土佐国 国府総社国分寺

四国88札所には4つの国分寺がある。土佐国の国分寺は第29番札所でいい季節にはお遍路さんでにぎわう。私も2016年から季節の良い時を選んで1週間歩いてきた。全行程は1200キロもあるので私たち夫婦は4年ほどかかった。急ぐ旅でもないので88カ所のほかに一宮や番外札所、国府などにも寄り道をした。

土佐の国府は28番の大日寺から物部川を渡り国分川を渡ったところにあった。すぐそばに29番の国分寺があり、その隣に総社もあった。今回の国府めぐりは四国遍路のおまけだった。

国分橋の欄干にカメラを置いて記念写真を撮ろうとしたら、台の上からカメラが転げ落ち固い岩の上に落ちてしまった。土佐国府、国分寺の写真は古いスマホで撮ったもので美しくない。困っていると賀曽利さんが私の写真を貸しますよとのこと。もう一度行かなければと思っていたが、彼の手を借りてこのページを仕上げることができる。ありがたい。

国府(国衙)
高知の埋蔵物文化センターでは比江廃寺跡付近の発掘を行っており、多くの資料が出ている。国府の跡もほぼ特定できるが全域の発掘はまだである。平安時代紀貫之は929年から5年間土佐守(国司)として土佐国府で過ごした。60歳という年齢での赴任は何らかの政情の変化があったのだろう。帰国の時の様子を描いたのが「土佐日記」である。紀貫之の邸宅とされるところが公園になっている。おそらくこの辺りまでは国府の範囲だったのだろう。バイクが映っているのが賀曽利さんから借用した写真。

比江廃寺跡(国分尼寺?)
国府の一角に比江廃寺跡がある。そこに大きな塔の礎石がでてきた。これは県下では最大の礎石穴である。大きな寺があった。おそらく国分尼寺だったのではないかとの説もある。しかし国分尼寺に塔はなかったとされているので国分尼寺ではないとの意見も多い。写真はWikipediaから借用。

国分寺
国分川を少し下った土手に地蔵の渡しがあり、目の前の田んぼの先に四国第29番の国分寺がある。国分寺の敷地ははるかに広かったはずである。現在は真言宗智山派の寺である。石柱を見ると、十を横に並べて20と読ませている。

総社
国分寺の隣に総社神社がある。この神社が国司が参詣する土佐国の総社とされているが、国分寺の敷地の狭いところに押し込まれている。元は国府のそばにあり、ここにい引っ越してきたとのことである。祭神は「延喜式二十一社祭神」ということで総社にふさわしい。バイクはないが狛犬以外は賀曽利さんの写真。

伯耆国府、総社の狛犬は地震で落下した!

 伯耆の国は大山の麓に広がる地域である。国府国分寺は今の倉吉市にある。倉吉市は天神川と小鴨川の合流地域にできた盆地で、流域には三朝温泉など温泉郷がありその玄関口として賑わった。現在は鳥取県で3番目の人口を持つ市であるが人口は4.5万人(22年3月推定)と少し寂しい。しかし白壁土蔵がいまも残り、観光客はおおい。

国府 国庁
倉吉駅は白壁土蔵の街の中心から離れている。さらに国府地区は国府川を渡った先にある。したがって倉吉駅から国府遺跡に行くには交通の便がない。それを予想して私は携帯式の軽量(6キロ)自転車を用意した。これはなかなか快適であった。倉吉駅から国府地区までの道沿い風景を入れておく。

国府地区に国庁跡の史跡があるがただの原っぱで遺構跡はみあたらない。地図をみて想像するしかない。すぐ近くに法華寺畑遺跡があり、門や囲いが復元されているので、想像の根拠にはなる。

伯耆総社 国庁裏神社
国庁の案内板にもある通り国庁の中にあった神社である。「裏」にあったと読めるが「うち」というのが正解である。しかし今は「こくちょうり」神社と呼ばれる。もともと総社大明神などといわれたこともある。出雲に近いこともあって大貴己神、少彦名神を祀っている。

狛犬も何対かある。昔の写真を見ると台座の上にしっかり立っていたるが、実際に行くと、地面に置かれているものがいくつもある。私の推測だが2016年におこった大地震の被害ではないか。どういうわけか私のカメラではうまく撮れていない。国庁裏神社の建物の写真は賀曽利大明神からお借りしたものである。

国分寺跡
倉吉駅から自転車をこいできた。かなり暑い日で、国分寺の瓦が展示してある地域センターを見つけた時にはほっとした。場所を聞くと坂を昇った上にあるという。冷たいものを飲んで坂を昇る。そこには国分寺遺構があったが、じいさんばあさんがゲートボールに興じていた。「史跡の上でプレーできるなんて豪勢ですね!」というとみなさんきょとんとしていた。山上憶良の歌碑があった。憶良は国司として伯耆に赴任してここで過ごした。同じ万葉歌人の大伴家持も各地の国司を務めた。しかし憶良はこの地にかかわる歌は残していないという。政務に追われていたのだろうか?

国分尼寺跡 法華寺畑遺跡
伯耆の国分尼寺はいい。国分寺と並んで作られていたが発掘状況は国分尼寺の方が良好で、尼寺(法華寺)を中心として伯耆国府の遺跡が保存されている。法華寺という名前は総国分寺=東大寺に対して総国分尼寺=法華寺(ともに平城京にある。)からきている。国分尼寺を見つけるには、法華寺(法花寺)という地名を見つけることである。

伯耆の国府は思いの外、倉吉駅から遠かった。年取って体力がなくなったせいなのかもしれない。倉吉の白壁土蔵の街、賀茂神社の狛犬など見逃してしまった。また来る機会があればぜひそちらも見たいものだが・・・

追加:国庁裏神社の狛犬の落下について倉吉市の教育委員会に問い合わせをしたところ、すぐにお返事を頂いた。鳥取大学では石造物、特に狛犬については全県の調査をしたそうだ。その結果を示したPDFもいただいた。私の疑問は解消した。ありがとうございました。

・・・・お問い合わせの狛犬についてですが、ご指摘のとおり、鳥取県中部地震で国庁裏神社の狛犬は破損していますが、賀茂神社の狛犬は破損していません。その違いとしていくつか要因があるかもしれませんが、その一つとして狛犬の石材(来待石)の劣化が考えられます。来待石は凝灰岩質砂岩で加工しやすい反面、風化し軟質化しやすいという特徴があります。国庁裏神社と賀茂神社の狛犬はいずれも来待石ですが、劣化の程度が異なっていた可能性があります。鳥取県中部地震により狛犬だけでなく来待石製の灯籠や石仏などが数多くが破損しました。製作から100年以上経過したものが多く、劣化が進んでいたものと考えられます。・・・・

備前国府と国分寺は離れている

 古代には吉備国があったが律令制により備前、備中、備後にわけられた。備前国はさらに美作国を分離した。古代吉備国は超巨大な国だった。その国の中心は吉備の中山付近にあり、吉備神社ははそこにあった。しかし中山を境に備中、備前に分かれたため一宮も吉備津神社、吉備津彦神社にわかれた。なのでそれぞれの神社はほぼ背中合わせの位置にある。
 備前国の宮は旧吉備国の中心にあるが、備前国府は旧吉備国の中心とは離れ、旭川の東側の高島宮(神武天皇の聖跡)の近くにある。さらに備前国分寺は山越えをした赤磐市にある。前回一宮巡りをした時には、国府国分寺に足を延ばすことができなかったので、今回は半年おいての2回目の備前国入りである。

備前国府
岡山駅の隣の高島駅近くには高島宮がある。この宮は明治政府が定めた神武天皇聖跡地であってここに都が営まれていたわけではない。しかし備前国府はこのすぐ近くにあったようで聖跡とまったく無関係ではないかもしれない。

現在の「国府市場」の地名のあるあたりに国府があり役所の建物(国衙)があったがが、現在遺構はなく小さない社があるだけである。

総社
国府市場あたりは東西南北に道路が敷かれており条里制の名残がある。国府市場を北に1キロほど進んだ山裾に賞田廃寺跡の遺構がある。かなり大きな寺があったことが知れる。私はここが国分寺だったのではないかと思ったがそうではないそうだ。この賞田廃寺から少し西へ行った山裾に総社宮がある。

国分寺
桃太郎温泉前の県道(旧山陽道)に出てしばらく行くと高速道路が見えてくる。高速道路と交差する手前に国分寺の跡が見えてくる。発掘跡は整備されている。遺構の先には岡山県で3番目に大きな前方後円墳である両山古墳がデンと構えている。なかなかいい風景だ。

国分尼寺
旧山陽道を挟んで国分寺とは反対側に尼寺があったらしい。しかし今は大きな溜池の下になっており実態はまったくわかっていない。看板だけ立っており往時を想像するしかない。

今回は自転車
備前国の国府跡と国分寺跡はかなり離れているが、バス便など公共交通機関はない。「タクシーで行けば!」と奥さんに言われるが「望むところに行くには苦労がある方が感激は多い!」という私のポリシーに従えば、それは選択肢にはない。

今回は持ち運びのできる自転車を購入して持ってきた。重さは約6キロ、年寄りでも運べる重さだ。岡山駅前には電動レンタル自転車がたくさんあったが借りると元の場所に戻らなければならない。自分の自転車なら疲れたら折りたたんで袋にいれて電車にのればいい。

低い山だが峠越は結構きつい。しかし環太平洋大学(?)のキャンパスから聞こえるマーチングバンドの音楽に励まされ、案山子君たちに見送られて無事に走りきることはできた。帰りは津山線の玉柏駅から岡山に戻った。

因幡国府と国府神社、国分寺

因幡国
鳥取県は因幡国と伯耆国の2カ国からなっている。スタバもない県など(今はある)と言われたが 昔は重要な国だった。因幡の国府は史跡公園として整備されている。広い田圃、畑が広がる中、今木山の麓に「因幡万葉の里」があり史跡の解説をしてくれる。鳥取駅から5キロ程の距離なので、歩けない距離ではではない。しかし年寄ったので今回は携行できる(重さ6キロ)自転車を担いできた。

因幡国府
数年前因幡一宮の宇倍神社を訪れた。その時に本殿の脇に「国府神社」があることに気が付いた。先日壺阪山に行ったときに「国府神社」を見つけ、この名前は他にはないなどと書いた。しかし数年前に「国府神社」を見ていたのだ。忘れっぽくなっているなぁ! しかしこの神社の場所に国府があったわけではなく国府地区にある神社なのでその名前になったようで古い神社ではない。

鳥取駅近くの交通案内に「国府(こくふ)」という案内板がある。国府地区に行くルートだ。いま国府地区に「国庁跡」の史跡公園がある。いまつつじの真っ盛りで色とりどりの公園であるが、私のほかには誰もいない。華々しさの中ちょっと寂し感じがする。大伴家持が国司として赴任していたそうだ。「新しき・・・・・」の歌が、そばにある「因幡万葉歴史館」に当時の衣装とともに掲げられていた。

総社
因幡国に総社の記録はない。国府に赴任した国司はまず国内の有力神社に詣でる。しかし一宮は離れていることが多いので国内の神社を集めた総社が設けられた。因幡国は一宮の宇倍神社と国府がごく近いので国司は簡単に参拝することができる。わざわざ総社を設置する必要はなかったのではないかと私は考えている。

宇倍神社の中には「国府神社」があるが、これは明治時代に作られたもので総社の意味ではない。ということで私的に宇倍神社を勝手に総社としておく。長い石段を登って社殿に登って、総社ということにしいいですか?とお尋ねしたが、もちろん返事はない。神社の総代の石破茂議員に聞かなければならないかな?

国分寺

国庁跡から500mほどのところに現国分寺がある。境内には旧国分寺の礎石がたくさん転がされている。遊んでいた子供たちが「なんでこんな大きな石があるの?」聞いてきた。確かに田んぼと畑の広がる土地には大石はない。よく気がついた、いい子たちだ。

国分尼寺、法華寺

国分寺の西、500mほどの今木山の麓に法花寺という集落がある。私はピンときた。法華寺は奈良の「総国分尼寺」であり、総国分寺の東大寺に匹敵する寺である。法花寺集落に国分尼寺(法華寺)があるはずだと集落に入ってみた。おばあさんい聞くとそこにお寺があるよという。小さなお堂と礎石らしい石が苔むしていた。私的にはここが国分尼寺跡とすることにした。

今回は国府、国分寺、国分尼寺、総社らしき神社の四ヶ所を効率よく回ることができた。たいていの国では国府と国分寺はかなり離れており、こんな近場に集まっているのは珍しい。と書いたが、国分尼寺と総社は私の判断であって学術的には根拠もない。しかし国府跡愛好家としてはなかなか楽しい場所であった。

次はすぐ隣の伯耆の国府のある倉吉に向かう。

美作国府総社は津山盆地に!

古代の吉備国は、大化の改新後に備前、備中、備後の3国に分割された。さらに和銅6(713)年に、備前国北部から6郡を割いて美作(みまさか)国が作られた。美作の中心は津山盆地にあった。津山は現在も中国山地の中心で、岡山県でも第3の市である。

国府
駅からは川を越えてお城よりもさらに北側の高台に国府跡、総社宮ある。国府跡バス停の前にあるのが国府台寺だがこの辺りに国府があったとされている。この寺とは関連はなさそうだ。

総社宮

国分寺 国分尼寺不明
国府跡、総社宮は吉井川の北側、津山城の背後の丘にあった。しかし国分寺は川の反対側、さらに支流が巾着状になった孤立した場所にあった。私は駅から自転車で回ったが吉井川にはあまり橋がなく、なり遠回りになった。
人神という集落を通り国分寺に向かう。河辺小学校の下に美作国分寺跡が広がり、きれいに整備された現国分寺があった。

津山盆地
今回赤磐市の備前国分寺から津山線で来た。数年前に美作一宮の中山神社を訪問した折は新見から姫新線でやってきた。ここから鳥取方面は因美線、姫路方面には姫新線など津山盆地は中国山地の中の交通の要衝だったことが分かる。しかし近年は人の移動は少なくなったようで、因美線で鳥取に行くには5時間も待たなければならない。かなり遠回りになるが姫新線で佐用まで行き智頭急行線で鳥取に行くことにした。因美線経由よりも2時間も早く到着する。さらに智頭急行線は初めての搭乗だ。うまくすると郡家(こうげ)から若桜鉄道に乗れるかもしれない。

などなど考えながら東津山から列車に乗った。駅前のエリエールの広告、黄色いホテルには見覚えがあった。一宮巡りの時に泊まった宿だ。姫新線佐用(さよ)駅で智頭急行に乗り換えたが、数年前もここで数時間待った。
JR線はいくつも通って交通の要衝のようだが、列車の本数は少ないので結局佐用駅経由になるみたいだ。郡家からの若桜鉄道の駅は「寅さん」の撮影地だが、今日中に行き来して鳥取に行くの無理なのであきらめた。少々残念。

大和国府は国府神社の近くに?

明治の初めまで全国は68の国に分けられていた。武蔵の国、相模の国などである。古代から国があり地方豪族の「国造」が支配していた。しかし律令制度によって中央から「国司」が派遣され中央集権が確立した。その後1200年間人々はその区分になじんできた。いまでも旧国名で呼ぶ地域も多い。武蔵小金井、相模大野、越後湯沢など数知れない。

「大宝律令が制定されたのは701年、第41代持統天皇の都は藤原京で、710年に平城京に遷都した。いずれの都も大和国の中にあった。聖武天皇による国分寺建立の詔が出されたのは741年で、総国分寺である東大寺が平城京の近くに作られた。       「大和の国府、国分寺は平城京と東大寺だろうだろう」
と私は思ったがそれは間違いだった。

現在の東京には国の政府と天皇宮が千代田区にあるが、ローカル政府は新宿区にあり都知事(国司)がいる。この構造と同じで、大和国には大倭国の首都平城宮とローカルな大和国府、国分寺があった。飛鳥板葺宮、藤原京、平城京など倭国の遺構の発掘には力がそそがれているが、ローカルな国府跡はまだはっきりしていない。

平城京 総国分寺 総国分尼寺
聖武天皇が国分寺建立の詔を発布したのが741年で、その時の宮は平城京で、周囲に総国分寺の東大寺、総国分尼寺として法華寺が作られた。まずその写真を並べておこう。

大和国府
薬師寺の近くに「今国府(いまご)」という地名がある。奈良の一番大きな工業団地があるが周辺に国府の跡は見当たらない。文献には13世紀に高市郡からこの地に国府が移ったという記述があるそうだが、高市郡にも国府あとは見つかっていないという。

しかし行ってみなけりゃわからない。城跡巡りに高取城を訪れたときに壺阪山駅近くに国府神社があることを地図で見つけた。賀曽利さんに知らせると「すぐ行ってきます!」と言って1週間後に写真を送ってくれた。先を越されて悔しいが本日(22年5月22日)私も行ってみた。

大和国府2  総社
壷坂山という駅から土佐街道といういい道を10分ほど行くと国府神社がある。案内書によればこの近くに国府があり国司が国内の神社を回る代わりに総社に参詣したのだという。総社が国府神社と名乗っているのは他にはみていない。さらに余計なことを言えばこの神社は古墳の上に作られている。後円の上に社殿が置かれており鳥居のある場所が前方部になる。

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大和国分寺
国府は何回か移動しているので、今畝傍駅のそばにある大和国分寺はどの時代のものか不明だ。聖武天皇の詔の時代のものとは違うのではないかな。

大和国分尼寺
国分尼寺はなかったと言われているが、私はもしかすると壷坂寺が国分尼寺だったのではないかと思っている。壺阪寺は南法華寺とよばれているとのこと。平城京の総国分寺は法華寺である。各国にある法華寺(法花寺)が尼寺であることが多い。なので私は勝手に尼寺としてここに載せておく。

出羽国府は城輪柵跡と秋田城跡

  七世紀までは東北地方は蝦夷の住む地であった。大和政権は勢力を拡大し和銅元年(708年)に出羽郡を置いた。さらに712年陸奥国から置賜、最上郡を譲られて出羽国ができた。733年に出羽柵(秋田城)が現在の秋田市に置かれたが蝦夷の反乱によって国府は酒田市の城輪(きのわ)柵に後退した。秋田城に国司は置かれず武士の長である城介(のちの征夷大将軍)が鎮守した。
従って出羽国府は秋田城跡と城輪柵跡であるとされている。

国府1  秋田城跡
秋田駅から秋田港にすすむと八橋の帝石前をとおり高清水の台地上に出る。八橋は日本には珍しい油田のあったところである。台地の上に護国神社があるがその地域は古代の秋田城があった場所である。その発掘現場の一角に歴史資料館が作られている。
ブラタモリでこの場所が紹介された。その時の注目施設が古代の水洗トイレである。古代の渤海国の施設が使ったことがあるそうだ。その証拠は当時日本にはなかった豚食民族特有の寄生虫の卵が見つかったそうだ。タモリさんも喜んでいた。

総社
総社神社という名前の神社はあるが、国府に付属した総社ではないだろう。たくさんの神さまを祀った神社なので総社と名乗ったようだ。もとは千秋公園のなかにあったそうだ。

国府2  城輪(きのわ)柵跡
出羽柵(秋田城)は奈良時代には秋田の高清水地区にあったが蝦夷の反撃が激しく、出羽柵は再び元の酒田市の城輪柵跡付近まで後退せざるを得なかった。秋田城には秋田城介(のちの征夷大将軍)を残し城輪柵で出羽国司が政務をとった。
遊佐駅から南の田畑の中にある。5月4日に訪れたが雪解けの鳥海山が雄大に見えた。蝦夷は鳥海山を越えては,やってこなかったのだろう。

総社
城輪柵跡の近くに城輪神社があった。この神社が総社かと思ったが、酒田市にある六所神社が総社であるとの資料があった。訪問時には、しらなかったので先に進んだ。機会があたら行ってみたいが、酒田まではちょっと遠い。来年の鳥海山登山の時に行くことにする。とりあえず城輪神社の写真を入れておきます。

出羽国 国分寺 国分尼寺
出羽の国分寺は山形県東根市の東根国分寺とされている。しかし今回は友人の旅行に便乗したので、あちこち探しまわることはできなかった。総社と同様に次に予定することにした。
国分尼寺は当初から建設されなかったと思われる。

山形の歴史から:
国分寺薬師堂は山形市薬師町に境内を構えています。国分寺の創建は天平13年(741)聖武天皇が仏教の力により国家安寧を導く為、各国一宇づつ設けた寺院の1つで行基菩薩が勅命により開山したと伝えられています。国分寺は国府の近くに設けられる例が多く、当時の出羽国の国府は秋田城(出羽柵)に置かれていた事から当初は現在の秋田市周辺に境内を構えていたとも考えられますが、記録上も遺跡などもそのような形跡が見られません。延暦23年(804)に秋田城が停止された事から、庄内地方に出羽国府が移ったと考えられ、国分寺も随行したと思われますが、その場所についても旧東田川郡渡前村、旧飽海郡本楯村、旧最上郡豊里村など諸説あり、酒田市の城輪柵跡が出羽国府の有力地である事から酒田、鶴岡付近とも考えられます。
記録的には承和13年(846)に安慧(天台宗の高僧)が国分寺に講師として派遣された事が記載され平安時代には寺運が隆盛していた事が窺えます。平安時代末期から鎌倉時代初期に国府が山形市北方の府中に移った記録がある事から国分寺も府中周辺に移り、東根市にある東根国分寺も当初は護国山薬王院国分寺と称していたと伝えられています。

肥前国府と印鑰(いんにゃく)神社

 肥前国は今の佐賀県あたり、近くに吉野ケ里遺跡もあり古くから栄えた地域である。大化の改新によって各国に国府が置かれた時、肥前国府は大和町久池井(惣座)に置かれた。私は10数年前に肥前一宮である与止日女神社に来たことがある。その時に嘉瀬川にかかる「惣座橋」を渡った記憶がある。しかしそれが国府と結びつかず、国府史跡を見逃していた。今回は国府跡を見るために「惣座」に向かった。すぐ近くに国分寺、国分尼寺跡もある。私の興味のワンセット(国府、総社、国分寺、尼寺、一宮)がそろっている珍しい場所だと感じた。
国府
佐賀駅の北方にある「惣座」(そうざ)という地区が国府の地であったと推定されていた。高速道路の準備調査で国府遺跡の発掘が進み「国史跡」に指定され整備された。版築で作られた築地塀の一部と大門が復元されている。この国庁には吉備真備などが赴任していることからも重要な拠点であることがわかる。敷地内に「肥前国庁資料館」がある。

国庁・国衙・国府

国庁:各国に置かれた役所の中心となる大型の建物群からなる一郭を国庁と呼ぶ。
国衙:国庁周辺の役所が置かれた範囲を国衙という
国府:国司の館や国衙の周辺の諸施設を含めた大きな範囲を国府とよぶ。

総社:印鑰神社
 資料では肥前国総社は不明となっている。私は1キロほど北にある与止日女神社が総社であれば面白いと思ったが一宮が総社である例はない。
もう一つ、印鑰神社(いんにゃく神社)というのがある。国司の印と鑰(にゃく)=蔵のカギを守る神社である。他の国では印鑰神社が総社である場合もある。ここ肥前でも印鑰神社が惣社であってもおかしくない。

肥前国分寺
印にゃく神社の角に「尼寺」(にいじ)の案内板がある。ここを曲がると国分尼寺跡とその奥に国分寺跡がある。いずれも跡だけで後継の寺はない。国分寺の場所には近年まで寺があったとのことで墓石、石塔などが無造作に置かれている。案内板によると200m四方のかなり大きな敷地を持ち七重の塔もあったことが確認されている。

国分尼寺
春日小学校の前に国分尼寺の案内板が立っている。国分寺と同じように後継寺もなく石塔、墓石などがあるだけである。敷地はたぶん小学校の敷地まであったであろう。

肥前一宮 与止日女神社
国庁遺跡よりも1キロほど北の嘉瀬川沿いにある古社である。前に来た時にも川を渡して数十匹の鯉のぼりが泳いでいたが、今回はまだ三月なのに同じように大量の鯉のぼりが川を覆っていた。さらに満開の桜、「よくおおいでくださいました」の感じであった。「ありがとう!」はお賽銭を奮発?してあらわした。

今回の巡りは佐賀駅からタクシー2時間で一巡り。なんと観光タクシーは2時間で2000円なり。「SAGA MADO」という観光案内所で3月31日までやっている企画とか。吉野ケ里観光には4時間コースがいいが、この企画を22年4月以降もやっているかどうかは係りの人も不明とか!

和泉(いずみ)国は泉州(せんしゅう)なのだ!

 子どもの頃、こんな番組を毎週見ていた。「せんしゅうしのだの生まれ」、と言われても全く理解できなかった。あれから60年経ってやっと大阪南部の和泉国に信太という場所があることがわかった。そこに和泉国の国府、総社があることも知った。

和泉国府
和泉国は河内国から分かれた国で、国府は現在の和泉府中駅の近くに置かれていたようだ。しかし発掘はされておらず、推定であるが児童公園に国府跡の石碑が建てられている。

実は隣の信太には旧府神社というのがある。私はここに国府があったのではないかなどと思っている(願望)この神社は一時期は信太森葛葉稲荷神社に合祀されていた。信太の森神社は白狐が葛の葉という女性になって陰陽師の安倍晴明を生んだとされた場所である。もちろん清明の霊力を権威づけるのに作られた話である。しかし信太という場所はなかなか面白い。葛葉稲荷神社と旧府(ふるふ)神社の写真を入れておきます。

和泉国総社
国府のすぐ近くに河内国総社がある。泉井上神社で、ここに泉がわいたことから和泉国となった由緒ある神社である。立派な本殿、五社総社殿があるが現在は建て替え中である。古い社殿の写真が飾られていたのでコピー写真を入れておきます。

和泉国一宮
和泉国一宮は大鳥神社で、少し離れて堺市のJR鳳駅の近くにある。だんじりで有名な神社である。下のURLをクリックすると私の一宮巡りのページに行きます。
http://kazmiwa.sakura.ne.jp/ichinomiya/006ohtori-sakai/ohtori.htm

和泉国 国分寺
和泉国が河内国から分離独立したのは757年で、国分寺建立の詔が出た741年よりも後である。そこで前からあった安楽寺を昇格させて国分寺にしたそうだ。国分尼寺は最初から作られなかったようだ。
和泉府中駅からバスがあるが50分ほどかかる。自転車を借りていたので往復しようと思ったが、国分峠を越えて河内長野に出る方が合理的なのでバスに乗った。昔なら10キロ走っても汗もかかなかったのだが今は5キロも歩けない。ちょっと悔しいがまあ年相応にやらなけりゃだめだろう。

和泉国分寺は国府、総社からかなり離れたところにある。なぜだろうと考えながらバスに乗っていたが、峠を越えたらすぐに河内長野市にでた。和泉国は河内国から分離されたが、国分寺は河内国に近い関係にあったのだろう。それで勝手に納得した。峠越えの賀曽利さんは当然ここを越えていったのだろう。

古墳の中に河内国府、惣社がある


大阪の藤井寺市は古墳の中に家々が間借りしているという感じの街である。奈良盆地から流れ出す唯一の川が大和川である。周囲の山を削って流れ出した扇状地は難波の港ととの間にあり、石器時代から多くの人々が住んでいた痕跡がいくつもある。実はこの題字の国府遺跡の「国府(こう)」はただの地名で国府の意味ではない。

河内国府
土師ノ里駅近くに允恭天皇陵古墳がある。その遥拝所の近くに国府(こう)という集落がある。ここには石器時代の遺跡があるり、国府遺跡とよばれ発掘は行われた。国府は地名であり「国府、国衙」遺構は見つかっていない。しかしここが国府であったと信じられているようだ。

河内惣社・志貴縣主神社
国府(こう)の隣に惣社という集落がある。ここには志貴縣主という神社があり「河内惣社」との記述がある。祭神は神武天皇の長男である神八井耳命であり、楠木正成の祈願所であり大いに繁栄していたが、正成が没落すると同時に衰えたようだ。各地の総社に比べると規模は小さいが隆盛の時代はあったのだろう。

河内国分寺
河内の国分寺は惣社からは3キロほど離れている。この距離が近いのか遠いのかは不明だが、土師ノ里で借りた自転車の私はかなり遠いと感じた。国分寺跡には毘沙門堂などがあるが河内国分寺の跡を継いでいるのかどうか?聞くことはできなかった。大和川からはかなり上がった高台にあり、景色は良い。川の向かい側には孝謙天皇の迎賓館があったという。

国分尼寺
国分寺の近くにあったとされている。柏原市東条町尼寺という地名があると聞いたが、どこかわからず、時間切れで引き上げた。実はこの後奈良で個展をやっている緒方さんのもとに行くことになっていたからだ。

近江国衙は神領にある


近江は「淡海」と書いたこともあるらしい。淡海すなわち琵琶湖から流れ出る唯一の瀬田川にかかる唐橋の近くに近江一宮の建部神社がある。その背後の丘の上にかなり広い芝原が近江国府跡である。国府という地名が残っている場合が多いがこの地は「神領」という場所にある。建部神社は古くからあるのでこの地域を神の領域と考えてつけられた名前なのだろうか。

国府(国衙)

近江には天皇の宮が2か所作られている。天智天皇の近江京、聖武天皇の紫香楽宮である。この天皇宮と国府の関係はよくわからない。しかし聖武天皇が国分寺を作る詔を発した741年ころには神領の地に国衙(国庁の建物)があったようだ。私は建部神社を通って坂を上り丘の上に上がった。坂の上には公営住宅が何棟も建てられているがその一角が芝原になっている。そこに木製の外構で作られた基壇が復元されている。

建物や築地塀の一部も復元されている。国衙(国庁の建物)は藤原京、平城京とよく似た配置になっており、かなり大規模なものだったようだ。近江国府は国府の典型と考えられており、各地で復元されている遺構遺跡は近江国府の復元に倣っているとのことだ。

総社?近江国一宮建部神社
総社は不明とされており候補になる神社も知られていない。私は国衙のすぐ下にある建部神社が総社であったらいいのに!と思っている。近江一宮で古い時代から信仰を集めていた神社である。神領と地名は建部神社にまつわるものである。国を治める国司からも信頼が厚かったのではないかと思うのだが・・・みな願望である。

国分寺
国分寺ももとは紫香楽にあったらしいが、国府がこの地にあったころに近くに移ってきたようだ。「近くに」と言ったが、衰えた私の足では国府(国衙)から1時間半かかった。直線では3キロほどだがバス電車はみな石山駅へ行くので歩く外はない。(タクシーがあるじゃないか…奥さんと一緒の時以外はタクシーは使わない)のでかなり疲れた。
近江国分寺は新幹線の線路近くの高台にある晴嵐小学校の敷地内に石碑が一基あるだけ。ここには国昌寺という国分寺があったらしい。しかしこの場所は「国分」ではなく北小路という地名である。新幹線を越えたところに「国分」の地名があったので行ってみた。そこには国分大塚古墳があるだけで国分寺的なものはなかった。

国分尼寺
残念ながら国分尼寺は見つからない。あきらめて帰京。

今回のおまけ!
北小路の御霊神社にいた空飛ぶ狛犬、なかなかこういう狛犬は見ない。

我が奥さんの舞囃子「田村」

我が奥さんの旧姓は田村。すでに現姓の「三輪」は舞ったことがあるので、今回は「田村」を水道橋の宝生能楽堂で舞った。奥さんの母の田村美知代さんは15年前の今日亡くなった。その追悼でもあった。

77歳にしてはなかなかなで、キレもよく舞うことができたようで本人も満足していた。写真班の私はモタモタして最初の場面をうまく撮影することができなかった。あまりにも慣れ過ぎていたことが失敗原因。奥さんは「これが最後!」と言っていたが、うまく撮影できなかったのでもう一度やってもらうことにした。

次も撮影失敗すれば奥さんはさらに続けることになるかも。いま辞めてしまったら、老化するだけだからもう少しやった方がいいかも。ビデオを見るとなかなかいい動きをしているのでまだできるだろう。私の撮影の腕が衰えていないといいのだが。

 

冬のお花見 蝋梅 

オミクロンに狼狽しながら過ごしている。しかし3度目のワクチンも先日すませたので、人のいないところでお花見するぐらいは許されるだろうと勝手に判断し、立川の昭和記念公園に行ってきた。ネットで見たら公園の一番奥の池のそばに咲いているそうだ。この公園には桜の季節に何回も来たことがあるが、梅の時期には初めてだ。

お弁当を買って立川駅から歩いた。昔の飛行場の跡だから広い広い。その広い公園には数十人の人しかいないのでさびしい。午前中に足の魚の目を液体窒素で焼く治療をしたばかりだったので足の裏が痛い。手の親指のイボも同じ治療をしたので缶コーヒーのキャップが回せない。気分も体調も不調で疲れが一段と増した。
しかし奥のほうで紅梅、白梅、などを見ているうちに気分は回復、足もびっこを引きながら歩けるようになった。蝋梅は普通の梅とはちょっと違う。本当の梅のなのかな?   ロウバイ科ってのがあるそうだ。梅はバラ科。

それぞれの咲き方を見てみよう。

梅だけでなく水仙も咲いていた。昨年の暮れは暖冬で水仙は1月中に満開になったそうだ。毎年宮本先生の水仙忌に水仙を飾るのだが今年はオミクロンで中止。もしあったとしても水仙を飾ることはできなかったかもしれない。ほんのちょっと咲いていた水仙の写真と節分草。セツブンソウも節分の頃花開くのだが、今年はもう終わりそうだった。

のんびり日向ぼっこしている鴨だが、温暖化が進むと北へ帰る日も早くなるのかな?

美濃国府は関ヶ原の近くにある


畿内から東国に抜ける要衝、不破の関の東、関が原にある美濃国は政権にとっては重要な場所で国司は重要人物が派遣された。国府の場所は「府中」の名前が残る安立寺付近にあったと考えられていた。しかし近年の発掘調査によって安立寺より少し南側の南宮御旅神社付近が国指定史跡(2006年)となった。民有地がほとんどなので、美濃国分寺のような整備はなされていない。

国府
東海道線の垂井駅から北へ行くと相川に出る。上流に歩くと御幸橋がありその橋を渡って北に行くと府中郵便局の手前左手に白髭神社・南宮御旅神社が見える。中に入った左手に国府跡が広がっている。周囲にはいくつもの古墳があり古くから大きな集落があったことがわかる。

総社
国府跡に隣接する神社は南宮御旅神社と白髭神社が並立している。南宮御旅神社は南雲大社の神輿が渡御する重要な神社であり元の南宮神社ではないかとされている。この南宮御旅神社が美濃国総社とされている。

南宮神社
国府の中心道路(朱雀大路)は御幸橋に通じさらに南下すると南宮神社に行きつく。その距離は1.5キロ橋を渡り線路を越え新幹線をくぐるが20分ほどでつく。昔の人にとっては目と鼻の先。国府と南宮神社(美濃一宮)との関係は深かったのだろう。国府と一宮がこんなに近しい関係は珍しい。ついでに言うと新幹線からこんな近い一宮はほとんどない。新幹線が速すぎて赤鳥居の写真をとるのは難しい。

美濃国分寺
現在も美濃国分寺は旧国分寺跡の山側に存在している。国分寺跡はきれいに整備されており歴史民俗博物館も作られている。近隣には巨大な昼飯(ひるい)古墳や小さな名もない古墳がいくつもある。多くの人たちの住む集落があったことがわかる。

美濃国分尼寺
国分寺と国分尼寺がセットで作られたことは分かっているが国分尼寺が確かめられてい居るところは少ない。現在願正寺境内に国分尼寺の碑が立っているがこの寺と尼寺の関係は分かっていない。背後には蓮如の御廟がある。

おまけ
今回は美濃赤坂駅から垂井駅まで15キロほど歩いた。なぜなら美濃赤坂駅に行く東海道枝線に乗りたかったからだ。東海道線だが大垣からわずか二駅の枝線だ。鉄チャンにとっては一度は乗りたい路線だ。さらに大垣から関ヶ原にかけて東海道本線が日本に分かれている。国分寺の裏を通っているのは下り列車専用線(上り勾配だが)。荒尾駅手前で四つに分かれる線路の写真を撮ることができて満足だった。

伊勢国府は能褒野の近く!


伊勢国の主要部分は鈴鹿市にあった。国府町がその場所だと思ったが、能褒野神社に近い広瀬町の長者屋敷遺跡が最初の国府であったそうだ。この場所は国指定史跡になっている。広瀬町の国府はそのあと「国府町」に移ったらしい。国府町には総社の三宅神社がある。お互いの国府の場所は直線で5キロほどある。今の道は川に阻まれ曲がりくねっているので歩くと2時間はかかる。前回井田川駅に来た時バスもレンタ自転車もないことがわかっていたので、今回は自転車を輪行した。これならちょっと離れた伊勢国分寺までもいくことができるだろう。

伊勢国府(長者屋敷遺跡)

能褒野神社
国府とは直接の関係はないが鈴鹿地域は「ヤマトタケル」の終焉の地として多くの伝説が残る。たぶん複数いたヤマトタケルが日本各地の敵対勢力を征服して大和政権を作った。大和政権によって律令国(旧国)が作られた。少しだけど関係はあるので国府巡りでも取り上げた。

国府(国府町)・総社

加佐登神社・白鳥塚

伊勢国分寺:国分尼寺伊勢は大国、さすがに立派な国分寺があった。子どもたちが国分寺跡で遊んでいた。史跡あとにある歴史博物館では「国府展」開催中。同年代のボランティアの方が「自転車、いいですね、私もやりたいんですが・・・」国分寺の話にはならなかった。

杖衝坂・ヤマトタケルここで三重に足が折れた
国分寺から国道1号線を行くと分岐があり自転車ではとても降れないような杖衝坂の急坂にでる。坂の下には四日市の街が見える。ヤマトタケルは伊吹山の神(イノシシ)に敗れて逃げる途中この坂にでた。足が三重に折れて坂が上れなかった。坂上から加佐登に行き果て、白鳥塚に葬られたが、白鳥に姿を変え大和に飛び去った。その時に「大和は国のまほろば・・・」と歌った。国府巡りとは直接関係ないが、国府巡りには欠かせない脇役だ。実は前回九州大隅国国府でも隼人塚の時にヤマトタケルは登場している。