賀茂鶴などの酒どころ、国の醸造研究所もあるという。私はこの近くに小学校まで住んでいたが、酒蔵の街ということは知らなかった。さらに国分寺があったことなど知る由もなかった。

ところで国分尼寺については調べる時間はなかった。たぶんまだ発掘されていないのだろう

旧乃美尾村
私は小学校5年生まで黒瀬町の乃美尾小学校で過ごしたので、懐かしい故郷である。と言ってももう知り合いも親戚も誰もいない。西条の国分寺からはちょっと遠いが久しぶりに訪れて写真を撮ってきた。おまけ写真!

播磨国印鑰大神宮は国府?


播磨国は現在の兵庫県の大部分だった。国府、国分寺は姫路市にあった。国分寺は御国野町(みくにのちょう)の御着駅の近く、旧山陽道に沿って広がっていた。そこには印鑰大神宮という小さな宮があった。印鑰(いんやく)というのは国司の印璽をつかさどる役所のことである。この近くに国府があったのではないか。

国府 総社

姫路城の近くの播磨国総社付近に国府寺町がある。ここも国府候補地であり、郵便局の建設時に発掘がなされ、ほぼ国庁と考えられている。しかし遺構は保存されていないので写真はこの石柱のみ。私は、もともと国府は国分寺付近にあり、その後姫路城に近い総社隣の郵便局下に移転したのではないか、と素人考えをしている。

御着の印鑰大神宮のそばに埋蔵文化センターがあり、国分寺、尼寺の発掘をしている。国分寺付近で国府跡を探しているのかもしれない。これも素人考え!

印鑰大神宮

社殿には印鑰大神宮の表示はなく、幟旗に書いてるだけ。拝殿内には絵馬多数!

国分寺 国分尼寺
御着駅のすぐ近くに国分寺跡が整備されている。その一角には法灯を守る現国分寺がある。門は閉ざされているので、話は聞けなかった。説明版によると塔は七重の塔、現国分寺の本堂は元の国分寺の金堂の上に立っている。敷地端には築地塀が復元されている。その向こうを山陽本線、新幹線が通るのが見える。

国分尼寺は石柱と説明版のみ。発掘時の写真は埋蔵文化センターのHPから借用

播磨国一宮 伊和神社
一宮の伊和神社は揖保川の上流部の宍粟市にある。
上の青くなったところをクリックしてください。
 

親切な地元民
御着駅を降りて案内板を見たら「印鑰神社」との名前があった。事前の調べではこの神社について何も知識がなかった。「印鑰」(いんやく、いんにゃく)は国司の印璽を預かる役所のことで、国府の中にあった。先日行った能登国ではその場所が能登国府とされていたので、ここ播磨国でも印鑰神社が国府内にあったと、私は考えた。

さっそくその神社を目指して旧山陽道を歩いたのだが、近くにいるはずなのに見つからない。地元の方に聞いたら「知らないけど、聞いてみるよ」とのこと。「わかったわ、車を持て来るから待ってて!」という。車で15分ほど走った場所には八幡様はあったが「印鑰神社」ではない。親切はありがたいほど身に染みたが、残念。

元に戻ってGoogle Map で探すが入り口の路地が見つからない。最後に民家の敷地を通り越したら山裾にその神社はあった。幟旗を見えた時、歩数計はすでに1万五千歩にもなっていた。この印鑰大神宮が国府と関係があるのか、御着駅前の図書館で聞いてみたが何の資料もなし。

皆さんとても親切に接してくれたのだが、成果はなかった。国府の権威の賀曽利さんに聞いてみよう!

播磨国伊和神社 (sakura.ne.jp)

三河国 国分尼寺がすばらしい


国府 総社

愛知県には尾張、三河の二つの国府があった。尾張は総社国府宮だけが立派だが三河には総社、国庁、国分寺、国分尼寺のワンセットが狭い範囲に集まっていた。東海道の御油、赤坂宿から近い場所に名鉄「国府」(こう)駅があった。こから数百メートルいった白鳥台地の上に総社(旧村社)があり、そのわきに鎮守の森がある。その森が国庁跡として発掘されている。国府は台地の上全体に広がっていたようだ。

国分寺
総社国庁の森の横をとおる姫街道の先に八幡宮があり並んで国分寺遺跡と現在の国分寺がある。国分寺にはふつうの七重の塔ではなく五重の塔があったらしい

国分尼寺
国分尼寺の前に「三河国分尼寺跡、天平の里資料館」がある。その資料に全国の国分寺国分尼寺の分布があった。国分尼寺の跡がない、あるいは見つかっていない場所は多いようだ。現在の三河国では国分尼寺の方がメインである。

八幡宮
国分寺の総本山、東大寺を守る神さま手向山八幡宮がある。同じように三河国分寺をまもる八幡宮が国分寺の隣にある。鳥居前には国分寺にあった五重塔を模した石の五重塔が飾っておある。神さまと仏さまは親しく共存していた。

コンパクトに国府、総社、国分僧寺、国分尼寺がそろっている場所はあまりない。小さいながらも資料館があり、国府巡りの場所としては最高である。三河では一番大きな船山古墳もあり、旧東海道御油の松並木も近くにあり、散歩道としてはすばらしい。

尾張国府と総社国府宮


尾張国は大国であった。一宮の真清田神社、総社の国府宮は大変立派なものである。しかし国府、国分寺に関してはあまり力が入っていない。愛知県はいまも大県である。もう少し発掘、復元などに力を入れてほしいものだ。

国府・国衙
国府の位置は分からない。国府宮の駅近くに「国衙(こくが)」跡があるが、これは10世紀の頃に大江匡衡が国司として赴任した館である。国府がこの辺りにあったと推測されている。しかし私は、稲沢駅の東側に下津(おりづ)町東国府、西国府という地名があることを見つけた。地元の人に聞くと「国府山阿弥陀寺の東と西だよ!」というが、国府があったので国府山と名付けたと思っている。

総社 国府宮
名鉄に国府宮駅があり、線路に沿って長い参道が伸びている。三本の鳥居をくぐって楼門に入る。儺追(なおい)神事で大鏡餅は楼門を通るギリギリの大きさだそうだ。儺追神事は「はだか祭」として知られている。檜皮葺のすばらしい社殿の前では早めの七五三のお参りをする人がいた。

国分寺
矢合(やわせ)観音行のバス終点が国分寺の前である。本数は少ないので私は市役所から歩いた。新幹線をくぐるとすぐに現在の国分寺が見える。この国分寺は古代の国分寺とは直接の関係はない。国分寺跡は鈴置(すずおき)神社の先にあるが、発掘の途中?で何の整備もされていない。雨のあとだったので塔の跡へいくのは大変だった。そこには礎石が一つ、石碑が一つだけ。草刈りもしてない。

国分尼寺
法華滅罪之寺というのが正式の名前であり、法華寺、法花寺という名前が残っていることも多い。国分尼寺跡は「法花寺」という地名の場所にあったことが想像される。現在の法華寺が関係あるかもしれない。

9月10日、東京は22℃と涼しかったが、名古屋は暑かった。稲沢市役所までバスで行き、その後は歩きだった。帰りのバスがなくて、珍しくやってきたタクシーに乗って国府宮まで戻った。だんだん自分の足に頼れなくなった!ちょっとだけ寂しいことだ。

陸奥多賀城総社国分寺国分尼寺


陸奥国は広い。7世紀以前に大和政権は白河の関の北側に住む人々を抑えてはいなかったのに勝手に「陸の奥」と呼称してだけである。律令制度になる8世紀初め陸奥国最前線は多賀城にあり、そこに鎮守府が置かれた。数百年かかって坂上田村麻呂によってまつろわぬ人々を征服して岩手県の胆沢城に進出した。陸奥の国府(鎮守府)は城と同意だった。

国府多賀城
仙台から4つ目に「国府多賀城」(2001年開業)というJRのえきがある。

壺の碑
多賀城の正面に「多賀城碑」壺の碑(いしぶみ)がある。松尾芭蕉は「おくの細道」でこの碑が西行の訪れた歌枕の地であると感激している。しかし本当の壺の碑(いしぶみ)は野辺地の近くにある「都母の碑」(日本中央の碑)である。芭蕉は知っていたが伊達藩が推奨する壺の碑をあえて歌枕の地としたのだ。碑には多賀城国府の位置(都などから)が記してある。

陸奥国総社
奏社との石碑があった(写真なし)多賀城政庁の東門の近くにその神社があった。鳥居前に陸奥国の延喜式内社の名前が並べられていた。それらの神社の総社なのだ。

アラハバキ神社
総社には延喜式内社が並べて書いてあったが、すぐ近くの「荒脛巾」神社の名前はない。しかしこの神社は東北では有名である。元は大和政権にまつろわぬ人々の間で信仰された「荒脛巾(あらはばき)神」を祀っていたが、今は足腰の痛みにご利益のあるローカルな神さまと言うことになっている。お参りの人はなにやら怪しいが足腰、子孫繁栄にはご利益があるとのことだった。この神さまは武蔵国一宮の氷川神社の摂社にもなっている。アキハバラと名前が似ているが関係はないようだ。

陸奥国 国分尼寺
多賀城国府からはだいぶ離れた仙台駅の近くに国分寺跡、国分尼寺跡があり、それぞれ法灯を引き継ぐ立派な寺が残っている。地下鉄東西線の薬師堂駅は国分寺と国分尼寺のちょうど真ん中にある。現在の寺と跡を国分尼寺から順に載せておきます。

陸奥国 国分寺

陸奥国は大国だっただけあってみるところも多かった。国府、国分寺と直接関係ないが、「壺のいしぶみ」「アラハバキ神社」を絡めて見るのは興味深い。さらに国府多賀城駅のすぐそばにある浮島神社は大和政権と関係深いが、今回載せる余地は無くなった。国府、国分寺を見て日帰りで東京に戻った。
1999年だったか?私は芭蕉を追う走り旅で8日間かけて深川芭蕉庵から多賀城の「壺のいしぶみ」まで走って来た。さらに本物の「都母(つぼ)の石ぶみ」まで6日かけて走った。新幹線はエライ。日帰りで往復できるのだから。

伊豆国分寺と三島大社

伊豆国の国府は三島にあった。三島駅南の楽寿園あたりで富士山からの湧き水が噴出している。こんなきれいな水の湧きだす町は珍しい。三島は富士山の賜物だ。

国府
国府が三島にあったことは確かだが,その位置は確認されていない。国府とか府中という地名もない。ところが三島大社の脇にある祓戸神社に「国司」の文字があった。国司は国庁から歩いて三島大社に参拝したとある。祓戸神社の前から鎌倉街道が国分寺に通じている。そのどこかに国庁があったのだろう

総社 三島大社
国司が参拝するのが総社である。伊豆国の国司は三島神社に参拝していたという。そのことは今ほど大きな神社ではなかったはずだ。神社が大きくなったのは鎌倉時代、源頼朝の庇護を受けたからだ。神社のどこにも総社の印はないが伊豆国一宮の三島神社が総社の役目を負っていたのではないか。平氏の厳島神社に対して源氏は大三島神社を奉じていた。「三島大社」とあるが明治の時代になって名乗ったもので、元は三島神社であった。

国分寺
三島大社の摂社の祓戸神社の前から鎌倉古道がとおっている。この古道にそって広小路のほうに行くと現在の国分寺がある。現国分寺の境内に七重の塔の礎石が発見された。国分尼寺については不明。

富士山と三島の街
富士山と三島の街の間には愛鷹山がある。しかし富士山の溶岩は愛鷹山と箱根山の間の狭い通路を通って三島の街に流れてきた。こんなに長い距離を流れたのは山梨県の富士吉田から猿橋に流れた溶岩に匹敵する。三島は富士山によってつくられた町と言ってもよいかも。

駿河国府中は駿府、片山廃寺と登呂遺跡

駿府(すんぷ)は駿河国府の略である。国府が県庁所在地にあるのは珍しい。律令時代以後も近世まで長く駿府又は府中と言われ、徳川政権初期は日本国の実質的な首都であった。明治維新により新政府に恭順の意を示すため駿府の象徴であった賤機(しずはた)山にちなみんで由緒ある駿河を静岡に改称したという。

駿河国国府
駿府城あたりに国府はあったが土地は改変されているので位置は確定されていない。発掘調査が行われているのは天守台で、国府跡はさらにその下に隠れているはずだ。現在の国分寺の近くに国府跡の表示があった。周辺を歩き回り地元の人に聞いてみても誰も知らなかった。
2023年に天守台の発掘現場を見に行った。駐車場の跡を掘り下げたら今川氏の館と慶長の天守台の石垣が出てきたそうだ。もしかするとその下に国府跡が見つかるかもと期待したが、今のところその気配はないようだ。発掘現場の写真を追加しておきます。

駿河国総社 神部神社
駿府城の近くに立派な神社がある。門の扁額には「當国総社富士新宮」と書いてある。中に入ってみると舞殿があり横長の大きな賽銭箱がある。よく見ると左右にそれぞれの神社の名前が書いてある。賽銭は一つでいいのか?? 拝殿も左右に二か所ある。向かって左側が富士新宮浅間神社とある。右側の表示は當国総社神部神社となっている。なんで二つの神社が一緒の社殿になっているのかわからない。敷地は広くていくらでも社殿は作れそうなのに。裏手の少彦名神社の近くから本殿を望むこともできるがそこへ登る石段も左右にひとつづつある。不思議なことだ。



総社内の神社
賎機山の末端には極彩色の多くの神社が集まっている。参道商店街をぬけるとまず大歳御祖神社、境内から浅間神社へ行くことは可能だが、私は正面鳥居に回った。八千戈神社わきから急な石段を昇った。

現在の国分寺、国分尼寺
総社の鳥居から少し行ったところに現在の国分寺がある。法灯を継いでいるというが、昔の国分寺の面影はまったくない。さらに長沼駅の先に国分尼寺の法灯を継いでいる菩提樹院がある。由比正雪の首塚があるという。周辺には涅槃像、五重塔があるが皆寺町から移動してきたものでお寺の団地のようだ。

国分寺跡 片山廃寺
国府からはかなり離れた場所に片山廃寺跡がある。ここに塔跡が出てきたので駿河国分寺跡の可能性が大きくなっている。東名高速道路の下に寺跡は広がっており、発掘もなされた。ここから登呂遺跡は近い。昔の人なら国府から馬や歩きで行くことはできたかな?

今回静岡駅前の駐輪場で電動自転車を借りて回った。相当に暑かったが足には負担はなかった。しかしスマホを使ってのレンタルには手間がかかった。年寄りにはスマホは難しい。以下は登呂遺跡。資料館はまたの機会に!

遠江国府八幡国分寺


都に近い湖(琵琶湖)があるのが近江国、遠くにあるのが遠江国である。今の時代浜名湖岸の中心街は浜松だが、昔奈良の時代には今の磐田市に国府があった。国府位置は確定していないが時代とともに移動した。最初の国庁は磐田駅南口にあったらしい。21年夏の暑い日、磐田駅の国府から市役所脇の国分寺を通り、旧東海道の見附宿の総社まで歩いた。往復5キロほどだが汗だくになった。30年前東海道遠足の時は正月、寒さに震えながら通った道だと思い出した。

国府(御殿遺跡)
磐田駅には写真のようなモニュメントがある。天平の時代をイメージしたものらしい。北口の大通りは「天平通り」とあった。防人は遠江よりも東の国から徴用された人々。遠江の住人は妻との別れもできないほど急にこの国府から九州へ旅立った。この遺跡の一部分に国府の建物、国衙があったようだ。

国府の鎮護神社
府八幡宮:どこにも総社との記述はないが「府」は国府を示している。宮司に聞くとここに国府があったという。八幡宮は国司の桜井王が勧請したものとの記述がある。道路を挟んだ市役所側に国分寺と国分尼寺が南北に並んでいた。場所的にはこの辺り(国府台)に国府があったようだ。

総社(平安時代以降)
淡海国玉神社:遠江にあるがなぜか淡海(近江)である。東海道の見附宿の見附学校の隣にある。総社にしては規模が小さい。しかし「はだか祭」では矢奈比売神社(見附天神)の神輿が淡海国玉神社へ渡御するし、「祇園祭」では天御子神社(三ノ宮)から神輿が渡御する重要な神社である。狛ウサギがいた。まだ新しい。

国分寺 国分尼寺

 

 

 

 

国分寺には七重の塔があった。その想像模型が磐田駅に展示されている。立派なものである。 上の写真は国分尼寺があった場所に建つ磐田高校、裏手に発掘跡がある。

 

遠江一宮(小國神社)
遠州森の石松のの故郷にあり、国府からは遠い。天竜浜名湖鉄道の森駅から4キロほど。暑い中歩いたことがある。今回は行かなかったが、写真を入れておきます。

遠江一宮:事任(ことのまま)八幡宮
東海道の宇津ノ谷峠(蔦の細道)に上がる手前にある。磐田からは遠い。なぜ一宮が二か所あるかのか??

 

佐渡国府総社能舞台

一時期越後国になったことがあるが、古くから佐渡は「国」であった。国府は国仲平野にあったが発掘はなされていない。しかし下国府付近に国衙があったと考えられている。下国府を流れる竹田川はまもなく国府川に合流し真野湾に流れる。私たちは直江津港から佐渡に渡った。

国府 (写真は中島明夫さん21年8月20日)
我が奥様はお能(仕舞)の稽古をしており、佐渡に能舞台が多くあることを知っていた。私は一宮巡りで、ともに興味のある場所として佐渡を訪れた。国府は二の次だったので写真はほとんどなかった。そこで佐渡でトキのお友達として働いている中島明夫さんに頼んだら、「トキを見るときの通り道です」と言って下国府遺跡の写真を送ってくれた。ありがとう。

総社 (これ以下は三輪の写真です)

総社は国府の近くにあったらしいが、現在の場所に移ったらしい。説明版が薄くて読めない!10数年前にこの神社で民俗学会の猿回し芸を見た覚えがある。この神社にも能舞台があったが、扉は閉まっていた。

国分寺
惣社の前をしばらく行くと国分寺遺跡がある。台地上には現在の国分寺がある。茅葺のいい感じの門、瑠璃堂がある。国分尼寺は不明。

五重塔と能舞台
佐渡には立派な神社や寺がある。それを支える経済力があったのだろう。それぞれ見どころを入れておきます。

佐渡一宮
佐渡の一宮は度津(わたつ)神社 小木の街から川をさかのぼった山中にある。詳しくは別稿の一宮巡りにある。

真野宮など
佐渡には多くの流人がいた。天皇の行在所は真野宮。いい神社、古墳など巡っていると日が暮れる。コロナが終息したらまた来なければいけない場所だなぁ

対馬和多都美島分寺


朝鮮半島からの文物の通り道として栄えた島で古くから人々は住んでいた。律令制度が敷かれた時には対馬国として西海道に属した。

国府 島分寺
国府は下県(しもあがた)郡に置かれたという。しかしその場所は正確には分かっていない。しかし明治の時代まで厳原町には対馬府中藩がおかれ、宗氏が対馬守であった。金石城から旧厳原町役場あたりに国府があったと想像される。2012年私が訪れた時には金石城の発掘は終わっていたが、その下に埋もれているであろう国衙、島分寺の跡は見つかっていなかった。

最初は対馬国であったが、国分寺が建立された8世紀には対馬嶋と表記されており、国分寺ではなく「嶋分寺」だったと言われている。現在国分寺は存在するが、古い嶋分寺は金石城の下に埋まっている。

対馬島分寺(対馬国分寺)

大國魂神社
国府、国分寺があったことは分かっているが総社についての記述はない。東京府中には大國魂神社があり、総社とされている。他にも大國魂神社が総社になっている旧国がある。私は対馬にも大國魂神社があることを見つけ、これが総社ではないかと思っているのだが、その神社の場所は対馬の一番北の豊浦漁港にある。国府からこんなに離れたところにある神社が国司がいつも参る神社であるはずはない。なのでここに乗せたが、対馬国総社ではないだろう。一応写真を入れておきます。

対馬一宮? 和多都美神社
長い対馬島の中ほどの浅茅湾の近くに「わたつみ神社」がある。厳原から歩くのはきついのでレンタカーを借りた。ナビで調べると和多都美神社に連れていかれた。海の中に鳥居が並んでいるすばらし神社であり感動していたら観光バスが2台やって来て大勢が参拝?している。観光バスの運転手さんに聞くと韓国からの客だそうだ。海の中にある鳥居が釜山に向かっているのだという。

対馬一宮 海神神社
大勢の人がいるが、和多都美神社のどこにも対馬一宮とは書いてなかった。運転手に聞くと海神神社が近くにあるという。山の上なので観光バスは入れないとのこと。海神神社が山の上にあるというのはちょっと解せないが、こちらが対馬一宮と書いてあるのでだから間違いないだろう。

アマテル神社 梅林寺
百済の聖明王から仏像と経典が初めて日本に伝えられたのが538年であるが、その前に対馬の船越でいったん建物を作って仏像を安置してからヤマト向かった。ということで初めて作られた寺は対馬の梅林寺ということになっている。文化交流にとって対馬は大変なことだったのだろう。ついでに言うと梅林寺のすぐ下にアマテル神社がある。天照大神を祀る神社という。なにか縁があるのか?

西山寺
40年も前、私はYH選定委員でYH西山寺にきたことがある。2012年、まだYHである西山寺に泊まった。この寺は朝鮮通信使の宿舎を務めた寺であった。40年前にも聞いたのだろうがすっかり忘れていた。ともかくすばらしい宿坊になっていた。
2012年の訪問の目的は対馬の地層観察、宮本常一先生の足跡訪ね、一宮巡りと盛りだくさんだった。西山寺と地層の写真をちょっとだけ入れておく。比田勝港で宮本先生と話をしたことがあるという人に出会ったことも記しておく。

隠岐国府総社断崖国分寺

島根半島の北方約50 kmに位置する島々で、隠岐群島とも呼ばれる。大きな島は本土に近い島前と空港のある島後のふたつである。島後は単独の円錐形の島だが、島前は沈水した火山でカルデラ部分に海水が侵入している。地形的には対照的な二つの島だ。国府、国分寺は島後にあるが、後醍醐天皇が流刑になった黒木御所は島前にある。

国府 総社
隠岐の国を作ったのは水若酢と玉若酢の二柱の神さまである。玉若酢命を祭る玉若酢神社の地に国府があり、総社の役割をしていたという。国府の遺構はわからない。

国分寺 
現在の国分寺が古代の国分寺を受け継いでいる。国分寺に後醍醐天皇の行在所が作られた。しかしその後行在所は島前の黒木御所に移った。古代国分寺の建物の礎石が境内に残されている。

国分尼寺
国分寺の隣に隠岐の常設の闘牛場がある。ちょっと驚き。国分寺から500m離れたところに国分尼寺跡がある。

隠岐一宮 水若酢神社
島後の内陸部にある。祭神は水若酢命、本殿は隠岐造りで立派。

隠岐一宮 由良姫神社
島前にも一宮がある。イカ寄せの行事があるそうだ。

島前 中央火口丘 焼火神社
島前の島々は中央の焼火山を囲むように取り巻いている。登ってみたらすばらしい神社があった。

隠岐諸島は火山の島、断崖絶壁 おまけ

壱岐国国府総社島分寺


壱岐には2012年、一宮巡りのために行った。その時国片主神社に国府の碑と国分寺跡があったので、国府国分寺巡りもしたつもりだった。しかしWikipediaや「国府物語」を見ると、壱岐一宮天手長男神社の近くにある興神社に国府(こう)があったという説が書いてある。その説の方が説得性があると思っている。

壱岐島には縄文時代から人が住み、弥生時代には「原の辻遺跡」など大きな集落ができていた。原の辻遺跡は一支国(いきこく)の跡だと言われる。壱岐島はやまと政権の下で一国とされ国府(島府)がおかれ国分寺(島分寺)が作られた。現在博多港からフェリーやジェットホイルが出ているが、福岡県ではなく長崎県に所属している。

国府1
芦辺港から西に歩くと石段の上に月讀神社がある。さらに国分郵便局に向かうと道路際に国片主神社がある。この神社が国府の跡であると石碑に書かれている。またこの場所の地名は国分であることも国府の証拠だと私は思っていた。

国分寺跡
国片主神社の裏手に国分寺の跡が残っている。島にあるので島分寺と呼ぶこともあるそうだ。残念ながら写真は2枚しかない!跡を継ぐ現在の国分寺が近くにある。

国府 総社
実は国片主神社の南にある「興(こう)神社」が「国府(こう)神社」であるという説の方が有力であることをWikipediaで知った。興神社の西南の森の中に小さな総社があるそうだ。興神社の前を通ったが写真は撮っていない。Wikipedia の写真を借ります。後で賀曽利さんが写真を送ってくれるでしょう。・・・すぐに送ってくれたので全部入れ替え。

壱岐一宮 天手長男(あまのたながお)神社

興神社の西の方にある。江戸時代に壱岐一宮とされたが、本来の一宮は興神社であったかもしれない。2012年私は壱岐一宮として参拝した。小高い鉢形山上にある神社で、対岸の森には姫宮(天手長比米神社)の鳥居がある。

天手長比米神社

原の辻遺跡
2012年は一宮と原の辻遺跡を見るために壱岐島にやってきた。吉野ケ里遺跡と同じような復元がなされている。壱岐国は先進国だったことがよくわかる場所だった。とりあえずは写真だけ入れておきます。

今回は、2012年の訪問の時の写真を見ながら壱岐国の国府、国分寺を考えてみた。今になって思えば、レンタカーを借りて何回も行き来したの、なんで興神社の写真がないのか?やはり歩き回らねばならないな。でももう行けないので賀曽利さん、写真よろしく!   ・・・早速送ってくれた。ありがとうございます。これで何とか格好がつきました。

若狭国府、国分寺、一宮、水送り寺

若狭国の位置 

若狭の国は日本海側に開いたリアス式海岸にある。若狭湾には良い港がたくさんあり、多くの人の出入りがあった。この地は遠敷(おにゅう)郡という名前だったが、これはなかなか読めない。古代の朝鮮語との説もあるそうだ。良港があり多くの魚介類が水揚げされた。若狭の国は御食国(みけつくに)と呼ばれ水産物を朝廷に貢いだ。御食国は他には志摩国、淡路国がある。これら二国と比べ奈良、京都には遠いが、東大寺の荘園があったりしてつながりは強かったようだ。

国府 総社
私は2008年2018年に若狭一宮を巡るために若狭を回った。この時は国府について関心がなかったので若狭一宮、若狭国分寺がある東小浜駅で降りた。後で調べてみると小浜駅近くに「府中」という集落があり「総社」もあるという。国府の遺跡は見つかっていないようだ。地図を作ったが写真はない。

きっと後で賀曽利さんが「エエーッ 行ってないんですか! それじゃこの写真を使って」と言ってくれると思うので、とりあえずはストリートビューからコピーしたダミーの写真を入れておきます。・・・・・早速賀曽利さんから写真が来ました。ダミー写真と交換しました。バイクが写っているのがいいね。

下の地図はなかなか面白い。若狭国は五芒星の中心にあり、陰陽道では重要な位置なのではないかと思う。と言ってもこの五芒星は大江山でも見たなぁ!

国分寺 国分尼寺
遠敷郡誌には以下のように書かれている。「聖武天皇の勅願によって毎州に國分寺がおかれ、若狭にも國府の近く建てられた。文永二年(1265年)國分寺16町4反餘,國分尼寺7町5反餘を領す。天正五年兵火に罹り烏有に歸すが、慶長15年釋迦堂を再建され國分寺に本尊釋迦如来と安置された。尼寺庵には堂を建て尼僧が住んだがその後禪寺となり曹洞宗の僧があとを繼ぐ」

国分尼寺は再建されて「尼寺庵」となったが、その後曹洞宗の寺になり薬師如来を安置した。明治の時代になって尼寺庵は国分寺薬師堂となったとある。ということは現在の国分寺の場所には国分尼寺があったことになる。今尼寺の跡についてはどこにも記述がないが、この辺りに国分僧寺と国分尼寺が並立していたのかもしれない。

若狭一宮 若狭彦神社:若狭姫神社
小浜市の歴史資料館は東小浜駅近くにある。そこから遠敷川を遡ったところに下社の若狭姫神社がありさらに遡ると上社の若狭彦神社がある。若狭一宮について

水送り寺

若狭彦神社のさらに上流に神宮寺がある。昔々奈良の都で神々の集まりがあった。若狭彦神は魚釣りをしていて遅刻をしてしまった。お詫びに毎年若狭から奈良の都にお水を送ることになった。東大寺二月堂閼伽井での「お水取り」の行事の発端である。こちらでは「お水送り」で1か月前に鵜瀬という川岸で行事が行われる。

鯖街道
大昔から奈良、京都とのつながりはあったが、江戸の時代になると新鮮な魚を一日で京都まで運ぶ道ができた。それが鯖街道である。距離は72キロだが山道を一昼夜で行くことは難しい。友人たちは鯖街道マラソンをやっていたが、速い人は10時間以内で到達した。昔もそんな人たちがいたかも?

山城国 恭仁京 国分寺 国分尼寺

山城国は五畿七道のうち畿内に属している。いまの京都府にほぼ一致する。山城国は最初は山背国と書いた。平城京から見ると平城山のすぐ裏にあたることから山背と書いたようだ。この国の国府がどこにあったかよくわからない。

しかし山城国内には古くから都が5回も移り最終的には平安京が千年以上も続くことになった。山城国の国府というよりも日本国(?)の首府と考えたほうがいい。740年聖武天皇はなぜか山背国に新しい恭仁京を造成する。この地は橘諸兄が治めていた地であり彼に命じて都を作ったのである。しかしこの首都は5年しか持たず、聖武天皇は奥様から平城京に呼び戻された。

聖武天皇と光明皇后は全国各地の国府近くに国分寺と国分尼寺を作る詔を出した。恭仁京跡には国分寺が作られた。山城国には国府候補地がいくつかあるが、私は恭仁京の地が最初の国府だったと思うことにして出かけた。

国府 総社
奈良線の上狛駅から歩いた。私は狛犬の愛好家で日本国中の狛犬に会いに行っている。その「狛」と名のついた駅があるのだから行ってみないわけにはいかない。しかし狛犬はどこにもなかったが20分ほど歩いたところに高麗寺跡遺跡があることが分かった。狛犬は高麗犬とも書く。上狛駅は高麗寺から出てきた名前であろう。猛暑の中高麗寺に行ってみる。柱跡が残る立派な史跡で、もしかするとここが国衙(国府の建物)かなどと考えた。

この史跡から暑い道を山城郷土資料館へ行った。コロナのせいかわからないが本日休業。入り口でまごまごしていたらちょうどタクシーがやってきた。この後国分尼寺跡を見に行くという人がいたので便乗させてもらった。尼寺跡を確認したら木津駅に戻るというので木津川橋で降ろしてもらい、あるいて恭仁京に向かった。

恭仁京 国分寺

木津川橋から恭仁京までは交通量の多い木津川沿いの国道を歩いた。暑い日だったが交通量が多いことを除けば木が生い茂って多少は涼しかった。しかし恭仁京の区域の入ると視界は開け、古代の都が作られた場所のように感じた。

木津川市立恭仁小学校は木造の立派な学校だった。学校の裏手に大極殿跡があった。恭仁京は5年ほどで終わり、聖武天皇は平城京に戻った。その都で全国に国分寺と国分尼寺を設けるように詔を出した。その国分寺が恭仁京跡に立てられて長く続いたらしい。この史跡は都跡と国分寺跡が重なっているのである。

ここから坂を下って加茂駅に向かおうとした。交差点で工事している人と「暑いね!」と言いながら目の前を見ると民家の壁に「arumitoy]!、ムム!
ちょっと訪ねてみた。地平線会議の仲間の木のおもちゃ作家の工房だった。汗だらけでお邪魔してゴメン! 車で送りましょうか! 汗だらけだったので辞退して駅まで歩いた。まだ暑い。乗せてもらえばよかった!

国分尼寺
聖武天皇の奥さんは光明皇后、彼女が大和に総国分尼寺である法華寺を作った。各地の国分尼寺も法華寺、法花寺ともよばれた。山城資料館からタクシーに便乗して法花寺野まで行った。ちょうど恭仁京跡の対岸である。ここには碑が立っているだけで発掘跡は何もない。

山城の国全体から見るとあまりにも辺境にある。平城京から見ればごく近い。後に千年の都になる平安京のある山城国だが、平城京のころにはまだまだ開発されていない場所だったのだろう。それについてはまたあとで考えよう。ただただ暑い恭仁京、山城国分寺訪問だった。アッツ、思いがけない出会いのあった訪問でもあった。

もう一つの国府 大山崎の離宮八幡宮
賀曽利さんが国府の写真を送ってくれました。これも山城国のもう一つの国府です。こっちの方が新しい。

加賀国府 総社 安宅関

加賀百万石の土地だが、古代加賀国は越前国から分かれた「中国」だった。しかし田畑も人口も増えすぐに「上国」になった。その後もよい土地、白山などの山々、北前船の港もあって大きな国に発展していった。国府
加賀の国の中心は今は金沢だが、古い時代、国府は小松にあったようだ。発掘による国府跡は確定していないが国府、国府台の地名から大体の位置は推測できる。古府(ふるこ)の地名は国府村と古江村が合併してできた名前で古いものではない。

総社 石部(いそべ)神社

古府バス停の近くに総社・石部(いそべ)神社があり、この辺りに国衙(国府の建物)があったことは疑いない。安宅の港とは梯川沿いにつながっており、日本各地とのつながりも大きかったようだ。

追加 賀曽利さんの写真です。彼も訪れたのは夕方のようです。(注:確かめたら、これは早朝の写真だそうです)

近隣の神社
古府のバス停までの交通はあった。しかし帰りの便は日曜日だったので最終便が4時ごろだった。バス停に着いた時、小松行の最終バスは平日と違って2時間も前に終了していことがわかり、どっと疲れがでた。しかし恨んでも仕方がない。1時間半も歩けば小松駅に着くはずと歩き出しすと道沿いにいくつかの神社が出てくる。社殿の形はどれも同じ。石造りの五重塔もすべて同じだった。八幡神社の石碑には郡衙と国衙の真ん中にある神社と書かれていた。郡衙は市役所、国衙は県庁の建物という感じだ。歩き疲れたが、寄り道はこの地を知るうえで大変貴重な体験だった。駅の1キロほど手前で親切な人が車に乗せてくれた。加賀国の人は親切だった。もちろん能登国の人も親切だった。車で案内してくれた上にお寿司、アイスをご馳走してくれたもんなぁ。国分寺

古府のすぐ近くに国分寺がある。どう見ても民家だが近づいてみたら「国分寺」の看板があった。玄関にいた住職さんにお聞きすると、昔の本当の国分寺は国府郵便局のあたりにあったらしいが、私の国分寺とは関係がない。戦後に新しく寺を作った時に近所の人と相談して「国分寺」にしたそうだ。東大寺とは関係ない寺である。

安宅関

言わずと知れた義経と弁慶一行を見張るために作られた関所である。弁慶は修験者一行として偽の「勧進帳」を読むが、関守の富樫は義経がいることを見破る。しかし見て見ぬふりをして一行を平泉に向かわせる。歌舞伎の勧進帳の名場面だそうだ。

実はここに関所があったかどうかはわからない。加賀の国府津(港)であり、義経一行もこの津に上陸した。本当は地元の豪族が歓待をして平泉に向かわせたのだろ。正式の関所があったら、見逃したりはしない。歌舞伎のお話だろう。安宅関を訪れたのは2012年、まだ国府、国分寺に目が向いていなかったので、そのまま那谷寺に向かう観光コースを行った。今回梯川を歩いたことで、国衙、郡衙、国府津のイメージがつながった。寄り道は大事だよ!