我が家には広大(?)なお庭がある。毎日奥様が手入れをしているおかげで、今も様々なお花が咲いている。路地を通る人たちも「きれいですね!」と足を止めて眺めてくれる。私の仕事は時々の水やりぐらい。実のなるものもありますが、今年はブルーベリーが豊作、ミカンは2つだけ、なす、ピーマンは食卓にも上ります。我が家の朝顔は今盛り、よそのはとっくに終わっているのに。ということでお花図鑑! 名前は後で入れます。
清水寺の狛犬は八坂神社から?
ホテルの図書スペースに京都の古い絵葉書があった。八坂神社の写真がいくつかあった。昨日同じ角度から写真を撮ってみた。場所と狛犬は変わらないが、歩いている人はいまは外国人だらけ、というより外国人だけ。
もう一枚境内の狛犬の写真を見た。巨大にそっくり返った狛犬だ。どっかで見たことがあると思ったら、清水寺の仁王門の前の狛犬と同じだ。八坂神社の境内をこの威張り狛犬を探し回ったが、どこにもいない。
そこで考えた! 我が仮説は次の通り。
「古い絵葉書に写った威張り狛犬は、清水寺に移築した」
ネットで検索すると、清水寺の狛犬はもともとはブロンズ製だったが、戦争中(昭和17年)に供出させられ台座だけになっていたそうだ。
清水寺の貫主大西良慶の法話に、次のような言葉があるそうだ。
「前の戦争で、仁王門の前の狛犬も持っていかれた…。金の物みんな持っていかれた。それで、まあ今度、石にしといたらね、なんぼ戦がおこったかて石を持っていくちゅうことがあらへんので、今度は石に建ててもろてね。」
1944年に現在の石の狛犬が寄進されたと台座には書いてある。1944年はまだ戦争の最中、こんな大きな石造をつくることなどできなかったはずだ。ネットで調べても誰が作ったか、どこにも書いていない。
そこでやはり私の仮説。八坂神社の金属製の狛犬も供出させられたが、そこには数多くの石造の狛犬がある。清水寺の信者たちは八坂神社に掛け合って一対の狛犬を譲ってもらったのではないか。それをエイやコラさと産寧坂を引っ張り上げて、仁王門の前に残る台座の上に設置した。 我が仮説に満足して、もう一度詳細に写真を調べてみたら、ちょっと違うかな??? 仁王門の威張り狛犬は結構新しい。八坂神社の清水寺に持ってきてをちょっと手直しをして据え付けた。
なかなかいい仮説だが、ちょっと無理があるかな?
おまけ 仁王門から清水の舞台の下に移動して気がついた。おもしろい石碑を発見。
なんと蝦夷の英雄、阿弖流為の顕彰碑だ。中国人の団体の解説者が教えてくれた。阿弖流為をだまし討ちにしたのは坂上田村麻呂。田村麻呂は本心は蝦夷と和睦をするつもりで都に連れてきたのだが朝廷の裏切りで処刑をすることになった。それをずっと後悔していた。その思いを汲んで、篤志家がここに顕彰碑を立てたそうだ。清水寺は坂上田村麻呂が音羽山に建てた寺院なのだ。
京都の常宿?シェアホテルズ・ラクロ!
昨年から新しい宿を見つけて、京都での常宿、って程ではないのですが。京都御所の角の地下鉄丸太町駅にあるシェアホテルズ・ラクロという新しいホテルです。連休なのに今年は二人で9500円。ちょっと狭いけど清潔で快適。泊まっている人はほとんど外国人の個人客。日本人は若い人だけで、ジジババは私たちだけでした。
従来のホテルはフロントで「いらっしゃいませ!」と出迎えてくれるが、ここには若いお姉さんがパソコンを見てチェックインをするだけ。豪華なラウンジはないが、キッチンのついた人いシンプルなスペースが共有スペースになっている。部屋は清潔できれいだが、結構狭い。しかしこのスペースがあるので皆さん快適に過ごすことができる。
ヨーロッパ人たちはここで自炊をしています。私たちも昨年はコンビニ弁当を温めて食べていました。今年はすぐ脇に松屋があったので、そちらで食事。食後のコーヒーはラウンジで。
広いスペースの一角は図書スペースになっているので、無料コーヒーを飲みながら京都案内本を見る人も多いようです。私は古い京都の絵葉書を見つけました。それには八坂神社や清水寺の狛犬が描かれています。これは面白そう! 翌日、同じ位置から写真を撮ってみようと考えました。結果は次回に!
恒例の京都大江能楽堂!
9月19日から京都に行っていました。高齢の奥様の舞台が大江能楽堂であったからです。間違えた「恒例」の舞台は今回で11回目。第一回から私はビデオ係としてついて行っています。そのビデオは編集してから、ひそかにアップします。ビデオ:仕舞「邯鄲」
キャッシュレス社会?
まもなく消費増税が行われる。それに合わせてポイント還元が盛んに宣伝されている。2%の増税以上の5%還元が行われるようある。みなさんどういう選択をしたらいいか、大騒ぎだ。でもよく考えると増税しておいてそれ以上の見返りを与えるというのはおかしくないかな? それなら増税しなけりゃいいのにと誰もが思う。どこにからくりがあるのか。
1.カード(デビット)やスマホ決済にするとポイントがつくのでお得とのこと。しかし還元はカードやスマホ決済に誘導するための呼び水。ペイペイなどで決済させようということらしい。中国、韓国ではスマホ決済が90%にもなっている。わが国も負けてはいられないので、キャッシュレスを普及させようということらしい。しかしおまけのポイントは、期限付きで来年の6月までとか。要は当面の増税の目くらましということ。
2.キャッシュレスの決算をさせると誰が儲かるの?。キャッシュレス決済にすると消費は20 %
程度上がるそうだ。政府はなんとか経済を上向きにしたい。ペイペイ、ラインペイなど業者は大いに儲かる。政府はこれら業者と手を組んだ。でもペイペイはソフトバンクの子会社、ラインペイはネイバー社の子会社だ。ネイバー社は政府が大嫌いな韓国企業だ。経済と政治は別次元?
3.政府にはさらに大きな目論見がある。それは将来マイナンバーカードと連携させようというものだ。そうなればマイナンバーから個人情報はいくらでも取り出せる。銀行預金を把握できるので税金は確実に徴収できる。国勢調査などやらなくても個人情報は把握できる。分析すれば超ビッグデータも利用できる。選挙行動パターンを読めば、出口調査などしなくてもだれが当選するか即時にわかる。選挙など意味がなくなるかも。
■ 私のやれること!
私はブログも公表し、FBで友人たちと交流している。するとパソコンには私の興味ありそうな広告が次々に表示される。もしかするとこの人と知り合いではないか? なども表示される。それで旧友と再会したという利点もあるが、どこでどう私の情報を仕入れているのか不気味に思うこともある。現代社会においてスマホやパソコン、カードを使うということは、個人情報を提供しているといいうことだから、個人情報の流出はある程度は仕方がない。
NHKと違って民放テレビは全部タダである。インターネットもタダで情報をいくらでも提供してくれる。しかし民放やインターネット業者が善意で身銭を切って提供しているとはだれも思っていない。どこかで誰かが儲けているのだ。一番の儲け頭が電通など広告代理店なのだろう。今の社会はそうなっているんだから、文句を言っても仕方がない。
▲ こんな状況の中、私は今後どう対処するかを考えている。お国の方針に流されて、個人情報を丸ごと全部SOFTBankや韓国子会社のLINEに売り渡すか? ほんのちょっとのポイント還元におどらされて。
私はここで立ち止まってキャッシュレス社会に組み込まれないようにしようと考えている。一致団結して国際競争に立ち向かいたいという政府の方針とは反するので、非国民扱いされるかもしれない。しかし私は貯金の残高がいくらあるかなど権力者に知られたくはない。昨日何を買ったか、何の本を読んだか、だれと知り合いか、などなど知らせる必要のない情報をさらされたくはない。
香港のデモ学生が黒マスクをして顔を隠しているが、中国当局はとっくに学生の素性は察知している。香港も完全なスマホ社会である。当局は彼らの情報はしっかり把握している。世界情勢で不利なので今は様子を見ているが、その気になればいつでも動き出すはずだ。学生たちはそれを恐れて、必死になって外国にメッセージを送り続けている。
私は昨年今年と上海に行ってみて驚いた。ほとんどの経済活動がスマホ決済なのだ。町での物乞い(公にはいないはず)でもQRコードをもっている。路上ライブの投げ銭もQRコードである。スマホを持っていないジイバアは家から出ることができないのだ。
来年からはスマホを持っていないとずいぶん窮屈な生活になると思われる。政府はキャッシュレス決済を8割程度まで上げることを目標にしている。それぐらいないとキャッシュレス決済のメリットがないからだ。
政府に協力して皆さん登録しましょうと言われる。しかし私は今ぐらいの進歩で十分でそれ以上便利にならなくてもいい。
便利さの引き換えにリスクが大きくなるのはごめんだ。と思っていたところに今回の台風15号の停電被害。停電でスマホが使えないことで命の危険に陥ることがあるのだ。
私の決心は確固たるものとなる。ポイントの還元などという目先の餌に飛びついてなるか。孫さん(ペイペイ)や高さん(ラインペイCEO 高永受)さらに安倍さん(総理大臣)らに個人情報を売り渡してなるかという思いをもった。
とりあえず、こんな感じで行こうと思っています。
「カードお持ちじゃないですか?」
「Suica持っているよ!」
「登録しないとポイント還元できません」
「ポイントはいらないよ!」
「ポイントの代わりにシルバーパスをもらっているから十分だよ」
八栗ケーブル 動画を作った!
白山神社と根津神社
日時 9月14日(土)1:30
場所 都営三田線 白山駅(春日側改札口)
第五回目の狛犬楽会です。白山神社と根津神社です。
白山神社は加賀の白山から神さまを勧請してきた神社です。本家の白山(2,702m)は日本三霊山のひとつです。ふもとに白山神社があるのですが、文京区にある白山神社は白山比咩神社(加賀一宮)から菊理媛神(くくりひめ)に来ていただいた神社で、縁結びの神として知られています。
なんと中国革命の父「孫文」と日本の同志を結び付けた神社でもあります。孫文がどんな人であったかは、座石に詳しく書いてあります。
白山神社が台地のふちにあることは高い石段からもわかります。神社境内には富士塚もあります。ついでですが富士講の創始者である食行身禄行者の墓が根津神社へ行く途中にあることを知っている人は少ないようです。
その前に白山下から上る道の途中には八百屋お七の墓がありました。最近見えないなと思っていたら立派なビルのお寺の前に引っ越していました。それも見学してから行きましょう。
根津神社は台地の崖を下ったところにあります。白山神社に比べるととても華やかです。徳川綱吉が寄進をした建物がたくさんあります。つつじ祭りでにぎわう寺ですが、建物自体も見ものです。ここの狛犬がいいのです。お犬様の綱吉と何らかの関連があるのか?
■ 孫文のこと
明治43年(1910年)孫文は当時、白山神社の近くの宮崎滔天宅にかくまわれていた。2人はこの座石に腰掛け語り合った。その時、夜空にはハレー彗星が夜空いっぱいに輝いていたという。孫文はこの奇跡的天体を見て「革命が成功する兆しだよ」と語ったという。宮崎滔天の次男龍介は、「花子とアン」にでてきた柳原白蓮(本名・宮崎燁子)と駆け落ちした革命家の帝大生だそうだ。
孫文は祖国の革命を心に誓い、翌年の明治44年(1911年)10月10日清朝を倒した辛亥革命の最高指導者となり、中国国民党の創設者になった。孫文は東京で26歳年下で英文秘書をだった宋慶齢と結婚した。国民党は清朝を倒したが中国国内は混迷を極めた。1925年孫文は「革命いまだならず」の言葉を残し没した。南京市の「中山陵」がお墓。
後継者蒋介石(妻は宋美齡〔慶齢の姉〕は中国国土を制圧するも毛沢東の共産党に敗れ、1949年に台湾に逃れた。宋慶齢は姉とたもとを分かち中国大陸に残った。中華人民共和国成立後は中央人民政府副主席を務めた。1981年没。中華人民共和国名誉主席の称号あたえられた。
孫文の革命は妻の宋慶齢を通して中華人民共和国として成し遂げられたというののだろうか??中国の歴史というのは三国志の時代からなかなか理解しがたい。
おまけの情報。孫文はロンドンに亡命中に大英博物館にいた南方熊楠と友人になっている。日本亡命中にはわざわざ和歌山に熊楠に会うためだけに訪れている。お互いに尊敬する間柄だった。
台風一過!暑い!
台風15号が東京湾を北上して茨城県方向から太平洋に抜けていった。8日の真夜中から9日の未明にかけて急速度で通り過ぎた。台風の反時計周りの風と急速度で進む方向が一致した千葉県では送電線や電柱が倒れるなどして大きな被害が出た。停電も続いているようだ。
我が家の周辺の被害は健康長寿医療センターのイチョウの木が数本倒れ、ギンナンが大量にばらまかれたこと。人々が踏んで歩くので臭い! これが唯一。
事前に予測が出ていたので交通機関は計画運休が行われた。これはなかなかいい。台風が来るときに無理に出勤したり学校に行ったりすることはない。今回は真夜中だということもあって大きな被害が出なかった。大げさに報道しすぎるという声はあるが、これぐらいでちょうどいい。もし20年前だったら大変な被害と混乱が起きていただろう。耐震基準が厳格になり、人々の意識も変わってきたので人的被害は少なかった。
- むくげ
- ハイビスカス
- おくらの花
- あさがお
- 玉すだれ
- ほうずき
我が家の小さな庭では機嫌よく花々が咲いている。でも暑い暑い。台風が今年最高温度を運んできた。8月よりも9月に最高温度が出たというのは何十年ぶりとか。異常気象だな。
高野山ケーブルカー
高野山へ上るケーブルカーが今年2019年の3月に新型車両に変わったというニュースがあった。創設の時から4代目だという。遅ればせながら、8月に乗りに行ってきた。
どこのケーブルカーも昔の人気はなく衰退が懸念されているが、一部は人気が出て新型車両に代えられている。関東では大山のケーブルが新型になった。高尾山ケーブルは大人気なのだが、親会社が乗り気でないのか、相変わらず古い車両を使っているようだ。
ここ高野山は紀伊半島の霊場と参詣道が世界遺産になり、高野山もその一部になった。もともと高野山は霊場としても観光地としても人気があったが、ますます人が集まるようになった。さらにこのケーブルカーは南海電車と直結しており、電車を降りたらほんのちょっとでケーブルカーに乗り換えすることができる。
現在乗り鉄ならぬ乗り鋼索鉄道者として動画を作成中。
下のユーチューブは高野山ケーブルの新旧入れ替え風景。
大阪に行ってきました。
九月になりました。ここのところおばあさんの介護にかまけて、パソコンの前に座る気分にならず、ブログの更新もままなりませんでした。おばあさんは我が家から5分の特別養護老人ホーム(特養)に入ることができました。
7月の入院時に比べると格段に回復し、自分で箸をもって食事ができるようになりました。これは奇跡的ことです。しかし認知の方がかなり高まりました。もう100歳ですから、年相応かもしれません。ということで私は週に2,3回見舞いに行けばいいだけになりました。しかしまあ特養というのは大変なところです。我が家ではとてもこんな面倒は見ることができません。介護の方々には感謝の念しかありません。ありがたいことで頭が下がります。
ところで8月の終わり、大阪に行く用事があり、街をぶらぶらしてみました。私は大阪になじみがないので、どこがどこかわかりません。今回は午前中ちょっとひまがあったので、今宮という駅から通天閣、なんば、道頓堀など繁華街を歩いてみました。まだ朝早かったので、お客は外国人だけで、賑わいはありませんでしたが、その位置関係は少しわかりました。絵日記にしておきます。
- まだ寂しい時間
- お掃除おじさん
- 反対側にも商店街
ここから今宮戎神社。1月の10日は十日戎として100万人も訪れるという人気神社だ。しかし本日暑くて人はいない。
ここから木津市場、ここは築地市場みたいなところか? 場外市場はもう賑わっていた。
広大な「なんば」の駅をみて道頓堀へ。もう賑わっていたな。ツルハドラッグは我が家のそばにもあるが、こちらは中国人で大行列。
このあとは黒門市場。
さらに生國魂神社へ行った。この神社は大阪の低地と上町台地の境にある。けっこう大きな段差、坂道だ。
100歳おばあさん!その後報告
今年の5月25日、老人ホームに入居中の我が母はベッドから落ちて 、骨折しました。その後入院していましたが、その間に認知症が進み、ほとんど何も分からなくなり、要介護5という状況になりました。その後紆余曲折を経て、昨日同じ老人ホームの特養に入所することができました。
高齢者を抱えた家なら必ず通る道ですが、直面するまでどう動いたらいいか考えたことがありませんでした。我が家の奥さん他多くの皆さんから沢山の情報をいただきました。何から始めたらいいか分からないことだらけでしたが、色々試行錯誤して、もっともいいところに落ち着きました。本人も驚くべき回復で、年配の介護士さんに「あなた若くて美人ね!」などお世辞を言って喜ばれています。私から見ると恥ずかしいようなお世辞を言うのもすばらしい処世術、すごい回復力です。
我が家の3ヶ月、これから介護に直面する人に参考になればと思い、また自分自身の記録としてここに記しておきます。
1: 家庭、あるいは老人ホームにいて骨折した場合
老人ホームで転んだと連絡を受け、移送で救急車で帝京大学病院に運びました。レントゲンとCTの検査の結果、恥骨骨折とのこと。手術をしなくてもいいとの診断。家に連れて帰って静養させるようにとのことですが、寝たきりで安静という状況を自宅、ホームではできません。そこで我が家は老人ホームのショートステイをお願いしました。事前にケアマネジャーと懇意におかなければ話は進みません。我が母は要支援2で、ディサービスに通っていたおかげで、ケアマネさんに相談ができ翌日にはショートステイをお願いすることができました。
第1の教訓、日ごろからケアマネジャーと懇意にしておくこと。
2;高齢者は骨折すると認知症が進む
ショートステイに入ったが、自分でトイレができないとことが大変なストレスになるようで、突然せん妄が起こるようになりました。ショートステイ一週間目に夜怯えて騒ぎ出して、ベッドから落ちてしまい、今度は関連病院に入院させました。寝たきりだったので介護タクシーで行きました。タクシーの運転手さんは親切でしたが、一人では無理で奥さんが大活躍してくれました。
その病院では骨折は軽微だがせん妄が激しいので精神病院に移すといいます。埼玉にある精神病院を見に行ったのですが、いわゆる精神病院。そこに入ったらもう二度と出てこれないのではないかと思いました。今は妄想が激しいが落ち着いたら元に戻ると言われているのに、ここに入ったら本当に狂ってしまうと感じて、何か手立てをと考えました。
いろいろ調べたら、なんと我が家のすぐ前にある健康長寿医療センターの精神科が一番進んでいると聞きました。急いで担当のソーシャルワーカー(社会福祉士)に相談したところ、自分の病院は実績がないのでできないとのこと。やってみなければ分からないじゃないかと、健康長寿医療センターに行き、状況を説明すると、どこからでも平等に受付はするとのこと。早速戻ってその旨を報告すると、やってみますとのこと。半分は無理と思っていたら、運良く空きがあって入院できるとの返事が来たという。
第2の教訓、ダメでもともと、やってみるものだ。頼るのは医者よりソーシャルワーカー!
3;精神科を経験するのも良いかも!
精神科に入って一週間ぐらいはせん妄が激しく、夜は絶えず起きて、怯えていました。我が家では毎日食事をの世話をしに行きました。夜寝ていないので食事の時に寝てしまい、ほとんど食べません。無理にスプーンでおかゆを食べさせているうちに、だんだん眠らず食べるようになりました。しかし癖がついてしまい、誰かがいかないと食べないという状況が続きました。その間は誰かが昼夜2回づつ病院へ通いました。たぶん薬のおかげでしょうが、せん妄は次第に少なくなり、自分で食事ができるようになりました。
毎日通っているうちに、皆さんと仲良くなりました。精神科にいる人はなかなか興味深い。
「昨日北海道から帰って来たばかりなのよ」
「西武デパートの食堂に明で行って来たのよ」
「安倍とは同級生で、あいつは頭がわるかったなあ」
「明日退院なので、家までついてきてくれる?」
などなどいろいろ語ってくれる。
「そうですか!」
と感心すれば喜んでくれる。明日退院の人は毎日同じことを言ってくる。
教訓3:精神科って人生の縮図のようななところ。一度経験してみると世の中を見る目が変わる。
4:病院は1か月迄
入院するのは一か月迄と決まっている。それ以上は別のリハビリ病院に行くようにとのこと。そうなると先日紹介してくれた精神病院に行かなければならないので、私はkashidaさんからもらった情報にそって、老健に入れることを考えた。頼るのはケアマネさん。様々なケースを相談した。
教訓4:
●老健に入るためには介護度が3以上であること。
●療養の結果、帰宅できる可能性があるもの。
●3か月入ったら、次の人に譲らなければならない。
●預貯金が千万以上の人は介護限度額認定ができない。
限度額認定ができないと月々の支払いが膨大になる。我が家は慌てて区役所に行き、貯金通帳を見せて認定してもらった。
何とか頑張って老健に入れることが決まった。しかしその数日前の7月20日、無理に立ち上がろうとしたらしく、夜中にベットから落ちた。同じ病院の整形外科で診察したところ、大腿骨骨折。あちゃ~これは致命傷だと思った。手術はちょっと無理そうなので、保存的療法ということになった。通常手術をしない時には退院してリハビリということになるが、この病院で骨折したのだから、痛みがなくなるまでは面倒を見てくれることになった。あと一か月入院が伸びたのだが、その後は老健に移動する予約をとって待ってもらうことにした。しかし大腿骨骨折という事故があって、介護認定は最高度の5ということになった。要介護5だと老健は受け入れてくれないとの連絡が入った。。
受け入れ先を考えなければならなくなった。もう特養しか受け入れ場所はない。これから再び受け入れ先を探す日々が始まった。
教訓4-2:入院したら退院後の行き先を考えなければ。その前に介護認定を申請しなければならない。
5:特養は100人待ち、でもよかった
要介護5になったら行く場所は特別養護老人ホーム、特養しかない。しかし特養は待機児童ではなく待機老人がたくさんいる。調べてみるとそれは都会の特養で、地方に行けば空きはあるようだ。能登に移住したONOGUCHIさんから「おいでよ!」と言われたが、我が家はいろいろ事情があって能登には移住できない。
ということでこれまでショートステイでお世話になっている老人施設に絞ってお願いすることにした。8月5日に退院して再びショートステイで特養にお願いすることにした。このあたりはケアマネさんの尽力が大きかった。
8月23日、まもなく最初の骨折から3か月目のころ、特養に空きができることが分かった。ショートで入っている同じ部屋に入所できることになった。ということで本人はこれまで通りに過ごすことができ、環境変化によるストレスはほとんどなさそうで、機嫌よくご飯も食べている。私にとっては3か月ぶりの穏やかな日が戻った。
本人は最初はなぜここにいるのかわからなかったようだが、記憶はごく短時間しか残らないので、私たちが帰るよと言っても後は追わなくなった。ご飯は一人で食べることができるのでおやつの時間行くようにしているが、「久しぶりだね!」と毎日言う。
2日ぐらい開けても、同じように久しぶりという。我が家にとっては、ずいぶん楽になった。
教訓5:100人待ちでもやってみなければわからない。
この間、我が奥さんはじめ弟夫婦、いとこのkamataさん、息子、娘一家、孫たちが変わり番こに訪問してくれた。おばあさんは一人一人の名前や関係も思い出せるようになった。皆が相まって活動してくれた結果、おばあさんはいままでのような平穏な日常を取り戻せたような感じだ。ありがたいことだ。
さらにフェースブックや直接顔を合わせてアドバイスをしてくれた皆さんにも感謝感謝の日々です。
原爆の日、100歳の母のこと!
1944年8月6日、母親は1歳直前の私を背負って、裏の山で松根油(しょうこんゆ)を採集していた。日本軍は石油が入らなくなったので松の根から油をとって航空燃料を得ようという計画だった。作業にかかってすぐ、遠くに黒い雲が沸き上がったのが見えた。それをみんなで見ていたという。
最近松根油をとっていた里山から原爆投下の爆心地までの距離を調べてみたら直線で20㎞だった。今なら避難地域だったかもしれない。母たちは何も知らぬまま翌日も松の木の根っこから垂れる油を採集していた。9日に長崎で同じことが起き、大勢の人が犠牲になった。そして15日終戦。もう少し早く敗戦を認めていれば沖縄戦もなかったし、東京空襲も、広島、長崎の原爆被害もなかったろうに。国体護持に固まった指導者に導かれた悲劇だったことが、今になるとよくわかる。 続きを読む
舞囃子「氷室」
今年も奥様の恒例の水道橋能楽堂の「舞囃子」です。今回は「氷室」という舞囃子を舞いました。今回はお友達、お仲間が大勢来てくれ、一段と熱が入ったと思いました。外の暑さのせいだけではなく、神さまのご降臨があったかのようで、なかなかよかったです。写真をクリックしてください。動画になります。ここをクリックしてもOK
外装工事・水道工事
我が家も新築からすでに30年たった。先日屋根の一部がはがれかかっているのを奥様が発見。外壁もそろそろ傷んで、水漏れしそうな気配。我が家を立ててくれた会社に連絡して見積もりを出してもらった。新宿の社屋で丁寧に応対してくれたが、こんなにかかわっている人がいるのだから、さぞ高いだろうという予想通りだった。ちょうど我が家の一軒隣の家が屋根工事、外装工事をやっている。人のよさそうな職人さんだったので相談してみた。出てきた見積もり金額は大手の1/3。あまりにも差がありすぎるので大手会社はキャンセルしてこの職人さんにお願いすることにした。
ちょうど同じころドアクローザーが壊れた。これは自力で直した。すると今度はトイレの水漏れ発見。ぽっつんぽっつんという音なのでそれほど漏水はしていないようだが、大変気になる。水道屋さんに頼もうと奥さんは言うがドアクローザーのこと外装工事のことがあるので知らないところに頼むのはいやだった。
講道館の近くにドイトがある。様々な部品が置いてある。水道部品もあるのでとりあえずフロートとボールタップを買い求めて付け替える。我が家には水道工事の道具はそろっておりこれまでも水栓など自分で取り換えてきた。今回もこれでオーケーと思ったが「直ってないよ!」とのこと。水漏れのもう一つの原因はフロートバルブが劣化により完全にしまっていないこと。暑い中もう一度講道館まで行ってバルブを買ってくる。2種類あったが大は小を兼ねるということで大を買った。これは正解。ぴたりと止まった。合計5500円。本当はバルブ交換(1200円?)だけでよかった。
暑い中、伊香保、渋川、多胡の碑
高崎にちょっとした用事があった。こんな暑い中、行くのは嫌だったがまあ仕方がない。暑い中、用事は何ことはなく終わった。群馬に行くときには前橋のKOBAYASHIさんにアッシーをしてもらう。今回も社長専用車の黒塗りのクラウンで高崎駅まで迎えに来てもらった。とりあえず伊香保温泉。でもまだ朝早くて温泉には入れなかった。伊香保には昔は軽便鉄道が走り、急坂にはケーブルカーがあったそうだ。
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保存車両を見て、ハラ ミュージアム アークへ。この美術館は品川にある原美術館の別館みたいなものでグリーン牧場の一角にある。特別に本日の展示を見たかったわけではないが、友人のKAMATA社長が薦めてくれるので拝見させてもらった。そのあとすばらしいカフェで特別のケーキをいただいたのだが、KOBAYASHIさんと「わかった?」「あんまりよくわからないん」、二人とも現代アートに理解は及ばない。
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お昼は、藤岡まで走って高崎流通大学そばの蕎麦屋さん。KOBAYASHIさんの友人のお店で特別待遇。大変なごちそうになって我が家に戻る。あっそうだその前に、多胡の碑というのも見に行った。古代上野国にあらたな多胡郡が作られたがそれを記念する石碑だという。日本三古碑でユネスコの「世界の記憶」遺産だそうだ。