■ 6-5 神さまの旅の終わりに

謡曲『三輪』の中で謡われる
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身のおんこと、いまさら何をいわくら(磐座)や!」
の言葉に触発されて、伊勢の神の故郷、三輪の神の故郷を訪ねてきた。
ほんの少しだけ「伊勢の神とは、三輪の神とは」という疑問が解けそうになってきた。

環境問題の先駆者であり、俳人でもあった山岡蟻人さんに「自然と人工の違い」について質問したことがある。
「コンクリートのダムだってヒコーキだって自然を改変しただけで、自然物だよ。人が創り出した最高傑作は言葉であり、神だ!」
そうなんだ! 神というのは人間が創り出した人工物なのだ。宗教はそれをいかに「見える化」しようとしたものなのだろう。

天武天皇、持統天皇は「古事記」という壮大な物語をプロデュースして後世に残した。後世の人はそこで創作された神々を「見える化」して日本の宗教を作った。さらに外国からもたらされた様々な宗教と習合して日本独自の宗教を作ってきた。

西洋や東洋の宗教のような教義は日本の古代宗教にはない。古代宗教は祈ることだけだ。現世の人たちのように利益を願っているわけではない。祈ることによって心の平安を得るのが本来の宗教の意味かもしれない。
なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
と言ったのは、日本的仏教徒である西行法師である。
本来の仏教の伝道師である弘法大師なら、こんなセンチメンタルなことは言わないだろう。

私は伊勢の神と三輪の神が一体何かを意味するのか知りたくて旅に出た。そこで知ったのは長い間、時間をかけて人々が「神話」を創造してきたということだ。
ある場所では山の神、海の神、火の神も土や風の神もいる。ときには特別な人さえも神にする。それら神に名前や役割を作って物語を作ってきた。

日本国の歴史の中で、私もその一人として「神の物語」を創造しようとしているかもしれない。私自身の「神の物語」でもうひと法螺を吹かなければいけないなぁ!

だんだんと気宇壮大になってきた。
とりあえず、三輪の神紀行はこれで終えることにする。