伯耆の国一宮:倭文(しとり)神社

  朝7時の山陰線で倉吉に向かった。ローカル線だが高校生の通学で満員。倉吉手前の松崎で降りる。倭文神社まではほぼ4キロ、まだ暑くないので歩けるだろうと判断した。駅前は東郷湖、ここは温泉地で湯気の立つ小さな池があった。手を入れるとやけどしそうな暑さ。

湖の周りをあるき、山に入る道しるべがあった。梨の畑に向かう軽トラ用の舗装道があるが、大変な急坂。小さな峠を越えると集落が出てくる。さらに上るとやっと表示がでてきた。夫婦岩があるが大きなの石と下に敷かれた小さな石。今の時代なら大きいのが奥さん、しかれて小さくなっているのがダンナということになるかな?

朝早かったのでまだ扉が開いておらず、社務所の朱印もないので待っている人が数人いた。私は朱印の趣味はないので、立派な逆立狛犬の写真を撮ってから、経塚まで上った。ここにあったお経は国宝になって博物館に納められているそうだ。ほかにもお宝があるので、夜間は社殿は閉められているのだろう。

神仏混淆の神社なので鳥居の後ろに神門(寺なら仁王門)がある。ここの彫刻もおもしろい。インドの象の神さまかもしれない。仁王門の前の狛犬は新しいので面白くないが拝殿前の逆立狛犬はいい。こんな巨大なものは今まで見たことがない。私の中では日本最大逆立狛犬だ。 ■本殿は何造りかわからないが千木は立削ぎ、鰹木は3本。出雲大社と同じだ。倭文(しずおり)氏が織物の神である建葉槌(たけはづち)命を祀っていたが、大正時代までは下照姫(したてるひめ)命も主祭神であると考えられていた。いまは女神ということから安産の神となっている。

経塚から降りてきたら、9時前だが社務所の方々も来られて拝殿の扉があけられた。建葉槌命よりも下照姫命の方が人気のようだ。下照姫は大国主命の娘と言われている。

帰りは山道は避けて湖のほとりを下った。東郷温泉の向こうに昨日山開きをした大山が見えた。

この辺りは神話の郷、なかなか楽しい一之宮めぐりになった。一緒にお参りした人は、出雲に行くぞ!と去っていった。私はすでに参拝済みだ。

 

但馬から因幡へ、「たもや」で食事

鳥取にいます。因幡の白兎神社、因幡一之宮の宇倍神社にお参りするためです。地元にいるKUSA野さん御案内でぐるっと回れたので楽ちんでした。いつもなら地図を頼りに歩け歩けなのですが、本日は乗っていればいいので楽でした。写真は合流場所の餘部鉄橋。

鳥取砂丘・砂の美術館:白兎神社

「たもや」で食事KUSA野さんおすすめ。猛者エビは今この時期にしか食べられない。

 

因幡の国一の宮:宇倍神社

鳥取県鳥取市国府町宮下651・・・・に鎮座する因幡の国一の宮。因幡と言えば白兎であるが、この神社はまったく関係なし。
■ ご祭神は、 武内宿禰(たけのうちのすくね)命である。この方は第十二代景行天皇より、成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5朝にお仕えされ、まことをつくして天皇の信任篤く、わが身を投げうって東奔西走、日本の統一に尽力されました。 わが国で最初に「大臣」の称を賜わり、日本の国造りに功績のあった神さまです。(神社のHP)

武内宿根は360歳でこの地で亡くなった。終焉の地という石碑もあった。神武天皇でも寿命は137歳ということになっている。神話とはいえその3倍近い寿命というのはどう考えてもおかしい。昔の人も「お話だよ!」と了解していたかもしれない。しかし明治政府は、日本の大臣の理想像として教科書に載せ、お札に肖像を載せた。明治大正昭和にかけ5回もお札に登場したのは他にはあまりない。神話を歴史にしてはいけないというのが私の感想。似顔絵もないのによく描けた、想像力というのはたくましいものだ。   今は総理の座を狙っている石破さんがこの宮の代表になっている。大臣はお仕えする身、昔は天皇になることはできなかった。今は大臣が総理になるのは何の不思議もない。今変な総理いるが、何とか石破さんがんばって総理になって欲しいと、地元の人は期待しているようだ。

社殿はなかなか立派だ。流れ造だが、屋根の上の千木は縦削ぎ、鰹木は3本と出雲大社風である。

本殿の背後の高台に「磐座」(いわくら)がある。武内宿祢は神功皇后の子どもを育てて、無事天皇の位につかせる。第15代応神天皇である。なので応神天皇を祀る八幡神社には伴神として武内神社や高良神社がある。子育ての神さまとしてお人気があるという。そういえば一昨日訪れた気比神宮にも武内宿祢を祀る高良社があった。

境内の奥に国府神社がある。因幡の国府跡は鳥取市の国府町にある。現在は「すなば珈琲」のお店がある。スタバはないがスナバはあるとの名言を吐いた知事はなかなかいい。

スナバは鳥取砂丘であり「砂の博物館」これもすばらしい。

白兎海岸には因幡の白兎の神社がある。こっちの方が本家かも!

植村直己冒険賞授賞式

■豊岡市の日高公民館で植村直己冒険賞の授賞式が行われた。今年の受賞者は単独無補給で南極点まで歩いた荻田泰永さんだ。オープニングは植村さんの母校、府中小学校の生徒たちの「Do My Best」のコーラス。

■市長あいさつのあと、選考委員の石毛直道さんの選考評があった。石毛さんは日本の探検家の草分けのような方だ。選考の理由を会場を埋めた中学生にわかりやすく説明してくれた。荻田さんのような若い冒険家、子どもたちに話をするのがうれしくてならないような石毛さんだった。荻田さんも、大先達の石毛さんのような方に評価してもらえたのはうれしいことだったろう。■賞の贈呈の後、荻田さんの講演会になった。聴衆は地元の中学生が主体だ。植村直己冒険賞は受賞者本人の栄誉でもあるが、一番重要なのは地元出身の植村さんへの敬意を呼び起こすことでもある。先人の偉業に誇りをもって、学生生活を送って欲しいというのが地元の方々の願いだろう。

■荻田さんは南極の話を動画を交えながら話してくれた。100㎏近い荷物を満載したソリを自力で引っ張って1000㎞以上の距離を歩いた。誰もいない雪原で一脚を立ててカメラをセットしてその前を歩いている姿にみな感動していた。そんな大変ななかでよく動画をとる余裕があるなあと思ったのだろう。しかし荻田さんは、「南極点踏破は簡単でした」と言った。「ええー」と中学生は思ったろう。

■荻田さんは「北極男」と称している。実は2001年から北極には15回行っているが、南極は今回が初めて。南極は大陸で氷は安定している。北極の氷は海に浮かんでいるだけでいつ割れるかもわからない。氷は動くので昨日北極点だった場所が今日も北極点とは限らない。動いた氷がぶつかって乱氷帯ができ、時にはリードと呼ばれる割れ目ができる。今度は動画ではなく写真だった。割れ目に落ちたら助からない。と思っていたらドライスーツで泳ぐ準備もしていった。乱氷帯は巨大な氷のブロックがごろごろしている間をソリを引っ張り上げる。「もういやだ!」という声が聞こえた。写真だと思っていたが動画だった。動けないが声だけは入っていた。

■「この乱氷帯を犬ぞりを使って越えて行ったのはとんでもなく大変なことだ。私にはできません。」と犬ぞりの植村さんの偉業を評価した。子どもたちは「そうなんだ、植村さんはすごかったんだ!」と誇りに思ったようだ。それは後の子どもたちの活発な質問から察するができた。

■最後に今後のやりたいこと。1.小学生をつれて100マイル歩行、これは自分が受けた恩返し、いや「恩送り」だという。自分は大場満郎さんのおかげ極地に行けた。大場さんは植村直己さんお世話になった。恩は相手に返さなくていい。次世代に送ればいいという。その意味も込めて毎年小学生と歩いているという。
2番目は自分のことで、3度目の北極点無補給単独徒歩行を成功させたい。そして3番目、何を言うかと思っていたら「ハワイに行きたい」皆さん思いがけない言葉にどっと笑った。会場には奥さん子どもも来ていたのだ。■話の後は質問タイム。司会者の方は何も出なかったら終了という感じだったが、続々と中学生が質問する。こんなに質問が飛び交う講演会は初めてだった。荻田さんの人がらだろう。地元の方々も大変喜んでおられた。いい授賞式だった。

狛ねこを見つけた

京都丹後鉄道(昔はタンゴ鉄道だった)にのって峰山という駅にやってきた。私たちの時代には、ヤクルトの野村監督が峰山高校の出身だということは誰でも知っていた。しかし峰山がどこにあるかは知らなかった。
  峰山の金毘羅神社に日本で唯一の「狛ねこ」があることを聞いた。豊岡で行われる植村直己冒険賞授賞式に合わせて西舞鶴から列車に乗った。   峰山の駅からは1.5キロ。まだ朝早いので涼しい。歩いて行ける距離だ。この地を支配した讃岐出身の京極さんが信仰したとかで、立派な神社だ。石段は本家ほどではないがかなり上る。石段途中に末社がいくつかあり、それぞれに狛犬やお狐さんがいる。    その中の猿田彦神社と木島神社を合祀した社の前に「狛ねこ」がいた。ちょっとおまけに作ったというのではなく意識して本格的に作ったものだ。木島神社は織物の神さまを祀る神社。織物にネズミは天敵だそうで、ネズミの天敵の「ねこ」を魔除けにした。
  狛犬はもともとは魔除けで作ったものだから、犬でも獅子でも狐でも猫でもいい。日本の神社ってのは包容力がある。   今では全国に知られたようで多くの「狛ねこ」愛好家が訪れる。同じ列車で中年のおじさんも「狛ねこ」を見に来ていた。彼はタクシーで行ったので、私がついた時には石段を下りてくるところだった。

若狭の一宮、若狭比米神社

若狭に来ています。敦賀で新しくなった気比神宮の大鳥居を見て、小浜線で東小浜まできて、そこから貸自転車で若狭神社をまわってきました。若狭神社は上社が若狭彦神社、下社が若狭姫神社になっています。長いこと神仏混淆であったので若狭神宮寺もひとまとめだったようです。  若狭神社は、東大寺二月堂にお水を送る「水送り」行事が行われることで有名です。毎年3月2日に鵜の瀬という川の淵で、奈良東大寺にお水が送られます。100㎞以上もある奈良まで地下水が流れていくとは考えられないのですが、行事として長い年月続けられています。3月12日には二月堂の「若狭井」でその水が汲みあげられます。  東大寺で修二会という行事がはじめられたときに、全国の神さまが集まめられました。その時に若狭の神さまだけが遅刻したのです。ちょうど魚釣りが忙しくて!10日間遅れた神さまはお詫びの印に毎年若狭から閼伽の水を送ることを約束したことで、お水送りが行われています。

大山花壇

我が家の花壇、管理者、作業員は奥さん、ときどき鑑賞者、私と通行人。

池袋駅なかのカレーや

山手線で池袋までもどってきた。ちょっとお腹もすいていたので、駅の改札口の中にあるカレー屋に入ってみた。野菜いっぱいのカレー。じっくり煮込んでいないので野菜の形もよくわかり、野菜味が混ざっていない。これは我が家のこのみ。忘れないようにここに記録しておこう。お店はCAMPとあって、スプーンはシャベル型、飯盒にナプキンが入っている。なかなかおもしろい。味もよかった。

 

峠楽会 報告!

  19日に峠楽会で、霞峠を命名しました。しかし19日には7名の参加で、いつもよりだいぶ少なかったので、全体で峠の命名をすることができませんでした。当日の様子は原さんが詳しく描いてくれました。勝手に引用しておきます。原さん、事後承認ですが、よろしいですか?

19日の峠楽会の様子

 

小石川植物園 お花

日差しは強いが、風は涼しい。本日は籠町小学校のフリーマーケットを見てから、歩いて小石川植物園に行く。フリーマーケットはすごい人。なんか今の社会を象徴している感じだ。
「捨てるにはもったいない!誰か使ってくれないかな。」
「新しいものは欲しくない。必要なものはお古でもいいよ!」  企業の人や政府日銀は、これじゃ日本のGDPは増えない! 2%の物価上昇はできない。とぼやくかもしれない。

千石駅から植物園に行くと入り口は遠い。塀に沿って歩くと30分もかかった。植物園は広いのだ。 新緑の今頃は、目立った花はないので人も少なくく気分はいい。珍しい植物をチェック。私が知らないだけかな?

ダンドク(Canna indica)ハナキササゲ(ノウゼンカズラ科)こちらはご存知、ニュートンのリンゴの木トキワマンサク(絶滅危惧1B)

超眺望!ランチ!お富士さん!狛犬!王将!

すごい眺望のレストランでランチ。昔の日本青年館が新しくなりました。神宮球場の真ん前。試合がタダで見れるなあ。まだあまり知られていないようで昼時なのに空いている。訪れるなら今のうちだ。


そのあと鳩森神社。こちらにはお富士さんがある。誰でも登れる。近年は外国人が多い。

神社に来れば狛犬。

こんなお堂もあった。将棋のお堂? ちょうどこの日、高校生の藤井君が最年少の7段になった。

霞岳峠 国立競技場の近く!

19日(土)には峠楽会は霞岳峠に行きます。信濃町の慶応大学病院があるのは霞岳町です。ここにある峠なので勝手に霞岳峠にしました。峠の反対側は霞ヶ丘町で、そこには国立霞ヶ丘競技場がありました。現在は新国立競技場が建設中です。

霞ヶ丘峠でも霞岳峠でもいいのですが、なんとなく山みたいで立派かなと思って霞岳町の名前にしました。いかがでしょうか。現在峠の上には歩道橋が通っていますが、その橋は「無名橋」となっていますので、将来は霞岳橋にしてもらいたいなと思っています。

「峠」地形は東京凸凹地図を参考にして、探しています。東京の台地は開析が進み、小さな谷が沢山入り込んでいます。両側から谷と谷が合わさったところが「峠」です。峠という漢字は、実は日本で作った漢字=国字です。山を上がって下るというのはイメージが合います。苦労して峠に立つと向こう側に新しい世界が開ける、峠にはそんなイメージがあります。

本日その場所を下見してきました。国立競技場の工事はじゅんちょうに進んでいるようです。そのわきに立派なホテルができていました。中に入ってみると、昔の日本青年館でした。9回に眺めのいいCafeがありました。土曜日、雨が降ったらここでお茶するのもいいなと思っています。下見の成果です。

82番根香寺(ねごろじ)

81番白峰寺は五色台の白峰にあった。こちら82番は青峰にある。その間は50丁の距離で讃岐の遍路道が結んでいる。旧陸軍の演習地でいまも善通寺部隊の敷地なので開発が進まなかったようで、大変保存がいい。丁石は、たぶん補修したろうが、50丁分全部残っている。50丁はほぼ5.5㎞で、上り下りはそれほどでもない。しかし我々の足では2時間以上かかった。

五色台の主峰、青峯山山中にたたずむ。弘法大師は密教修行の地としこの山に「花蔵院」を建立した。大師の甥の智証大師が訪れ、山の鎮守の一之瀬明神に出会い、「蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけた。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し「千手院」を建てた。この霊木の根は芳香を放ち続けたことから「花蔵院」「千手院」を総称して根香寺とよんだ。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めた。と記されている。弘法大師が開祖だがいまは天台宗。

かなりの山の中で昔は密教の修行の地だった。外界からの影響を断って大勢の修験者が活動をしていた。俗人にはわからないような現象も起こっていたというので、近年はパワースポットとしても知られる。怖いもの見たさに訪れる人も多い。仁王門のわきには牛鬼の大きな像が参拝者を驚かすように立っている。

人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が青峰山に棲んでいた。弓名人山田蔵人高清は山へ入ったがなかなか牛鬼が現れない。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけた。21日目の満願の暁に、牛鬼が現れ口の中に矢を命中。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。牛鬼の絵は魔よけのお守りとして親しまれている、そうだ。

 

第81番白峰寺

坂出の東には300mを超す溶岩台地が広がっています。溶岩はカンカン石と言われる固い安山岩です。この溶岩は古い時代に噴出したもので、現在知られる火山由来ではない。溶岩は長い間に侵食され、谷がいくつも刻まれ、いくつかのブロックに分かれています。そのなかで目立つ峰に青峰、黄峰、赤峰、白峰、黒峰の五色の名前が付けられています。

白峰に81番白峰寺、青峰に82番根香寺がある。その2寺の間には讃岐遍路道が残っており、重要文化財として保存整備が進んでいる。これはなかなかいい道で、歩いてよかったと思っている。地元の中学生も授業の一環として歩いているようで、今回多くの生徒たちに追い越された。

五色台全体の地図

■815年に弘法大師空海が白峰山頂(337m)に上った。その後空海の妹の子である智証大師がここに寺を創建した。智証大師は、山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し本尊にしたという。■白峯寺の中には「頓証寺殿」という建物もある。後鳥羽天皇と戦った保元の乱で負けた崇徳上皇は讃岐に流され、都へ戻れないまま流刑地で没した。白峰山に陵墓が造られた。崇徳院と親しかった西行法師が詣で法楽を行った。その後慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした木の丸殿をここに移した。現在の頓証寺殿がそれである。四国88カ所霊場の白峯寺に詣でる人は多いが、実はこの崇徳天皇の御陵に詣でる人も多い。私が訪れた時も、駐車場にいたタクシーの運転手さんは「みなさん御陵にこられています」と教えてくれた。お遍路さんは御陵を素通りして、遍路道に入っていく。お遍路さんは途中にある寺や神社、御陵にはあまり目を向けない。私は歩き旅であるから途中の興味深いところには寄り道をするので予定時間を過ぎることが多い。これもまあいいか! である。

崇徳上皇がなくなってしばらくして西行法師が慰霊の旅をした。五色台の下にある・・神社から急な坂を上ってここまでやってきた。その道を今は「西行道」として参拝の人がとおる。私も知っていれば79番から80番を後回しにしてこの道を上ったのだが・・・、ここから下る気はなく、白峰寺をゆっくり参拝して、讃岐へんろ道を82番根香寺に向かった。

門を入って正面に護摩堂がある。左に曲がって正面に頓証寺殿がある。本堂大師堂は右手にある急な石段を上がった上にある。途中に立派なお堂がある。

本堂の拝殿の天井の釣り灯篭

昨日参った79番天皇寺が崇徳天皇の配流地の御所だった。81番は御陵だ。天皇関連とすれば79番から80番を飛ばして81番へ行くのが自然だ。昔のへんろ道もそうなっていたらしい。しかし札所めぐりは順番どおりに行くようだ。合理的な考えをする人たちは79⇒81⇒82⇒80⇒83 とめぐるようだ。

下弦の月 って久しぶりだね!

 四国お遍路の最中なので、朝は早くから起きて支度しています。空にはこんな月が出ていました。これは「下弦」の月です。「エエーッ 弦は上の方にあるじゃないか。上弦の月だろ!」と言われることがあります。私も長いこと教えていて、大いに疑問を持っていました。月が沈むときに弦が上にあるか下にあるかで決めたようですが、今見えている月が地平線に沈むときには弦が下になるので下弦です。しかし太陽が高くあるので見ることはできません。ということで、下弦になった月を実際に見た人はいないのです。見えることはない「下弦の月」、やっぱりおかしいなあ!