第2章 天の浮橋から高天原へ

三輪山の麓、崇神天皇の宮殿に大国主神と天照大神とが一緒に祀られていた。巫女の宣託によってパンデミックを起こした疫病の原因は二柱の神を同じ場所に祀ったからだと分かった。二神を引き離したことでパンデミックも収まった。大国主神と天照大神は相いれない神だったのだ。
大国主神は出雲大社の神、天照大神は伊勢神宮の神である。2013年は両方の神社の遷宮が行われた。この年5月に出雲大社の60年遷宮に行き、10月の伊勢神宮の20年遷宮に行く計画を立てた。

出雲に行く前に古事記を読んで事前学習をした。もちろん原文を読めるような教養はないので梅原猛著の「古事記」を頼った。
出雲における神さまの最大の事件は「国譲り」である。国譲り事件の主人公(神)は天照大神と大国主神である。大国主神が支配していた出雲の国を天照大神が自分に譲るように迫るのである。大国主神は「巨大な宮殿を作ってくれれば国を譲る」
と言って、そこ(古代の出雲大社)に隠遁する。

今の価値観から見れば天照大神は理不尽と思うが、それなりに理屈はあった。それは後の章で述べるが、ともかく大国主神は天照大神の言う通りに国を譲る。しかし天照大神の息子はなかなか出雲にはやってこない。
「出雲は騒がしいい、私は行きたくないが、息子が生まれたので成長したら彼を降臨させます」
と言い出した。
天照大神はしかたなく孫を降臨(天孫降臨)させることにした。しかし時間がたったので出雲は他の勢力に支配されており、行先を筑紫の日向の高千穂に変更した。先導するのは三輪山で神楽を舞った天の鈿女(ウズメ)である。

西洋の全知全能の神さまと違って、日本の神さまはしばしば悩み苦しむ。三輪山で見たように、神さまが玄賓僧都のところに悩みの相談に行ったりする。まるでそこらの人間と同じような行動をとる。絶対的な神よりも悩み迷う神さまのほうが私は好みである。

天孫降臨は天から神さまが降りてくるイメージだがここでいう天は天照大神のことで空のことではない。天照大神がおられる場所は「高天原」である。「天」という漠然としたものではなく具体的な場所と考える人は多い。江戸時代の大学者である新井白石は
「高天原とは常陸国(茨城県)多賀郡である」
としている。根拠は「たか」という読みを漢字の多賀にあてただけだ。他にも「高天原」の候補地はいくつもあった。
しかし古事記を研究した本居宣長は次のように考えた。
「高天原 は、すなはち天なり、天は、天神の坐ます御国」
高天原を探すことなど「不遜」なこととされるようになった。

でも第2章では、しばらく不遜なことをしてみたい。

■2-1 高天原の神は、かつ消え あらわれる!

古事記の神代の章は、高天原の神々の出現を延々と述べている。次から次へと神さまの名前が出てきて、つい読むことを辞めたくなる。なぜこんなにしつこく述べなければいけないのかと思っていた。
しかし大阪の高槻にある生命誌研究館に飾られているこの図を見たときにひらめいた。
生命の発生は数十億年前の海辺に寄せては返す波によって作られた「あぶく」のようなものから細胞が生まれたとされている。
「ムムッ 日本の神さまの出現はこの“あぶく”みたいなものだった。」
古事記の作者たちは今の科学の成果をすでに予測していたのだと感銘した。

生命は何かの意図をもって地球上に現れたのではない。ただ偶然の繰り返しが重なって奇跡的に生まれた。今人類は意思を持っているが、それは長い歴史の中で得た教育の成果である。生命は最初の数十億年間はただ現れては消えるということを繰り返していた。

古事記の最初の章はまさにこの通りの記述である。何もないところに突然「天の御中主神」が現れ、そしてすぐに消える。これが五代にわたって繰り返えされる。現れて消えるだけで、何をしたという記述はない。古事記ではこの五代を「別天津神」(ことあまつかみ)と呼んでいる。この時期は地球上での生命の揺籃期である。この後に生物の生命大爆発が起こり、雌雄の区別がはっきりしてくる。そして最後に我々の祖先哺乳類が現れる。

古事記の記述では別天津神のあとにさらに二代の神が現れまた消える。その後に兄妹の神が三代続く。そして二代男女の神が現れる。男女神が初めて周りの環境に興味を持つ。男女五代を含む七代を「神代七代」(かむよななよ)という。

最後の男女神が伊邪那岐・伊邪那美(いざなき・いざなみ)の神で、日本国土、神々、人々を生むのである。この神さまも全知全能ではなく知らないこともたくさんある。女神さまは
「私の体には一つだけ足りないところがある。」
すると伊邪那岐(男)神は
「吾身の成り余れる処を以て汝身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて国生み成さむとおもほすがいかが!」
と言って試みるが最初はうまくいかない。神さまなのに何にも知らないのだ。
試行錯誤を続けるうちに大八洲(おおやしま)が生まれるのである。

伊邪那岐・伊邪那美神は明確な意思をもって日本の島を作り神々を生んだのではない。試行錯誤しているうちに偶然様々なものが生まれてきた。西洋の神さまはそんなまだるっこいことはしない。「光あれ!」といえば地上が明るくなるのだ。そんな命令形の神さまよりも、どうしようか?と悩んでいる神さまを見るとほほえましい雰囲気になる。

時間的概念は神さまの歴史の中にはまったくないが、たぶん長い間「高天原」で神さまは現れては消えるということを繰り返していたのだろう。その場所はどこかわからないが高貴な「天」という原があったという意味であろう。「天」という言葉がキーワードである。

その天はいったいどこにあったのだろう。手掛かりはないか?

■2-2 伊邪那岐・伊邪那美神がすべてを産んだ!

伊邪那岐・伊邪那美のご夫婦神は高天原から「天の浮橋」に出てこられた。
橋の上から天と地と海とが判然としない混沌の下界に「天の沼矛」という棒を差し込んだ。お二人で沼矛を引き上げたところ“しずく”垂れて固まった。その場所がオノゴロ島で「天の御柱」ができた。

ご夫婦神は“天の御柱”の周りをまわって国を産むのである。まわり方やお互いの声のかけ方などいろいろ試行錯誤してやっと「大八洲」(おおやしま)が生まれるのである。神ではあるが意思をもって生んだのではなく、たまたま生まれたのである。これは日本神話の奥深い洞察力のたまものである。

その後伊邪那岐・伊邪那美の神さまは、多くの神さま、人間を産む。しかし火の神さまを生んだ時に伊邪那美は大やけどを負って死んでしまう。伊邪那美は死んで「黄泉(よみ)の国」に行くのである。
夫の伊邪那岐は
「まだ一緒にやることが残っているから戻っておいで!」
と黄泉の国に迎えに行く。
ところが妻の伊邪那美は
「黄泉の国の食べ物を食べてしまったからもう戻れない。私の姿を見ないで!」
と言う。
伊邪那岐はついのぞき見してしまう。そこにはウジ虫がたかった醜い姿の女神がいた。
「見たわね! もう生かしては置けない!」
怒り狂った伊邪那岐は夫の伊邪那岐を追いかけてくる。
伊邪那岐は黄泉津比良坂(よもつひらさか)を駆け上って黄泉の国の出口を大岩で塞いでしまう。

中では女神が怒って
「あなたの国の人々と1000人ずつ殺す!」
という。伊邪那岐は
「それなら私は1500人づつ生む!」
と答えて、夫婦別れをした。

黄泉津比良坂から逃げ帰った伊邪那岐は
「まあひどく穢れた所に行ってしまった。禊(みそぎ)をして体をきれいにしよう!」
と、筑紫の日向の橘の水門(みなと)の阿波岐原(あわぎはら)の海に浸かる。
「みそぎ」の結果、
◆左目を洗ったときに天照大神(あまてらすおおみかみ)、
◆右目を洗ったときに月読大神(つくよみのおおかみ)、
◆鼻を洗った時にスサノオ神大神(すさのおのおおかみ)
が生まれた。この三柱の神を「三貴子」と呼ぶ。
三貴子のなかで長姉の天照大神が日本では最も尊い神さまとされている。

高天原では伊邪那岐・伊邪那美の御代が終わって、天照大神が最高神となる。神の国だが、様々な事件が起こる。いったいどんな事件なのか探ってみよう。

■2-3 高天原を探して旅をした

昔は高天原をさがすことなど不遜と言われたが、今は各地で高天原や天の岩戸、天の浮橋、天の御柱など「天」が付く場所に多くの観光客が訪れている。私も2013年、できる限り高天原と関係のありそうなところを巡った。その中で気になった場所をいくつか紹介しておく。

対馬のアマテル神社
 日本神話の元が朝鮮半島であるとの説には違和感があるが、対馬に行ってその説にも一理あると思った。日本史の授業で「仏教伝来五五二なり」と習った。今は538年だそうだが、その年百済の聖明王から公式に仏像と経典が日本にもたらされた。朝鮮半島から対馬を経て壱岐から北九州、大和へ仏教が入ってきたのである。
2013年私は全国一宮めぐりの一環で対馬一宮の海神神社を訪れた。対馬一宮の近くの小船越に日本初の寺があった。聖明王からの仏像と経典を一時的に納めたお堂が寺となった。いま梅林寺というお寺がある。
寺のすぐそばに鳥居があった。扁額には写真のように「阿麻て留」と彫ってあった。ここは「あまてる」神社で天照大神を祀っていると聞いた。天照大神も仏教と同じように朝鮮から対馬を経由してやってきたのではないか。ただの直観であるが、高天原は朝鮮半島であるという説にも一理あるような気がしてきた。

天の浮橋は天の橋立かな?
伊邪那岐・伊邪那美神は高天原から下界につながる「天の浮橋」に立って国生みをした。
日本三景の「天の橋立」、この文字を見れば誰でもここが「天の浮橋」と思うだろう。昔の人はたぶん「天の橋立」から「天の浮橋」をイメージしたに違いない。あるいは逆かもしれないが。
橋立の対岸に丹後一宮の籠(この)神社がある。籠神社は別名元伊勢で、ここで数年過ごされた天照大神は「天の橋立」を渡って伊勢に向かって旅したという言い伝えある。
籠神社の裏手の舟屋でゆうめいな伊根という集落がある。浦島太郎ここで亀を助け竜宮城へ行くのである。たぶん舟屋の舟で竜宮に行ったのだろう。私は、竜宮城は琉球で、そこが高天原であると少しだけ思っている。海のかなたに高天原があるとするなら、朝鮮半島よりも琉球の島々の方がいいかなという程度の理由にすぎないが。暇なのでスケッチ図をしてみた。天の橋立は浮き上がり竜になった。天の浮橋は竜宮城、高天原に向かっている。

天照大神がうまれた阿波岐原へ

伊邪那岐が「みそぎ」をした「阿波岐原」は宮崎のシーガイヤ脇の江田神社の近くにある。宮崎空港から直接走っていった。もとは入江だったが今は砂丘の間の小さな池になっている。御幣が立っているのでここが神さまの「みそぎ」場所である。しかしみそぎ場所の阿波岐原ならもう少し澄んだ水がなければならない。せっかく交通費を工面して宮崎まで行ったが日向の阿波岐原にはちょっと失望した。
しかし阿波岐原から北へ30キロにある西都原(さいとばる)に行って驚いた。ここの古墳群は日本一かもしれない。その中に「男狭穂(おさほ)塚古墳」「女狭穂(めさほ)塚古墳」というペアの古墳がある。天照大神の孫であるニニギ神と奥さんのコノハナサクヤ姫の墓とされ、宮内庁は陵墓参考地として管理している。阿波岐原では高天原パワーを感じなかったが、ここではビリビリするほどのパワーを感じた。ここは天照大神の住む高天原と近いところにあるのかもしれない。

オノゴロ島には天の御柱があった

淡路島はオノゴロ島として人気が高い。オノゴロ島は伊邪那岐・伊邪那美神が大八洲(おおやしま)を生んだ場所である。オノゴロ島の「天の御柱」を回って島々を産むのである。オノゴロ島であるためには「天の御柱」がなければならない。しかし淡路島にはそんな柱はない。伊邪那岐神社があるので大八洲の一つと認められているが、どうもオノゴロ島ではないような気がしている。

私は淡路島の南にある沼島(ぬしま)がオノゴロ島だと思っている。天の御柱(みはしら)に匹敵する巨大な上立神岩が沼島にあるのだ。
沼島は淡路島南端の土生(はぶ)港から友ケ島水道を超えて15分ほどのところにある。友ケ島水道の下には日本最大の断層である中央構造線が横たわっている。南アルプスの分杭峠で構造線パワーを受けたことがあるが、日本最大の断層である中央構造線は友ケ島水道を通っている。中央構造線の南側はどこでも青石(緑色片岩)が現れている。有名なところは四国の大歩危小歩危の地形地質である。ここ沼島も青石の島で、天の御柱である上立神岩も巨大な青石である。まさに高天原パワーと構造線パワーの集中した島で、ここがオノゴロ島と私は確信している。
沼島を訪れてから数年後紀ノ川の河口にある和歌山城に上った。紀ノ川は中央構造線に沿ってできた川である。河口からその延長線上の瀬戸内海に島が見えた。googleの地図で見ると淡路島と沼島だった。二つの島の間の友ケ島水道の海底に中央構造線が走っているのが私の眼には見えた。その時も沼島がやはりオノゴロ島であることを再認識した。

■2-4 高天原大事件、岩戸隠れ!

私の愛読書の「古事記」の作者である梅原猛さんは、高千穂のくじふる岳が天孫降臨の地で奥に高天原があると述べている。地元にはその場所に案内板が立っている。
天岩戸もここにあり天岩戸神社もたっている。その奥に高天原の「天の安河原」もある。いずれも歩いていくことができると場所で、私にはちょっと神秘性がなくて不満であるが、大先生が言われるのであればなるほどと感心するしかない。
写真の洞窟の場所は「天の安河原」である。目の前の天の川を挟んで天照大神とスサノオ神とが「うけひ」を行った。「うけひ」は神の意志を問う占いだが、両神は正邪をどう判断するか決めないまま始めた。
天照大神はスサノオ神の「十握の剣」(とつかのつるぎ)を三つに折って、真名井の水を含んでプッと吹きかけた。そこからタギリ、イチキシマ、タキツの三柱の女神(宗像三神)が生まれた。
スサノオ神は天照大神の勾玉を砕き真名井の水を含んでプッと吹きかけた。その時にオシホミミ、ホヒ、クマノなど五柱の男神が生まれた。日本書紀には六柱となっており、ニギハヤヒという神が加わっているのだが、この神は後で活躍するので、六柱の男神が生まれたとする方を私は支持する。
スサノオ神は、私の心が清いから女の子が生まれたと勝利宣言をして、高天原で乱暴狼藉を働く。驚いた天照大神は岩戸の奥に隠れてしまう。

太陽の神天照大神が岩屋に隠れたために、世の中は真っ暗になった。困った神々は天の安河に集まって協議をする。
日本は神話の時代から民主主義の国だった。思兼神(オモイカネ)という賢い神が計画を練った。力自慢の手力男神(タジカラオ)を岩戸の脇に隠れさせ、岩戸の前で天の鈿女(ウズメ)が桶を踏みならし踊った。天の鈿女の踊りは神がかりとなり衣服ははだけ乳房があらわになった。見ていた神々は、はやし立て、笑い声は高天原に響き渡った。
この笑い声は岩屋の中まで響いた。
天照大神「私がいなくて暗いはずなのに、何が楽しいの?」
天の鈿女「あなたよりも美しい神が来られました」
フトダマ神が持った鏡をご覧になって
天照大神「これが美しい神か?」
もっと近くでご覧になろうとしたとき、控えていたタジカラオが天照大神を岩戸から導き、フトダマが入口に注連縄を貼り天照大神が再び岩屋に戻れないようにした。こうして高天原と葦原中国に再び光が戻ってきた。日本神話、一大事件である。

この事件を引き起こしたスサノオ神は高天原の神の叱責を受ける。財産を全部奪われ、髭や手足の爪を抜かれて、高天原を追放された。尊い神が高天原から地上の国に降りてくることを降臨というが、スサノオ神は追放されたので降臨とはいわないようだ。

高天原でそんな時間が起こっていたんだ、など思うと、日本神話は実に興味深い。この本は戦前まで歴史書として、本当にあったんだと信じられていた。しかしどうもうまく出来すぎている感がある。何か根拠はあったのだろうが、あくまでも創作と考えたほうが納得はしやすい。しかし私は何か根拠を探してみたくなるのである。

 

■ 2-5「高天原」を創作したのは誰?

「古事記」は天武天皇の命によって稗田阿礼が伝承していた歴史や神話を太安万侶が文字起こしをしたと学校で習った記憶がよみがえった。
初代神武天皇の即位は紀元前660年とされている。古事記の完成は8世紀前半である。とすれば古事記は二千数百年前の歴史を書いたものである。いくら記憶力のすごい稗田阿礼でもこんな昔の伝承を覚えているはずはない。天武天皇の時代の価値観に合わせて伝承を作り出したと考える方が自然である。私は、古事記は天武持統天皇の意向を受けて作られた過去の歴史であると考えている。

44代までの天皇の名前は奈良時代に天武天皇の一族である淡海三船という人物がまとめて付けた。それまでは「大王」(おおきみ)などと呼ばれていたようだ。その中で「天」がつく「おくり名」を付けられたのは天智天皇と天武天皇のお二方だけである。天武天皇の妻の持統天皇の和風の「おくり名」はなんと「高天原廣野姫天皇」である。天皇の歴史の中でこの三人の天皇に「天」が集中しているのである。「高天原」「天照大神」など「天」がつく物語はこの三人の天皇の時代に創作されたか、あるいは都合よく編集したのではないかと思うようになった。

天武、持統天皇は天智天皇の子である弘文天皇を倒して新政権を作った(壬申の乱)。これはクーデターなので、新政権は何とか正当性を主張しなければならない。そこで考え出したのが天照大神の国譲りの話である。天照大神は大国主神の国を譲るように主張する。大国主神の義理の父はスサノオ神で天照大神の兄弟だ。もとは弟の国なので自分に返すことは当然だというのが天照大神の主張である。

天智天皇は持統天皇の父で、天武天皇は天智天皇の弟である。天智天皇の国を自分たちが受け継ぐことは、過去に天照大神がやったことと同じで正当性があるという主張がなされ、以降新政権の正統性が担保されたのである。
国譲りでの話では、天照大神の主張は理不尽のように私には見えた。しかしその理不尽を正当化するために巧妙に作られた物語が「国譲り」だったのだ。歴史上は天智天王と天武天皇は兄弟とされているが、これもクーデターをカモフラージュするために作られたものではないか。兄弟説はどうもあやしいと私は考えている。
さらにもっと露骨なのは、持統天皇が「孫」を後継者にしたことの正当性だ。
天武天皇には有能な子が6人いた。持統天皇の子もその一人で草壁皇子という。持統は息子を後継者にしたかったので有能な大津皇子などを亡き者にした。しかし草壁は体が弱く即位前に亡くなってしまった。当然ほかの皇子が即位するはずだったが、持統は自分が天皇になり、草壁の子すなわち孫が成長するまで待つ選択をした。この選択には正当性はないが、先例として天照大神は自分の後継者を地上に降ろすにあたって、息子ではなく天孫を降臨させた。持統はまさに孫を後継者にした。「なんで孫を?」とい疑問があったが、この話を比較すればなるほど納得ができる。
天武、持統のご夫婦天皇は古事記のなかに巧妙に先例を作り出し、自分たちの政権に正当性があるように見せたのである。

原文を読んでもいないのに、古事記に対していじわるな解釈をしてしまった。昔なら
「高天原に疑問をもつなど不敬である」
と言われたかもしれない。
私は、何事にも疑問をもち、新しい仮説を立てて楽しむという人生を送ってきた。もう残り少ない時間だが、もう少しそんな人生を楽しもうと思っている。
古事記をないがしろにしているわけではない。梅原版の「古事記」は私の一番の愛読書で、得るところは大変大きい。こんなにスケールの大きく、楽しむことができる神話を作ってくれた先人には大変感謝しているのである。
というようなことで「高天原」をさらに探すことはやめて先に進むことにした。次回は出雲にたどり着けるだろうか。とりあえず第2章終了です。

三輪の神紀行! はじまるよ!

2021年正月、三密を避けるため、初詣には行かなかった。その代わりに十数年前奈良の大神神社へ初詣に行ったことを思い返している。暮れの28日にお江戸日本橋を出発して東海道を走り1月1日に伊勢神宮に参り2日は伊勢本街道を走り1月3日に大神神社に詣でた。

これだけ大変な苦労しての初詣をしたのだから、きっと大きなご利益があるだろうと期待した。しかし痛めた脛の剥離骨折がわかり3ケ月ギプス生活になった。お参りにご利益を期待するのが間違だ。日本の神様はただそこに居られるだけでいい。何事もなく平穏であればそれだけでいい。ただ存在するだけでありがたいことなのだ。日本神話にも最初の神様は泡のように現れすぐに消えるだけの存在だったと書いてある。神様には過剰な期待はしない方がいい。

大神神社の大神は「おおみわ」と読む。神のおわすこの地域を「美和」とか「三輪」とよぶ。神社の背後にそびえる神奈備山は「三輪山」である。私の名前はここが故郷であると勝手に解釈し、年に何回かお参りするようにしてきた。三輪山の上には三輪の神様がおられるということで満足すればいいのに、屁理屈好きの私は
「あなたは誰ですか?どこからきたのですか?何をするために来たのですか?」
という問いを発したくなった。

最後の「何をするか?」という問いの答えは、前にも書いたように
「ただただ存在するだけでありがたい!」
という答えを得た。しかし他の二つについてはよくわからない。
大神神社の「御宴能」でみた能「三輪」の中に
「思えば伊勢と三輪の神、いったい分身のおんこと、いまさらなにを磐座や!」
というセリフがあった。
「ええーっ 伊勢の大神と三輪の大神は同じ神だったのだ」

あの年に走って伊勢と三輪にお参りしたのは偶然たまたまではなかった。私にとっては実に興味深いことで、この時以来畏れ多いことであるが神さまを訪ねて歩くことが私の生活の一部になった。
神さまの源流を求めて大和から丹波、因幡、出雲、日向、高千穂、新宮、熊野、再び大和、近江、伊勢、志摩へと旅をした。その旅の報告書を2016年に作った。

しかしどうにも合点がいかないことが多く、公表は控えていた。
昨年コロナ禍で旅もままならなくなって、再び読み返してみた。
疑問は数々残るし表現はつたないが、しかしどこかに残しておいた方がいいと思いFBに連載の形でアップすることにした。

題名は「三輪の、神紀行」あるいは「三輪の神、紀行」 どちらにでも読めるようにした。しばらく続けていくつもりです。おひまなおりに眺めてください。7日→6日→5日 と7回分 1月1日までさかのぼるようになっています。

 

■1-1 三輪山をしかも隠すか


近鉄の京都駅には「初詣は三輪さんへ」という大きな看板が立っていた。神仏習合の名残りで大神神社は三輪明神として長い間親しまれてきた。大神神社という名前が主になったのは明治以降のことである。大神神社のご神体は三輪山であり、麓の地域も三輪と呼ばれている。大神神社に参るためのJR線の駅も「三輪」となっている。

「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さぶべしや」
大和を去る万葉歌人の額田王が、振り返りながら雲に隠れた三輪山を懐かしむ歌である。

この歌碑が山の辺の道の途中に置かれている。ちょうど景行天皇陵の南側である。大昔大和盆地は大和川の氾濫のため中央部は低湿地になっており、交通路は三輪山山麓の高台をつなぐ山の辺の道が大道だった。大神神社も山の辺の道にあるが、10代崇神天皇陵、12代景行天皇陵もこの道に沿っている。景行天皇の息子はかのヤマトタケルである。タケルは日本各地で武功を上げるが父に疎んじられ、伊吹山のイノシシに負けて三重の地で亡くなる。そして故郷を懐かしんで歌を残した。
「大和はくにのまほろば たたなずく青垣  山籠れる大和し 美(うるわ)し」
大和の風景を愛した川端康成が揮毫の歌碑がやはり山の辺の道に残っている。

今も昔も大和は日本人のふるさとなのだ。私も勝手に大和を故郷としている。古代日本のふるさとである大和 その地域の象徴である三輪山。

この地で古き時代の人々は生活を営んできた。しかし生活が豊かになると争いが起き、外界からの侵略が行われたりする。時には疫病が蔓延することもあったろう。
古代においては争いを治め、疫病を退散させるのは神の声を聴くことができる巫女の仕事であった。天皇でさえ巫女の告げる神の声を聴かなければならなかった。
2013年から神々を意識して大和から西日本を回った。どの神社を訪ねても必ず背後に巫女の影があった。巫女こそが日本の歴史を動かしていたのだということに気が付いた。

■1-2 思えば伊勢と三輪の神


さっそく大神神社の話から始めよう。大神神社のご神体である三輪山には神さまがおられる。その神様について、世阿弥の作といわれる能『三輪』の中に興味深い話が残っている。私は古典芸能には疎いので、若いころから能や仕舞になじんでいる我が奥さんに『三輪』の要約を聞いた。

・・・・「山の辺の道」沿いで小さな庵をいとなむ玄賓僧都はじつは大変偉いお坊さんだったが、ある時から三輪山のふもとで隠遁生活を送っていた。しかし時々は訪ねてくる人もいた。ある時僧都の元に美しい女性が通ってくるようになった。彼女はさまざまな悩みを僧都に語るようになった。
ある日その女性は帰りがけに、僧都の衣を借りたいと言う。僧都は何か怪しく感じて女性の後をつける。女性は大神(みわ)神社の大杉の近くで「ふっ」と消えてしまう。今でもその大杉は境内にあり、しめ縄がかかっている。
翌日村人が、
「大神神社の杉の木に、僧都の衣が掛けられている」
と伝えてきた。さっそく駆けつけると、「ふっ」とその女性があらわれた。
彼女は僧都に自分の正体を語り、天の岩戸の神楽を舞う。
実はこの女性に姿を変えた三輪の神だった。神楽を舞い終えた彼女(?)は再び三輪山の磐座に姿を隠した。そしてこの「能」は
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや!」
の謡で終わる。
「伊勢に居られる神さまも私(三輪神)の分身だ! そんなこと今さら言わなくても誰でも知っている!」

日本神話のハイライトである、「天の岩戸隠れ」の話は実に面白い。しかしここではあらすじだけを述べておく。

・・・・・ある時、高天原では太陽神である天照大神が天岩戸に隠れてしまい、世の中は真っ暗闇になった。天のウズメは岩戸の前で妖艶な神楽を舞った。それを見て騒ぐ神々の声を不審に思った天照大神は岩戸をちょっとあけた。岩戸の前に控えていた強力のタジカラオ神がすかさず岩戸を引き剥がして放り投げた。岩戸が開いて天照大神の姿が現れると、世の中は再び明るくなった。・・・・

玄賓僧都を訪れた女装の神様は天の岩戸の神楽を舞ったのだから当然天のウズメと思ったが、大神神社の三輪流神道では、この女性は天照大神であるという。すなわち三輪山の神は日本の最高神である天照大神であるとされている。最高神が寺の坊さんのところに行って悩みを語りというのは、おかしな話だ。しかし神仏習合の時代には、仏さんのほうが神さまよりもちょっと偉いことになっていたから、こういう話もありえたのだろう。

大神神社のHPをみれば三輪山の頂上磐座には大物主神が祭られているという。私は三輪の神は大物主神と思っていた。しかし『三輪』のお能の中では、「伊勢と三輪の神は同じである」と言う。女装の三輪の神は実は伊勢の天照大神と言うのである。いったいどうなっているのか!

これはもっと詳しく調べねばならない。

■1-3 三輪山の地図、我が家の家宝!

上の地図は五百沢智也さんがわざわざ作って下さった手書きの2万5千分の一の地形図である。五百沢さんは国土地理院の地図の専門家、登山家でもあったが退職後は多くの著作を残された。
私が三輪山に何回も行っていると報告すると、
「腕が鈍らないように描いてみたよ!」
とこの地図を送って下さった。
よく見ると2万5千分の一の地形図をコピーではなく等高線も一本一本手書きである。こんな貴重なものは私が死蔵してはもったいない。ぜひ皆さんにも見てほしいと思ったことも、この紀行文をFBにアップした理由でもある。「お宝鑑定団」に出したら大変な値段がつくかもしれない。

三輪山は長い間禁足地で人が入ることはできなかったが、最近は狭井(さい)神社から時間を限って登ることができる。地図を見ると登山口の等高線は100m、頂上は480mを示している。高度差380mはかなりの登りである。神聖な登山道では飲食、酒やタバコ、写真も禁止である。途中に滝の修行場もある。一木一草、一岩にも神が宿っており、ちょっとした木々、岩々には注連縄(しめなわ)が張ってある。参拝者はそれをひとつずつ拝んでいく。

三輪の神は酒の神でもあるがもちろん山内では飲むことはできない。飲んでいいのは狭井神社で汲んだ「ご神水(こうずい)」だけである。私が登った時、後ろから追い越して行った白装束の女性は「はだし」だった。「冷たくないの?」声をかけたが返事をしてもらえなかった。山を下りた後に再会したら、
「神聖な山の中なので声を出してはいけないのです!」
と諭された。
物見遊山で登ってはいけないような荘厳な山だった。強い信仰心があれば、足の痛さなど気にならないのかもしれない。

 三輪山の神は酒の神でもあると聞いた。酒は古代には薬でもあった。大神神社から狭井神社に行く途中に「くすり道」があり、両側には薬品会社の灯篭が立ち並んでいる。全部確認したわけではないが日本の製薬会社はほとんどすべてが寄進しているのではないかと思えるくらいだ。
大神神社の境内には相当な数の酒樽も奉納してあった。町中の酒屋の前につるされている杉玉は、三輪の新酒ができたことを知らせる印なのだそうだ。酒、薬は古代では大変重要な産業、その神様はとても偉かったのだろう。

 

■1-4 三輪山の神々は国津神!


狭井神社で聞いてみると、三輪山の中には磐座がいくつかあり、そこに次のような神さまが祀られているということだった。
●辺津(へつ)磐座(標高100m)山の辺の道に沿った場所ある。祭神:少彦名(すくなひこな)神
●中津(なかつ)磐座(標高300m)には大国主神の別名である大己貴(おおなむち)神を祀られている。
●頂上の奥津(おきつ)磐座(標高467m)には大物主(おおものぬし)神が祀られている。
この三柱の神さまは出雲の地方で活躍した神様である。
少彦名(すくなひこな)神は一寸法師のモデル。海の彼方から小さな船でやってきた。なんでも知っている山田の案山子(知恵の神で久延毘古神社の祭神)に聞くと「少彦名神である」という。少彦名は出雲の国で大国主神と一緒に国を作りはじめた神だが、途中で「ふっ」といなくなり常世の国に行ってしまう。
少彦名の神がいなくなり大国主神が困っていると、
「私を大和の三輪山に祀れば、国造りを手伝う」
海のかなたから光り輝いて大物主神があらわれて、そう言った。
出雲の国を作るためになんで大和の三輪山に祭らなければいけないのか、かなり不思議なことだ。しかし神話の上では出雲と大和はつながっていたのだ。

日本書紀には三輪山神話が書かれている。
・・・・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)は大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。しかし其の神は昼は来ないで、夜にだけやって来る。倭迹迹日百襲姫命は、夫に、
「あなたは夜しか来ないので顔を見ることができない。たまにはゆっくりして美麗しき姿を見せてほしい」
「それはもっともだ。明日朝あなたの櫛笥(くしげ)に入っている。でも私の姿を見て驚くなよ」
倭迹迹日百襲姫命は心の内で密かに怪しんだが、朝になって櫛笥(くしげ)を開けたら、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。それに驚いて倭迹迹日百襲姫命叫んだ。

この姫様の名前はとても長い。大変申し訳ないが以降は「モモソ姫」と略させてもらう。モモソ姫は第7代孝霊天皇の娘で、巫女として過ごした女性である。巫女は独身でなければならないが、神様と結婚する場合は「神婚」であって一般の結婚とはちがうのである。
話はここで終わりではなくモモソ姫は三輪の神に恥をかかせたとしてホトをついて自ら死んでしまう。そのあと昼間は人々が、夜間には神々が働いて大きな墓を作ったということになっている。恥をかかせた巫女(モモソ姫)を追悼して箸墓を作ったというのは何にしても解せない。亡くなる前に何か重要な仕事をしたのだろうが、日本神話にはあまりよくわからないことがしばしば現れる。原著を読まないで、地元の看板や解説を読むだけで判断したからそんなことになるのだろう。
しかし巫女さんが何か重要な役割を持っていたことは感じられる。もうちょっと探ってみることにする。

■1-5 桧原神社の奥には天照大神がおられた

  狭井神社から山の辺の道を北へ上がっていくと玄賓僧都の玄賓庵があり、さらに少し歩くと桧原神社にでる。ここは大神神社の摂社であるが、立派な鳥居があるだけで拝殿も本殿もないすこぶるシンプルな神社である。最初に来た時にはどこに神社があるのか訝しく思った。鳥居前にある小さな社は神さまのお付きの巫女の社で、神様はこの鳥居の奥におられる。桧原神社には神官はいないので、以下は大神神社で聞いた桧原神社の神様の話である。

第10代崇神天皇は三輪山の麓、磯城瑞垣宮に都をおいた。その宮には天皇家の祖先である天照大神と国津神である大国主神を一緒に祭っていた。しばらくするとこの地に恐ろしい疫病が蔓延して国民の半数が亡くなるというパンデミックが起きた。偉い巫女に占ってもらうと、それは天津神と国津神を一緒に祀ったために起こったことであり、二つの神を分離するようにとのお告げがあった。祀りごとに対して天皇であっても逆らうことはできず、崇神天皇は大国主神を大和神社に、天照大神を桧原神社に移すことにした。すると恐ろしい疫病のパンデミックは収まった。

この話を読んで、玄賓庵に女装の神(天照大神)が訪ねてきたことが納得できた。
三輪山の正面の大神神社には大物主神が祭られているが、裏手にあたる桧原神社と大和神社には天照大神と大国主神がそれぞれに祭られているのだ。
桧原神社の本殿は大神神社と同じ神体山の三輪山である。崇神天皇は自分の宮から天照大神を退出させたが三輪の地から遠く離れた場所ではなく、シンボルである三輪山の裏側に移しただけだった。
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや!」
伊勢の神と三輪山の神が同じだというという謡曲を聞いて、かなり悩んだが、いま解決の手掛かりができた。
要は同じ時期に三輪山に天照大神(伊勢の神)と大物主神(三輪の神)が祀られていたのだ。

世阿弥の時代、すでに天照大神は三輪の地にはおられなかった。しかし世阿弥は伊勢におられる神様は三輪山の出身なんだよと言いきかせる「能」を作ったのだ。

 天照大神は、桧原神社の小さな社に祀られているトヨスキ入り姫に連れられてこの地に来たが、さらに丹後半島にまで足を延ばした。丹後一宮の籠神社には数年居られたという。その旅の後再び桧原神社に戻り、次の御杖代(先導役の巫女)である倭姫(やまとひめ)に連れられて旅をして伊勢の地に安住の地を作られたという。この話は古事記や日本書紀にはないがのちの世に作られた「倭姫世紀」という本につづられているという。天照大神が通った地域には神社が作られており、今は観光地として売り出そうとしている。伊勢本街道には「御杖村」があり、「つみえちゃん」というキャラクターが旅人を迎えている。

伊勢と三輪の神のことはなんとなくわかったが、なぜ天照大神は旅を繰り返し伊勢に行ったのか、なぜ出雲の神が大和にのこったのかという疑問は解消しない。これを解決するためには出雲、伊勢に行く必要がでてきた。

■1-6 御杖代に導かれた神さまの旅

  崇神天皇の宮殿から神様は別の場所に移って行かれるが、その時に御杖代として巫女が先導した。天照大神を桧原神社にお移しする大事業を成し遂げた巫女の業績をたたえて桧原神社の下に大きな墓が作られた。箸墓の話であるが、神話は何かごちゃごちゃしていて様々な話が混じっている。御杖代の巫女は大物主神の妻の巫女でパンデミックを治めた巫女、私の中ではどうもこれらの巫女は同じ人(神?)なのではないかと思っている。

川端康成の「大和は国のまほろば」の歌碑に立つと眼前にちょっとした森が見える。これが箸墓とよばれる前方後円の大古墳である。宮内庁は箸墓を「モモソ姫」の墓と認定し管理している。近くにある崇神天皇陵や景行天皇陵と比べてもそん色はないというよりも大きいくらいだ。なぜホトをついて亡くなった巫女の墓が天皇陵よりも大きいのか、かなり大きな謎である。しかし天照大神と大国主神を別々のところに移っていただき、疫病の蔓延を治めたという国家的大業績を成し遂げた巫女ならば納得がいく。

近年この墓がヒミコの墓ではないかとの資料が集まっている。地元ではすでにヒミコの里として売り出しにかかっている。なんとなんと、モモソ姫=ヒミコ であればヒミコは大物主神の奥さんでパンデミックを抑えた功労者となる。魏志倭人伝にはヒミコはヤマト国の女王としている。ヒミコが箸墓の主とすれば、その巨大さの理由は明確に説明できる。私はモモソ姫が実はヒミコと呼ばれる巫女だったという説を提出したい。

ところで、私はヒミコ、ヤマト国とカタカナで書いた。「卑弥呼」「邪馬台国」という文字がどうも私は気に入らないのだ。中国では海の向こうの「邪悪な国の卑しい女王」と貶めてこんな字を使ったのではないか。中国語に詳しい友人に聞いたら「音を表しただけで、そんな悪意はないんじゃない?」
という。
しかし日本の文献『日本書紀』には「卑弥呼」や「邪馬台国」という卑しい漢字は使われていないという。学者以外私たちは「魏志倭人伝」などに縛られることはないのではないか。私は「日巫女」としたいところだが、エビデンスはないのでとりあえずカタカナで書くことにしている。邪馬台国は「やまとこく」でいいのにわざわざ「やまたいこく」などと言わなくてもいい。このあたりで私はかなりの国粋主義者になっている。

神さまの名前がたくさん出てきた。これまでの話に出てきた神様を一覧表にしてみた。モモソ姫がかなり重要な位置を占めていることがなんとなくわかる。天皇については神武天皇と崇神天皇は同じ人物で、前半生を神武天皇、後半生を崇神天皇とし、第2代から第9代までは架空の天皇であるとする説に従っている。私は架空ではなく、この8代は別系統の天皇だと考えているのだが。

とりあえず三輪山の神様、巫女様をながめて、次回は出雲に向かうことにする。
第6章で再び三輪山が出てくるが、とりあえず第1章「三輪山は不思議な山」の項目は終了!

地学かわら版 復刻で

昔地学の教員をやっていたころ、その日の授業内容とは関係のないが、面白そうなトピックを集めて「地学かわら版」を発行していた。当時はガリ版で作ったものなので「わら半紙」に印刷したものしか残っていない。コロナで巣ごもりの中、机の整理をしていたら何枚か出てきた。それをワープロで打ちなおした。せっかくなのでここにアップしておく。皆さんに見ていただきたいということではなく、私の記憶の整理という意味だが、暇で困っていたらちょっと覗いてみてください。

1984年、戸山高校にいるときに作ったものだろうと思います。夏休みに北海道の函館から札幌まで走り、さらに稚内の近くの豊富町に行き、隣の幌延町の高レベル放射性廃棄物の埋め立て候補地をみてきました。当時はまだ風評被害という言葉は使われていなかったようですが、明らかな風評被害が出ていることを知りました。そんな意味で言えば、こんな文章でも残しておく意味はあるかなと思っています。

ほかにもまだありそうなので探して時々ここにアップしておこうと思います。ガリ版刷りなのでイラスト、写真などはありません。(恐竜の時にはガリペンで描いていたかもしれない)

地学かわら版 1984年8月ー1

夏休み報告 1
今年の夏は以上に暑かったですね。この暑さの中で、何をやっても能率が上がらないので(私の場合は涼しくても同じですが)これを理由にして涼しい北海道へ行くことにしました。貧しい生活なので東京青森は当然「青春18切符」を使いました。(注:1983年から8000円、1日1600円)

朝6時10分上野発の鈍行列車乗り継ぎでその日のうちに青森に行くことができます。あと10分早く着けば青函トンネルの海峡線で函館に行くことができるのに、ここがJRのせこいところです。仕方なく青函連絡船で函館に行きました。船の中では寝ることができるのでかえって安上がりかもしれません。4時間ほどで函館到着。道路標識に「札幌まで270㎞」とありました。
「おお!これなら3日間で走れる!」

5時15分、カメラ、電池、着替えなど重たいものは袋詰めにして友人宅に送り、短パン、ランニングシャツにディパックを背負って国道5号線を走り出しました。5分もしないうちに雨が降り出したが、どうせ汗でぬれるので雨の中20㎞を走った。8時30分大沼の近くでやっと晴れてきた。靴の中はぐちゃぐちゃで気持ち悪いが、目の前には駒ケ岳が若駒のように(我ながらダサい表現)そびえていました。

しばらく歩いているうちに衣服も乾いてきたので近くのセブンイレブンに入ってあったかコーヒーとあんまんを食べて元気を出し、森町を通過(10時16分)。目の前に噴火湾が見えてきた。このあたりで(11時7分)函館から40㎞。「今何時、そーねだいたいね!」などといながら快調に進むが、車が多くなって閉口する。
途中ブンブン族(ミツバチ族)のオートバイ連中とすれ違う。皆ピースサインをしていく。多少「バイクは楽でいいなあ!」と思うが、人をうらやむことはやめて、こっちの方が楽しいんだぞと無理やり自分に言い聞かせる。落部という集落で2時20分、60㎞、足が火照って熱を持ってきたので、湧き水に足を浸す。横を見たら近所の家のスイカとトマトが冷やしてある。汚い足と一緒にしてゴメン!

昔植村直己さんは北海道の宗谷岬から九州の佐多岬まで2800㎞の徒歩旅行をしたが、最初の日は張り切って74㎞を歩いたと言ってました。私は75㎞先にある八雲という町を目指していましたが、50㎞を超えたあたりから足は痛いし体はバテバテになり5分走っては15分歩きという状態で時速は6㎞に落ちてしまいました。それでもなんとか5時ごろ八雲駅に到着。駅前の「まるみ」という商人宿に泊まりました。1泊2食で4000円、まあ妥当な値段です。お風呂につかりながら
「あの偉大な植村直己に1㎞勝った」
という満足感に浸りました。

8月19日 缶コーヒー 100円 新聞90円 週刊朝日250円
     アイス 100円 連絡船1400円 夕食 550円
8月20日 朝食セブンイレブン 400円 パインジュース 100円 
     昼セブンイレブン 250円 宿賃 4000円