第6章 天照大神、伊勢へ旅する!

伊勢と三輪の神の故郷を、神さまの気分になって旅をしてきた。西洋では絶対的な神が生まれたが、アジアの国々では自然神が八百万も存在し新しい神も続々と生まれた。全国に数多くある天神社は菅原道真を神に見立てて祀っている。近いところでは明治の軍神を祭った乃木神社や東郷神社もある。明治神宮も明治天皇を神さまにした神社である。

三輪山に祭られている大物主神、大国主神、少彦名神もモデルがあるのかもしれない。さらに天照大神ももしかするとヒミコをモデルにして神さまに仕立てたのかもしれない。実在のモデルがある時には、その人物を「命」と書き表すことが多い。この後出てくる倭姫命(やまとひめのみこと)も実在の人だったのかもしれない。大国主神の場合も大国主命と書くことも多い。各地にいた大王さまはみな大国主命だったのかもしれない。

「三輪の神紀行」の頃? の大和盆地は様々な勢力が相争っている場所だった。勝ち残った勢力が作った物語が「古事記」であり、そこに出てくる神々はそれぞれの勢力の主だった人を神格化していった。今回「三輪の神紀行」で仕入れた大和盆地の出来事を一覧表にしてみた。
「なにこれ? そんな勝手なことを言って!」
と言われるだろう。創作部分もいくつかあるが、これが私のまとめである。

最終章は天照大神の伊勢への旅である。神さまの後を追跡してみよう。

{図の説明:大和の三輪山には出雲や石見の勢力がやって来て土着した。いわゆる大物主神の系統の人々である。九州から天照大神を奉じる神武天皇、崇神天皇が来て、大国主神系にとってかわった。しかし崇神天皇のときに疫病のパンデミックがあり、日巫女がそれを納めた。天照系の人々は大和を追われた。九州にいた天照系の神功皇后が大和に戻り台与(トヨ)として日巫女の後を継いだ。トヨの息子が応神天皇として大和を支配した。応神天皇は八幡神として祭られ、天照大神は倭姫命に連れられて伊勢に移った。}

 

 

■6-1 御杖に案内されて旅する天照大神

6-1 御杖と天照大神の旅

国民の半分が亡くなるようなパンデミックの原因であるとの託宣を受けて天照大神は天皇の宮から小さな桧原神社へ移された。しかし桧原神社も安住の地ではなくなった。天照大神は御杖代(みつえしろ)に導かれて終の棲家を求める旅にでる。

尊い神さまの道案内をするのは位の高い巫女でなければならない。最初の御杖代は崇神天皇の皇女であるトヨスキイリ姫がうけもち、まず丹後の天橋立にご案内をした。(当時丹後はまだ丹波国の一部だった)天照大神は、姿、形はないのでトヨスキイリ姫自身が丹後の国に行ったのだろう。

天橋立の根元に丹後一宮の籠(この)神社がある。その奥宮を「與佐宮」という。與佐は「よさ」と読む。天橋立の内海を与謝海といい与謝蕪村の出身地でもある。与謝野晶子もこの地と関係がある。トヨスキイリ姫は與佐宮に4年間滞在した。籠神社は「元伊勢」とも呼ばれ、社伝にはここから天照大神は伊勢に移ったと記されている。

もう一つ、天橋立からそう遠くない大江山にも元伊勢がある。こちらには伊勢の内宮、外宮、天岩戸神社など全部セットでそろっている。皇太神宮の屋根には10本の鰹木、内削ぎの千木がある。これは伊勢神宮内宮にしか許されていない象徴である。ここも元伊勢なので特別に認められているのかもしれない。しかし天照大神がおられたという記録はない。

丹後の與佐宮で4年間過ごされた天照大神は大和の桧原神社に戻ってこられた。トヨスキイリ姫が老齢になり旅する生活に疲れ御杖代の役目が果たせなくなったからである。
その後、景行天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が御杖先に選ばれて再び旅に出ることになった。倭姫は倭建命(ヤマトタケルのミコト)のお姉さんである。

『日本書紀』の伊勢神宮起源伝説には、次のように書かれている。
「天照大神をトヨスキイリ姫より離して、倭姫命に託した。倭姫命は天照大神を鎮める場所を求めて、宇陀の篠幡に詣でる。更に近江国に入り、東のかた美濃を廻って、伊勢国に到る」

この記述をもとに鎌倉時代に『倭姫命世記』という書物が作られた。この書によると倭姫命が近江、美濃のどこを回ったか詳しく記されている。
私は旧跡歩きが大好きなので、まず倭姫命世記に記された社の位置を地図に落としてみた。
「直接伊勢に行けばいいのに、なんでこんな遠回りをしたの?」
こんな疑問がわいた。

日本書紀を企画したのは天武天皇である。天武天皇は隠れていた吉野を出て、近江にあった朝廷に対しクーデターを起こし政権を奪った(壬申の乱)。倭姫命の旅のコースは天武天皇の近江朝への進軍コースとほぼ同じである。「倭姫命世記」の著者ははるか昔の天武天皇に忖度してコースを作り出したのだろう。
私の「倭姫命の旅」は電車バスを乗り継いで2泊3日の旅になった。その時作った地図を記しておく。地理歴史鉄道好きの人にとってはかなり興味深いみちである。

もう一つ倭姫命のコースではないが伊勢本街道にも御杖代のコースがある。こちらには「御杖村」という名前の村があり「つみえ」ちゃんというキャラクターが迎えてくれる。御杖神社もいい神社である。

伊勢本街道を私は一日で走ったことがある。多気駅から初瀬までほぼ80キロ、山道には7つの峠がある難所だった。朝早く多気駅を出たが途中で真っ暗になった。アメリカ大陸横断ランニングをした下島伸介という猛者といっしょだったが、最後の峠では狐火をみて本当に恐ろし思いをした。小さなライトを頼りに宇陀の墨坂神社の近くまで来たときに急に参道の灯篭に明かりがつき我らの行先を照らしてくれた。

その頃はまだ「つみえちゃん」はいなかったが、御杖代が我らの行先も照らしてくれたのではないかと感謝している。墨坂神社から長谷寺の宿まで里道を走った。明るい初瀬は大都会だった。伊勢本街道は神武天皇が大和に入ってきた道だと後で知った。

■6-2 天照大神の安住の地が定まった。


倭姫命に導かれ、天照大神は伊勢の国を南下して五十鈴川のほとりについた。
「ここはいい場所だから、ここに静まろうと思う」
と神はおっしゃった。
伊勢神宮の内宮(ないくう)である。

倭姫命は天照大神を伊勢までお送りしたあと、「斎王」として伊勢神宮の近くに「斎宮」を建てて神を見守ることになる。
倭姫命は神話の話であるが、歴史上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘の大来皇女(おおくのこうじょ)がその任務を担った。斎宮で天照大神を祀るという斎王制度は、南北朝の時代まで約660年間続き60人の斎王の名が残されている。

斎王は、新たに天皇が即位すると未婚の皇女の中から占いで選ばれ、京都の野宮(ののみや)で精進潔斎して伊勢の斎宮に向かった。平安時代、お供の人数は500人ほどで大行列になった。この大行列を「斎王群行」といい国家の重要行事になった。伊勢の斎宮は多くの人々の集まる都市のようになった。

斎宮は近鉄の斎宮駅の近くで、現在も発掘作業中である。ここには巨大な斎宮(さいくう)の館があったことがわかっている。斎宮の地には博物館が作られており、その歴史を見ることができる。

倭姫命は無事にお役目を果たし、斎宮で静かに余生を過ごし亡くなった。お墓は天照大神のおそばの内宮に作られた。いま倭姫命神社として天照大神を見守っている。

そのように思っていた。しかし物語はまだ先があることは、このあと志摩に行って知らされた。そのことは後に述べることにして、とりあえず倭姫命のお導きの役目は伊勢でぶじに終了した。

■ 6-3 伊勢神宮外宮(げくう)

伊勢神宮 外宮(げくう)

2013年10月、外宮の式年遷宮の日、まず宇治山田駅から伊勢の外宮を訪れた。外宮の神さまは豊受大神で、天照大神が丹後一宮の籠(この)神社におられた時に知り合った神さまで、天照大神が伊勢に鎮まった500年後に呼び寄せたという食べ物の神である。(上の写真には丹波とあるが、律令制以前は丹後は丹波に含まれていた)

遷宮祭は夜に行われるので一般人は昼間のうちにお参りする。昼間はまだ古い方の社に神さまはおられるので、私たちはそちらの宮の前で頭を下げた。伊勢神宮ではお賽銭をあげるなどは失礼にあたるとされているので賽銭箱など置いていない。もともとは皇室、公家、寺など専用の神さまで、天下国家の安寧を願うもので、一般庶民がささいなお願いをしてはいけなかったのだ。

しかし中世の戦乱で領地や社殿も荒れてしまい、式年遷宮もできない状況になった。そこで方針転換して神職だった御師(おんし)は全国各地を回り伊勢参宮への布教をした。
江戸の時代、世の中が落ち着いてくると現世利益を求めて江戸からも多くの庶民が訪れるようになった。江戸からは片道2週間ほどかかるが庶民は「講」を作って代表者が代参するという方式がとられた。講の所属員はいつか自分にも順番が回ってくる。旅が自由になった今でも「伊勢講」は各地に残っており、旗を先頭にお参りしている姿が多くみられる。昔は皇室、公家らの専用であったが、今は日本国民が一生に一度は行きたい神社として宣伝が行き届いている。庶民の私もこれまで何回もお参りしている。

伊勢神宮の社殿は高い垣根で囲まれており、中の様子をうかがうことはできない。しかし外宮の屋根だけはみえるので、鰹木の数を数えてみた。9本で千木は外削ぎになっているので男神であることが分かる。外宮には天照大神と食事をともにする神が丹後の籠神社から呼び寄せられた。千木の数が男女神を示していると言われているので、9本の千木の神社の神は男神である。天照と一緒にお食事するのは男神である。

屋根は茅葺である。20年もたつとずいぶん傷んでいる。これじゃあ雨漏りするかも知れない。伊勢神宮の造りはすべての唯一神明造と言われる古い様式である。何の手も加えてはいけないので痛みは速い。20年というのは茅葺屋根の耐久限界かもしれない。

すぐ隣の敷地にはすでに新しい社殿が用意されているので、本日夜に隣に引っ越される。わずか十数メートルの移動だが厳かな儀式が行われる。遷宮が行われると古い社殿はすべて取り壊されて、砂利の敷地になる。使える木材は全国の神社に下賜されるので無駄にはならない。

宿に戻って夜の遷宮の様子をテレビで見た。神さまをお導きする斎王の役目は天皇の皇女の黒田清子さんが務められた。斎王制度はとっくに廃止されているが、その形式は今も多少は残されているのだろう。

 

第5章 神武東征、神功皇后東征!

「思えば伊勢と三輪の神 一体分身の御事 今さら何を磐座や!」
伊勢の天照大神と三輪山の大物主神はもともと一体の神さまだよ!そんなこと今さら聞くなんて何を言うのか(言うと磐座の掛詞)
謡曲『三輪』の言葉をきっかけにして天照大神の故郷、三輪山の神の故郷を訪れてみた。天照大神の故郷は「高天原」で、「天の浮橋」でつながっているが、この世のものではなかった。高天原を追放された天照大神の弟のスサノオ神が「豊葦原の中原」に降りてきて八岐大蛇を退治して出雲の国を豊かにした。

大国主神はスサノオ神の娘と結婚し出雲の国を譲り受けた。さらに大物主神や少彦名神と一緒になって大和の国を作り上げた。豊葦原の中原である大和国が豊かになったのをみて、天照大神はこの国は弟の国なので大国主神から返還、すなわち「国を譲り」をさせた。しかし高天原のゴタゴタの間に状況は変わり自分の孫(天孫)を降臨させる場所は南九州だけになっていた。

南九州で力を蓄えた神武天皇(もちろんそんな名前ではなかったが)は兄と一緒に
「ご先祖様の約束の地に向かおう!」
と南九州を出立した。
これが有名な「神武東征」で、そのコースを地図に落としてみた。

この章では神武東征のコースを歩いて見つけた様々な出来事を述べていくが、もう一つ同じような東征があったことを知った。神功皇后と皇子(応神天皇)の東征である。この東征は神武東征よりもはるかにスケールが大きい。新羅と百済を攻略してその勢いで瀬戸内海を東に進み、浪速で待ち伏せた勢力を打ち破って大和に入るのである。神功皇后は稀代の英雄であるが、天皇になったとの記述は日本書紀の片隅にしかない。天皇空位の後に敦賀で名前を変えた息子が大和に入り第15代応神天皇となった。

天皇家は126代続いているが贈り名に「神」がつくのは神武天皇、崇神天皇、応神天皇の三天皇と神功皇后だけである。そのうち二人は九州からやってくるが、直接大和入りできず、熊野からの南コースと日本海からの北コースを迂回して大和入りをした。なぜそんな迂回をしたか古事記に合理的な説明はない。しかし何か大きな意味があったのだろうが、疑問は残る。まず二つの東征について話を進めよう。

5-1 神武天皇の船出

竜宮城から来た豊玉姫は実はワニだった。まだ屋根を葺き終えていない産屋で「ウガヤフキアエズ命(鵜葺草葺不合命)」を産んだ。その子は豊玉姫の妹の玉依姫と結婚し4人の子どもを設けた。一番下の子が将来神武天皇になる「ワカミケヌ命」である。初代天皇はワニの孫なの?という疑問がわくが、因幡の白兎の時に述べたようにワニは海洋系の和邇一族だったと理解されている。

高千穂の宮でワカミケヌ命は一番上の兄イツセ命(五瀬命)と一緒に
「大おばあさまの約束の地、出雲に行くぞ!」
と決心して日向を出発した。
宮崎神宮の祭神はウガヤフキアエズ夫妻と神武天皇である。神武兄弟はここから出立したと私は思っていた。しかし宮崎神宮は明治天皇による「神武創業の始め」の大号令で脚光を浴び、神武天皇の最初の宮として特別待遇になり国幣中社、官幣大社へと破格の大出世をしたごく新しい神社であることを知った。もともと日向の国の中心はもっと北の都農神社のある延岡の方にあった。

高千穂から出てきたワカミケヌ兄弟は美々津の港から船出する。船出の前に彼らは日向一宮の都農(つの)神社に詣でる。都農神社の祭神は大国主神である。天照大神の子孫がなぜ大国主神にご挨拶するのかわからないが、この神社が日向では一番古いからだと地元の方が教えてくれた。
「都農神社の大国主神は日本で一番の神さまだから!」
天照大神の子孫といえどもまだまだ大国主神には及ばなかったのだろう。

神武天皇は都農神社お参りして美々津(ミミツ)の立磐神社から船出した。立磐神社には「日本海軍発祥の地」と書かれた大きな石碑があった。地元のおじさんが
「神武天皇の船はあの岩の向こうを回って出て行ったんだ!」
と沖の岩を指して、見てきたような説明をしてくれた。

「約束の地」は天照大神が大国主神から譲られた出雲の国(豊葦原の中原)である。そこに行くためには関門海峡を通って日本海に出なければならない。
美々津の港からまず宇沙(宇佐)をめざした。豊前の宇佐神宮のことである。辺鄙な田舎に住んでいた兄弟が、当時すでに巨大国家になっていた出雲に向うには、仲間が必要だった。宇沙で情報を得たイツセとワカミケヌの兄弟は、日本海に出るために関門海峡を抜けて、北九州の岡田の宮に向かった。

しかし古事記の記事では岡田の宮から再び関門海峡をもどって瀬戸内海にはいり、安芸、吉備に向かっている。
関門海峡は狭くて流れも速い。今でも航海の難所である。そこを古代の船で行き来するのはあまりにも危険が伴う。なぜ関門海峡を行きつ戻りつしたのだろうか。

田舎者の神武軍は玄界灘に面した岡田の宮で
「今の時代、国の中心は出雲から大和に移っている」
という新情報を得た。
日本海沿いに出雲に行くために関門海峡を越えたが、目的地を大和に変えて再び海峡を戻って瀬戸内海をへて浪速に向かった。ワカミケヌ一行が岡田の宮に行ったことへの私の説明である。

5-2 桃太郎とモモソ姫の鬼退治

夏の暑い日私はJR吉備線(いまは桃太郎線という)の足守駅から鬼ノ城(きのじょう)への長い道を上った。やっと登った鬼ノ城は再建中だった。この城の主は温羅(うら)という朝鮮からの侵入者だった。温羅はこの鬼ノ城を起点にして大和を狙っていた。大和から吉備津彦(きびつひこ)が温羅退治に派遣された。吉備津彦の矢に当たった温羅はキジに姿を変えて逃げ、吉備津彦は鷹に変身して追った。温羅は鯉に身を変えて逃げたが、鵜に変身した吉備津彦に討たれた。
温羅の首は吉備津神社の釜殿の地中深く埋められたが13年間うなり声は止まなかった。これが吉備津神社の鳴釜(なるかま)神事の起源で、いまでも湯を沸かした釜の発する音でその年の吉凶を占っている。

ワカミケヌ(これ以降神武とする)軍も温羅と同じ勢力とみられ、大和行を阻まれて、15年間吉備の地に留まらざるを得なかった。神武がとどまった高島宮を訪れてみたがこれも「神武創業の始め」事業として明治時代に作られたものだった。ともかく長年頑張って神武軍は吉備の勢力と同盟を結ぶことができたのだろう。神話の時代だから時間を勝手に移動すれば神武軍と吉備津彦軍が和睦したということだろう。神武軍は吉備津彦軍の了解のもとに大和に向かった。

温羅退治は吉備(岡山県)の話であるが、鬼退治の話は讃岐(香川県)の方が有力かもしれない。今は香川県の女木島が鬼ヶ島として観光地になっている。讃岐一宮の田村神社には桃太郎が猿キジ犬(申酉戌)をお供にして鬼ヶ島に進軍している様子を描いた像がある。よくみると私の知識とは違って指揮を執っているのは幼い桃太郎の後ろにいる気丈な女性である。神社の方に説明を聞くとこの女性は倭迹迹日百襲姫命だという。
「エエーッ、なんで箸墓の主のモモソ姫が出てくるの!」
私はこの石碑の前で呆然とした。
桃太郎にはモモソ姫という姉がいたのだ。知らなかった!

吉備津彦は第七代孝霊天皇の息子で、姉は箸墓の主である倭迹迹日百襲姫命(モモソ姫)である。吉備津彦は桃太郎(モモタロウ)のモデルである。吉備津彦がモモタロウならその姉はモモソ姫である。讃岐にモモソ姫がいるのは不思議でも何でもない。

神武軍と吉備津彦・モモソ姫軍が出会ったというのはちょっと不自然な設定ではある。しかし話としてはおもしろいのではないかな。私はさらに、神武天皇はここでモモソ姫に出会って、大和で即位した後におこった重大事件の解決をしてもらうために彼女を呼び寄せたとというシナリオを考えている。

5-3 神武天皇のお兄さんの戦死

神武軍は吉備のモモ太郎、モモソ姫勢力の了解を得て浪速の港に向かった。しかし浪速には強大な敵が待ち伏せしていた。地元のナガスネヒコと姉婿のニギハヤヒ命の義兄弟である。神武軍は彼ら兄弟の軍に手痛い敗北を喫する。
「日の御子の子孫が、日に向かって戦っても勝ち目はない。日を背にして戦おう」
神武軍は転進して紀伊半島をぐるっと回り熊野から太陽を背にして進む決意をした。

しかしその前にナガスネヒコの矢に当たった兄神イツセ命は傷ついた。血を洗ったのが血沼、すなわち茅沼海(ちぬのうみ)である。昔は大阪湾のことを茅沼海と呼んだ。この傷が元でイツセ命は亡くなる。墓は紀伊一宮の日前宮の近くの龜山神宮にある。この神宮の社殿は古墳の上に作られ、陵墓参考地と指定されている。私は当時イツセ命が何者なのかわからなくて、
「田舎にしては立派な神社だな」
くらいにしか考えていなかった。しかし神武天皇を助けて戦ったお兄さんの墓だった。

兄を失ったが、毅然として神武は熊野に回った。ところが神武軍は熊の霊気にあたり全員が失神する。この時に地元のゴドビキ神社に祭られている高倉下(たかくらじ)という神が、布都御魂(ふつのみたま)という剣をもって救援にかけつけた。剣の霊気で神武軍は全員が息を吹き返した。
この剣は布都御魂(ふつのみたま)として大和山の辺の道の石上(いそのかみ)神宮に祀られている。剣の魂が神さまである。

神武軍に対して高天原の神は
「この先には荒っぽい国津神がいる。『八咫烏(やたがらす)』の案内に従え!」
と告げた。このカラスは三本足、熊野大社のシンボルである。日本サッカー協会のシンボルはここからとった。
その後、尻尾のある吉野の国栖(くず)たちが迎えた。宇陀(うだ)の地では計略にあって殺されそうになるが、大久米命の助けで逃れることができた。その後忍坂(おしさか)では、土蜘蛛の一族が洞窟で待ち構えていた。神武軍は彼らにごちそうをするふりをして
「撃ちてし止まむ」
と言って彼らを一斉に斬って捨てた。
戦意高揚に使われた言葉だが、これが古事記にある古歌である。

八咫烏に従ってからは連戦連勝であった。抵抗勢力を討ち果たした時に、突然ニギハヤヒ命が神武軍の前に出現する。浪速で神武軍を打ち破ったあのニギハヤヒ命である。
彼は義理の弟のナガスネヒコを殺して駆け付けた。
「高天原の神が天降りされたと聞いて、やってきました」
と言って、家来となることを申し出た。
ニギハヤヒ兄弟はにっくき兄の敵である。しかしニギハヤヒ神がもつ宝剣(おそらく十束の剣)が高天原のものであることを認めて家来にした。ニギハヤヒ神は生駒山の麓にある石切劔箭(いしきりつるぎや)神社に祀られている。この神社の屋根には宝剣がすっくと天に向かっている。
ニギハヤヒ神は石見の一宮である物部神社にも祀られている。
実は山の辺の道にある石上神社は物部氏の武器庫だった場所を神社にしたものであることはわかっている。石上神社にニギハヤヒ神が祭神ではなく剣の御霊が祭神である。しかいどうもニギハヤヒ神と石上神社は関連があると私は考えている。具体的に言えばニギハヤヒ神は大国主神と一緒になって大和国を作った大物主神そのものではないかと。それはちょっと行きすぎと言われるかもしれない。

ニギハヤヒは神武の前にすでに大和におり、大王の姉を妻として大和に君臨していた。天の岩舟にのって降臨した高天原の神とされているが、実際は大国主神と一緒に大和を支配していた。
大和の中心の三輪山には大物主神、大貴己神、少彦名神が祀られている。その神を祀る勢力は出雲、石見など日本海側からの勢力である。要は神武軍が大和に来る前にすでに出雲や石見、吉備などの勢力が連合して支配していたということである。ニギハヤヒ神とナガスネヒコ連合軍は大和の軍事部門を率いていた。

にっくき兄の敵のニギハヤヒ命だが、高天原の神と言うことにして神武天皇は話に応じた。ニギハヤヒ神ひきいる物部一族は、こののち神武天皇家と婚姻を通じて一緒に繁栄を築くことになる。神武は、三輪山のふもとの狭井(さい)川畔で見染めたイスケヨリ姫を妻にする。神武天皇は橿原神宮で即位したはずだが、なぜか三輪山のふもとの狭井川に来ていた。たぶん地元の姫と婚姻関係を結んで政権を強固にしようとしたのだろう。神武は三輪山のふもとに移り王朝を営んだ。その宮は磯城瑞籬(しきみずがき)宮で、現在は崇神天皇の宮殿とされている場所だ。

5-5 神功皇后と皇子の東征!

古事記には第十四代の仲哀天皇が皇后とともに北九州の香椎(かしい)宮に居られたとの記述がある。大和政権をしきるはずの天皇、皇后がなぜ北九州に居られたのか、詳しい理由は書かれていない。古事記には熊襲を征伐するためにとあるが、この混乱した時代に何年も都をあけて各地に遠征していたことは考えられない。大変な疫病を収めた大物主系の日巫女によって、崇神天皇系の王は大和から追われふるさと九州に都落ちをして、再起をはかろうとしていたのだ。

博多の香椎宮で琴を弾じていた仲哀天皇に、神がかりになった神宮皇后が神の託宣を告げた。
「西の国の新羅を仲哀天皇に与える」
という声だった。
しかし天皇はその託宣を信じないで琴を弾きつづけた。神功皇后の部下の武内宿祢が再度天皇に奏上した。突然琴の音が消えた。神の声を信じない天皇は亡くなった。
もしや!武内宿祢の手にかかったのではないか?

神宮皇后は天皇に代わって新羅に攻め入ることにして、住吉の神や大己貴神(おおなむち=大国主神)に助けを求めた。日田市の近くに「三輪」という場所がある。そこに通称三輪神社がある。神功皇后はこの神社に参って兵を募ったところ大勢が集まった。神功皇后は夫の先祖神である天照大神に頼まず、大国主神系統の神に頼んでいる。これはかなり怪しい。

三輪神社で大勢の兵を集めて、博多の港から住吉大神の助けを借りて朝鮮半島に進軍した。神功皇后を乗せた軍船は海の神、住吉大神が呼び寄せた魚たちによって持ち上げられ、猛スピードで朝鮮半島に着き、さらに内陸の新羅の宮殿前まで大波に乗って一気に進んだ。驚いた新羅国王は神功皇后に
「これからあなたの国に仕えます」
と言った。
神功皇后は新羅の宮殿の前に住吉大神の社殿を作り、さらに百済の地も神功皇后の領地とした。これが有名な神功皇后の「三韓征伐」である。

帰国した皇后は北九州の宇美(うみ)に戻り御子を産んだ。妊娠したまま三韓征伐をした皇后は途中で子どもが生まれないように腹に石を巻いて産み月を遅れさせた。亡くなった仲哀天皇の子ではないのではという疑いが出ないようにわざわざ書いていることがかえって怪しい。生まれた子が天皇の子としての正当性がなくなっては困る。本当は武内宿祢の子どもだという噂(?)もある。

神功皇后は仲哀天皇との御子を連れて大和に戻るために関門海峡を通過し瀬戸内海にはいる。まず豊国(現在の豊前豊後)の宇佐神宮に詣でて、長門の豊浦宮(とゆら)宮に入る。豊浦宮というのはのちの聖徳太子の宮の名前である。なぜかここに「豊」(トヨ)が繰り返し出てくることに注目したい。
豊浦宮をでて瀬戸内海を進み浪速(なにわ)の港につく。ここで神功皇后の大和入りを阻止しようとする香坂(かごさか)王、忍熊(おしくま)王の兄弟軍と戦う。
神功皇后軍には武内宿祢(たけのうちすくね)いう有能な将軍がおり、
「御子は亡くなったので棺を運ぶ船だ」
と言って相手をだまして打ち破った。

 神功皇后はさっそく浪速に上陸して住吉大神をお祀りする。摂津の一宮の住吉大社である。住吉の三神の社殿は縦に一列にならび、神功皇后の社殿が一番前の社殿のわきに並列している。三神の行進を指揮しているかのように見える。こんな社殿を持つ神社は見たことがない。
神功皇后は大和川を上って大和に凱旋する。
大和は日巫女によって大物主系の政権になっており、神武、崇神天皇系は勢力を失っていた。仲哀天皇が九州にいたのはその余波である。そこへ神功皇后が三韓征伐の勢いのまま大和に入ってきたのである。
中国の書によれば卑弥呼の後に出てきたのは宗女の台与(トヨ)ということになっている。神功皇后は豊の国から豊浦宮を経てやってきて大和を支配した。神話の時代だから少しぐらい時間がずれても問題ないだろう。
神功皇后を追う旅の中で、
「日巫女(ひみこ)がモモソ姫で、その後継者の台与は神功皇后だった」
という妄想がますます大きくなってきた。

神功皇后は武内宿祢の力で大和に入り、大和政権をになった。しかし仲哀天皇の子で将来の天皇である御子はなぜだか大和の入らず、武内宿祢に連れられて角鹿(つぬが現在の敦賀)に行ってしまった。神功皇后はなぜ御子を連れないで大和に戻ったのだろうか大変不思議なことだ。

5-4 疫病のパンデミックを日巫女が収めた

神武天皇が大和の国に入ってからはしばらく平穏な時期が続くが、第10代崇神天皇の時代に大和には疫病がはやり、人口の半分が亡くなるほどの事件が起こった。
神の声を聞くと、疫病の原因は天皇の宮に天照大神と大国主神を一緒に祀ったことであり、この神を別々の場所でお祀りすることにすれば病が収まるとの託宣があった。

崇神天皇はその託宣を得て
天照大神を三輪山の麓の桧原神社へ
大国主神の魂を大和神社へ
移してお祀りした。

この時代天皇の政治は神の声を聞いて行われていた。神の声を伝えるのは巫女の役目だった。
私の推測だが、崇神天皇にこの託宣を伝えたのは「日の巫女」と呼ばれる人だった。そう「ヒミコ」である。政権のシンボルである神さまを動かすというのは大変な大英断である。それを指図することができる巫女は絶大な力を持っていた。

中国の魏志倭人伝には邪馬台国の女王卑弥呼が鬼道政治を行っていたと書かれている。私は邪馬台国は大和のことで、卑弥呼は日巫女であると思っている。
崇神天皇は疫病のパンデミックを収めることができず、日巫女に頼らざるを得なかった。このあと日巫女を擁する勢力が大和国を支配することになった。魏志倭人伝を書いた著者はそのころの様子を聞き知って、卑弥呼という女王が鬼道(きどう=呪術)政治を行っていたと伝えたのだろう。日本側もその記事を読んでいたが、古事記、日本書紀に卑弥呼などという「卑しい」文字を使うことはしなかった。

日巫女が亡くなった後、多くの人多くの神が悲しみ、巨大な墓を作った。それが箸墓である。写真をみれば分かるように山の辺の道にある天皇陵と呼ばれる古墳よりも立派で大きい。昼間は人々がつくり夜は神さまたちが工事をしたとの記述もある。パンデミックを収めた女王として皆が感謝したのだろう。
宮内庁によるとこの箸墓の主は倭迹迹日百襲姫命(モモソ姫)とされている。この姫は巫女で三輪山の磐座におられる大物主神と神婚関係にあるとされている。

私の勝手な想像では、モモソ姫は吉備にいて鬼退治を指揮していた。その時に知り合った神武天皇に呼ばれて大和にやってきて大物主神と結婚した。そして崇神天皇時代のパンデミックを収め、女王として崇神以降の大和を支配したのだ。

 

5-7 皇子が名を変えて応神天皇になる

神功皇后は大和の地で女帝としてしばらく政権を司ることになる。日本書紀には神功皇后が女性として初めての天皇になったという記録もあるそうだが、現在の天皇系譜にはいれられていない。しかし日本書紀には他の天皇と同じように多くのページが割かれているから、神功皇后は「ただもの」ではなかったのだろう。

武内宿祢と角鹿(つぬが)に移った皇子は角鹿の神さまから意外な提案をされる。
「わたしの名前と皇子の名前を交換しよう」
提案の翌日、皇子が浜辺に行くと、イルカがたくさん寄りついていた。神さまが食料を沢山下さったといって、御子はよろこんだ。神さまは御食津(みけつ)大神だった。

皇子は名前を取り換えて「ホムタワケ」という名になった。
なぜ名前をとり変えたのか、その意味はよく分からない。
神功皇后の皇子はほんとうに亡くなったので、武内宿祢が敦賀にいた身内の青年を代わりに連れてきたのが真実かもしれない。しかしそれでは万世一系の血脈は途絶えることになる。意味は分からないが、意味のあることだったのだろう。こんな詮索ができることが古代史のおもしろいところ。さまざまな仮説を出して、ああでもないこうでもないと言いあうことができる。

その後、武内宿祢は角鹿から、ホムタワケと名を変えた皇子を連れて大和へ戻ってきた。武内宿祢は出雲系の蘇我氏の祖である。
神功皇后は皇子を迎え入れてお酒を供するときに

「この酒は少彦名(すくなひこな)神の作った酒である」
とわざわざ断っている。
少彦名という神さまは三輪山の辺津磐座に祀られている出雲系の神さまである。当然天照大神とは相いれない。

神功皇后は天孫系の天皇の皇后だが、出自はオキナガ氏、さらにその祖は出石の一宮に祀られているアメノヒボコという朝鮮の神さまである。神功皇后は御子のホムタワケにたいして
「あなたは、三輪山系(出雲系)の天皇ですよ」
とくぎを刺した。
神功皇后は、夫が奉じていた天照大神系であることをやめ、出雲系をはっきりと宣言した。これで九州の三輪で、大己貴神(=大国主神)に祈願して新羅遠征をおこなった意味も分かった。

すでに大和の地では、日巫女によって天照大神は桧原神社へと分けて祀られていた。
神功皇后は、自分の御子に対して、
「あなたはもともとの三輪山系(出雲系)なのですよ。忘れないように!」
と念押しをした。これは古事記に書かれているかなり重大事件である。
角鹿(敦賀)から名前を変えて戻っていた御子のホムタワケは母親の神功皇后の言いつけを守ることを誓って第15代の応神天皇になる。万世一系の説をとる人々は嫌がるが、応神天皇で新しい王朝が誕生したことになる。

応神天皇は神の名前がつくとおり八幡神と習合して八幡神社の祭神になる。日本には数多くの神社がある。それぞれに祭神がおられる。伊勢神宮は皇室の祖先神の天照大神が祀られている。日本国には当然伊勢系の神社が多いと思われがちだが、一番多いのは応神天皇を祀る八幡神社である。
歴代天皇で神社の祭神として祀られてきたのは応神天皇だけである。神武天皇が祭神の橿原神宮、明治天皇が祭神の明治神宮があるがこれらは明治以降につくられたもので古い歴史はない。

八幡神がいつの時代からか応神天皇と習合したものだろうか。なぜ他の天皇は祭神にならず、応神天皇だけが他の天皇とは異なって神さまと習合したのだろうか。
不明な点は数々あるだけに、調べてみるのも面白い。現在私は全国の一宮を回って、神社の不思議を探している。讃岐一宮の祭神がモモソ姫であったことにも驚いたが、現地に行くと実に面白いことがわかる。いずれ一宮の秘密についても案内したいと思っている。

これで第5章を終える。
九州勢が大和にきたことを調べていると、ヒミコ、トヨが浮かび上がってきた。本を読んでいるだけではこんな想像はわかないだろう。実際の場所を歩いてみるとすばらしい話が聞ける。伝説や神話というのは地元から生まれるものである。

だいぶ昔のことだが奈良県の高鴨神社の近くの畑で休んでいるおじさんに声をかけると
「この辺は天皇さんの奥さんの出身地だから・・」
という。
「エエーッ 美智子皇后はここが出身だったんだと」
と思ったが、話していくうちに天皇さんは仁徳天皇で、奥さんは磐之姫だということを理解した。
あちこち歩いていると思いもかけないことを知ることができる。
これだから旅はやめられない。
「若いころに旅をいたさねば年老いてからの物語がない!」

第4章 天孫降臨から日向三代へ


生まれてからしばらく大分県の日田にいた、らしい。数年前に筑後一宮高良神社の上から見た筑後川、そのあと朝倉地域を歩いた。近くには「三輪小学校」があり、三輪の神をまつる大己貴神社もあった。この風景は夢の中で見たような気がした。私の中には九州的な記憶がほんの少しだけど残っているのかもしれない。九州は私の国のまほろば! そんな気がしている。

出雲で大国主神は天照大神に「国譲り」をした。天照大神は「うけひ」で生まれた長男の「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」(長い名前だなぁオシホミミ命に省略)を出雲に降臨させようとした。しかし彼は「天の浮橋」に立って下界を見た。
「葦原は豊かだが、ひどく騒がしい。私は行きたくない」
と言って高天原に戻ってしまった。

神話の時間なので何年たったかわからないが再び天照大神は
「もう話がついて豊葦原は穏やかになった。そろそろ降臨するように」
とオシホミミ命を促した。しかし彼は
「我が家には子が生まれたので、彼が成人したら行かせる」
とまたもや下界に行くことを拒否した。

そんな時間が流れたので、オシホミミ命の子が成長した時にはすでに出雲には天降る余地がなくなっていた。天照大神は「しかたなく」九州に降臨させることにした。
成人したオシホミミ命の子、すなわち天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)は八重にたなびく雲を押し分け「天の浮橋」に立って筑紫の日向の国の高千穂の峰に天降りした。先導したのは天ウズメで、多くの神さまも後に続いた。
天孫ニニギ命は日向の高千穂に下る。
「韓国に相対しており、朝日と夕日が光り輝くいい場所だ」
と言って大きな宮殿を作った。

「エエッ!高千穂から韓国が見えるの?」
私は一瞬そう思ったが韓国は「韓国岳」の事だ。
ニニギ命は「笠沙の岬」で桜島の神さまである木花咲夜姫(コノハナサクヤ姫)に出会い、結婚する。笠沙の岬は鹿児島県の野間岬のことである。

地図を作って高千穂峰、韓国岳、桜島、笠沙の岬、青島神社、鵜戸神社などの位置関係を記してみた。なかなかスケールの大きい話になっている。それぞれの場所を巡ってみた。大和や出雲を回った時には自分の足を使ったが、この地を巡るには何日間かレンタカーを使うしかなかった。

しかし昔の人は車など使うことはできなかった。物語はかなり狭い範囲で繰り広げられたのではないか。私は宮崎県の高千穂の方がコンパクトにすべてがそろっているので、こここそが天孫降臨の地と思っている。私が愛読する梅原猛氏は宮崎県の高千穂こそがその地であるとしている。

■4-1 日向初代 いまならセクハラ親父だ!

高千穂に降臨した天孫ニニギ命はこの峰の上から韓国岳を眺め、笠沙の岬を見ていた。ちょうど笠沙の岬へ出かけた超美人の木花咲夜姫(コノハナサクヤヒメ)を見つけてプロポーズする。姫の父、大山津見(オオヤマヅミ)神は
「それはすばらしいことだ」
と言って、姉の石長比売(イワナガヒメ)と二人一緒に嫁に出した。ところがニニギ命は、自分が結婚したいのは美人のコノハナサクヤ姫で、器量の悪いイワナガ姫はいらないと言って姉だけを追い返した。今でいえばとんでもないセクハラ男、いや神だ。

当然のことだが大山津見神は怒って言った。
「イワナガ姫を嫁がせたのはニニギ命の子孫が岩のように丈夫で末長くあれと念じてのこと。送り返したので、ニニギ命の子孫は木の花のようにもろくはかないことになる」
ニニギ命の子孫の天皇の命が長くないのはこのようないわれがある。

韓国岳はお隣の韓国からとった名前ではなく古くある名前だった。2009年アキレス腱断裂の治療中に、奥さんに連れられ松葉杖をついて登った覚えがある。目の前に大きな火口がありその先にすっくと立った高千穂の峰を見て、これぞ天孫降臨の場と思った。
翌年韓国岳と高千穂峰の間の新燃岳が大噴火し、世間をにぎわした。その後に東日本大震災が起こったので新燃岳の噴火のことは何も報道されなかった。今はどうなっているのか?

火山噴火などはめったに起こるものではないが、南九州では桜島をはじめ活動的な火山がいくつもあって噴煙を上げている。肥前、肥後国は「肥国」すなわち「火の国」であった。古代においては「火」は敬うべきものだったのだろう。天孫降臨神話の中にも「火」の話が出てくる。

セクハラ親父のニニギ命は結婚したばかりのコノハナサクヤ姫が妊娠したと聞くと
「一夜の契りで子はできない。お腹の子は俺の子ではない!」
という。疑われた妻のコノハナサクヤ姫は怒り狂って言う。
「まちがいなくあなた(ニニギ命)の子です。神の子だから例え火の中でも無事に生まれます」

コノハナサクヤ姫は産屋に火をつけて燃え盛る火の中で三人の子どもを出産した。生まれたのは3人の男の子。

長男が火照命(ホデリノミコト)……海幸彦
次男が火須勢理命(ホスセリノミコト)、
三男が火遠理命(ホオリノミコト)……山幸彦

コノハナサクヤ姫は高千穂からも近い桜島の神であるが、今は富士山の神としても親しまれている。剛毅で気高いコノハナサクヤ姫は、先の大戦の時には大変人気があった。一方セクハラ親父のニニギ命は今も人気がない。まあ当然のことだが、天孫はなぜこんな人でなしとして描かれたのだろうか。私には理由は分からない。

ともかくこの二柱(ニニギ命とコノハナサクヤ姫)が天皇家の祖、「日向三代」の初代ということになる。しかし気になるのは、高天原の神と日向三代の神の関係だ。大山津見神は山の神、綿津見神は海人族の神さまである。日向三代の神さまの神話はおそらく南方の海洋民族の神話からもたらされたものだろう。天皇家の祖先は南方民族の血を引いていることを暗示しているのではないだろうか。

 

■4-2 日向二代目は竜宮城に行く! 

日向二代目は高千穂から離れて「竜宮城」に行く。
コノハナサクヤ姫が火の中で産んだ三人の息子の長男は山幸彦、三男は海幸彦と呼ばれる。本名は火照命(ホデリノミコト)火遠理命(ホオリノミコト)で、「火」の兄弟であるがあるが、なぜか山と海の関係になる。
海幸彦は漁師、山幸彦は山仕事をしていた。ある時山幸彦は兄の海幸彦に仕事道具を取り換えっこしてみないかと提案した。兄は大事な釣り針を貸すのは嫌だったが、山幸彦がしつこく頼むのでしかたなく貸してやった。ところが山幸彦は慣れない仕事のために大事な釣り針を魚に取られてしまった。

兄はそれ見たことかと怒った。山幸彦は十握の剣から500本の釣り針を作って兄に返すが、海幸彦は「もとの釣り針を返さないと許さない!」
と言った。
弟は塩椎神(しおつみのかみ)の勧めで、竜宮城に行った。
山幸彦が竜宮城の門の前にいると豊玉姫(トヨタマ姫)が出てきてひとめぼれをする。その時の様子を描いたのが青木繁の「「わだつみいろこの宮」の絵だ。宮崎県の青島の海岸を走っているときに写真のようなモニュメントを見つけた。青島の「鬼の洗濯板」の地層は竜宮城へ下る階段なのかもしれない。

竜宮城でトヨタマ姫から飲めや歌えの歓待を受け山幸彦は三年も過ごした。
ある日彼が「フーッ」とため息をついたのを見てトヨタマ姫は
「なにか心配事があるのですか?」
とたずねる。釣り針を探していることを告げるとトヨタマ姫は海の中の魚を集めて尋ねた。
「釣り針のありかを知らないか?」
すると釣り針は赤鯛ののどにかかっていることが分かった。

その釣り針を持って故郷に帰り、兄に返すことにした。
帰り際に綿津見(わたつみ)神は、山幸彦に言った。
「きっとお兄さんはあなたが成功したことをねたみ、恨んで攻めてきます。その時にはこの『塩満玉』を出して兄さんを溺れさせなさい。許してくれと言ったら『塩乾玉』を出して生かしてやりなさい」、
実際にその通りになり、お兄さんの海幸彦は
「これ以降、あなたの守り人になります」
と謝った。

この話も現代風に考えるとよくわからない。なぜ釣り針を貸した海幸彦が誅せられて、借りた釣り針を無くした山幸彦の方が栄えるのか?

海幸彦の子孫が南九州の「隼人」(はやと)族で、いまも溺れたときの仕態(隼人舞)をして天皇にお仕えしていると古事記には書いてある。古事記の時代から21世紀の現代でも隼人の子孫は天皇にお仕えしている。山幸彦の子孫が天皇に、海幸彦の子孫が隼人として天皇に仕えているのだ。

韓国岳付近から流れ出す天降川(あもり)は国分で錦江湾にそそぐ。天孫の「天降り」にちなんだ名前だが昭和になってからつけられた名前らしい。その川の近くに日豊本線の隼人駅があり、さらに隼人塚がある。いまも薩摩隼人、大隅隼人などと呼ばれることがあるが海幸彦の末裔なのだ。

 隼人の近くの国分に「上野原縄文の森」という遺跡がある。南九州に珍しい縄文遺跡で定着した海洋民族がつくった集落があった。珍しいというのは、7300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州の縄文人はほとんど絶滅したからである。ごく少数の生き延びた人々はカルデラ噴火による津波で溺れた記憶がのこっていたかもしれない。上野原縄文人の脳の中に刻まれた洪水記憶が隼人舞として伝えられのではないかと考えている。

鬼界カルデラからの火山灰はアカホヤと呼ばれている。この火山灰は関東地方まで飛んでいる。この火山灰を研究したのがわが恩師の町田洋さんだ。大学時代にフラフラ遊んでいないで町田先生にくっついて研究していれば、こんな遺跡の発見ができたかもしれない。いまさら何を言っているのか・・・!

 

■4-3 日向三代目のトヨタマ姫はワニだった!

  山幸彦は赤鯛ののどに引っかかっていた「釣り針」をもって竜宮城から戻ってきて、兄の海幸彦に返した。しかし大成功した弟に対して不満を持った海幸彦は山幸彦を攻めてきた。山幸彦は綿津見神のアドバイス通り塩満玉を出して兄を溺れさせた。降伏した海幸彦を配下にして、山幸彦は海も支配することになった。

山幸彦の海辺に宮殿を作った。その宮殿に山幸彦の子を身ごもったトヨタマ姫がやってきた。山幸彦のもとで子供を産む計画だった。まさか追っ掛けてくるとは思っていなかった山幸彦はおおいそぎで産屋を建てようとした。しかし屋根を鵜の羽で葺く前に子が生まれてしまった。この子が鵜葺屋葺不合(ウガヤフキアエズアエズ)命である。「産屋の屋根を葺く前に生まれちゃった子」といういい加減な名前が付けられた。

青島神社から日南海岸を都井岬の方に進んだ断崖海岸に鵜戸(うど)神社がある。海に向かった断崖絶壁に開いた洞窟の中に朱塗りの立派な神殿がある。トヨタマ姫(豊玉姫)がお産のために海の宮殿から屋てきた場所なのだろうか。

トヨタマ姫は山幸彦に言う。
「子を産む私の姿を見ないで!」
山幸彦は「見るな」と言われたらよけい見たくなる性格だった。当然覗いてみた。トヨタマ姫はワニの姿で這いまわっていた。
「見るなと言ったのに見たワニー!」
姿を見られたトヨタマ姫さんは恥じて、子どもを置いたまま海の宮殿に帰った。

鵜戸神宮の産屋の洞窟の床は、天井から滴り落ちる水で濡れ、磨かれている。薄暗い洞窟内を見ると、ワニの姿で床を這いまわりながらお産をしている姿を思い浮かべ、不気味になる。しかしワニは爬虫類だから卵を産むはずだ。でもまあ目くじらを立てるほどの事でもない。因幡の白兎の話にも出てきた「ワニ」、たぶん海洋民族の和爾氏のことなのであろう。

水の滴る産屋でワニがはい回りながら子を産む姿を想像するとかなり恐ろしいので早々に引きあげた。しかしこの強烈ワニパワーにひかれて、大勢の若い人たちがやって来ていた。鵜戸神社は日本古来の神社と違ってなかなかユニークな神社である。ここで産まれたウガヤフキアエズアエズ命が日向三代目で、日本国の初代天皇のお父さんである。

神社の背後の山の上にはウガヤフキアエズの墓がある。神さまにも墓があるのか疑問もわくが、日向三代は神と人間をつなぐ役割を持った神々なので、墓があってもおかしくない。海から登るとかなりの高低差で、大変きつい。軽い気持ちで登ったが、汗びっしょりになった。
宮内庁は「陵墓参考地」として保護している。しかし私が見たところでは、これは古墳ではなく、ただの山の頂上。しかし神の依り代としては、いい場所だった。

日向二代目は燃え盛る火の中で生まれ、三代目はワニのお腹から生まれる。いずれも尋常なお産ではない。その意味するところは何なのか、私にはよくわからない。でもまあ古事記にはそう書かれているのだからしょうがない。