生駒ケーブルカー(奈良)

 生駒鋼索線は大正7年(1918年)日本で初めてつくられたケーブルカーである。ヨーロッパでは各地に作られていたが、アジアにはホンコンにあるだけだった。見様見まねで作られたケーブルカーだが、大好評で各地にケーブルカーが作られた。大正から昭和初期にかけてはケーブルカーにとって一番華やかな時代だった。

日露戦争が終わり戦争債権の返還のために日本の景気は冷え込んだが、1915年に大隈内閣は第一次世界大戦に参戦し、中国にあったドイツ権益をうばったりして景気は好転した。好景気にあやかって鉄道事業も急速に発展した。後の阪急電車になる箕面有馬電気軌道の沿線開発や宝塚歌劇団の公演もこの時期であった。

生駒聖天(宝山寺)への参拝者のために敷設したケーブル線は大変好調で、初年度には144万人もの乗客数があった。気を良くした生駒鋼索鉄道はすぐに複線計画を作ったが、まもなく大阪電気軌道(近鉄の前身)に合併され、昭和元年に複線化、昭和4年には宝山寺から生駒山頂遊園地への山上線も開通した。(古い写真は宝山寺駅にある資料館のもの)


生駒鋼索線:宝山寺線


これまで2回ほどこのケーブルに乗っている。最初は松尾芭蕉が越えた「暗峠(くらがり越え)」を通過するために生駒頂上から歩いた。次は生駒山の大阪側のすそ野にある「でんぼ」の神様「石切劔箭(いしきりつるぎや)」に参るためであった。生駒の聖天さん、石切さんなど、関東育ちの私にはとっては不思議なパワーをもつ寺社と思っていた。伊勢神宮のような清涼感はなく、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃしている。関東人、関西人の行動パターンの違いをみるようでおもしろい。もちろん私はその感覚は嫌いではない。

上に書いたとおり、下部の宝山寺線は複線になっている。複線のケーブルカーは日本ではここだけである。乗客の多い時には複線を使うが、現在はブル号とミケ号、子どもたちに人気の車両が運行しているが、私が行った9月20日は定期点検中で、白樺号とすずらん号が運行していた。漢字の名前のケーブルカーはほとんどない。なぜと思ったら「しらかば」と書くと反対から読む人がいるからだそうだ。昭和初期には文字は右から左に書いていた。

複線:行き違い場所では線路は4本並び、最初の写真の4台の車両が並ぶことができる。私の写真ではなく、パンフレットから引用。下の写真は旧車両で1号車いのり、2号車みのり。


生駒鋼索線:山上線



昭和4年に生駒山上に遊園地が作られ、飛行塔が人気をはくした。開園に合わせて山上線も作られケーブルカー三本体制になり、沿線に住宅も作られた。ケーブルカーでは珍しく定期券を使う客の割合が多くなった。

しかし太平洋戦争の物資線路不足の中、ケーブル線は不要不急線として休止に追い込まれ、宝山寺線の片側線路は供出させられた。しかし山上の飛行塔が海軍の見張り台として接収されたために、路線が撤去されることはなかった。戦後いち早く生駒ケーブルが復活したのは、戦争中も軍の施設として運行されていたからである。
しかし戦後は生駒山上にも自動車道路ができ、モーターリゼーションの波の中で苦戦が強いられてきた。戦前の乗客数には戻れないが、近鉄という大企業の傘下でなんとか生き延びて、ついに2018年、開業100週年を迎えた。  近年は観光客の興味の多様化により、宝山寺参拝、遊園地の集客以外の乗客数は少しずつ増えている。うまくいけがケーブルカーブームが再来するかもしれないと私は期待している。