狛犬 杉山神社の狛犬たち

延長5年(927年)に作られた延喜式神名帳に載せられた神社のことを『式内社』と呼ぶ。式内社は官立神社のことで全国で2861社あった。

 杉山神社は『式内社』である。しかし現在70数社が武蔵国の南西部にあるが、どれが本当の式内社かはわかっていない。その中でたぶんこの神社だろうという神社を『論社』という。杉山神社の『論社』は6社ある。

ということは式内社全部回ると言う賀曽利さんは2861社の何倍かの論社も回らなければならない。これはとてつもない数である。

 私は狛犬巡りをしているので論社かどうかはどうでもいいのだが、数多い杉山神社に興味を持ち、論社といわれる6つの杉山神社を巡ってみた。


横浜市都筑区 茅ケ崎 杉山神社

本日は都筑区を中心にめぐった。横浜地下鉄の「センター南」駅で降りて近くの茅ケ崎杉山神社に行ったがここには狛犬はいなかった。

勝田町 杉山神社

写真を撮っただけで早淵川を下り勝田町の杉山神社に上がって行った。 阿吽の江戸流れ狛犬がともに子供を抱いている。産めよ増やせよの時代に作られた狛犬は、たいてい両方とも子持ちだ。

 勝田杉山神社は高台にあるが、次の新吉田の杉山神社は高速道路の都築インターの向こう側の高台にある。下がって上がってくぐって越えてやっとたどり着いた。ここはかなりの山の中。近くにお店も自動販売機もない。

 狛犬は昭和の岡崎型で、おそらくどこかの工場で大量生産されたものだろう。一説には中国で加工して持ってきたという。あまりありがたみはない。


新吉田 杉山神社

大熊町 杉山神社

 新吉田の杉山神社への上り下りですっかり疲れたので休みたがったが、店は何もない。高速道路をくぐって大きな道に出たとたんバスがやって来た。行先も見ずにのったら幸運なことに次の大熊町の近くを通る。スマホの地図を見て一番近そうなところで降りる。ラッキーだった。降りたところのコンビニで遅いお昼。

ここも高台にあり柿の実を見ながらやっと上る。ここも子だくさんの狛犬。背景が明るくていい写真が撮れないので背後から撮った。

新羽(にっぱ) 杉山神社

 本日の論社めぐりは終了と思ってバス停に行くと「杉山神社」の幟がはためいていた。そこここに杉山神社があるのだ。こちらは論社ではないが立派な神社。弱った足には応える登りだったが、おいい狛犬がいたので満足!

新羽の杉山神社からすぐのところに地下鉄ブルーラインの新羽(にっぱ)駅がある。新横浜で東急の新線に乗り換え一気に池袋へ。

狛犬24-11 豊岡 気多神社の狛犬

円山川の堤防から見下ろした。神様失礼します。

 この辺り、昔は但馬の国で近くに国府、国分寺、国分尼寺があった。とすれば当然「総社」があってもいいはずなのだが、現在それにあたる遺跡などは見つかっていない。おそらくこの気多神社が総社だったと私は思っている。

この神社の社殿の彫刻はすばらしい。地元に移住した森さんに聞いたら、中井権次という作家によるものだという。この集団は但馬の多くの神社の彫刻をしていることで有名という。右の木鼻の彫刻もすばらしい。

拝殿前の露地にきちんとお座りしている。

竹野 宇日神社の狛犬

 城崎温泉よりも先の海岸部に竹野の集落がある。ここにも立派な神社がある。宇日神社とは珍しい名前である。参道には新しい狛犬が2対あり丘の上の拝殿前には古い狛犬が一対いる。

長屋門のような門を入ると拝殿がある。右下は隣の丘の上から見た竹野の海岸。トンボロ地形である。

拝殿の彫刻は前出の気多神社と同じで中井権次の作品である。残念ながら古い狛犬の製作者の名前はわからなかった。

竹野 鷹野神社 

 豊岡の観光ガイドを見ていたら宇日神社のすぐそばに式内社の鷹野神社があることが分かった。前回行っていないので来年はぜひ行こうと思っている。ここも中井権次の彫刻が見事だそうだが、その写真はなかった。また宮司さんが祝詞を上げている写真には拝殿内に小さな狛犬がいる。それも見てこなければ。とりあえず観光ガイドと「たんぽぽろぐ」の写真を借りてありますが、近々入れ替えます。

狛犬行脚24-11 出石神社の狛犬

 豊岡市出石(いずし)にある出石神社は但馬の国の一宮である。但馬の一宮はここのほかに和田山に粟鹿神社がある。一宮が決められたのは千数百年前のことなので紆余曲折があり一国に数カ所の一宮がある例は多い。越中国などは4カ所が一宮を名乗っている。

 出石神社は天の日槍(あめのひぼこ)神を祀っている。この神は朝鮮半島からの渡来の神であり、子孫に多遅摩毛理(文部省唱歌に唄われた)息長たらし姫(神功皇后)がいる。神功皇后は第15代応神天皇の母である。

ここには2対の狛犬がいる。木像狛犬は両方に角がある。首の鈴は中国の影響か

鳥居前の狛犬は出雲型! 阿形の下あごは欠けている。拝殿の前の木造狛犬

 今は豊岡市の文化観光の中心の一つ街だ。下の芝居小屋の「永楽館」が復元された(2012年11月)。復活こけら落としの時に私たち夫婦も招待され、片岡愛之助の「鯉つかみ」を見た記憶がある。

狛犬行脚24-11 粟鹿神社の狛犬

但馬の国には一宮が2カ所ある。こちらは和田山の近くにあるが、車を持たない私には訪問は大変であった。静かな森の中にたたずむいい神社だった。

左は隋神門、この裏側に木造狛犬がいる。右はッ拝殿と本殿。いずれも平入だが拝殿前の狛犬は妻入り本殿の出雲大社と関係ある出雲型である。

通常は向かって右が阿吽の阿形で口を開けているのだが、ここでは逆で子供を抱いた阿形の獅子が左にいる。

木造狛犬で昔は彩色が施されていた。右の阿形、左の吽形の像には角がある。豚鼻だがこちらは狛犬である。

相撲は神事で古い神社にはたいてい土俵があった。右の石に丸い穴が開いているのは何かの意味があるかと思うが、調べていない!あとで!

狛犬行脚24-10 豊岡荒神社の狛犬

日高 荒神社 

 日高郵便局の脇に鳥居があり、奥に入ると左手に天満宮の跡がある。右手に荒神社がある。拝殿は壁がなく開放感があり、背後の円山川の堤防を望める。この神社の中には多くの摂社がありそれぞれに狛犬がいる。この狛犬は出雲型で威嚇する感じだ。

上の左は荒神社正面の鳥居脇の狛犬。右は境内の金毘羅宮の前の狛犬。いずれも阿吽の阿形の顎が完全に欠け落ちている。いずれも出雲型と呼ばれる。

左は正面の出雲威嚇型の狛犬。右は金毘羅宮の拝殿の中の狛犬、新しいし風化はない。下はやはり金毘羅宮の狛犬。形は他のものと全く違う。阿形はまったく獅子、吽形は角があり狛犬だ。この神社の中では特別な感じがする狛犬だ。

金毘羅宮の社殿の「木鼻」に彫刻された阿吽の狛犬と阿吽の獏?

左側は金毘羅宮、たくさんの狛犬がいる。右写真は境内摂社、背後に円山川!

浅倉兵主神社 

荒神社の南1キロほどのところに式内社の浅倉兵主神社がある。「兵主神社」は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内社が19社記載されている。そのうちの7座がここ但馬の国の円山川沿いに集中している。先に見た久斗兵主神社は式内社ではないが、兵主の名を持つ。
出石神社の祭神である渡来系の神、天の日槍(あめのひぼこ)神と関連があると言われるが、否定する意見も多い。渡来系の神をあがめることを嫌う勢力も多かったのだろう。


狛犬行脚24-10 豊岡久斗兵主神社

豊岡市に編入されたがもとは日高町。旧日高町役場の近くの街道沿いにこの神社はある。正面に久斗兵主神社の社殿があり、境内にはいくつかの社殿が集まっている。それぞれに狛犬がいるのだが、やはり正面の狛犬が一番立派だ。

鳥居の下にいるのが一番大きい。出雲型だそうだ。この神社は式内社でスサノオを祀っているので出雲型なのだろう。右下も同じもので顔アップしてます。

八幡様の前の狛犬は阿形の開けた口の下あごが欠けていてちょっとかわいそう。凝灰岩の柔らかい岩石なので、昭和の時代製作なのにもう欠けている。他の社殿前の狛犬も同じように顎が欠けている。かわいそう、寂しい!

上の久斗兵主神社から西へ100mほど行ったところに粟島さんがある。兵主神社の摂社に当たるものかもしれない。この狛犬は近年奉納されたもので花崗岩製、いわゆる岡崎型で長持ちするだろう。

狛犬行脚24-10 狛江の狛犬

 小田急線の多摩川近くに狛江という駅がある。慈恵第三病院にしばらくお世話になっていた身には、なじみの駅である。狛江の「狛」は狛犬となにか関連があるのか、狛犬愛好家としては気になっていた。

 先日会った狛江の岩戸在住の友人に聞くと「なんか小さな鳥居のある神社に狛犬があったなあ!」という。 早速行ってみることにした。

喜多見氷川神社の小さな鳥居、世田谷区最古の鳥居。小さい!

 地図を見ると北見駅からの方が近そうだった。二の橋通りをしばらく行くと森が見える。都会では森があるのは神社か寺である。しかしに二の橋通りはだんだん離れていく。狛江市は昔は畑の広がる地域で今の道路はあぜ道を広げたものだからまっすぐ続いているわけではない。やっとたどり着いた場所には弁天池があった。

  彼の言う小さな鳥居はなかったが、 拝殿前になかなかいい狛犬がいた。向かって右側は阿形で子供が足元でじゃれている。通常は珠を抱えているなどするがここでは両方の狛犬が子供を持っている。

狛犬は一対だけと思っていたら、なんと見上げたところにもいた。これは木鼻に作られた狛犬なので通称は木鼻狛犬。たいていは長い鼻のゾウやバクが彫刻されていることが多い。

喜多見氷川神社の参道 特に大小の鳥居が見える

地図を見ると世田谷区と狛江市の境目に神社がある。そちらに歩いて行く。裏手から入ったのでまず拝殿に、その後狛犬をみて参道を戻って小さいけど区最古の鳥居を見てから外に出た。

昔の雑誌投稿1980年代

 我が家の本棚を整理するためにだいぶ本を捨てたのだが、まだいろいろなものが残っている。昔はいろんな雑誌などに記事を書いていたようで、ファイルケースにいくつか残っている。たいていの雑誌は廃刊になっている。きちんと年月日を取っておけばいいのだが、ほとんどが記事だけを切り取ってファイルしたのでいつのものかわからない。しかしこのままではあすにもゴミに出されてしまうので、データとしてまず3枚アップしておく。

It’s 走 nice01 1980年代 まだ清瀬高校にいたころのものだろう。


この三枚だけでした。沙原の会は清瀬高校のOBで結成されました

狛犬行脚24-02 いわき 諏訪神社の狛犬

 2024年いわき市を滝野澤さんの車に乗せてもらって巡った。いわきには諏訪神社がやたらに多かった。なぜなのか、その理由を調べるには至っていない。私の興味はその神社にいる狛犬をみたかっただけなのだ。以下の紹介するのは神社ではなく狛犬(獅子)がメインです。



小名浜 諏訪神社

石段上には青い鉄製の鳥居が見える。このような色の鳥居を見るのは初めてだ。小名浜の造船所が寄進した。造船所の技術を象徴して作られたものだろう。

鳥居の横にいるのが見える。阿形が玉取り、口にも玉をくわえている。吽形が子取り、爪がかからないようにやさしく子供の頭に載せている。昭和4年奉納、石工名は不明。この神社にはこの一対のみ。両方とも獅子だな。

湯本から住吉神社をへて小名浜の諏訪神社にきた。途中「ウロコジュウ」で海鮮丼を食べた。地元の人は港にある「ららみゅー」よりも安くておいしいという。


江名 諏訪神社(高台にあり津波被害なし)

合磯(かっつお)岬へでる峠の途中にこの鳥居がある。赤い鳥居からさらに急こう配の石段がありその上に社殿がある。

拝殿前のブロンズ製の狛犬。左の狛犬の頭には角がある。右は獅子!昭和11年奉納

街道沿いの鳥居の下にいる。小名浜諏訪神社の狛犬と同じテーマ。
おそらく同じ作者が作ったものだろう。

沼ノ内  諏訪神社

 沼ノ内弁財天は高い場所にあるが、諏訪神社は平地にある。正面の鳥居の前の狛犬は新しい。手前の赤い花崗岩には平成23年奉納と書いてあるので大震災の年に建てられたものだ。  

きっと津波で流されたものと思うが、そんなに早く狛犬を作ることができのだろうか。実は鳥居の奥に津波で折れた鳥居、狛犬が記念物として置かれている。  

 おそらく津波で台座から転がり落ちたが、遠くまで流されなかったものを回収し少し修復したが、新しくした方がよいと判断した氏子の方々が岡崎型ですぐに据え付けることができる機会彫りの狛犬と交換したのだろう。  この神社には拝殿前にもう一対の狛犬がいるが、そちらは被害がなかったようで従来の姿で立っている。


豊間 諏訪神社(両諏訪神社)

ちょっとした石段の上にある鳥居のもとには平成28年12月建立と書いてある。この鳥居の手前にも新しい鳥居がある。豊間は津波被害が大きかったところだが、奥の狛犬社殿には津波被害はなかったようだ。

昔はこの狛犬たちは海を眺めるていただろうが、広い大きな堤防ができたので海とは隔絶された。周囲には人家はまだまばらだ。

拝殿前の狛犬は珍しい顔つきだ。細い直線状の足、バカでかい阿吽の口、腕の下には翼が付いている。さらに珍しいのは社殿に対してお尻を向けていることだ。通常の獅子狛犬は横向きで顔だけ正面を向いている。東南アジアの獅子はみなこれと同じように社殿に尻を向けている。同じ形の狛犬が沼ノ内弁財天にもいる。たぶん同じ作者の製作だろうが時期、石工名は不明。

地図には諏訪神社とあるが、拝殿の額には「両諏訪神社」となっている。


四倉 諏訪神社

少し高台にあり、津波の被害は受けなかったようだ。諏訪神社と書いてある額の中に「本宮宮司三輪磐根謹書」と書いてある。私としては親しみがわいた。


最初に示した通り、いわき市には諏訪神社はたくさんある。今回回れたところは5社だけだったがいずれも狛犬がおり、地震、津波の被害を受けていた。しかし地元の皆さんのおかげで早急に復元されていた。すばらしいことだ。

狛犬行脚24-01 いわき市周辺

 2024年3月8日、賀曽利さんの第何回かの東北旅の前夜祭に参加するためにいわき市に行った。彼らはバイク旅だが、私は滝野澤さんの車の助手席でもっぱら神社、狛犬巡り。おかげさまでたくさんの狛犬を見ることができました。満足して「よこ川荘」の宴会で盛り上がりました。

まず今回巡ったいわき市の式内社の三社を紹介します。

大國魂神社(延喜式内社・縣社)

古代この辺りに磐城郡の郡衙(郡の役所)があったそうだ。目の前の田んぼの中には古墳がある。郡の長の墓かも知れない。

甲塚古墳 6世紀後半のものだが詳細は不明・国指定の史跡

鳥居をくぐり小川にかかる太鼓橋を渡る。右手には大杉があり根元には「ごもっともさま」という立派な〇〇がおかれている。目の前には見上げるような石段がありその上に社殿があるはずだが下からは見えない。石段下の両側には新しい狛犬がいる。

狛犬は氏子の方が還暦祝いとして奉納したものだ。左の写真には「初老祈念」という文字がある。初老というのは何歳のことかな??次の狛犬は石段上、さらに拝殿前である。

石段上、阿が子取り、吽が玉取 角がないのでいずれも獅子だ。
これも両方が獅子、かなり奥目、鼻の穴が大きい!なびかせている髪、尻尾がすばらしい。
昭和11年3月15日奉納、石工の名前はわからなかった

温泉神社(延喜式内社)いわき湯本駅近く

滝野澤さんは温泉ライターでもある。福島の温泉はほとんど回ったというが、温泉神社の境内に温泉が湧き出していることは知らなかったとのこと。神域なので足湯というわけにはいかないが手をつけて暖をとった。ここの狛犬は石段の上と拝殿前にいる。

狛犬に目をとられていたので危うく参拝するのを忘れそうになった。この神社の祭神は

大己貴(おおなむち)神、・・・大国主神の別名

少彦名(すくなひこな)神・・・大国主とともに出雲国を作った神

出雲系の祭神だが、社殿の造りは出雲系ではない。

住吉神社(いわき 延喜式内社)

  • 祭神は 住之江の三神
  • 表筒之男命(うわつつのおのみこと)
  • 中筒之男命( なかつつのおのみこと )
  • 底筒之男命( そこつつのおのみこと )

本家の摂津の住吉神社はこの三神に加えて神功皇后が祀られている。しかしいわきの住吉神社は住吉の三神のみが祀られている。住吉神社は海の神様で海辺に置かれている。この住吉さんも小名浜港に近い場所にある。

この神社には1対の狛犬しかない。ちょっと寂しい!

ふつうは阿が玉取、吽が子取りなのだが、この吽の狛犬(獅子)は何を手にしているのだか不明

ウズベキスタン旅行1

 ウズベキスタンと言うよりも私たち年代の人間には「サマルカンド」という方がよくわかる。1980年代にNHKでシルクロードの放映があり石坂浩二の語りと喜多朗の音楽が流れるとテレビの前に家族も集まってきた。サントリーオールドのCMも夢街道シルクロードだった。実際の放映はカシュガルまでだったがさらにその先にタシュケント、サマルカンドなどのオアシス都市につながっていることがたびたび話題になっていた。いつか行ってみたいと思っていたが1991年の独立まではソ連邦の国でなかなかいくことはできなかった。喜多朗のシルクロード(YouTube)

コロナ禍が一段落したのでどこか海外へと思った時に真っ先に浮かんだのがサマルカンドだった。もう個人で行くのは難しいのでツアーを調べたらタシュケントまでの直行便があるという。「それ!」とばかりに申し込んだ。もう傘寿だという年も考えずに。かなりきつい旅になりそうで、出発前は心配になった。

飛行ルートは成田を出ると能登半島からほぼ真西に向かってソウル上空、北京上空を飛んでいく。きりのないほど広い砂漠の中を飛んでいくと天山の山々が出てきた。このルートを2002年に中山嘉太郎さんは単独で走ってトルコまで抜けた。どんな気持ちがあればこんな砂漠を走ることができるのか。雪山を超えるとすぐに大きな町が出てきた。

中央アジアでは一番の大都市であるタシュケント(石の街)はソ連邦の直轄地でモスクワ、レニングラードにつぐ大都市であったが、独立後はロシア人は引き上げ今はウズベキスタン人の街である。若い人たちの間ではロシア語はまったく通じなくなっている。1966年大地震にあって日干し煉瓦の町は壊滅したが、直ちにロシアはコンクリートのアパートを何棟もたてて復興を果たした。その後ロシア人は出て行ったが、まさにロシアの街のようである。マックもケンタッキーもセブンイレブンなどアメリカ、日本の影はない。世界中どこに行ってもあるはずの中国料理の姿もない。トルコ航空だけが空港にいた。ウズベク語はトルコ語系なのである。

成田を午前11時に出てタシケントには午後4時に着いた。時差は4時間だから東京時間は午後8時。直行便でも9時間かかることになる。早速夕食とホテルへ。おいしそうなスープ肉料理、初日にちょっと食べすぎたのであとがきつくなった。何事も適度が肝心なのだが、出だしから食に、目がくらんだ。

初日は最上級のウズベキスタンホテルに泊まるだけで、翌日はやくウルゲンチ空港に飛ぶ。タシュケント市街見学は帰る日に回すことになっているので、早々に寝た。

ウズベキスタン旅行2:ホレズム王国遺跡

タシュケント空港から2時間ほど国内線で飛んでウルゲンチという町に飛んだ。目の下にはキジルクム砂漠が広がる。見たことがない風景が広がっており興味深い。この地形を見ただけでも中央アジアに来たかいがある。中山嘉太郎はこんなところをどうやって走って行ったのだろう。川の跡があるが途中で消滅している。どちらが上流かわからない。風紋のようなものができているが、これはとんでもない大きさのはずだ。黒い山、白く干上がった湖、いろいろな地形がある。

キジルクム砂漠

しばらくすると突然アムダリアの流れに出会う。水が少ないのは上流で綿花栽培などのために取水しているからだ。昔はこの流れはアラル海に注いでいた。注ぐ水がなくなってアラル海は干上がった。この地のアムダリアの流れを見れば、納得するしかない。カスピ海も同じような運命を遂げるのか??カラカルパクスタン自治共和国

バスはウルゲンチ空港からアムダリア(アム川)を渡った。ここからカラカルパクスタンですとガイドさんが言う。よく聞くとウズベキスタンの中にある自治共和国で、アラル海の河岸にあった地域だという。今はアラル海が干上がり漁業もできなくなり町も人もいなくなったという。

門があるだけで通行は自由のようだが、人々の生活水準にはちょっと差があるような気配はあるが、詳しく見ていないので雰囲気だけである。

ウルゲンチからバスで2時間ほどのところに、古代遺跡がある。ゾロアスター教の人々が住んでいた地区だった。ゾロアスター教(拝火教)はイランの宗教のように思えるが始祖はウズベキスタンの人だそうだ。

トップラクカラ
こんな砂漠の中に紀元前からのホレズム王国の城の遺跡がある。ゾロアスター教の人々が住んでいた場所だ。城の周りは何重もの土塀でかこまれていたという。このスタイルは今も続いている。これから行くヒヴァは現在も土塀に囲まれているそうだ。かなりきつい行程だったが、この遺跡に来たことは意義深かった。

アヤズカラ(古城)
トプラクカラからバスで1時間ほど砂漠の中の道をとおって別の遺跡に行く。ここもホレズム王国の軍の駐屯地だったという。周囲を土塁で囲まれた空間が広がっている。目の下に出城の一つが見える。城の壁は10mほどの高さだが30mの丘の上にあるので砂の中の登山になる。お疲れの奥さんを置いていこうと思っていたが、頑張って登るというので上がっていったが、ツアーのメンバーの皆さんには後れを取った。年には勝てないなあ。写真のように結構な登りです。

城の上は下3枚の写真のような広場!ここに都市があったという。後で行ったヒバの場内よりも広いのではないかと思った。ここに数万人が住んでいたというが、ほんどうだろうか?ちょっと疑問だが、ともかく紀元前から町が形成されており、その繁栄をアレキサンダー大王軍が打ち破ったのだ。

この遺跡の手前にテントがある。モンゴルではゲルだが、ここでは「ユルタ」という。中国ではパオだったかな? 中は広くクーラーもあり食事ができるようになっている。しかし水や電気はどこからくるのか??我らはここでお昼を頂くことになった。きゅうりトマトなど野菜が多く出てきたのには驚いた。

このツアーは「青の都」がテーマだったのでこんな古代遺跡を訪れるとは思っていなかった。おかげでこの地域の歴史に大いに関心が持てるようになった。

紀元前4世紀といえばアレキサンダー大王が東征をおこないヘレニズム文化が広がった時代なのだ。アレキサンダー大王はサマルカンドまで来ていた。こんなとこまで来たことは知らなかった。古代ギリシャだけが文明世界ではなかったのだ!

ウズベキスタン旅行3:ヒヴァ

世界遺産:ヒヴァウルゲンチの町を挟んで古代遺跡と反対側にヒヴァの町がある。私たちはバスで行ったがウルゲンチからはトロリーバスが連絡している。30分ほどで土塁の城壁に囲まれたヒヴァの町に着く。城壁の中は「イチャンカラ」(城内)とよび、数多くの神学校(メドレッセ)やモスクが所狭しと立ち並んでいる。1990年、ウズベキスタンで最初の世界遺産になった。

私たちのホテルは城の西門の真ん前にあるので着くとすぐに場内に入りライトアップされた建物を見学した。入場料は150000スム(2000円)である。15万スムと言われると「高い!」と思うがこちらは超インフレ。狭い城内には土産物屋が並びその間をヨーロッパ系の観光客が大勢歩いている。日本で見るような中国人観光客が全くいないのはどうしてだろう。この街には中華料理屋もない。中国との縁が薄い国のようだ。

もともとは小さな村だったが16世紀、アムダリア川の流れが変わりヒヴァは水の豊かな街になった。ここには奴隷市場ができ、おおくの労働力と富が集まった。その財力で狭い城内に20のモスク20の神学校6基のミナレットが建てられた。

下左はイスラムホジャミナレット(45m)で登ることもできるが、私にはムリ!短いミナレットはカルタミナル(26m)。中央アジア1のミナレットを作るはずだったがアミンハーンが亡くなったのでこの高さで中断した。右は名前を聞いたが忘れた。

1876年、帝政ロシアは奴隷解放を名目にヒヴァハン国を攻撃した。その時に解放された奴隷は3万人、うち5千人がロシア人だったという。帝政ロシアは中央アジアに侵略し植民地化していった。各都市は破壊されたが、なぜかヒヴァのイチャンカレだけは無傷で残った。中央アジアで昔の姿が残る城塞都市はヒヴァだけであるという。

ソ連は宗教を嫌ったため神学校やモスクは破壊されたりした。このメドレッセ(神学校)は一番格式のある学校だったが閉鎖され、ホテルへ生まれ変わった。神学生の住む部屋はホテルの部屋にちょうど良かったのだろう。見学可能だったので部屋も見せてもらった。ここで神学生は学んでいたのだろうが、今の時代神学校はどうなっているのだろうか。

翌日の夕方レストランで日が沈むのを見ながら夕食! 緑色の香草を練り込んだスパゲッティがヒヴァの名物という。ここでつい食べ過ぎて、翌日からおなかの具合が悪くなった。楽しくおいしく食べたのはこの日だけで後は様子を見ながらと言うことになった。ちょうどよく食べるというのは難しい。

一日泊まっただけで次に移動したが、考えどころは多かった。

まずカラカルパクスタンと言う憲法を持つ国がウズベキスタン国内部にあることに驚き。

カラカレパクスタンの北半分はアラル海だったが干上がって現在は作物もできない塩ノ原になっている。綿花畑を作るためにアムダリア川の水が採られたためで、カラカレパクスタンの国力は一気に下がりウズベキスタンに取り込まれた。

ヒヴァのイスラム教施設がよくもまあ残っていたなあという驚き。中央アジアを席巻したのはチンギスハンをはじめ諸将はみな都市を破壊しつくした。青の都のサマルカンドもしかりである。

しかしここはほとんどの施設がそのまま残っている。ソ連もこの素晴らしさには手を付けられなかったのだろうか。色々考えるテーマができた。

もう少し反芻する時間が欲しいが、ツアーは非情。夜のヒコーキでブハラに向かう。第2日目終了。

ウズベキスタン旅行4:ブハラ

4:ブハラ(ウズベキスタンの奈良かな?)
 ウズベキスタンの首都タシケントを東京とすれば前の都サマルカンドは京都、さらなる古都のブハラは奈良に当てはまるかもしれない。ブハラの歴史は紀元前からソグド人らが小集落をつくっていた。709年のアラブの侵入以降は様々な王朝の支配下にはいり交易の町として繁栄していたが1220年ジンギスカンが侵入し町は焼かれ人々は皆殺しになった。廃墟を残してジンギスカン軍はサマルカンドに向かいそこも壊滅させた。サマルカンドは全く何も残らないまで破壊されたが、ブハラは少しだけ全盛期の建物が残りそこを中心に16世紀になって町は復活をした。昨日と言うよりも日が変わった真夜中、ウルゲンチからヒコーキでブルサについた。このツアーは交通の関係もあるがかなり過酷な日程になっている。事前にもらった日程表では出発が早朝、ホテル着が夕方などとなっており時刻は書いていなかった。昨日も夜にホテル着ということだったが深夜になった。それでも皆さん頑張って行動をしているが、年長者の我が家はもう限界に近い。ブルサでは連泊することになっているので私たちはこの日自主的に休養ということにした。離脱届を提出しバスで出発する皆を見送りもいちどベッドに戻った。

しかし10時ごろになると、せっかく来たんだから少しだけ観光に行こうよと言うことになり中心街に出かけることにした。町中までタクシー代は10000スム、150円ほどだ。なんか間違えているのではないかと思ったが運転手はOKと言う。おろされたのはラビハウズという場所。ハウズは四角い人工の池の意味だという。砂漠の中で水は貴重。水辺を中心に街は開けるのだろう。さっそく街歩き開始。

イスタンブールやダマスカスのバザールをイメージしていたがここはキャラバンサライ(隊商宿)や神学校などの建物を利用したもので長く店が並んでいるわけではない。ハサミなどの刃物類、絨毯、金属のポットなど細工物が多い。細密画の店もある。奥さんはお皿を買いたいらしいがまだ先は長い。重たいものを背負わされるのはきついので買い物厳禁!見て回るだけにした。

バザールを抜けたところにブハラで一番のカラーンモスクとミナレットがあった。1万人の人が礼拝できる巨大なモスクである。チンギスハンの破壊の程度が低かったものを16世紀になって復元したそうだ。「ハイつきにいきましょう!」ではなく、休養中の私たちはここでゆっくりイスラムモスクの偉大さを味わうことができた。と思っていたら朝バスで出た我がツアーの仲間にであった。「どうして?なんでここにいるの?」と不思議がられた。添乗員さんには申し訳ないが、かってに歩くのは気楽でいい。いい休養ができて明日からの過酷ツアーに復帰できそうだ。

あまりにもゆっくりしすぎてアルク城など有名なところを見なかったのは少々心残りだが、体調が回復したことでOKとしよう。ホテルに戻ってしばらくすると一行が戻ってきた。このあと民族舞踊ショーを見ながら食事だそうだ。私たちも復帰することにした。舞踊ショーの場所は私たちがタクシーで降りたラビハウズのメドレッセの中庭だった。どの神学校もモスクも観光用に供用されているのはちょっと不思議だ。

下の写真をクリックすると動画につながります。

ウズベキスタン旅行5:シャフリサブス

5.ティムールの故郷 シャフリサブス
ジンギスカンは中央アジアの都市を徹底的に破壊したが、ティムールは廃墟を復活させ大帝国を作り上げたウズベキスタンの大英雄である。生まれ故郷はブハラとサマルカンドの間にあるシャフリサブスである。最初ティムールはシャフリサブスを首都とし、巨大なアクサライ宮殿を作った。しかしこの地は交通不便であったので彼は首都をサマルカンドに移した。シャフリサブスはいまは人口5万人の小さな町だが、特別に大きなティムール像と超巨大な宮殿の門、ティムールの墓があり世界遺産に登録された世界的な観光地として整備されている。この朝、バスでブハラのホテルを出た。昨日休養を取ったので少しは回復した。バスの窓から中山嘉太郎さんが走った道路を見る。彼の話のように綿花畑が広がり道端ではスイカ、メロンを売る人々がいる。小さなチャイハナが点々とある。中国の沙漠地たち違って人々の姿が濃いようだ。この道ならば中山さんなら楽しく走って行けたかもしれない。しかし政治状況はバスの中からはわからないので警官とのいざこざは常にあったようだ。私は「よく走って行ったなぁ!」と感心するしかない。今は10月の半ばで暑さは半減しているが、綿花摘みの作業は重労働だろう。広い綿花畑、この作業はいつ終わるのだろう。この畑の脇には灌漑用の水路がついているがそのそばに黄色い(錆びているが)パイプラインが通っている。これは天然ガスの供給用のパイプで、村の家々にもガスがいきわたっている。この国は資源大国でもあるのだ。しばらくバスの窓から道路わきを観察しながらうとうとする。

ティムールについて
ティムールは1336年にシャフリサブス近郊で生まれた。チャガタイハン国の内乱に乗じてのし上がりチンギスハンの一族の女性を奥さんにして「ハン家の婿」という立場で実権を握った。1370年のことであり、この年をティムール朝の成立とする。ティムールはサマルカンドを首都として再構築した。そしてチンギスハンの事業の再現をかかげてイラン、ロシアに遠征し、さらにインドにも侵入した。デリーを占領し捕虜10万人を殺戮した。膨大な戦利品と有能な職人、技術者を多数連行しサマルカンドのモスクなどの造営にあたらせた。さらに1400年にはシリアに侵攻しダマスカスを破壊、アンカラの戦いでオスマン帝国のバヤジット1世を破った。アンカラの戦いからすぐに軍を中国に向かわせた。明の永楽帝との戦いになるところだったが、1405年遠征の途中で酒を飲みすぎて没した。墓所はサマルカンドのグルアミール廟である。ティムールは生涯「ハン」ではなくアミール(指導者)だった。ティムールの宮殿の奥に見事なネギ坊主のドームを持つモスクがある。中に入るとすばらしい彫刻がある。しばらくそこで落ち着きたくなるようなモスクである。瞑想のモスクと言われるとのことだ。ティムールの墓はサマルカンドにあるが彼は死後は故郷のシャフリサブスに葬られたいと墓所を作っていた。その場所は今は地元の男たちの礼拝の場所になっている。シャフリサブスからサマルカンドまで80キロある。高速道路があれば1時間ぐらいだが、途中に2000mもの山がありそれを越えなければつかない。3時にバスに乗ったがサマルカンド郊外に着くころには真っ暗になった。おそらく3時間はかかったことだろう。ホテルはレギスタン広場のすぐ裏だったのでライトアップしたメドレッセを見ることができた。ちょっとやりすぎのライトショーだった。今日もつかれた、一日を反芻する間もなくベッドに入ると爆睡だった。

ウズベキスタン旅行6:サマルカンド

今回の旅のハイライト「青の都」サマルカンドである。吉田拓郎の曲に
サマルカンドブルー」ってのがある。私たちの時代シルクロードとか胡人なんてのが人々の会話の中にも上がっていたのだ。青くなっているところをクリックするとサマルカンドの音が聞こえてきますよ!この地図を見てもサマルカンドは天山山脈の支尾根から流れ出る川に沿いブハラの間にある砂漠との間と言う好位置にあることがわかる。中央アジアの乾燥地帯にありながら水には恵まれていたのだろう。中国のオアシス都市を結んできたシルクロードはサマルカンドでイラントルコに続く平原に出るのだ。この地はソグド人(胡人)の商人たちが都市を作り貿易で大いに栄えていた。
紀元前4世紀マケドニアからやってきたアレキサンダー大王に支配されたこともある。この地に中央アジア人とギリシャ人文化が融合したへレニズム文化が花開いた。しかし大いに繁栄したソグドの国は13世紀モンゴルからやってきたチンギスハンによって何物も残らない廃墟になりソグドの人々は殺された。ほんの数%の人が各地に散らばって行った。その後ティムールによって町は再建されたがその時にはすでにソグド人はおらずゾロアスター教もなくなり、チュルク系のイスラム教徒が支配することになった。この3つの建物が「青のサマルカンド」を象徴している。真ん中の広場はレギスタン広場と呼ばれている。私は「レジスタン」だとばかり思っていたが「砂の土地」と言う意味だそうだ。昔のサマルカンドは少し離れた土の高台にあったが、ティムールのサマルカンドは川が運んだ砂のある低地だったということらしい。

ウルグベク・メドレッセこれは360度カメラで撮ったウルグベク神学校(正面左)のは内部の博物館だ。ウルグベクはティムールの孫でサマルカンドの繁栄を築いた。さらに彼は世界でも例のない大きさの天文台を作った学者でもあった。この建物の天井には彼らの星座が描かれている。

左上の写真が今回のもの。後は古い写真と絵画である。ちょっと短めのミナレットは本来もっと高かったことが絵画からわかる。倒れそうだったミナレットを縄で引っ張って元の位置に直したこともわかる。現在でもそれぞれの塔はまっすぐ立っているわけではない。

シェルドル メドレッセ

右側のシェルドル神学校(メドレッセ)の内部である。まさに宝石をちりばめたような美しさ。ずっと眺めていたい感じである。この部屋ごとにイスラムの神学生が住んで学んでいたのだ。しかしソ連のころは神学校はすべて廃止され現在は土産物店が内部にひしめいている。

この広場はシルクロードを行く隊商が通っていた。その様子が描かれている。広場の真ん中には昔は池があったらしい。ところでこの門の上にライオン?トラ?が描かれている。イスラム教は生きているものを描くことはご法度である。アラブ人が入ってきたときに教義に反すると怒った。しかしトラの首は切り離されており、人の顔に見えるのは太陽である、と抗弁した。太陽はゾロアスター教の影響を残そうとした職人の仕業であったというが真相はわからない。しかし偶像を描いた門はここだけだという。ティムール朝のイスラムとアラブのイスラムの違いは今も残っているようだ。

ティラカリメドレッセこれは正面に立つティラカリメドレッセの内部の黄金の間を360度カメラで撮ったものだ。このメドレッセは変な門を作ったことを詫びて王様が謝罪のために作ったものだそうだ。今では正面にあり中心建物のようだが一番最後にできた神学校である。

現在は建物の左手に緑色のネギ坊主(ドーム)があるは古い写真には青いドームはない。最近作ったことがわかる。ここも隊商の宿になっていた時期もあるらしい。いまは建物内まで土産物屋である。ところで横から見るとミナレットはだいぶ傾いているなぁ!「サマルカンドの斜塔」で売り出すといいかも!

ビビハヌム モスク
サマルカンドはティムールの帝国の首都である。ここに彼を象徴する巨大なモスクが建設された。彼がインドに遠征している間に第一夫人のビビハヌム妃が指揮をして建てたと言われるモスクだ。レギスタン広場と旧サマルカンドのシャーヒズンダ廟の間にある。このモスクの中は広くすばらしいがまだ復元工事中である。

グリアミール廟
まだまだ見どころがあるけど、もう一つだけ。それはティムールの墓所、グリアミール廟である。彼は故郷に埋葬されたかったが1405年に急死したため、戦死した孫のために作った墓所に秘密裏に埋葬された。私が見たサマルカンドの廟、神学校、モスクの中で最も青が美しい場所だった。バザールなど
サマルカンドではイスラム建築だけの写真を撮っていたわけではないが結果的には、ほとんどがメドレッセやモスク、廟の写真だった。人の写真もバザールの写真も撮っている。ほんの少し載せておこう。

サマルカンドで秋を見た!
明日はタシケント、もうイスラム建築は見ることができないが、まあ十分に堪能した。あまり気にしていなかったが木々の葉は紅葉していた。2023年の黄葉はサマルカンドだと記憶に残るだろうな。