今年も中学時代の友人のS君から、「餅ができたぞ!」との電話をもらった。いつもはできたての餅をふうふう言いながら食べさせてもらっていたが、今年は作業が早くて、「午前中でなくなったよ!」とのこと。
S君は精米機屋さん、餅やは年末だけ行っている。杵と臼での餅つきではとても対応できないので機械になっている。製造過程を写真に撮らせてもらった。早くもらって帰って食べたかったので、伸し餅にする場面を映していない。まあいいか。
今年も中学時代の友人のS君から、「餅ができたぞ!」との電話をもらった。いつもはできたての餅をふうふう言いながら食べさせてもらっていたが、今年は作業が早くて、「午前中でなくなったよ!」とのこと。
S君は精米機屋さん、餅やは年末だけ行っている。杵と臼での餅つきではとても対応できないので機械になっている。製造過程を写真に撮らせてもらった。早くもらって帰って食べたかったので、伸し餅にする場面を映していない。まあいいか。
日本橋から神田明神・甘酒茶屋へ PDFというので作ったテキストです。こんなコースを歩きましたが、予定はだいぶ外れた。
勝手に全文引用 三五康司さんのコメントです。
許可もなく勝手にFBの文章を載せました。全さんの写真展には大変感動しました。同じ時に同じものを見たのですが、文章力のない私には書けないので、三五さんのを借用しました。
「地平線会議の大先輩であらせられる白根 全さん渾身の写真企画、
「写真家たちのクスコ―マルティン・チャンビと20世紀前半のアンデス写真―」
ーーを先週観てきた。以前も紹介したけれど、この企画は、
“ラテンアメリカ写真の豊穣な世界の中でも、とりわけ卓越した表現で知られたのがインカ帝国の首都だった古都クスコを拠点に活躍したペルー先住民出身の巨匠マルティン・チャンビと、同時代の写真家たち”
の作品展であり、
“今まではインカ帝国とマチュピチュ、つまり考古学の分野でしか語られることのなかったペルーですが、その大地に開花したアートの存在”
を知らしめる、
“日本では初めて紹介される20世紀前半のアンデス写真展”・・・とのことだ。(以上“”内、紹介テキストより部分引用)
展示スペースに並ぶ65点の作品を順に観ていく。
家族・一族の記念写真あり、遺跡やクスコの街角の風景描写があり、当時の人々の生活感溢れる風俗が、見事な作品として結実している。1910~30年代の作品が多く、滅多にない≪撮影≫という機会のため被写体の人々の表情には緊張と硬さが伺える。カメラの前で長い露光時間の間姿勢を崩せないのだから当然のことだろう。
そんなことを思いつつ作品を観ていくうちに、写真がとても絵画的に撮られている事に気付いた。構図・ライティング・光と影の配分・・・ 当時のカメラには(貴重な)写真湿板が6枚しか実装できなかったそうだ。それゆえカメラマンが“如何に、どのような作品にするか”という意思が強烈に盛り込まれているように感じられた。連写した中から最高の1点を抽出する現代の創作スタイルとは根本的なスタンスが異なっているのが如実に理解できる。
個人的に最も感銘を受けたのが、「光の詩人」と呼ばれたマルティン・チャンビの作品群だった。
浅学のため作家については無知もいいところだったのだけれど、巧みに配置された人物のポーズと画面全体のダイナミックな構図、光線と陰影の強い対比で構成された劇的な効果、画面上の緊張と弛緩が生む動感、画像の彼方に至るまで綿密に計算されたパースペクティブ・・・・・・ そこに確かな“ストーリー”が秘められていることは一見しただけで理解できた。そしてチャンビの想いを具現化している精緻な現像技術は、光と影の明暗で巧緻な作品を描いたレンブラントの絵筆を想起させた。
一通り観たところで白根さんのギャラリートークが始まった。各作品に関する含蓄深い解説とともに鑑賞すると、より理解が深まる。
まず、展示されている作品群における肝要なポイントは“先住民族(インディオ)”の生活や風俗、文化、歴史的背景などが、“先住民族のカメラマン”によって描き出されていることだという。かようなケースは歴史上他にほとんど無く、あえて類例とするなら“日本人による明治以降の近代日本の写真作品”が挙げられるとのことだ。つまり先住民族によって描き出された、同時代の同胞たちの歴史的「リアル」がここにある。
「先住民の視線によって描かれたクスコの光と影の実相ーー
例えば『ホセ・アベル・ランティスの恋人』(1929年)という作品は、結婚式の前に“白人の”花嫁の撮影を依頼されたチャンビが、撮影後にカメラをグッと引いて画角をとり、花嫁がポーズを取っている豪邸の階段脇の隅に彼女の乳母である“先住民”の老婆を立たせ、陰影の中に埋もれるように撮影している。そうして白人同士の華やかな祝宴には決して招かれることのない先住民の老いた乳母の存在と表情を作品として残しているのだ。
チャンビの他の作品も同様だ。
『スタジオのファン・デ・ラ・クルス・シウアナとヴィクトル・メンディヴィル』(1925年)は、民族衣装をまとった210cmの先住民男性をスタジオ正面に立たせ、その隣に配した正装の白人男性が30cm以上も背の高いの彼を見上げている作品で、当時の状況を雄弁に、そしてシニカル且つクールに風刺しているだけでなく、アート作品としても秀でている。
『コソ泥を捕まえた警官 クスコ・レゴシホ広場』(1924年)では、居丈高な制服の白人警官に捕らえられ、怯えた表情を見せるインディオの子供を、わざわざ現場の広場に機材を持ち出して撮影することで、時代の空気感と風潮を言葉には置換できないリアリズムで描き出している。
つまり作品のモチーフを生み出すベースとなっている先住民族としてのプライドとキエチーフが、ひしひしと伝わってくるのだ。チャンビの作品のみならず、同時代の写真家のグループ“Escuela Cusque a de fotografia”(直訳は「クスコ写真学校」だが、“作家集団”“サロン”の意)の作品群が映し出した、当時の文化や時代性が鮮明な写真作品としてアーカイブされていること自体が、奇跡的な史的遺産なのだと実感できた。
開催に尽力された白根さんは、それこそ何年もクスコに通いつめ、これらの作品を収蔵してきた「フォトテカ・アンディーノ」という写真アーカイブとの信頼関係を構築し、個人的にも作品をコレクションして本展開催に至ったそうだ。
その価値ある行動の恩恵を受けられたことに、心からの感謝の意を表したい。
芸術にはまったく疎いのでコンサートなど行くことはめったにないのだが、長岡君のケーナのコンサートは心地よく、何度か聞きに行っている。12月10日久しぶりだが市ヶ谷のセンターホールに行った。
数種類のケーナを使い分け素晴らしい音を奏ででくれた。今回はチャランゴ、ギター、太鼓、アルパとのセッションだったが、そのなかでアルパと呼ばれるラテンハープがまた素晴らしかった。いままで聞いたことがなかったいい音リズムだった。チャランゴの演奏もいいし、パーカッションもよかった。
本日は伊良湖岬から船に乗って鳥羽にきて、レンタカーを借りて志摩をまわってきました。大王崎には何回も来ているのですが、今日は快晴で渥美半島の伊良湖岬、神島がはっきり見えます。神島は三島由紀夫の「潮騒」で有名になった島。50年ぐらい前に行ったことがあります。
Casioのデジカメで写真を撮っていると、灯台の上で富士山が見えると言っていました。私は目を凝らしてみましたが、よくわかりません。田代先生のお話だと和歌山県の那智の滝の近くの山の上から見えるのが最遠とのこと。ならばここから(直線で200㎞)てもいいはず。帰ってからでデジカメの映像を加工していたら、なんと富士山が映っているではないか。こんなカメラでも肉眼よりも目がいいんだ!
そういえばなんとなく斜面が見えていたような・・・・とりあえずその写真を入れておきます。
忘れていた、大王崎に行ったのは山の上にある波切神社の狛犬を見に行くのが目的だったのだ。小さな狛犬は団体です。海風にさらされているので風化著しい。もう一対は最近作られたものでそれほど風化はしていない。
三河湾の蒲郡に「ガマゴリうどん」を食べに来ました。というのは本当の理由ではなく、我が家は結婚50周年、金婚式なので、その記念に蒲郡クラシックホテルにやってきたのです。このホテルは日光金谷ホテル、奈良の奈良ホテル、箱根の富士屋ホテルと並ぶ豪華クラシックホテルとのこと。
シーズンオフのこの時期、半額以下の値段で泊まることできるとの情報で、申し込んでおいた。東海道線の車窓からも高台にみえるお城のような建物はなかなかのものだ。昭和天皇が泊まったというホテルには普段ならとても泊まれるようなところではないが、金婚式だから、まあいいか。
高台のホテルから目の前の三河湾に浮かぶ竹島がみえる。400mの橋が弁天様の島とを繋げている。八百富神社という。やけに低い鳥居だと思っていたら、鳥居の下に橋をつけたからだ。石段の上にはいくつかの社殿が共存している。島の上からの眺めは素晴らしい。
島の上には八百富神社があり、なかなかの狛犬がいた。蒲郡の隣は岡崎市がある。岡崎は日本でも有数の御影石産地であり、狛犬の彫刻も盛んだった。この狛犬は岡崎型というそうだ。大正時代のもの。
秩父神社に行ってきました。この神社は知々夫の国(律令制の前武蔵の国と並んでいた)の一宮だったという。2006年になって全国一宮会ではこの神社を新一宮とした。「新」というが、そここの一宮よりも歴史は古い。本殿の彫刻は日光東照宮を思わせる。それは江戸に近いために徳川幕府から様々な援助を受けたことによる。西国33か所、坂東33か所と合わせて100観音霊場になるように秩父34か所が置かれたのも、江戸に近いという地の利だった。今は一山超えなければ行くことができない盆地だが、徒歩の時代の人にとっては日光も箱根も秩父もそんなに変わりはなかったのではないだろうか。
12月3日は秩父神社の夜祭。日本の三大夜祭りだ。他は岐阜の高山祭、京都祇園祭だそうだ。300年の伝統を誇る豪壮なもので笠鉾、屋台は素晴らしい。屋台4基、笠鉾2基が御旅所にのぼる坂を引き上げる時がクライマックス。秩父鉄道の線路を渡るのだがこの日は、電車は欠航になり架線が外される。お祭りの方が先にあったのだから、電車が遠慮するのは当然。これはいいね。都内でもやってみたら。屋台と笠鉾、一部ですが写真に写しました。御旅所を上がる時間までいることができなかったので花火を少し見て戻りました。
忘れていた。狛犬、鳥居の下に一対あっただけ。ちょっと寂しい。狛犬を見るのだったが秩父の奥にある三峰神社に行かなければならない。近々行ってみよう。お祭りのお店は秩父ならではのこんな地味なもの。食べ物は中近東風が多かった。
敦煌は砂漠の中のオアシスだ。現在は18万人もの人が住むが、その昔は泉の周りに少しだけの人が住んでいたのだろう。そんな景色が郊外にある。鳴砂山とその間にある三日月型の泉、月牙泉だ。ここは敦煌の最高の観光地になっている。入場料が110元もする。年寄り割引はなかったが、シーズンオフだったので半額。二人で110元。 砂丘の保全なんか考えなくてもよさそうだ。砂除けのスパッツを借りて(15元)皆さんどんどん上がっていく。ここは高さが100mの砂丘だ。二人のすぐ脇に半月。なかなかいい感じに撮れた。 三日月型の池がある。この水は枯れたことがないそうだ。湖畔には道教のお寺が立っている。砂だらけの寺だ。砂漠にはラクダ。こちらのラクダはふたこぶラクダ。乗りやすい。昔は砂漠の船といわれるように荷物運びの主役だったが、いまは観光用。11月寒いのでのる人は少ない。さみしそうに帰っていった。GoogleEarthの画像から見ると、こんな場所。敦煌山荘に泊まった。こんなでかい敷地だったのだ。食事に行くのが寒くて大変だった。となりの雷音寺もでかい敷地。下のくしゃくしゃは砂丘!
敦煌から西域に行くには二本の道がある。南の陽関をでると楼蘭をでて西域南道、あるいは漠南道をへてホータンにでてヒマラヤを超えてインドに向かう道。一方北の玉門関をでると西域北道をハミからウルムチに向かう。ウルムチからは天山北路、天山南路に分かれキジ国からカシュガルにでてさらにタジキスタンに向かう。今回は敦煌(人口18万人)から北西に100㎞ほど離れた玉門関と南西に80㎞はなれた陽関に行ってきた。数十年前なら一日がかりだったろうが、今は舗装道路が続いており1時間ちょっとで行くことができる。もちろんバスなどはないから車をチャーターする必要がある。最初に玉門関に。途中送電線が張り巡らされている場所を通った。砂漠に太陽光発電所を作り敦煌に工業団地を誘致するとのことだ。今敦煌はブドウ、アンズなど果物だけが換金作物。あとは観光収入だけだから、工業を誘致しようというが地の利は悪い。あまり望まない方がいいのでは・・・・道路の上に料金所がありその先に玉門関の立派な博物館があった。周辺にあるのはこの建物だけ。ここは万里の長城が果てるところ。3mほどの高さの壁は砂漠の中に消えている。漢の時代に作らたので「漢の長城」と呼ばれている。博物館からはシャトルバスがでており、大方盤城遺跡に行く。ここが一番の見どころだろう。粘土で固めた大きな建物は数百人が住んでいた要塞かもしれない。玉門関から陽関までほぼ100㎞を車は走る。陽関の村でお昼。壁に王維の「西出陽関無故人」の詩が書いてあった。簡体字だがまったく味わいはない。
お昼を食べて陽関へ。ここにも博物館があり、城門も復元?創作!されている。門の向こうには王維が手を振っている。王維に見送られてシャトルバスでのろし台に向かう。この高台に上ると反対側が見える。玉門関と違って平坦な場所にある関所ではなく、山の向こうははるかな大平原。まさに関所として最高の場所だ。この向こうに楼蘭がありホータンがあった。心の目で見ようと思ったが、とても届かなかった。
この茫漠とした地を、わが友人の中山嘉太郎は単独で走っていった。いったい何を考えていたのか。いや考えたらこんな広大な場所を走る気にはならないだろう。私には偉大というよりも狂気としか見えない。とてつもなくすごい人と友達だったのだ。
私たちが泊まっている「敦煌山荘」です。町から外れたところに広大な敷地を得て香港資本が作った観光用のホテルなので異国情緒たっぷりに作られています。値段は東京のビジネスホテル並み。それでも敦煌では最高級。私は並みのホテルでいいのですが奥様は洋式トイレのないところは嫌!しかし残念ながらウォッシュレットはありません。もっとも上海でもウォシュレットはなかったなあ。目の前にはこれまた驚くほど大きな寺があります。北周(隋の前)の時代の寺だと説明があります。しかし敦煌にはそんなに昔からの寺は残っていない。その時代にあったらしい寺を復活させたということらしい。なのでこの場所かどうかは全く不明。西域ちょっと時間がたてばすべて砂に埋まってしまうので、地上に遺跡はほとんど残らない。西域の遺跡発掘はほとんどが20世紀の探検家によってなされたものだ。私たちが敦煌に下りた前の日に雪が降った。敦煌山荘から見える砂丘は雪をかぶっている。すばらし景色だ。この砂丘の高さは200mもある。これは山ではなく砂が吹き上げられた砂丘であり、風の吹き方によって姿を変える。
見るからに寒そうな景色だ。本日の気温は最高が2℃、最低が零下10℃だ。かなり寒さ対策をしてきたが、それでもしんしんと冷える。食堂は景色のいいテラスに面しているのでいったん部屋から出ていかなければならない。中国は北京時間に統一されているので敦煌は日の出が8時30分、朝食は7時からなので深夜に食べている感じ。テラスからは雪で白く浮かんでいるような幻想的な砂丘が見える。月明かりがあると輝くだろうが本日は残念ながらなし。明けの明星の光では暗すぎる。とてつもなく寒い。これは道教の寺。砂漠の中にある月牙泉のわきにある。この塔の上からの砂丘と砂漠の眺めはいい。
敦煌の博物館にこんな地図があった。これだけ大胆に作った地図はなかなかない。しかしこれでシルクロードのおおよそのルートは分かる。字が小さいのと読めないので、私のわかる範囲で文字を載せてみた。
長安は中国の千年の都。秦の始皇帝陵もあり玄宗皇帝と楊貴の宮殿もあった。日本から遣唐使が派遣されたのもここ長安で、阿倍仲麻呂、空海などもここで学んだ。現在の西安にはほんの少しだけ長安の名残がある。中国は政権が変わると前の王朝の建造物を破壊することで前の歴史を途絶させる。いまの西安は千年の都長安を引き継いだ町ではないそうだ。 長安の城門から旅人は西へ旅立つ。河西回廊をとおって蘭州で黄河をわたり酒泉を通って敦煌に出る。南側は祁連(きれんさんみゃく)山脈、北側は万里の長城が境しているので、ほぼ一本の道になっている。今回の旅で西安からのヒコーキはこの祁連山脈の上をずっと飛んで行った。山また山どころではない。ヒコーキで一時間以上にわたって人跡、動物跡は何もない山々が連なっていた。山が終わったところから砂漠が始まる。そこが敦煌の町だった。
敦煌から西へ大きく分けると3本の道が通っている。19世紀ドイツの地理学者のリヒトホーフェンは著書「China](1877年)で東西交易路のことをザイデンシュトラーセンと呼んだ。「さまよえる湖」を探した探検家ヘディンが、それを英語でシルクロードとよんだ。
漢の武帝(BC2世紀)が張騫を派遣して西域を調査させた。しかし張騫は匈奴にとえられ13年間も幽閉された。しかし生きて戻り、情報をもとに匈奴を追い払って西域に進出した。その最前線が敦煌であった。漢の最前線として、万里の長城を延長し、敦煌の近くの玉門関まで長城が作られた。漢時代の建設なので「漢の長城」と言われる。高さは3mほど。河岸に沿って作られているので、西方から見るとかなり高く見える。(下の写真は張騫の像と漢の長城)
敦煌と西安に行く予定ですが、年をとったので一気に行くのは大変なので、上海で2泊しています。昨日は4時過ぎについたので夕食を食べたらすぐにホテルに入って、ゆっくり休みました。前回泊まったトンマオホテルはどういうわけか満員で、加州酒店というホテル。なんと大きな競技場の観客席の上がほてるになっている。目の下ではりっぱなトラックを多くの人が走っている。
接続の調子が悪いので、とりあえずここまで。
戸隠の山岳会の20周年記念日と合わせて紅葉見物に行ってきました。私は車がないので、EGUCHI夫妻の車に同乗して、あっちこちを回ってもらいました。長野駅で拾ってもらい、戸隠へ向かいました。その前に紅葉の名所である鬼無里(きなさ)に行きました。ここは京の都で不埒な働きをした紅葉という女性が流刑になってやってきたひなびた貧しい里だった。しかし紅葉さんはここで隠遁する気もなく周辺の民を集めて反旗を翻したのだが平維盛の遠征軍にやられてしまった。紅葉さんはとんでもない「鬼女」だったという伝説が残っている。今はもう鬼はいない里だよ!と宣伝しているが、鬼女イメージは残っている。今は鬼女ではなく貴女(きじょ)とされているようだ。
戸隠で楽しい宴会をした翌日、EGUCHIさんと同じ高校の後輩が来年からオープンするペンションを見に黒姫高原に行く。なかなかいい感じの外観だ。でもかなり手入れが必要かも。完成したら清瀬の皆さんぜひお泊りに来てください。
黒姫から志賀高原に上がり、雑魚川経由で秋山郷に行こうと思ったら、すでに雪のため閉鎖。6月まで通れないことが判明。急きょ渋峠経由で草津に抜けようと思って峠のパン屋に行ったら、11月4日で冬ごもり、さらに白根火山の噴火の影響で草津に抜ける道路は閉鎖。なので万座経由で軽井沢に行った。
途中鎌原の観音堂の紅葉見物。鎌原集落は浅間山の噴火で泥流が押し寄せ、500人の住民のうち400人以上がなくなった。観音堂の石段はほとんど埋まった。昭和になってから発掘を行ったら、石段の途中で息絶えた女性の骨が出てきた。あと数段登れば助かったのに。素晴らしい紅葉ですが、そんな悲劇のあった場所なので「すごーい!」とはしゃぐ気分にはならなかった。
軽井沢から旧道をとおって眼鏡橋の紅葉を見て横川、安中を通り本庄駅でEGUCHIさんと別れて湘南ライナーで戻りました。長時間運転させてしまいましたが、珍しいところを見れて喜んでくれました。ありがとうございました。
会津美里町に岩代国一宮の伊佐須美神社がある。古事記によれば、四道将軍として北陸道に派遣された建奴奈河別命と東海道を北上して来息子の大毘古命が合流した場所、すなわち相津( あいず)に作られた神社だそうだ。
この神社は岩代國一宮と称せられている。しかし岩代國というのは明治時代にほんの一瞬存在しただけの国名なので、昔からの一宮ではない。全国一宮会では、新一宮として伊佐須美神社を認定している。しかし新一宮と言われると新しく作ったように聞こえる。実際には延喜式の(925年)の式内社なので古くから存在しており、奥州二宮として知られていた。
一緒に行ったYOさんの解説では、本社のナンバー2だった副社長が新しい支店の社長になったようなものだ、と言う。なるほどよくわかる。律令時代、白河以北は大和政権の力は及んでおらず、東北地方はまとめてぜんぶを陸奥(奥州)とよんでいた。陸奥(奥州)の一宮は白河の関の近くの棚倉に置かれていた。立派な鳥居、隋神門(門の中にこの立派な木造狛犬がいる)、をくぐって境内に入るとアレレ、ちっちゃな拝殿があるだけ。後ろには土台の石はあるが建物はない。宮司さんに聞いたら、2008年に不審火で焼失したという。今は皆さんで元のように復活させると頑張っておられる。いつもよりちょっとだけ多くお賽銭を入れた。
本殿がないので、仲間のKOBAさんはご神木の前でご縁をお願いした。仮本殿前に戻ったところで、突然KOさんが驚いた顔を見せた。私とYOSHIさんは何事が起こったかと心配した。なんと息子さん一家とぱったり出会ったのだ。お孫さんは「なんでジイちゃんがここにいるの」と状況を理解できないふうだった。高崎在住のKOBAさんと埼玉在住の息子さん一家、なんの連絡もなかったのに会津の伊佐須美神社で出会うのは奇跡としか言いようがない。
大毘古命と建奴奈河別命の親子が会津で出会った、まさに同じことが、古事記以来1300年のちに起こったのだ!すばらしい「会津」に出会って感激した。
その感激さめやらぬまま喜多方にいきラーメンを食べた。喜多方ラーメンの味は伊佐須美神社の感動に比べれば、それほどものではなかった。感動はそうめったやたらにあるものではないのでまあいいか。