あとがき1 簡単には終われない!


旅を終えた! と書いたが、その後に志摩の国を再訪して倭姫命について新しい知見を得た。倭姫は天照大神を伊勢内宮にお連れしたあと「斎宮」で静かに余生を過ごし亡くなった後「倭姫宮」に葬られた、と思っていた。しかし志摩に来たら「志摩こそが倭姫の終焉の地」となっていた。
旅は簡単には終わっていなかったのだ。

「倭姫命世記」には、天照大神が伊勢神宮に落ち着いた後、倭姫は神のお食事を求めて「御食津(みけつ)の国」である志摩に行く話が載っている。志摩は海の幸が豊富な国だった。今でも伊勢の神さまのお食事は志摩の恵みからもたらされている。

40数年前、宮本常一先生が近鉄の志摩博物館を創るための資料を集めていた場所である。私は武蔵野美大の工藤先生に連れられて、資料集めのために歩き回ったので土地観はあった。しかしその時には倭姫命は知らなかった。今回志摩を訪れたときに、志摩半島最東端の国崎(くざき)の岸壁に「倭姫命到着の岬」と書いてあったのを見て驚いた。

もちろん神話の話だが、志摩の人々は倭姫命がここに来たということを知っている。古い歴史を持たない東京で育って、私は「神話」とは縁遠い生活をしてきた。しかし今回訪れた各地では神話に包まれた生活があった。ヒミコさんはすぐ隣にいたり、桃太郎はまだ子供だったのでお姉さんが鬼退治に連れて行ったんだ!という話も聞いた。葛城の高鴨神社に座っていたら「前の皇后さんはここの出身だよ!」と教えられた。美智子上皇后の事かと思ったら、仁徳天皇の皇后だったという磐の姫の事だった。
神話の中で生きることができるというのは、うらやましい。自分はその延長線上に生きているという思いがあるからだ。

志摩一宮の伊雑宮の隣に「御師」の家があった。伊勢では「おんし」という。現役御師さんと話が弾んだ。
「実はこの伊雑宮こそが天照大神を祀る最後の場所で、大神をお導きした倭姫命はここでお亡くなりになり葬られた。倭姫命のお墓もある」
という話を聞いた。
早速案内をしてもらった。

「エエーッ これが倭姫命の墓?」
と意義を挟んだら、地元の人が墓を発見した後すぐにお上がやってきた。
「出土品を全部出しなさい。ここから何か発見されたことは他言無用」
ときつく言われたとのことだった。

「志摩に倭姫の墓が見つかった」
しかしお上の命令で地元民はみな口をつぐんだ。
 志摩の墓発見のすぐ後(1923年)に伊勢に倭姫命の墓が見つかったという新聞報道があった。そしてすぐにその場所に倭姫宮という神社が作られた。
お上の言いつけを守って誰も志摩の倭姫の墓については口外はしなかった。しかし自分も年取って本当のことを後世に伝えなければいけないと思ったと御師さんはいう。

「おおーっ! 内宮の倭姫宮の創立にそんな裏話もあったのか」
本当かどうかはわからないが、御師さんの話には迫真の迫力があった。
墓の中の副葬品はすべて持ち去られたが墳墓の床の石は残っている。神之田のわきに大きな石碑として残されている。倭姫命にふさわしくすばらしく大きな青石だった。

伊勢への旅は終えたつもりだったが、おもしろい話がまだまだ残っていた。簡単に話は終わらないものだ。