池月と磨墨(するすみ)

   池月と磨墨(するすみ)って何のことかわからないだろうが、爺さんになるとこれぐらいのことはわかるのだ。次の峠学会の下見調査に洗足池に出かけた。池の周りをまわっていると千束八幡神社があった。今回は神社はパスするつもりで、石段を上がらずに池之端をめぐると、台の上の境内に馬の銅像が目に入った。名馬「池月」とあった。平家物語に出てくる宇治川の争いで、名馬二頭が先陣を争って急流を渡る話である。私が知っているのは「平家物語」ではなく、日本昔話のような子供向けの本だったと記憶している。

池月と磨墨の名馬は二頭とも源頼朝の馬だったが、池月は佐々木高綱に、磨墨は梶原景季に与えられた。再起した源頼朝は宇治川で木曽義仲と戦うが、その時に急流を馬で渡ろうとした。梶原と佐々木は先陣を争って川に入った。梶原のほうが先行したが、佐々木は磨墨の腹帯が緩んでいると指摘した。梶原がそれを直している間に佐々木と池月は川を渡ってしまった。子ども心に佐々木高綱って人はズルイと思ったことを覚えている。

その池月の銅像が洗足池にはあったが、梶原景季の磨墨の塚も見たような気がしてきて、昔のブログを探してみたら、大田区の郷土博物館の近くの万福寺で梶原家の墓を見たことが記されていた。行ったことを思い出した。名馬は二頭とも洗足池近くにいたのだ。そんなことで感心していたら、肝心の峠を歩くのが遅くなった。でもまあいいか。

中国で大火球

テレビで、4日の中秋の名月のときに中国のシャングリラの街に大火球、たぶん隕石が落ちたとの報道があった。そのあとどうなったのかインターネットで見ているがまったく続報がない。どうも報道規制がなされているようだ。とすると何か大被害があったのかもしれないし、ミサイルかもしれないし・・・ どうなっているのだろうか??

どこのテレビだったかな??

またまた野川!

また野川の写真です。本日は小田急狛江駅から歩き、慈恵医大をとおって、イトーヨーカ堂で買い物をして、品川街道を歩いて青木屋でどら焼きを買って京王線つつじが丘に出ました。これだけ歩いたのに9000歩にならなかった。1万歩を達成するのは大変になってきた。今年前半の四国お遍路では3万歩を歩いていたのに。

伊賀の一宮 敢国神社

一宮めぐりのページを作っている。
摂津一宮:坐摩(いかすり)神社
近江一宮:建部(たけべ)大社
伊賀一宮:敢国(あえくに)神社

先日行った3つの神社のページを作った。
まあ絵日記のようなものですが、
お暇があったら見てください。

100ヵ所以上の一宮があり、ほとんどは参拝しているが
昔のことなので忘れているのもあります。
今回からしっかりと記録しておこうと思っていますが、
まだほんの少しだけ。

今年中に100ぐらいは報告を作ろうと思っています。

上の青いところをクリックするとページを見ることができます。

一宮めぐり:旧国とは

奈良時代の律令制に基づいて置かれた五畿七道にあった行政区分を旧国という。五畿は都の範囲にあった特別な国、山城、大和、河内、和泉、摂津の五国であり、その他は東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道だった。七道にはそれぞれ伊勢国、武蔵国などがあり、六十八国があった。

北海道はまだなかったし、白河の関以北は全部ひっくるめて陸奥国一国だった。奄美や琉球もなかったが、日本海側の島、佐渡、隠岐、壱岐、対馬などは一国を成していた。陸奥の国が磐城、陸前、陸中、陸奥、羽前、羽後に分かれたのは明治時代になってからである。

その旧国にはそれぞれ一宮が置かれていた。しかし様々な経緯があり、一国に二、三の一宮があるところもある。なので現在一宮と名乗っているのは100以上もある。

数年前には全国ほぼまわったと思っていたが、いくつかはまだ行っていなかったり、記憶が薄れていたりだったので、2011年から再び再確認の旅を始めた。初めてだと思ったら、昔撮った写真が出てきたりしたこともあるので、今回はきっちり日時を入れたデジカメ写真を残すことにした。そして私なりの一宮のページを作成することにした。まだ1/10 程度しかアップしていないが、今年中には全部上げるぞ!と意気込んでいる。

とりあえず本日の報告。摂津一宮坐間神社、近江一宮建部大社、伊賀一宮敢國神社をまわった。雨の中だったのでかなり苦労をした。摂津一宮でとったカメラを大阪の宿に忘れてしまった。ほとんどぼけている! 草津線の油日駅でホテルに電話をかけたら、とってあるという。大阪のアパホテルは親切です。宅急便で送ってもらうことにした。よかった。建部、敢国は別カメラで撮った。予備は必要ですね。

大江能楽堂 京都

  今年も京都の大江能楽堂で、我が奥さまが仕舞を舞うのにビデオ係としてつきあってきた。前日に兵庫県の豊岡で植村直己冒険賞の授賞式があったので、そちらに参列して、お昼ごろに京都に戻った。

大江能楽堂は京都市役所のすぐわきにある100年の歴史を持つすばらしい能楽堂でここで舞うことができるのは、我が奥さんのようなものにとっては大変な光栄。さらに謡は満次郎先生とあれば、緊張しないわけにはいかない。今回は東京からも何人かが見に来て下さったので、いつもより硬い感じがしました。でも今回もよくできました。

来年もこの舞台に立てるよう、これからも励むようです。私もビデオ係として頑張ららねば。小さな目標でも、それがあるというのは我々年寄りには生きがいになりますね。そうだ!もう機材が古いのであたらしいのにしなければ・・・

神鍋火山の噴火口

神鍋高原のホテルに来ることは何回かあったが、これまで目の前にある小さな火山に登る機会がなかった。今回ほんのちょっとの時間があったので自転車を借りて登ってきた。登り自転車を押して20分、下りジェットコースター並みの「人生下り坂最高」で5分。いい眺めと、噴火口の確認。最近玄武洞と一緒にジオパークになったとか。いいことだ。

植村直己冒険賞

毎年6月に行われる植村直己冒険賞の授賞式が、今年は本日行われ、平出和也さんが受賞した。受賞者は2月の植村さんの命日に東京で発表され、6月に地元の豊岡で式が行われる。しかし今年は平出さんがヒマラヤのシスパーレという山に登山するので、帰ってからということになり、本日に決まった。

この山にかけた思いをすばらしい映像とともに語ってくれた。平出さんは世界的にも傑出した登山家であるだけでなく、カメラマンとしても超一流なのだ。三浦雄一郎さんのエベレストの映像もヒマラヤ8000m14座を登った竹内さんを撮ったのも彼だった。この超一流の二刀流が評価を受けたものだ。

今回の受賞の評は京都大学総長の山極寿一さんが行ったが、これまた素晴らしい解説だった。久々に世界的な人たちの話を聞くことができたことは幸せだった。私の解説では何も伝わらないだろう。いずれ植村直己冒険館のホームページで公開されるだろうから、興味のある方はそちらを見てください。

池袋も変わっていくのかな?

 

久しぶりで池袋の秀山荘に行った。小さなザックを買おうと思っていたが、昨日まで閉店セールで、今月いっぱいで閉店だという。ありゃりゃ! 残念! まあ私もいいお客ではなかったが、それでも時々は軽登山靴やトレラン靴などを買っていた。

聞いてみた新宿に店を統合するのだそうだ。売れていればそんなことにはならないだろうから、まあ先行きの見通しがないと判断したのだろう。池袋の人では新宿渋谷に比べれば落ちるが、それでも昔よりも人は多い。それなのに閉店している店はけっこう多い。業種に依るのかも知れない。

私には商売のことはわからないが、時代が変化していて、それについていけない店は淘汰されているのだろう。東口のジュンク堂の隣に丸善ができた。池袋には似つかわしくないおしゃれな店だ。池袋もちょっとおしゃれに、渋谷のように変わっていくのだろうか。そうなるとおじさんたちは行くところが亡くなるなあ。

野川に水がある

7月だったか、野川にやってきたら枯れ川になっていた。6,7月には雨が少なかったので、さすがの野川も息切れして水が亡くなっていた。しかし夏休みにないってからは雨が多くて、上流では豪雨になったこともあった。水は回復していた。

9月になってからまた野川に行く用事ができたので行ってみた。今回も水は回復して満々と流れていた。子どもたちも郊外行事かな。元気に散策していた。けっこうでした。

何回目か? 誕生日

一昨日第461回目の地平線会議があり、白根ぜんちゃんが地平線会議の裏話をしてくれた。私は第一回目の地平線会議報告者で、ちょうど38年前の誕生日にトルコ旅行の話をしたことを覚えている。あれから毎月461回欠かさずやってきたのはすごい。

あの時、35歳のまだ若者だった。いまは・・・計算してください。何人かの方から誕生日おめでとうのメールをいただいた。ありがとうございました。ここまで生きるとは思ってもいなかったが、今はもう少し、オリンピックぐらいまでは何とかと思っているのだが、最近同世代の仲間が次々に逝くので、そろそろ順番かなと思っている。「誕生日、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」

老妻と二人で「老人もスタミナをつけなきゃ。」とウナギを食べに浦和の山崎屋に行った。周りの人は鯉とウナギを食べていたが、年寄には量が多すぎる。並のうな重で十分に堪能。埼玉会館で友人の書展をみて、センチュリーシティホテルでお茶をして誕生日終了。もう少しで結婚50周年の金婚式だ。写真は浦和駅方面(最近はスマホで撮っている。縦長)

倭姫の旅のお話し 八角形

農工大学の科学図書館でお話をさせていただいた。人前で話をするのは久しぶりなので、ちょっと心配で応援を頼んだら、多くの方が参加してくれた。我が地元の老人会長さん(小中学校の同級生)も遠路、東小金井まで来てくれた。

先日狭心症で倒れたおじさんやもう「これが最後の年賀状!」をくれたおじさんも顔を見せてくれた。かなり無理して来てくれたのだろう。申し訳なかった。まあでも多少の気晴らしと思えば「ディサービス」になったかもしれない。

最後に「八咫烏」「八尺の勾玉」など「八」にはどういう意味があるのかという質問を受けた。すぐに反応できず、宿題になってしまった。家に戻ってボケを実感した。昔ならすぐに、中国の陰陽説では1.3.5.7.9は「貴数」陽の数、2.4.6.8.は陰の数。貴の数が重なる日は重要な節句でお祭りをした。などと言えたのだが。せっかくいい誘導質問をしてくれたのに答えられなくて申し訳なかった。残念。

家に戻って、昔の写真をとりだした。たしか寒川神社(相模一宮)に「八方除」というのがあったのを思い出したからだ。八方塞がりを防ぐには寒川神社にお参りをというものだ。寒川神社のホームページを見たら以下のような記述があった。

それを読んで思い出した。聖徳太子のお墓も八角形で、どうやってそれを写真に撮ろうか苦労した。さらに2007年に発掘された天智・天武天皇の母、斉明天皇の墓とされる牽牛子塚古墳にも行って写真を撮った。いずれも八角形と書いてあるが、写真には上手く表せなかったことを思い出した。

以下は寒川神社(相模一宮)のホームページから

■ 最高の数「八」
「八」は日本人が好む数字であり、最高位を占める数です。八を「末広がり」といって喜ぶのは、裾が開いた形からくるイメージです。八を数字「8」で表し、8を横にすると∞となり、西洋では宇宙にすえひろがりに広がる、無限という意味にもなります。
八という数字は、中国では古くより非常に重大な意味をもっていました。紀元前十世紀ごろまとめられた易経における八卦に関係していて、宇宙のすべては、陰と陽を八卦で組み合わせることによって生まれるとされています。
わが国最初の書物「古事記」、また「日本書紀」には、八へのこだわりが多く見られます。大八島、八尋殿、八咫烏、八十建,八衢、八重雲・・・、三種の神器は、八咫鏡・八十握剣、八坂瓊勾玉と、鏡、剣、玉にみな八の形容詞を冠らせています。八は多大の意の日本における聖数であり、呪力のある数といえるのです。
“八方除”という言葉は、八方位を基本として吉凶を判断することから八という数字が用いられて
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■ 古代日本と八角形の主教哲学
7世紀後半から8世紀はじめに造られた天皇陵は、八角形をした八角古墳であるといわれ、天智天皇陵、天武・持統天皇合葬陵、文武天皇陵など重要な古墳の多くは、いずれも八角形をしています。
 また、伊勢の神宮の御神体である鏡は、八稜鏡(八咫鏡)ともいわれ、この八稜鏡の「八」と、八角古墳の「八」とは単なる数字の一致に止まるものでなく、思想的に密接な関連があるとされています。
中国では古くより、八角形の宗教哲学というべきものが成立し、それは天上の神(上帝)の儀式と、自然哲学、天文暦学、気象学が関連づけられた宇宙論でもありました。中国の古代では上帝(太一神)の祭は八角形の壇の上でなされるが、それは全宇宙を八角形として捉える宇宙論の哲学があったからでしょう。 それが日本にも祭祀儀礼として取り入れられ、宇宙の最高神の祭を行っている天子が天皇であったため「八」が多いのです。

 

農工大図書館でお話します。

  19日1時から東小金井の農工大科学図書館で繊維技術研究会で講師をやります。「やまと姫の旅」という題お話をするのですが、「繊維技術研究」と何の関係があるのかといわれそうです。これまでにお話があった方々は。みなその道の専門家ですが、こんない異色でいいのか、ちょっと心配です。http://web.tuat.ac.jp/~museum/support/giken/index.html

内容はこのブログでも何回か書いたものです。私のHPの倭姫の旅の項目でも記しています。でも繊維研究の皆さんに話をするのはちょっと臆するところもあります。もしお暇な方がありましたら、応援に来てくれませんか。入場無料でだれでも来場くださいとのことですから。内容を忘れないようにパワーポイントを作りました。

本郷弥生峠

  第8回の峠楽会のお散歩。本日は台風余波の雨が心配される中でした。「雨が降ったら行きません」と連絡したところ、何人かの方から「家を出ようとしたら降ってきたので行かない」との連絡をいただきました。しかし半分老人会みたいなもので便利なスマホや携帯など持たないという人もいますので、とりあえず茗荷谷駅に行きました。雨にバラつきがあるらしく、こちらでは雨は振りそうもないので実行。雨で延期と思った方、ごめんなさい。

しばられ地蔵が移動していました。そのあと環三播磨峠を越え、植物園脇の白山御殿峠、そのあとお茶する予定でしたが雨が降ってくるといけない、家で療養中の奥さんが心配で早く帰りたいとかの理由で、そのまま本郷弥生峠へ行きました。どこもみなさん認定済みです。そのあとまだ雨は大丈夫そうだったので、竹下夢二美術館のカフェ「港や」に入ろうと言ったら、「高いから嫌だ!」との意見。そのまま不忍池まで行って解散でした。

下の地図から峠を探してください。赤い点々がついていますが。環三播磨峠は赤点がいれてないです。