お仕事 浅草寺の狛犬

浅草浅草寺(浅草神社)の狛犬。本日はお仕事をしています。でも、「なんで私がこんなことやらなきゃいけないの?」と不満顔をしています。国民の義務だから・・・・  板橋の税務署の前を通ると、今年は例年よりも大混雑している感じです。恣意的な統計よりも、税務署に並んでいる人の顔を見れば、毎年景気がどのように変動しているかわかります。

 ここに並んでいる人は税金を払いに来ているのではなく、確定申告をして払い過ぎた税金を還付してもらおうとしている人たち。サラリーマンにはわからないが、個人事業主、アルバイター、非正規社員などは、とられ過ぎた税金は確定申告をしなければ返ってこないので、面倒な書類を書いて提出しているというわけです。

今年は、特に若い人たちが多い感じ。税金を返してもらおうという若者が多いってこと。一応企業に属していれば、払い過ぎた税金は年末調整で戻ってくる。しかし弱小零細企業ではそうはいかない。非正規社員、個人事業主は自分でやるしかない。もともと給料の少ない人にとっては面倒だなどといっていられない。小さな子供連れのトウちゃんカアちゃんも多い。がんばれよ!と声をかけたくなる。 政府統計は、アベノミクスのおかげで景気は上昇というが、それは景気のいい企業だけを選んだマジックだ。NHKは「ボーッと生きてるんじゃないよ!」と庶民を叱っているが、ボーッとしているのは政府の方だ。「庶民をだますんじゃないよ!」と政府を怒り飛ばしてほしいものだ。

本日は浅草神社のお仕事狛犬。新井薬師北野神社の子守り狛犬、中野打越天神の子育て狛犬、哲学堂の紅白梅

戸隠神社と高千穂の岩戸神社

岡村さんの植村直己冒険賞の受賞発表をみて、すぐに東京駅から新幹線で長野に、バスに乗って戸隠中社に来ました。そこで狛犬の写真を撮って、雪の中を奥社まで行きました。暗い中、雪道を歩くのは結構大変。やっと戸隠の都立大学山荘につきました。仲間3人はすでについていました。明日からは雪山歩きです。今年は雪は少なく、ブッシュがでています。 近年戸隠神社は強力なパワースポットとして人気があるようで、真冬のこの時期でも奥社まで詣でる人はかなり多い。神社入り口には「隋神門よりも先は冬期閉鎖、雪崩の危険もあり」と書かれている。今日は完全装備の高齢者グループが多かったが、例年運動靴姿の人たちとあう。昨年は「パワーがあるからだ大丈夫!」と言う若者が何人もいた。雪まみれで嬉しそうに帰ってきたのを見ると、本当にパワーがあるのか?と思った。 九州高千穂に天岩戸神社がある。スサノオ神と喧嘩したアマテラス大神は怒って岩戸の中に籠ってしまった。太陽神アマテラスが隠れたので世の中は真っ暗になった。オモイカネ神は一計を案じた。岩戸の前でアメノウズメにセクシーな踊りをさせた。それを見た神々はやんややんやと騒いだ。

  アマテラス大神は「私がいないのに何がうれしいの?」と思い、岩戸を少し開けた。岩戸の前に侍っていた強力のタジカラオ神が扉を大きく開けたらアマテラス大神が現れ、世の中は再び明るくなった。

タジカラオ神は二度と岩戸が閉まらないように、大力で岩戸を放り投げた。その岩戸ははるか信州の山に飛んで行った。その山は戸隠山と言われるようになった。

戸隠中社には企画者のオモイカネ神、奥社には岩戸を放り投げたタジカラオ神、下の火之御子社には踊りを踊ったウズメ神が祀られている。私は火之御子=日の巫女=ヒミコではないかと思っている。それはさておき戸隠神社と高千穂は離れているが深いつながりがあるのだ。

写真は1.戸隠中社の本殿前  2.奥社狛犬 3.奥社参道杉並木 4.随神門 5.火之御子社社殿 6.奥社鳥居と本殿(今年は雪が少ない)7.奥社の鏡池と野仏(姫遍路 )

植村直己冒険賞 丸山さんのページ

昨日の植村直己冒険賞の報告をしようと思ったのですが、丸山純さんが的確に様子を描いているので、勝手にシェアします。本来は丸山さんのページにリンクさせればいいのですが、やり方がわからないので、私のページにコピーペーストしました。丸山さん、事後報告ですがよろしく。

遅ればせながら、私も……。今日(もう昨日ですが)、明治大学紫紺館でおこなわれた植村直己冒険賞の発表記者会見に行ってきました。今年度(2018)の受賞者は、岡村隆さん。

配付資料によると、対象となる《冒険名》は「『未知』の遺跡探査に情熱を傾けて約半世紀、南アジア密林遺跡探検調査」だそうで、《実施期間》は「1969年4月1日〜2018年8月25日」となっています。

《工夫・独創性》の項目には「調査が困難な現地の人々の代わりに調査を進め、少しでも早く文化遺産として世に導き出すことと、現地の人々と協力して進めることによって、これ以上の遺跡破壊を食い止めることを目的に、2008年NPOを設立。後世にも続く仕組み作りに情熱を注ぐ。探す遺跡がどんなに小さな見栄えのしない遺跡でも、そのひとつひとつの調査の積み重ねと地道な作業の継続にこそ、自分にも結果がわからない『意味』があり、未知の対象への邁進という一点にこそ、なにものにも勝る『面白さ』があると信じて取り組んできた」と書かれていました。

記者のみなさんもこれまでと毛色の異なる受賞者の登場にやや戸惑っていたようで、探検と冒険の違いとはどこにあるのかとか、植村さんとのいきさつ(『モルディブ漂流』参照)とはどんなことだったのかとか、岡村さんが答えにくい質問も寄せられて、苦笑しながら説明することになりました。でも、中貝宗治市長や西木正明選考委員長の発言にもあったように、植村賞の可能性をさらに広げる受賞になったのではないかと思います。

植村さんの母校である、豊岡市立府中小学校の6年生の男の子の挨拶がとてもよかったし、岡村さんもやっとここで笑顔がこぼれました。

横のほうの席だったのであまりいい表情が撮れませんでしたが、写真を載せておきます。

岡村さんが主宰するNPOのウェブサイトは、以下です。このサイトから引いた文章や写真、昨年11月の地平線報告会のレポート(地平線通信476より)も配布資料に載っていました。
http://npo-sarers.org

植村直己冒険賞 岡村さんのページ

みなさま、ありがとうございました。

昨日の植村直己冒険賞の発表と会見に際しましては、多くの皆さまに心温まるコメントやメッセージをいただき、また三輪主彦さんや山本千夏さん、丸山純くんたちがタグ付けしてくださった投稿に多くの「いいね」を頂戴し、本当にありがとうございました。ほかにもこれらをシェアしてくださった方々の投稿にも多くのコメントをいただいているようで、感謝と恐縮の念にたえません。

受賞決定の報せをいただいたときには、正直、「えっ!? オレ探検はしてても、冒険なんか全然してないのに……」と驚き、戸惑いました。それは、これまでの受賞者の方々が純粋に己の行動そのものを追求してこられた孤高の影を宿す人ばかりで、畏怖すべき冒険者たちであって、小生のようなのがそこに混じると植村賞の名を汚すことになるんじゃないかと恐れたからでした。

それでも、今回は選考委員間で「探検と冒険」に関する議論があり、その結果としての決定だと聞かされ、さらに選考委員や推薦委員の方々が小生らの探検のような地味な活動にまで目を向けてくださったことを考えると、少し落ち着いて、「これは仲間全員と、長く続いているプロジェクト全体への、大先輩・植村さんからのご褒美のようなものなんだろう」という解釈で、ありがたくいただくことにした次第でした(もうひとつ、植村さんとの個人的な因縁への思いもありました)。

とはいえ、小生も雑誌ジャーナリストの端くれではありましたので、少し内実に目を向けると、今回は推薦委員(と思われる)某事情通の大先輩、某ジャーナリスト、高名な某登山家といった方々が推してくださり、選考委員には山極寿一京大総長が新たに加わっていることなどから、何となく想像できるところはないわけではありません。もうひとつ想像できるのは、いずれも別の分野で面識のある選考委員の方々が、出された書類を見て、「えっ、岡村ももう70歳なのか!」と驚かれたのだろう、ということです(笑)。それやこれやでいただくことになった賞ですが、いただく以上は賞の名を汚さないよう、これからも頑張ろうと殊勝なことも考えております。

小生の受賞には異論もあるのかもしれませんが、とりあえずは多くの皆さまから温かい声をかけていただき、そのことにかつてない感激を覚えております。メッセージやコメントをいただいた皆さまには個別にお礼を申し上げなければならないところですが、まだ対応できない状態です。申し訳ありません。

とりまとめた雑なご報告やお礼になって恐縮ですが、皆さま、本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

目黒不動 狛犬見物!

目黒不動には狛犬がたくさんある。狛犬ファンにとっては必須の寺だ。
「あれ!まてよ!寺に狛犬があるの??」
ここは結構有名な神仏混交の寺院で、江戸時代天海僧正によって「山王一実神道」が作られ、山王鳥居もあった。数年前にここの石段上に白い山王鳥居が作られた。今も神仏混交の寺院である。 京急の不動前という駅からは結構遠いので、私は目黒駅から歩いている。行人坂という急坂を下り、目黒川を渡って山手通りを渡る。仁王門は目黒川の低地にあるが鳥居と本堂は石段上の台地上にある。仁王門(神門かな?)には仁王様がいるが、裏側には白い狛犬がいる。


石段の下には優しい感じの狛犬がいる。犬というよりか狐かな?? 前不動の前には、これまたおかしな狛犬がいる。まるで何か悪いことをして反省をしているようだ。さらに滝ノ上の斜面には、かなり傷んだ狛犬が一対いる。詳しく調べた人によると、首から上だけの狛犬があるという。
たくさんの狛犬があったが、何かの拍子に破壊され捨てられたようだ。

石段の登り口の左側に子供をたくさん持った狛犬がいる。ふつうは対称になっているが、右側に狛犬はない。石段ではなく女坂を上ると途中に「役行者」のお堂がある。このお方が神仏混淆の修験道の創始者だが、明治の神仏分離令によって修験道は抹殺された。役行者の名前もほとんど知られていない。


石段を上がったところにあるのが都内で一番古いという狛犬、徳川時代の前期のものだという。後ろ姿がなかなかいい。

 本堂にご挨拶をして左手に進むと、微笑観音様が立っている。その右側にすばらしい狛犬がいる。台座まで彫刻が施された立派なものである。まさに芸術品の趣がある。裏側を見ると天保11年とあるので江戸末期のものだ。しかし左半身が人工的に壊されている。さらに対になっているはずの狛犬が見当たらない。よく探すと左側の狛犬の台座だけがあり、上に小さな新しい狛犬が乗っている。たぶん神仏分離令(廃仏毀釈)の時に、目をつけられ破壊されたらしい。仏像とか仏具など文化財だけが破壊されたのかと思っていたが狛犬までやられたのだ。
行人坂の途中にある大円寺には、目黒不動にあった狛犬の頭が移転されているそうだ。明治政府はいいこともやったが、結構大変な愚策をやった。ちょっと腹を立てながら境内を回ったが、紅梅が今盛り。これを見て気分を直して目黒駅にもどった。

戻る前に駅近くのAmasonの会社入り口にあるアンモナイトを見に行った。写真を撮っていたらガードマンに注意された。会社ではなく入り口なのに撮影禁止とは、気分は悪い。Amazonなんてきらだ!

ダイヤモンド富士ならず

荒川土手を散歩中、太陽がだんだん沈み始めた。あの方向に富士山があるはず。うまくいけばダイヤモンド富士が見られるかも! 中山道にかかる戸田橋に急いだ。戸田橋は800mほどの長さがあり、橋の上どこかで富士山に沈む夕日が見られるかもしれない。

と思ったが既に富士山の上を通り越して北側に動いていた。ちゃんと計算していけば見ることができるが、突然の思い付きだけでは無理だ。でもきれいな夕日と富士山が見れた。まあそれで満足!

八甲田山 その7

26日朝7時ちょうどに銅像茶屋(700m)から登り始める。後藤伍長の巨大銅像はこの上の台地にある。冬期は見学に行く人もいないので、茶屋は埋もれている。

昨日午後ちょっとしたアクシデントがあったので、本日の登行は未知のコースをとるのはやめて、銅像コースを登って前岳(1251m)まで行くことにする。「ロープウェーで上がればいいのに!」という願いはリーダの一言で霧散した。本日は土曜日、八甲田スキー場にはロープウェーが一基しかない。土日は大混雑する。総隊長は「6時に登り始めれば9時始発のロープウェーの一番客よりも早く前岳につくことができる!」という。

しかし登り始めは7時になってしまった。500mの高度差だから夏なら9時前につくはず。しかし重たいスキーと重装備の背中のザック、さらに頂上直下の急斜面のため9時半にやっと高度差50mのところに到達。反対側の斜面からはロープウェーの人たちが上がってくる。   人が見えたので「追い越される前にくだるぞ!」との声。人のシュプールをたどるのが嫌な隊長は、「一番じゃなけりゃ」嫌なのだ。まあそれでなきゃノーベル賞候補にはなれないよな。ともかくわがままジイさんにせかされて、まだ誰も滑っていないコースを下る。わずか5キロほどのコースだが、どこで沢を超えるかなど自分で判断しなければならない。    雪山の魅力は自分で、美しいと思うコースを切り開くことができることだ。いわゆるオリジナルってやつだ。新雪がない時期の山は、どこを歩いても道がつけられている。しかし雪がどっさり降ると道はまったく見えなくなる。我ら年寄りでも、しばし一瞬だが、初登頂、初滑降の感激を味わうことができる。    銅像茶屋の前まで降りてきて、今回の山行は終了。茶屋の脇から後藤伍長に対面。下部は雪に埋もれているのにかなり大きい。7mもあるのだそうだ。後藤伍長は立ったまま仮死状態だったが助けられた。しかし両手両足は凍傷で切断された。地元に帰って村会議員になったそうだ。

八甲田山 その5

これは私の滑り。なかなかのものでしょう。

25日少し天気は回復しロープウェーも動くそうだ。9時始発だが8時には列ができている。1時間入り口で待つ。チケット売り場の係員などはバスでやってくるが、9時になってもやってこない。積雪など条件によってバスが遅れるそうだ。やっと2便に乗って頂上駅(田茂萢岳1324mのちょっと下)。 頂上駅は森林限界を超えているので吹きっさらし。零下12℃と書いてあったが体感温度は10℃くらい低い。Kさんは知り尽くした場所だが、我々新人のために通常のフォレストコースを行くことになった。コースの名前はあるが普通のスキー場と違って圧雪してはいないし、コースロープがあるわけではない。初めての人には晴れていても迷子になる可能性がある。本日は中村農園のガイドさんにお願いしてあるので安心。 頂上駅からは少しトラバースする。ほんの10分ほど青空が見えて陸奥湾方向が見える。そちらに向かって滑降。ガイドのマッツは深雪をものともせずすっ飛ばす。私も気分だけはその感じ。マッツが撮ってくれた写真をみると私もまんざらでもないな!
森林帯に入ると風はやみ温かく感じる。アオモリトドマツの樹氷林を抜けていく。樹氷の根元は空洞になっているので、落ちたら大変なことになる。深雪なのでけがをすることはないが、穴から脱出するのは一人では絶対無理だ。半身が落ちただけでも抜け出すのに数十分かかった。アオモリトドマツのモンスター樹氷には近づかないように。  樹氷林を過ぎるとブナの大木の間になる。ちょうどいい間隔に並んでいるので、回転競技のような感じでブナ周りをする。気持ちがいいがスピードが出るとコントロールが効かなくなって激突する。ブナは大木なので確実に負ける。  さらに下がるとブッシュも出てきて枝がバチバチあたる。ヘルメットが役に立つ。そのあまま周回道路にでて上り返してロープウエーの山麓駅に戻る。30分ほど並んでもう一回乗る。頂上駅レストランで昼食。昼食後はフォレストコースを下ることにした。

八甲田山 その4

スキーがすんだらそれ温泉!
八甲田山の周りにはヒバ千人風呂で有名な酸ヶ湯温泉をはじめとして多くの温泉地がある。

酸ヶ湯温泉 千人風呂がある。27日撮影

しかし酸ヶ湯温泉以外はほとんどが冬期は休業。しかしKさんの定宿である「みちのく深沢温泉」は唯一冬期休業。地元の人は時々来るが、観光客はよほどマニアックでなければここには来ない。青森連隊の遭難碑がある銅像茶屋 (冬期休業)よりもさらに数キロ奥にあるので冬期は絶海の孤島になる。 先代のおじいさんが偶然開拓した温泉だから歴史はないが、泉質はすばらしい。噴出孔でも45℃程度ていどなので、加温も加水も必要ないかけ流し温泉だ。湯量も半端でない。ご主人は毎日午後8時に湯を落とし掃除をする。そのために温泉特有のぬるぬるがまったくない。私は温泉ぬるぬるが苦手なので、ありがたい。朝は3時に湯をため始める。6時にはひろい湯舟が満タンになるので顔を洗う代わりにざぶん! 私たちは1日に朝昼晩3回は入っている。 誰かのブログで、「湯はいいのだが休むところがない! お母さんの話が分からない!」などと書いていた。この人はまったくわかっていないなあ。お母さんの居間だかお店だかわからないがドラム缶を半分に切った大きなストーブの周りがお休みどころ。ここに何となく座って、自分でコーヒー入れたり、お茶を飲んだりすればいい。暇な時にはお父さんやお母さんが津軽弁だか青森弁だか、よくわからないが、話し相手になってくれる。なんとなくにこにこしていれば場はなごみ、温かさが伝わる。言葉はただのおまけだ。そんな雰囲気が好きな人にはたまらない魅力だろう。都会風のしゃれた雰囲気でなければ嫌だという人は酸ヶ湯温泉に行けばいい。宿の部屋はこの極寒の中でも暖房なしで温かい。床下に温泉水が流れている。オンドルと同じだ。

最後の日、寒い中ずっと見送ってくれていた。ありがとうございました。

八甲田山 その3

八甲田山 その3
24日、昨日の好天とはうって変わって大荒れの模様。ロープウェーは朝から休業、リフトは午前中だけ動かすとのこと。みんなでリフトを使って登り、シールを付けて歩く。上にロープウェーのロープが見えるはずだが、雪もひどくなってきたのでいつ通過したかわからない。 Y字の谷の上でシールを外す。吹雪いている中、手袋をはめたままでシールを付けたり外したりするのは難しい。やっと外してガイドの後について滑りだす。すばらしいパウダースノーで、スキーの先端も見えないがきれいに回ってくれる。これはうれしい。 本日は森林限界を超えたら吹き飛ばされそうなので森林の中だけを行く。雪崩の心配はないので勝手に滑ることができるがブナの大木にぶつかりそうでちょっと恐ろしく、腰が引けてくる。 今回はヤマップというソフトを入れてきた。2万5千分の1の地形図上に歩いたルートを描いてくれる。事前にWIFIの通じるところで無料地図をインストールしておかなければならない。深沢温泉ではドコモの携帯だけしか通じない。auやソフトバンクのスマホはまったく通じない。八甲田山に来る人はドコモに変えておかねばならないだろう。 リフト乗り場でソフトバンクの携帯が通じた。急いでヤマップのスイッチを入れる。本日のコースを示しておきます。
歩きは5キロ弱。3時間ほど深雪を楽しみました。スキーをつけて深雪を歩くのは結構きつい。でもまあうれしい!

八甲田山 その2

 今回のメンバーは山岳部のOB連、現役から言わせたら超々OBで最年長は79歳、私はその次で74歳。リーダーは64歳の最若手。もとは一部上場企業の会長さんだったが、マウンテンスキーをやるために早期で引退した。最年長のKさんは70歳からスキーを始めた。その年には弘前にアパートを借りて3か月間八甲田山に通ってスキー三昧。次の年から通うのは大変なので八甲田山中の深沢温泉を定宿にしてコーチについて深雪を滑りまくった。
 その後も毎年60日近く深沢温泉で過ごしている。何事も徹底しなければすまない単細胞(本人曰く)人生だ。Kさんは若い時には岩登りを徹底した。1962年冬、谷川岳衝立岩のダイレクトカンテの初登攀をした。そのあたりのことは遠藤甲太さんの「ダイレクトカンテの謎〈埋もれた記録〉」にある。私は「なぜ自分の名前を付けなかったのか?」という質問をしたら、「あのルートはあまり美しくなかった!」からだときいた。
山を離れたKさんは学問の道に進む。当時最先端の量子力学を使って化学を考えるという、私には理解できない世界。東工大の教授になり研究の第一線を突っ走った。多くの研究論文を出し後進を育てた。いまノーベル賞に最も近いと評価されている人だ。
 私は一応スキーは上手なつもりだった。数年前に鳥海山に誘われた時には、皆さんのお手並み拝見と思った。しかし一緒させてもらって驚いた。70歳から始めてこんなに強いスキーができるものかと。以後私は弟子入りをさせてもらっている。しかし私は胃や大腸、心臓の不調などで入退院を繰り返していたので、八甲田山に行く機会はなかった。今年を逃したらもう無理かもしれない。なり無謀を承知でKさんにくっついていった結果はすばらしい雪山を満喫した。これまで長いことゲレンデスキーをやってきたが、あれはいったい何だったのか? 八甲田山の雪はこれまで私が知っていたゲレンデの雪とはまったく違っていた。リングの小さいゲレンデ用のポールは根元まで潜る。膝から下は潜っているので幅10センチあるスキーでも見ることはできない。これまでとは全く違う世界だった。私の技術など全く通用しない。私はうれしくなった。なんとか深雪でも滑れるようになるぞ!。 八甲田山にはロープウェーが1本、リフトが1機しかない。ゲレンデはリフト下以外まったく均していない。どこを滑ってもいいが、よほど熟達しなければ、自分のルートを作ることはできない。この季節毎日視界はほとんど100m程度。いくら地理に強いといっても、方向はまったくわからなくなる。この時期、年寄りはガイドなしではまったく動くことはできない。2日間Kさんが最も信頼する中村農園チームにガイドを依頼した。

八甲田山 その1

八甲田山に入った1月23日は、1902年に青森歩兵第5連隊の兵士210人が雪中行軍で遭難した日だった。八甲田山という映画が評判になったが、兵士たちがかわいそうで見るに堪えなかった。雪の中、散りじりになって若い兵士たちが凍死した。生き残ったのはわずか11人、世界でも類のない山岳遭難事故だった。
 同じころ弘前歩兵31連隊も雪中踏破訓練をしていた。こちらは38人という少人数だったこともあるが全員無事に帰還した。装備の違い、指揮官の能力の違い、地元民の協力など差異はいくつもあった。弘前連隊の方がすぐれていたと思った。しかし彼らは遭難中の青森連隊とすれ違っているのに助けなかった、さらに弱った地元案内人を置きざりにし、自分たちだけが逃げ帰った。

 弘前連隊ではこのことを口外しなかったので、近年までそんなひどいことがあったことは知られていなかった。無茶苦茶だが、昔の軍隊組織はそんなものだった。

自衛隊の雪中訓練:地元のテレビで放映! 雪上車の付けた道を歩いている。

1月23日は自衛隊でも記念日になっているので青森の連隊はその日は八甲田で雪中訓練を行う。私たちが泊まっている宿の大広間は本部になっていて広場には雪上車などが泊まっている。600人の隊員はみな雪の中で幕営。装備は格段に上がっているが、天候は当時とあまり変わりはない。零下11度にはなっている。きっと寒いことだろう。

しかし私たちが話した隊員たちは結構楽しそうにしている。完全装備を女性もかなりいるので驚いた。ちょっと気の毒に思ったのは、彼らが履いているスキー。一般スキーヤーはみな最新式の幅の広く軽いスキーを履いているが、彼らのは皮ベルトで靴の先だけを止めるもので、扱いは大変難しい。機敏に安全に動くためにはもう少しましなスキーを配布すればいいのに。

銅像茶屋という建物が雪に埋もれている。銅像は茶屋の後ろの丘に建っている。青森連隊の後藤伍長は雪の中、立ったまま仮死状態で発見された。その地に銅像が建てられたのだ。八甲田に来たのだからお参りをしておかねばならない。ということでシールを付けて上った。当然自衛隊員もここから雪中訓練に出かけたかと思ったが足跡はまったくなかった。ダメじゃないか。

上野界隈 東照宮・五条稲荷神社

ちょっとエッチな絵じゃない?教育的ではないな!

友人の書を見るために上野の東京都美術館に行った。月曜日はお休み。代わりに見に行こうとした上野の森美術館はフェルメール展で長蛇の列。しかたなく隣の芸術院会館?の美術館(無料)に入ったが、ナニコレ!という感じ。トイレを借りて出てきた。  東照宮で寒ボタンを見に行くことに。上野は隅々まで見ているはずだったが東照宮の立派な狛犬は見落としていた。いいカメラをもっていかなかったので逆光でとれなかった。時間を考えて行こう。狛犬とクロガネモチの赤い実に気をとられていたのでボタンを見ずに出てきた。

もう一つ五条稲荷神社がある。ここの狛犬もよかった。稲荷なので狐はあるが、それほど面白くない。おもしろいのは崖面にある穴、お穴が神社になっている。伝通院の近くにもお穴神社があったが、ここは中は見えなかった。   この神社の赤い鳥居はインスタ映えするのか、着物を着たお嬢さんたちが写真を撮っている。話をしたら台湾からの女性だった。他にもたくさんいたが皆外国人。今時着物を見るのは外国人だけなのか。

峠楽会第一回 日本橋から四谷方面

19年の最初の歩きだが、昨年から4回変わらず日本橋からの出発となった。これはどんな旅でも日本橋からという賀曽利隆さんに対抗の意味もある。といっても対抗するほどの旅力はないけど。まあそんな気持ち。 今回は日本橋を出て箱根駅伝のゴールへの1キロを歩いて、大手町からは東京メトロに乗って半蔵門に行き、そこから四谷見附、内藤新宿というコースの予定。箱根駅伝最後の走者は3分ほどで走るが、我らは常盤橋の工事の進捗状況を見たり、一石橋にある明治の水準測量の几号(きごう)標識を見たりしていたので、40分もかかった。 読売新聞社の前がスタートゴール地点。箱根駅伝は金栗四三らが始めたとあった。NHKの大河ドラマ「韋駄天」の主人公のモデルである。実は金栗さんは、わが竹早高校の前身の府立第二高女の地理の先生だった。一昨年にNHKの方から私も資料提供を求められていた。秘密にしておいてくださいと言われたが、どんどんしゃべってはいたけど。第1回を見たがどこにも資料提供・竹早高校というのがなかった。残念!

将門塚を見て電車で半蔵門駅へ。4番出口にはすばらしい美術館があった。無料で国宝級の仏像などを見ることができる。さる宗教団体提供だ。こんな文化活動を他の宗教団体でもやるべきだよな。無料でお茶までいただいたので、ちょっとほめておかなければ。・・・ここでゆっくりまったりしたら、もう先に進む気はなくなった。本日の歩行距離は2キロ、歩数は5000歩ほどだった。とてもお散歩の会とは言えなくなってきた。まあいいか!

谷保天満宮で狛犬探し!

国立で「シルクロードの子どもたち」という写真展をみたあとに国立の大通りを通って谷保天満宮に行った。昔「国立」の一橋大学があるので「国立」というのかと思っていた。しかし読み方は「こくりつ」ではなく「くにたち」だ。国分寺と立川の間にできた駅だから国立なのだそうだ。今は都内で最高級の住宅地。立派な家が碁盤の目のように並んでいる。

谷保天満宮は甲州街道に面して鳥居が立っている。鳥居の先は石段だが、急な下り階段。ちょうどここに府中崖線が通っているので、8mほどの段差になっている。私が思うに、昔は石段を上って本殿に行ったのではないかと思う。甲州街道が拡張されて敷地が狭まったので、本殿は崖下の広い場所に移ったのではないか。  鳥居の脇に2対の狛犬あり。まあ昭和のものだからそれほど面白くもない。拝殿前には天神様だから牛がいる。その奥にいる狛犬がなかなかいい。両方とも子犬をあやしている。口の形も阿吽ではなさそう。雌雄がないのか、あるいはご夫婦で子育てをするというのかよくわからないが、なかなかいい。   牛は、なでなでするとご利益がある。ということでピカピカだが、もう一体石作りの牛(よくわからないがたぶん牛)はまだ新しいらしく、なでる人も少ない。あと数十年すればなでなでしてピカピカになるかも。  さらにここには神のお使いの立派なニワトリが境内を飛び跳ねている。これもいいね。でもきっと最初は近所のニワトリが逃げてきたんじゃないかな??