80番国分寺からの「へんろ道」

国分寺を過ぎると、どんどん山の方に道が入って行く。あの急な坂が「へんろころがし」なのだろう。昔は田んぼがあったようだ。重機を操作しているお兄さんに聞いたら、放棄された田んぼを太陽電池パネルの設置場所変えているところだという。苦労して稲作をするよりも、パネルを設置して利益を得る方が楽だろう。なんかアパートの大家さんみたいだ。
国分寺発9:30→

本日は日差しは強いが気温は20℃くらい。山の中は木々が茂っているので日差しはさえぎられる。奥さんは日傘をさしていたが、山の中では必要がなくなった。
展望台(石鎚神社WC)10:30 → 一本松峠 11:30

  一本松峠には車道が通っている。右に行けば82番根香寺(ねごろじ)左に行けば81番白峰寺(しろみねじ)である。2週間前に通ったばかりの清水さんのアドバイスでまず車道を通り81番へ向かう。歩く道は車道を横切ってくだる。涼しいし気分はいいだろうが上り下りがあり遠い。自衛隊のフェンスに沿って2キロほど歩き、途中から歩道に降りる(左の案内柱)。
ゼンマイがたくさん生えているので取りたかったが、持って歩くわけにはいかない。81番白峰寺までいい道だった。

81番白峰寺( 寺の記事は別にする)
崇徳院ゆかりの寺を後にして、同じ道を古田まで戻る。寺の前に「へんろの道」の案内がある。ここは讃岐でも最もよく丁石(ちょういし)が残っており、手入れもされているという。50丁からはじまり82番の根香寺が1番になっている。
上の石柱12:15 → 白峯寺12:30-1:00 → 閼伽井2:10 → 19丁3:00 → みち草 3:30

19丁を過ぎるとまもなく車道にぶつかる。みち草という食堂があった。一瞬入ろうと思ったが、すでに3時半、先はまだ長いので素通り。

82番根香寺 4:00-4:30 → へんろ小屋4:45 → 車道分岐5:30 → 鬼無駅 6:30

9時間の行動時間、長い一日でした。3万9千歩。鬼無駅から丸亀に戻りホテルへ。

四国88ヵ所 80番 国分寺

とうとう80番まで来た。あと8札所を残すのみとなった。あと一回の歩き旅で「結願」ということになる。前に書いた通り願いが叶うというほどの願いを持っていないので完歩と言った方がいいかもしれない。

昨日は79番まで巡って、鴨川から電車で丸亀に戻った。丸亀のホテルが奥さまのお気に入りなので今回は連泊することにした。おかげで本日は荷物を持たないで歩くことができる。最近ちょっとでも重いものを持つと翌日は起き上がれないほどの腰痛になる。大きなお風呂もあるのでいいホテルだ。値段はへんろ民宿よりも安い。いったいどうなっているんだろう。今朝は丸亀から電車で国分駅に来た。2駅抜かしたが本日は「へんろ転がし」を行くので大目に見ることにした。

国分寺は思ったよりもはるかに立派な寺だった。時間をかけずに先を急ごうと思っていたが、じっくりお参りが必要だった。30分以上かけたので、あとの時間に響いた。本日は先が長いということを忘れていた。

立派な本堂があり、奥さまはしっかりお参りをしていた。ここには千手観音がおられるそうだ。私は大師堂に行こうとしたのだが、それらしいものは見えない。あたりを見渡すと弁天様と七福神が祀られている。お寺と弁天さんの関係はよくわからないのだが、まあいいか! 納経所で聞いてみると建物の中に大師堂があった。写真禁止なので大師堂の写真はない。これまで79ヵ所で本堂、大師堂は必ず写真を撮ってきたので、ここでかけるのはちょっと残念。でもまぁいいか!

昔の国分寺は741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれた。しかし国からの援助がなくなるとほとんどの国分尼寺は廃寺になり再興したものはなかった。国分僧寺もほとんどがなくなったが宗旨を変えて存続したものもある。四国には旧国に4つの国分寺があるが、讃岐の国分寺だけ当時の場所に存続した珍しい寺である。現在の寺の裏手で当時の遺跡が発掘中である。

 

四国88ヵ所 79番天皇寺高照院

78番郷照寺の大師様にご挨拶をして急いで坂を下りる。新町という古そうな町をとおり、国道をくぐって小さな峠を上る。うどん屋があったが本日終了。香川県はうどん県と称しているが、まだ讃岐うどんを食べていない。残念。

峠を越えると田尾坂公園にでる。眼の下にまっすぐな道が坂出の駅方面につづいている。荷物がないので快適に本町アーケードを行き、坂出の駅を右手に見て進む。線路を越えて山麓をまわるいい道を歩き八十場(やそば)の水場をすぎる。この水で日本武尊は生き返ったという由緒ある湧水だ。日本武尊はいろんなところに出没するものだ。

八十場の「ところてん」清水屋さんをすぎると大きな椎の木がある建物の境内に入る。境内に入ると反対側に赤い鳥居が見えるのでそちらに回る。近所の人に「天皇寺はここかな?」と聞くと、「ここは神社だけど、天皇寺といっしょだ!」と教えてくれる。赤い鳥居は三つ鳥居、我が三輪神社の鳥居と同じで「三輪鳥居「」ともいう。その鳥居の右手の大きな岩に「四国79番霊場天皇寺」と彫りこんである。さらに白峰宮という柱もたっている。何がなんだかよくわからないがみんなごっちゃになっているらしい。

とりあえず本堂と大師堂にご挨拶をするが、正面にある神社の拝殿、本殿に比べると見劣りがする。それもそのはず、ここは明治まで神仏混淆の天皇寺だったが、神仏分離で寺は廃寺になりその後末寺だった高照院が再興したようだ。したがって天皇寺高照院というのが正しい。お遍路地図などには79番天皇寺とあるが、それじゃ高照院はかわいそうだ。天皇寺高照院と書くのが正しそうだ。

さて天皇とは第75代の崇徳天皇だという。ちょっと調べてみたら
小倉百人一首の『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ』
の詠み人で、文化人らしい。
しかし崇徳天皇は平将門、菅原道真をしのぐ大怨霊であるとされている。

崇徳天皇の祖父は白河天皇、父は鳥羽天皇だが、実際は祖父の子だったようで、父は崇徳のことを忌み嫌った。権力者だった祖父は息子の鳥羽を上皇にし、崇徳を天皇にした。

白河法皇がなくなった後、鳥羽上皇は崇徳天皇を廃して近衛天皇をたてた。近衛天皇はすぐに亡くなるが、崇徳が呪い殺したという噂が立った。近衛天皇の後に立った後白河天皇は平清盛と組み戦いを起こした。「保元の乱」である。負けた崇徳上皇は四国の讃岐へ流された。

自分の血をとって書いた写経を京都に送り、帰還を願ったが、破り捨てられたのを知り絶望して、1164年舌をかみ切って死んだ。「日本国の大魔縁となって、天皇を民とし民を天皇となさん」と呪ったという。その後、後白河法皇の近親者に次々と不幸が襲った。崇徳が予言したように武士が台頭し、天皇の地位は地に落ちた。

その後100年ごとに起こる大きな事件は崇徳上皇の呪いだとされてきた。怨霊をおそれた明治天皇は崇徳天皇の御霊を京都に戻し白峰神宮を創建してから即位した。亡くなって800年後の1964年には、昭和天皇が崇徳天皇陵に勅使を派遣し、霊を鎮めた。そのおかげで東京オリンピックは無事成功したという話も残っているそうだ。

100年ごとに呪いを発揮するなんてまさに大怨霊だ。私にはなんの関係もないが、崇徳上皇の呪いが残っている場所には長く居たくない。赤い鳥居をあとに一の鳥居に向かって急いで駈け下りた。そのせいで、行先の表示をちゃんと確認しなかった。ふつうは門前にある案内板(下の写真)を確認して次の札所に向かう。私はあわてていたので鳥居前の参道をまっすぐ下って行った。おかげで翌日「へんろ転がし」の難所に苦労をした。翌日出会った外国人の歩き遍路はみな「へんろ転がし」の急坂を下りに使っていた。

彼らのもつ案内書には、79番天皇寺から81番白峰寺にあがり、82番根香寺に参ってから一本松にもどり「へんろ転がし」を下って80番に行くと書いてある。この道の方が昔のへんろ道であると書いてある。日本人は順番通りに行かなければいけないような気がしているが、ここは 79→81→82→80 と順序を変えたほうが合理的である。その時には知らなかった。残念。

四国88ヵ所 78番郷照寺

78番郷照寺
宇夫階神社の鳥居前は参道になっているのだろう。まっすぐな道が付けられている。鳥居からすぐのところに立派なお寺が、きっと郷照寺に違いないと思ったが、実は別の寺だった。郷照寺はそのさき、右手に入り少し登ったところにあった。

一番下には鐘楼がある。そこから宇多津の街が一望できる。坂出の街は峠を越えた向こう側らしい。鐘楼から石段を上がると納経所がある。本堂はさらに数段あがり、さらにその上に大師堂がある。1日目でまだ石段登りに慣れていないので庭園脇の緩い坂を上る。立派な池を巡る庭園があった。なかなかいい感じだった。

ご本堂と庚申堂  四国88カ所の中で唯一「時宗」の寺だ。

大師堂のさらに上には淡島様がある。女性の守り神様だ。奥さまはお参りしたが、私はちょっと近づきがたく、地下にある阿弥陀堂に降りて行った。小さな阿弥陀様の像が千体万体並べらられている。奉納した方々の気が満ち満ちているようで、急いで外に出た。まだ修行が足りないのでどう対処してよいかわからない。

四国88ヵ所歩き旅:77番道隆寺

今年3月に、5泊6日で76番の金倉寺までまわった。後半の2日は雨の中、弥谷寺の555段の石段登りはかなりハードだった。帰ってきてしばらくは体調が戻らなかった。ほぼ1週間、休みなしに歩くのはきつい年齢になったことを悟った。次回は交通費はかかるが2泊3日ぐらいにしたいと考えた。

今年中に何とか88番まで回りたいと考えていたが、残り1回で12札所をまわるのはムリになった。そこで暑くならないうちに6札所をまわり、残り6札所を秋に回り完成させることにした。全部札所をまわれば結願ということになるが、我が家は仏さまになんの願いもしていないので「結願」とは言えない。そこで歩き旅の完成ということにした。
東京駅を7時10分の「のぞみ」で出発したら多度津に11時40分には到着する。4時間半で四国の年に着くのだからすごいものだ。ヒコーキでもこれぐらいはかかる。5月の最初は暑い日が続いたが、本日は日差しはあるもののかなり涼しい。暑さにはたいへん弱い我が家の奥さんでも十分に歩くことは可能だった。多度津駅から30分、距離は1.5キロほどだが駅前にあった太胡石を見ていたら遅くなった。この石は先日訪れた上海で見た石だった。説明文を読むと友好都市になったので上海のなんとかいう町から送られたとのことだった。

第77番 道隆寺
多度津駅から行ったので、寺の裏手にでた。76番から歩いてくる場所が正面なのでぐるっと回って大門前に出た。道隆というのは領主さまの和気道隆から名をとった。彼は怪しい光を放つ桑の木に向かって矢を射た。その矢は乳母に当たってしまった。それを悔いた道隆は桑の木で薬師如来を彫った。息子は唐から戻った空海に頼み、さらに大きな薬師如来を彫って、その体内に道隆の薬師如来を本尊とした。本尊は「眼直し薬師」として今も信仰は厚い。眼がよくなってご典医になった京極左馬造の御廟がある。

丸亀へ
寺の裏から国道に出る。先を歩く本格遍路さんについていくが、すぐに見えなくなる。途中民家の壁にこんな看板があった。セクハラ・パワハラの財務省幹部に読ませたい。お遍路をしていると人間ができてくるそうだが、私はどんどん不満や怒りが増して来る。お遍路をしてもあまり得るものはないかな。
本日は丸亀のホテルに泊まることにしてあるので、荷物を預けて先に進む。貴重品とカメラだけになったら、足はすいすい進み、気分はよくなって、財務省大臣への怒りも和らいだ。

宇多津には宇夫階(うぶしな)神社があった。
宇多津を通り越し県道の下をくぐってすぐにわき道に入る。気を付けていないと見過ごす。少し登って下るとなにやら不思議な神社前に出る。宇夫階(うぶしな)神社と名前が付けられているが石段を登るといくつもの鳥居があり、かなりの神社が集合している。末社や摂社ではなく並立しているようだ。伊勢の社をもらってきた社殿もあるし金毘羅さんもある。
本殿の裏に回ってみると巨大な花崗岩がある。注連縄がはられているので磐座(いわくら)だと分かる。これぐらい大きいと何となく神秘性が感じられる。ここに神さまが降臨されるのだろう。私は無神論者ではない。人知を超えた偉大な存在があると考える方が合理的で自然だと考えているからだ。

鳥海山 スキー登山・滑降

5月1日から鳥海山にいってきました。今年で4回目の春山スキーです。鳥海山にはリフトはありません。というよりもスキー施設はまったくありませんが、この時期大勢のスキーヤー、ボーダーがやってきます。みなさん自力で上るしかありません。けっこう大変ですが、今年は誰もいない東面を滑ってきました。大斜面を独り占め。

動画を作りました。youtube にアップしました。以下の青いところをクリックして、見てください。

鳥海山東面スキー滑降2018

 

ランチでステーキ!

  我が家がひいきにするとすぐにつぶれるというジンクスがある。少し皆に宣伝してもう少し長続きして欲しいと思っています。
池袋の東武デパートの11階にある「Old manhattan」という店です。

店の中は広く落ち着いているのですが、日曜日でもお客はまばら。すぐ前の北海道回転寿司は長い行列ができているのに、こちらはいつでも歓迎。

私たちはランチタイムがある平日に行きます。写真のようなステーキ! 柔らかくてまあ最高! 爺さんでも歯に挟まらずに食べられます。このステーキは一日10食限定。1500円だったかな。(奥さんが払ってくれるたで詳細は不明) 10食限定と書けばすぐになくなるはずだが、今日も12時半に行っても食べることができた。こんな客の入りが続けば・・・大丈夫かな。

楽隠居のブログ→怪語碌 へ

我が友人の楽隠居(パソコンでは烙印居、落隠居などおもしろい字に変換する)。とても忙しい楽隠居が新しくブログを開始しました。これまで2001年から書いていたブログは4月末で閉鎖になってしまったので、仕方なく新しく始めたものです。今年80のおばあさんですから、自力で始めるのはむりです。

そこで私が助っ人! 新しく始めたブログは「快語碌」、これも介護録、とか悔悟録、下位語録 などいろいろ出てきますが、楽隠居がえらんだのは、ほかにないらしく、インターネット検索ですぐに出てきます。

まさか一回の指導でできるほど簡単ではないと思っていたのですが、もうすでに何日分かの記述があります。ぜひ閲覧して、コメントにいいねと、いれてあげてください。ブログなんて人に見せるために書いているんじゃないよ!と言っていますが、どんな人でも反応があればうれしいものです。

でも決して、トマト、ウナギの文字は入れないように。激怒されますから。

快語碌 で検索するか taguchi5022.blogspot.com   をクリックするかしてみてください。

上海の町、日比谷の町

先日上海の町が超近代化されたのを見てかなりショックを受けた。町の建物では我が国は追い越されたな!と感じた。しかし一昨日だったか日比谷に行ってみて、わが日本もすばらしい。まだ追いつかれていないかな! と少々安心した。

今から40数年前に筑波学園都市にいたことがある。まだ高層ビルはなかったが、作られたばかりの近代的な街並みがあった。すばらしいと思った反面、町がまぶしくてたまらなかった。まだ木々が育っていなかったことが理由だった。今筑波学園は落ち着いた街になっている。私は上海の新しい町をすばらしいと思ったのだが、どこかまだしっくりこないと感じたのは、つくばで感じたことと同じだったかもしれない。

日比谷の町を見て「そうだ、緑が原因だ!」とおもった。上海もあと30年したら緑が増えて落ち着いた街になるかな。その時には本当に追いつかれたと感じるかもしれない。上海(上3枚)と日比谷の町(下3枚緑は皇居)の写真を入れておきます。

西新井薬師 ボタン!

足立区に住むご隠居さんのパソコンの調子を見るために伺った。そのあとバスに乗って西新井薬師へいく。牡丹園が有名なのだが、もうちょっと遅かった。わが奥さんは先週下落合の薬王院に行ってきた。その時は真っ盛りだったらしい。ついでに行くのはうまくいかない。真っ盛りに行くためにはそれだけを目的に行かなければいけないなあ。写真を載せておきます。

えびの高原 硫黄岳噴煙

   安倍トランプ会談、明恵夫人・元大臣秘書同行、麻生大臣訪米(あれれ、問題ある人が皆行っちゃった)、財務省次官更迭、テレビ朝日記者セクハラ被害、新潟県知事辞任、一日にこれだけ大事件が起こるなんて、まさに歴史的一日になった。と思っていたらさらに九州えびの高原の硫黄岳が噴火したという。テレビ局は大忙しの一日だろう。

硫黄岳は2007年に登った韓国岳の寄生火山みたいだ。韓国岳の火口は大きいが、ある方向に小さな火口が連なっている。その一角が噴火したようだ。私が登った時の写真を見つけた。その時は気配はなかった。

日比谷で絵画鑑賞

我が家の奥様の友人が日比谷で水彩の絵画展をやっているというので出かけた。ちょうど作者もおられたので、奥様は一緒にお茶の時間。
許可を得て写真にとって見たが、ガラスに入っているのでうまく表現ができない。残念!

日比谷にはしばらく行ってなかったが、ミッドタウンとかですごいビルができていた。ビルにはゴジラもいた。ゴジラはビルを壊すんじゃなかったけ。ゴジラ映画の収益で立ったビルかな??

おどろいタコ!

秩父の友人宅にみなで行く予定だったが、天気は荒れ模様。朝から雨、風がつよくとても山中には行けそうもない。ということで今話題の大山銀座探索に変更した。我が家には若い女性が6人も集まった。事前に大山銀座で食材を準備し、台所を使って料理。そして大宴会になった。持ち寄ったワインが10本近く空になっていた。最近のお姉さんたちのパワーはすごい。
写真は日間賀島のお土産のタコ! 真空パックになっていてごく薄っぺらいものだったが、袋を開けてお鍋に入れて加熱したら、すっくと立ちあがった。まるでマジック。本日の一番のイベントだった。

鶴見:めがね橋峠 峠楽会テキスト

◆3月の1週間の四国遍路の疲れが癒えないまま、4月4日からの上海旅行では、かなり疲れました。もう年ですね。
上海では地下鉄に乗ると必ず席を譲られました。東京ではあまり譲られることはないのですが、よほど年寄りに見えたのでしょう。喜んでいいのか、ちょっと複雑な心境です。

上海は未来都市でした。街並みは渋谷駅どころではないくらいきれいに整備され、超高層が並んでいます。浦東地区はディズニーランドかと思うほどです。
まあハード面には対処できるのですが、ホテルの予約、支払い、街での買い物、お茶飲み、などなどスマホ操作にはついていけません。なんでもQRコードが付いていて、それを読み込ませて支払い完了。お金のやり取りはまったくないのです。

スマホの使えない年寄りはどうするのか見たかったのですが、私たちが泊まった地区に年寄りは出歩いていません。たぶんで歩けないのだろうと思います。
古い建物は全部ぶっ壊して道路を作り、高層ビルを作る。邪魔ものは有無を言わさず排除する。ものすごい圧力を感じます。
若い人たちには未来が見えるでしょうが、排除された人々はどうしているのでしょうか、私には見えませんでした。

むかし北京で、通勤時間には大通りいっぱいの自転車列を見ました。いま自転車はすべてレンタサイクルで乗り捨て自由。さらに電気バイクがたくさん走っています。これは恐ろしい。全く音を立てずに接近してくるのでハッとします。
街は驚くほど静か、地下鉄内でも大声で話すおばちゃんたちはいません。ほぼ全員がスマホにむかっている日本の電車風景と同じです。スマホを持っていないので年寄りと認定されて席を譲られるのかもしれません。

まだ興奮状態が続いているので、前置きが長くなりました。本日の峠探索です。● 鶴見へ
本日は鶴見のめがね橋峠探索がメインですが、集合場所鶴見についてすこし述べておきます。
品川から電車に乗ると、多摩川を越えてさらに鶴見川を渡ります。JR京浜東北線と京浜急行どちらを使ってもいいのですが、私は京浜急行を使うことが多いです。なぜなら昭和38年の鶴見事故の記憶が私の頭の中にあるからです。

昭和38年という年は三八豪雪で愛知大学生が13人亡くなり、11月には鶴見の横須賀線の脱線衝突事故で161名もの人が亡くなるという大事故の年でした。鶴見事故と同じ日、九州の大牟田では三井三池炭鉱で爆発事故があり458人もの方が亡くなった。昭和38年私が大学に入った年でした。オリンピックを控えて急速な発展のヒズミが各所に出た時代でした。見てきたばかりの上海、外見は未来都市になりましたが、私たちの見えないところにヒズミが出ているのだろうと思います。

■総持寺
鶴見といえば総持寺、曹洞宗の大本山です。曹洞宗というのは禅宗の一派で、道元禅師が中国から伝えたもので、大本山は永平寺と、ここ総持寺です。

同じ禅宗の臨済宗は鎌倉武士に信仰されましたが、曹洞宗は地方豪族、農民らに信仰されたようです。

総本山が福井県の山の中にあるのはそのためでしょう。実は総持寺も石川県の能登にありました。明治31年の大火で焼失したので、現在の鶴見に移転したそうです。
鶴見の総持寺は1911年明治44年に遷祖したものだそうです。どおりで古びた感じがしないはずです。能登の総持寺は再建されましたが、いまは総持寺祖院と呼ばれています。

■ 月見峠
総持寺をでてバス通り(見返り坂)を上っていきます。都区内の台地と違って、横浜の台地は一段高くなっているので上るのは大変です。月見ヶ丘というバス停があるところが一番高い、すなわち峠と言うことになります。よってここを月見峠としました。両側が高台になっており、立派な峠地形です。

■ めがね橋(響き橋)峠

響橋の上から下の道路を見ます。これは国道一号線です。鶴見川からかなりの傾斜で上っていることが分かります。(なまえ確かめなかった・坂)
反対側国道はほとんど傾斜がなく子安の方につながっているので、峠に見えないかもしれません。橋の西側にお地蔵さんがあります。これが峠の地蔵でした。ここから古い道が急傾斜で下っています。これが本来の道路で、国道一号はかなり深く切通しになっているのです。今は橋の下が峠になっています。
ここを、「めがね橋峠」としたいのですが、よろしいでしょうか?? 「片めがね」の方がいい。との意見もありますので、検討が必要ですね。
川崎支部長の清水さんがお遍路の途中です。(現在第40番観自在寺)地元人ですから帰ってから再検討しましょう。

■もう一つ峠
めがね橋を越えた国道は、ほぼ平坦に進んでいきますが、古い道はいったんさがってまた上っています。子安に向かって左がわに新しい大きなトンネルがありますが、国道はその先を子安に向かって下がっていきます。この坂は・・・・坂です。雨が降ってきたので、この先には進めませんでした。
坂の名前も峠の名前も次に回します。

事前にわかりやすいように模式図を作ってみました。今回予定のコースには峠が二つあります。国道1号線は二つの峠越えは面倒なので盛り土をして平らにして二つの峠をつないでしまったのです。国道を歩いたら気が付きませんが、本日は短い間に峠二つを歩くことになっていました。

峠を越えたら再び低地に出ます。台地のふちを京浜東北線、京浜急行線、東海道線が通っています。
地形的には上野から赤羽にかけて台地と低地の境に似ています。大昔の海食崖をたどっているのです。

※ 次回は 5月は19日(土)です。都内に戻ります。場所未定!

月と火星と土星

上海にいます。昨夜から黄浦江の高層ホテルに泊まっています。上海の夜景は世界三大夜景とかで、夜中に起きてみました。暗い川面には無数の大型石炭輸送の船が上っていく様子が見えます。派手なネオン街を裏側から支えるパワーでしょう。昼間のこの街はあまりにも巨大エネルギーが渦巻いています。  PM2.5 せいでのどが痛いのですが、夜空は晴れています。3時ごろ窓から空を見上げたら、半月が輝き、その右下に赤く見える火星、その上に土星が見えます。こんなに密集していることは珍しいことでしょう。ここのところ星空を見ることが少なかったのですが、空が曇っているはずの上海で星見ができて感激です。