十条富士の山開き(7月1日)

  東京にはお富士さん(富士塚)が60個ほど現存している。昔は富士講の人が維持管理をしていたが、いまは講がなくなり、山開きも行うことができなくなっている。その中で盛大な山開きと縁日が行われているのは、ごく珍しい。私の知る限りでは、ここ十条富士が一番の賑わいだと思う。  十条富士は岩槻街道にめんして面している。その道路に直交した大きな道路があるが、埼京線の線路までほぼ200mは完全に露店に埋め尽くされている。これはなかなかの壮観だ。日曜日とあって、子どもたちは浴衣姿で縁日を見て回っている。でもとてつもなく暑いので、浴衣に帽子という子どもたちもいる。
 最後の写真をみると、十条富士の下りた場所は道路のように見える。実は岩槻街道は狭いので拡張工事がこの神社の手前まで来ている。来年は工事が進むのでこの場所での山開きはできないだろう。わらの「蛇」を売っている講の方に聞いたが要領を得ない。まだ決まっていないのだろうが、後ろに下げるなどして、残して欲しいものだ。

熊野大社のページ・サッカー

  毎夜テレビでワールドカップを見ている。先日のスペイン、ポルトガル戦はすごかった。さすがワールドカップ。しかしそれ以降アルゼンチン、ブラジル、ドイツなど優勝候補のだらしない戦い! 何やってるんだ!

日本は85分間一人少ない相手に手こずった。世界最強の一角だったが、ハンドの反則で一人退場。もちろんそれは仕方がない。しかしサッカーは11対11でやるもの! テレビでは勝った勝ったと大騒ぎだが、あまり気持ちのいい勝ち方ではなかった、と私は思う。

物事を素直に喜べないのは、まだまだJUNKOさんのことを無念に思う気持ちがあるからかもしれない。「サッカーと結びつけないでよ!」と怒られそうだが、沈んだ気持ちはなかなか晴れない。

昼間はパソコンに向かって全国一宮巡り、の報告書を作成中。これがけっこう手間がかかって、時間を忘れる作業です。このブログの固定ページから見れるようになっています。写真は熊野大社(島根)なかなかいいでしょう。

隠岐島 焼火山

峠楽会の仲間であるHARAさんが、「おみやげ」といって写真の粟おこしをくれた。この文字は、私が一押しした隠岐の島の「焼火山」の山頂の神社にあったものだ。「あそこまで行ったの?」「行きましたよ!」と誇らしげに答えてくれた。私はあそこまではたぶん行けないだろうと思っていたのだが・・・この山は隠岐の島の島前にある古い火山の中央火口丘である。地図で見ると丸い島の中央部が一時期陥没してカルデラができ、その中央部に火山が噴出し火口丘を作ったことが見てとれる。

その山頂に神社がある。半分岩の中にめり込んだような形だが、これは火山活動がおわってからはるかに時間がたってから作られたものだから、押しつぶされる心配はない。しかし焼火と書くと、さも火山活動の火があるように見えるが、実はこれは「のろし台」の火だったのではないかと推察される。

まあともかく私が面白がったところに行って同じように面白がってくれたことは、私としては大変うれしい。これからもおもしろそうなところを紹介しますから、遊び歩いてください。以下は焼火神社の社殿、入り口の狛犬。

若狭一宮 若狭姫神社 お水送り

 小浜という町はオバマ大統領が出現して有名になった。トランプ大統領はオバマさんを否定しているので、小浜市にも影響があるのではないかと思っていた。今回敦賀から豊岡に行くのに小浜線を通って行った。

小浜の若狭彦神社は毎年3月12日、奈良東大寺のお水取り行事のためにお水を送り出す「水送り」行事を行う。10日間かけて水は100㎞先の東大寺まで送られるので、3月2日の深夜、白装束の行者によって水が送られる。なかなか神秘的行事で、現代のパワースポットの一つになっている。

若狭一宮 若狭姫/彦神社

気比神宮は北陸道の総鎮守

 水曜日は孫守があるので昨日のうちに戻ってきました。本日は午前中、今回行った一宮の紀行を作成してました。ブログに入れるのは簡単なのですが、ホームページ用は写真を整えてからでないとうまくいかない。写真の大きさの調整などに時間がかかります。

本日作ったのは越前一宮気比神宮。写真を整理していると 、この神社には、ここ数年で4回も来ている。福井県敦賀という町は交通の便が悪いのによく来ている。北陸新幹線が金沢まで開通したおかげで、お金さえかければ簡単に来ることができるようになった。私ら年寄りはジパングクラブの3割引きパスがある。これは大きい。

2017年に来た時には大鳥居は塗り替え中だったが、今回は修復が終わり、ピカピカになっていた。上の写真。日本三代木造鳥居の一つとか。

さて気比神宮の写真紀行です。 青いところをクリックしてください。
以下でもオーケー

伯耆の国一宮:倭文(しとり)神社

  朝7時の山陰線で倉吉に向かった。ローカル線だが高校生の通学で満員。倉吉手前の松崎で降りる。倭文神社まではほぼ4キロ、まだ暑くないので歩けるだろうと判断した。駅前は東郷湖、ここは温泉地で湯気の立つ小さな池があった。手を入れるとやけどしそうな暑さ。

湖の周りをあるき、山に入る道しるべがあった。梨の畑に向かう軽トラ用の舗装道があるが、大変な急坂。小さな峠を越えると集落が出てくる。さらに上るとやっと表示がでてきた。夫婦岩があるが大きなの石と下に敷かれた小さな石。今の時代なら大きいのが奥さん、しかれて小さくなっているのがダンナということになるかな?

朝早かったのでまだ扉が開いておらず、社務所の朱印もないので待っている人が数人いた。私は朱印の趣味はないので、立派な逆立狛犬の写真を撮ってから、経塚まで上った。ここにあったお経は国宝になって博物館に納められているそうだ。ほかにもお宝があるので、夜間は社殿は閉められているのだろう。

神仏混淆の神社なので鳥居の後ろに神門(寺なら仁王門)がある。ここの彫刻もおもしろい。インドの象の神さまかもしれない。仁王門の前の狛犬は新しいので面白くないが拝殿前の逆立狛犬はいい。こんな巨大なものは今まで見たことがない。私の中では日本最大逆立狛犬だ。 ■本殿は何造りかわからないが千木は立削ぎ、鰹木は3本。出雲大社と同じだ。倭文(しずおり)氏が織物の神である建葉槌(たけはづち)命を祀っていたが、大正時代までは下照姫(したてるひめ)命も主祭神であると考えられていた。いまは女神ということから安産の神となっている。

経塚から降りてきたら、9時前だが社務所の方々も来られて拝殿の扉があけられた。建葉槌命よりも下照姫命の方が人気のようだ。下照姫は大国主命の娘と言われている。

帰りは山道は避けて湖のほとりを下った。東郷温泉の向こうに昨日山開きをした大山が見えた。

この辺りは神話の郷、なかなか楽しい一之宮めぐりになった。一緒にお参りした人は、出雲に行くぞ!と去っていった。私はすでに参拝済みだ。

 

但馬から因幡へ、「たもや」で食事

鳥取にいます。因幡の白兎神社、因幡一之宮の宇倍神社にお参りするためです。地元にいるKUSA野さん御案内でぐるっと回れたので楽ちんでした。いつもなら地図を頼りに歩け歩けなのですが、本日は乗っていればいいので楽でした。写真は合流場所の餘部鉄橋。

鳥取砂丘・砂の美術館:白兎神社

「たもや」で食事KUSA野さんおすすめ。猛者エビは今この時期にしか食べられない。

 

因幡の国一の宮:宇倍神社

鳥取県鳥取市国府町宮下651・・・・に鎮座する因幡の国一の宮。因幡と言えば白兎であるが、この神社はまったく関係なし。
■ ご祭神は、 武内宿禰(たけのうちのすくね)命である。この方は第十二代景行天皇より、成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5朝にお仕えされ、まことをつくして天皇の信任篤く、わが身を投げうって東奔西走、日本の統一に尽力されました。 わが国で最初に「大臣」の称を賜わり、日本の国造りに功績のあった神さまです。(神社のHP)

武内宿根は360歳でこの地で亡くなった。終焉の地という石碑もあった。神武天皇でも寿命は137歳ということになっている。神話とはいえその3倍近い寿命というのはどう考えてもおかしい。昔の人も「お話だよ!」と了解していたかもしれない。しかし明治政府は、日本の大臣の理想像として教科書に載せ、お札に肖像を載せた。明治大正昭和にかけ5回もお札に登場したのは他にはあまりない。神話を歴史にしてはいけないというのが私の感想。似顔絵もないのによく描けた、想像力というのはたくましいものだ。   今は総理の座を狙っている石破さんがこの宮の代表になっている。大臣はお仕えする身、昔は天皇になることはできなかった。今は大臣が総理になるのは何の不思議もない。今変な総理いるが、何とか石破さんがんばって総理になって欲しいと、地元の人は期待しているようだ。

社殿はなかなか立派だ。流れ造だが、屋根の上の千木は縦削ぎ、鰹木は3本と出雲大社風である。

本殿の背後の高台に「磐座」(いわくら)がある。武内宿祢は神功皇后の子どもを育てて、無事天皇の位につかせる。第15代応神天皇である。なので応神天皇を祀る八幡神社には伴神として武内神社や高良神社がある。子育ての神さまとしてお人気があるという。そういえば一昨日訪れた気比神宮にも武内宿祢を祀る高良社があった。

境内の奥に国府神社がある。因幡の国府跡は鳥取市の国府町にある。現在は「すなば珈琲」のお店がある。スタバはないがスナバはあるとの名言を吐いた知事はなかなかいい。

スナバは鳥取砂丘であり「砂の博物館」これもすばらしい。

白兎海岸には因幡の白兎の神社がある。こっちの方が本家かも!

若狭の一宮、若狭比米神社

若狭に来ています。敦賀で新しくなった気比神宮の大鳥居を見て、小浜線で東小浜まできて、そこから貸自転車で若狭神社をまわってきました。若狭神社は上社が若狭彦神社、下社が若狭姫神社になっています。長いこと神仏混淆であったので若狭神宮寺もひとまとめだったようです。  若狭神社は、東大寺二月堂にお水を送る「水送り」行事が行われることで有名です。毎年3月2日に鵜の瀬という川の淵で、奈良東大寺にお水が送られます。100㎞以上もある奈良まで地下水が流れていくとは考えられないのですが、行事として長い年月続けられています。3月12日には二月堂の「若狭井」でその水が汲みあげられます。  東大寺で修二会という行事がはじめられたときに、全国の神さまが集まめられました。その時に若狭の神さまだけが遅刻したのです。ちょうど魚釣りが忙しくて!10日間遅れた神さまはお詫びの印に毎年若狭から閼伽の水を送ることを約束したことで、お水送りが行われています。

82番根香寺(ねごろじ)

81番白峰寺は五色台の白峰にあった。こちら82番は青峰にある。その間は50丁の距離で讃岐の遍路道が結んでいる。旧陸軍の演習地でいまも善通寺部隊の敷地なので開発が進まなかったようで、大変保存がいい。丁石は、たぶん補修したろうが、50丁分全部残っている。50丁はほぼ5.5㎞で、上り下りはそれほどでもない。しかし我々の足では2時間以上かかった。

五色台の主峰、青峯山山中にたたずむ。弘法大師は密教修行の地としこの山に「花蔵院」を建立した。大師の甥の智証大師が訪れ、山の鎮守の一之瀬明神に出会い、「蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけた。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し「千手院」を建てた。この霊木の根は芳香を放ち続けたことから「花蔵院」「千手院」を総称して根香寺とよんだ。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めた。と記されている。弘法大師が開祖だがいまは天台宗。

かなりの山の中で昔は密教の修行の地だった。外界からの影響を断って大勢の修験者が活動をしていた。俗人にはわからないような現象も起こっていたというので、近年はパワースポットとしても知られる。怖いもの見たさに訪れる人も多い。仁王門のわきには牛鬼の大きな像が参拝者を驚かすように立っている。

人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が青峰山に棲んでいた。弓名人山田蔵人高清は山へ入ったがなかなか牛鬼が現れない。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけた。21日目の満願の暁に、牛鬼が現れ口の中に矢を命中。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。牛鬼の絵は魔よけのお守りとして親しまれている、そうだ。

 

第81番白峰寺

坂出の東には300mを超す溶岩台地が広がっています。溶岩はカンカン石と言われる固い安山岩です。この溶岩は古い時代に噴出したもので、現在知られる火山由来ではない。溶岩は長い間に侵食され、谷がいくつも刻まれ、いくつかのブロックに分かれています。そのなかで目立つ峰に青峰、黄峰、赤峰、白峰、黒峰の五色の名前が付けられています。

白峰に81番白峰寺、青峰に82番根香寺がある。その2寺の間には讃岐遍路道が残っており、重要文化財として保存整備が進んでいる。これはなかなかいい道で、歩いてよかったと思っている。地元の中学生も授業の一環として歩いているようで、今回多くの生徒たちに追い越された。

五色台全体の地図

■815年に弘法大師空海が白峰山頂(337m)に上った。その後空海の妹の子である智証大師がここに寺を創建した。智証大師は、山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し本尊にしたという。■白峯寺の中には「頓証寺殿」という建物もある。後鳥羽天皇と戦った保元の乱で負けた崇徳上皇は讃岐に流され、都へ戻れないまま流刑地で没した。白峰山に陵墓が造られた。崇徳院と親しかった西行法師が詣で法楽を行った。その後慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした木の丸殿をここに移した。現在の頓証寺殿がそれである。四国88カ所霊場の白峯寺に詣でる人は多いが、実はこの崇徳天皇の御陵に詣でる人も多い。私が訪れた時も、駐車場にいたタクシーの運転手さんは「みなさん御陵にこられています」と教えてくれた。お遍路さんは御陵を素通りして、遍路道に入っていく。お遍路さんは途中にある寺や神社、御陵にはあまり目を向けない。私は歩き旅であるから途中の興味深いところには寄り道をするので予定時間を過ぎることが多い。これもまあいいか! である。

崇徳上皇がなくなってしばらくして西行法師が慰霊の旅をした。五色台の下にある・・神社から急な坂を上ってここまでやってきた。その道を今は「西行道」として参拝の人がとおる。私も知っていれば79番から80番を後回しにしてこの道を上ったのだが・・・、ここから下る気はなく、白峰寺をゆっくり参拝して、讃岐へんろ道を82番根香寺に向かった。

門を入って正面に護摩堂がある。左に曲がって正面に頓証寺殿がある。本堂大師堂は右手にある急な石段を上がった上にある。途中に立派なお堂がある。

本堂の拝殿の天井の釣り灯篭

昨日参った79番天皇寺が崇徳天皇の配流地の御所だった。81番は御陵だ。天皇関連とすれば79番から80番を飛ばして81番へ行くのが自然だ。昔のへんろ道もそうなっていたらしい。しかし札所めぐりは順番どおりに行くようだ。合理的な考えをする人たちは79⇒81⇒82⇒80⇒83 とめぐるようだ。

80番国分寺からの「へんろ道」

国分寺を過ぎると、どんどん山の方に道が入って行く。あの急な坂が「へんろころがし」なのだろう。昔は田んぼがあったようだ。重機を操作しているお兄さんに聞いたら、放棄された田んぼを太陽電池パネルの設置場所変えているところだという。苦労して稲作をするよりも、パネルを設置して利益を得る方が楽だろう。なんかアパートの大家さんみたいだ。
国分寺発9:30→

本日は日差しは強いが気温は20℃くらい。山の中は木々が茂っているので日差しはさえぎられる。奥さんは日傘をさしていたが、山の中では必要がなくなった。
展望台(石鎚神社WC)10:30 → 一本松峠 11:30

  一本松峠には車道が通っている。右に行けば82番根香寺(ねごろじ)左に行けば81番白峰寺(しろみねじ)である。2週間前に通ったばかりの清水さんのアドバイスでまず車道を通り81番へ向かう。歩く道は車道を横切ってくだる。涼しいし気分はいいだろうが上り下りがあり遠い。自衛隊のフェンスに沿って2キロほど歩き、途中から歩道に降りる(左の案内柱)。
ゼンマイがたくさん生えているので取りたかったが、持って歩くわけにはいかない。81番白峰寺までいい道だった。

81番白峰寺( 寺の記事は別にする)
崇徳院ゆかりの寺を後にして、同じ道を古田まで戻る。寺の前に「へんろの道」の案内がある。ここは讃岐でも最もよく丁石(ちょういし)が残っており、手入れもされているという。50丁からはじまり82番の根香寺が1番になっている。
上の石柱12:15 → 白峯寺12:30-1:00 → 閼伽井2:10 → 19丁3:00 → みち草 3:30

19丁を過ぎるとまもなく車道にぶつかる。みち草という食堂があった。一瞬入ろうと思ったが、すでに3時半、先はまだ長いので素通り。

82番根香寺 4:00-4:30 → へんろ小屋4:45 → 車道分岐5:30 → 鬼無駅 6:30

9時間の行動時間、長い一日でした。3万9千歩。鬼無駅から丸亀に戻りホテルへ。

四国88ヵ所 80番 国分寺

とうとう80番まで来た。あと8札所を残すのみとなった。あと一回の歩き旅で「結願」ということになる。前に書いた通り願いが叶うというほどの願いを持っていないので完歩と言った方がいいかもしれない。

昨日は79番まで巡って、鴨川から電車で丸亀に戻った。丸亀のホテルが奥さまのお気に入りなので今回は連泊することにした。おかげで本日は荷物を持たないで歩くことができる。最近ちょっとでも重いものを持つと翌日は起き上がれないほどの腰痛になる。大きなお風呂もあるのでいいホテルだ。値段はへんろ民宿よりも安い。いったいどうなっているんだろう。今朝は丸亀から電車で国分駅に来た。2駅抜かしたが本日は「へんろ転がし」を行くので大目に見ることにした。

国分寺は思ったよりもはるかに立派な寺だった。時間をかけずに先を急ごうと思っていたが、じっくりお参りが必要だった。30分以上かけたので、あとの時間に響いた。本日は先が長いということを忘れていた。

立派な本堂があり、奥さまはしっかりお参りをしていた。ここには千手観音がおられるそうだ。私は大師堂に行こうとしたのだが、それらしいものは見えない。あたりを見渡すと弁天様と七福神が祀られている。お寺と弁天さんの関係はよくわからないのだが、まあいいか! 納経所で聞いてみると建物の中に大師堂があった。写真禁止なので大師堂の写真はない。これまで79ヵ所で本堂、大師堂は必ず写真を撮ってきたので、ここでかけるのはちょっと残念。でもまぁいいか!

昔の国分寺は741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれた。しかし国からの援助がなくなるとほとんどの国分尼寺は廃寺になり再興したものはなかった。国分僧寺もほとんどがなくなったが宗旨を変えて存続したものもある。四国には旧国に4つの国分寺があるが、讃岐の国分寺だけ当時の場所に存続した珍しい寺である。現在の寺の裏手で当時の遺跡が発掘中である。

 

四国88ヵ所 79番天皇寺高照院

78番郷照寺の大師様にご挨拶をして急いで坂を下りる。新町という古そうな町をとおり、国道をくぐって小さな峠を上る。うどん屋があったが本日終了。香川県はうどん県と称しているが、まだ讃岐うどんを食べていない。残念。

峠を越えると田尾坂公園にでる。眼の下にまっすぐな道が坂出の駅方面につづいている。荷物がないので快適に本町アーケードを行き、坂出の駅を右手に見て進む。線路を越えて山麓をまわるいい道を歩き八十場(やそば)の水場をすぎる。この水で日本武尊は生き返ったという由緒ある湧水だ。日本武尊はいろんなところに出没するものだ。

八十場の「ところてん」清水屋さんをすぎると大きな椎の木がある建物の境内に入る。境内に入ると反対側に赤い鳥居が見えるのでそちらに回る。近所の人に「天皇寺はここかな?」と聞くと、「ここは神社だけど、天皇寺といっしょだ!」と教えてくれる。赤い鳥居は三つ鳥居、我が三輪神社の鳥居と同じで「三輪鳥居「」ともいう。その鳥居の右手の大きな岩に「四国79番霊場天皇寺」と彫りこんである。さらに白峰宮という柱もたっている。何がなんだかよくわからないがみんなごっちゃになっているらしい。

とりあえず本堂と大師堂にご挨拶をするが、正面にある神社の拝殿、本殿に比べると見劣りがする。それもそのはず、ここは明治まで神仏混淆の天皇寺だったが、神仏分離で寺は廃寺になりその後末寺だった高照院が再興したようだ。したがって天皇寺高照院というのが正しい。お遍路地図などには79番天皇寺とあるが、それじゃ高照院はかわいそうだ。天皇寺高照院と書くのが正しそうだ。

さて天皇とは第75代の崇徳天皇だという。ちょっと調べてみたら
小倉百人一首の『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ』
の詠み人で、文化人らしい。
しかし崇徳天皇は平将門、菅原道真をしのぐ大怨霊であるとされている。

崇徳天皇の祖父は白河天皇、父は鳥羽天皇だが、実際は祖父の子だったようで、父は崇徳のことを忌み嫌った。権力者だった祖父は息子の鳥羽を上皇にし、崇徳を天皇にした。

白河法皇がなくなった後、鳥羽上皇は崇徳天皇を廃して近衛天皇をたてた。近衛天皇はすぐに亡くなるが、崇徳が呪い殺したという噂が立った。近衛天皇の後に立った後白河天皇は平清盛と組み戦いを起こした。「保元の乱」である。負けた崇徳上皇は四国の讃岐へ流された。

自分の血をとって書いた写経を京都に送り、帰還を願ったが、破り捨てられたのを知り絶望して、1164年舌をかみ切って死んだ。「日本国の大魔縁となって、天皇を民とし民を天皇となさん」と呪ったという。その後、後白河法皇の近親者に次々と不幸が襲った。崇徳が予言したように武士が台頭し、天皇の地位は地に落ちた。

その後100年ごとに起こる大きな事件は崇徳上皇の呪いだとされてきた。怨霊をおそれた明治天皇は崇徳天皇の御霊を京都に戻し白峰神宮を創建してから即位した。亡くなって800年後の1964年には、昭和天皇が崇徳天皇陵に勅使を派遣し、霊を鎮めた。そのおかげで東京オリンピックは無事成功したという話も残っているそうだ。

100年ごとに呪いを発揮するなんてまさに大怨霊だ。私にはなんの関係もないが、崇徳上皇の呪いが残っている場所には長く居たくない。赤い鳥居をあとに一の鳥居に向かって急いで駈け下りた。そのせいで、行先の表示をちゃんと確認しなかった。ふつうは門前にある案内板(下の写真)を確認して次の札所に向かう。私はあわてていたので鳥居前の参道をまっすぐ下って行った。おかげで翌日「へんろ転がし」の難所に苦労をした。翌日出会った外国人の歩き遍路はみな「へんろ転がし」の急坂を下りに使っていた。

彼らのもつ案内書には、79番天皇寺から81番白峰寺にあがり、82番根香寺に参ってから一本松にもどり「へんろ転がし」を下って80番に行くと書いてある。この道の方が昔のへんろ道であると書いてある。日本人は順番通りに行かなければいけないような気がしているが、ここは 79→81→82→80 と順序を変えたほうが合理的である。その時には知らなかった。残念。

四国88ヵ所 78番郷照寺

78番郷照寺
宇夫階神社の鳥居前は参道になっているのだろう。まっすぐな道が付けられている。鳥居からすぐのところに立派なお寺が、きっと郷照寺に違いないと思ったが、実は別の寺だった。郷照寺はそのさき、右手に入り少し登ったところにあった。

一番下には鐘楼がある。そこから宇多津の街が一望できる。坂出の街は峠を越えた向こう側らしい。鐘楼から石段を上がると納経所がある。本堂はさらに数段あがり、さらにその上に大師堂がある。1日目でまだ石段登りに慣れていないので庭園脇の緩い坂を上る。立派な池を巡る庭園があった。なかなかいい感じだった。

ご本堂と庚申堂  四国88カ所の中で唯一「時宗」の寺だ。

大師堂のさらに上には淡島様がある。女性の守り神様だ。奥さまはお参りしたが、私はちょっと近づきがたく、地下にある阿弥陀堂に降りて行った。小さな阿弥陀様の像が千体万体並べらられている。奉納した方々の気が満ち満ちているようで、急いで外に出た。まだ修行が足りないのでどう対処してよいかわからない。