9月10日(水) |
丸の内朝飯会というのがあります。丸の内あたりに勤めるサラリーマンが朝食を共にしながら異業種交流をやろうということから生まれた会合ですが、もう30年以上も続いています。 10数年前にも一度呼ばれたことがあるのですが、今回(11日)にまたよばれました。わが地平線会議と同じように謝礼などありませんが、朝食代はタダです。(最近、地平線会議でも講師の皆様には北京亭でごちそうできるように成りました!) 今回はミャンマーのマングローブ林について話すつもりです。いまそのためのスライドを作っています。結果はまた報告します。 |
投稿者「miwa」のアーカイブ
みわ塾 緑陰講座
9月9日(火) |
「みわ塾」緑陰講座も楽しく終了しました。珍しく星空が見えたし、飯盛山もコースタイムの2倍ぐらいの時間をかけてスロースローで登ったし、中山嘉太郎さんのシルクロードの話もおもしろかった。 近くに天然イワナのホウ葉味噌焼きを出してくれる店を見つけた。ご主人は悠長な人で注文してからイワナを釣りに行くのではないかと言うぐらいのんびりしている。近所の人に聞くと 「待たせるからだれも行かないよ」 という。スローライフの時代にピッタリの店だがはやらないだろう。 清里の竹早寮理事長の岩田隆子さんの話に感銘して、今回7人もの人が賛助会員になってくれた。 馬場さんは「私は三男だけど、さんじょ会員だ」などといつものダジャレで応じてくれました。来年もここで緑陰講座をやることに決定。来年は日時を変更しないように致します。今年日時変更で参加できなかった人にお詫びいたします。 ところで、本日よなよな空を見上げると、まんまるお月様のすぐ下に火星がちょこんとくっついていました。こんなに近くにくっつくことはなかなかありません。見とれていたら火星は左下から右下に移動していきました。火星の方が小さいので移動性しているように見えますが、実は大きな月が動いているのです。なかなかおもしろい天体ショーでした。 |
8月のみわ塾 清里
2003年9 月4日(木)

2日にミャンマーから帰ってきました。明日からまた八ヶ岳です。八ヶ岳の「みわ塾」は8月の最終週にやるはずだったのですが、ミャンマー行きと重なってしまったので、1週間ずらしました。
そのために予定していた方々からお叱りをうけました。申し訳ありませんでした。
今回の「みわ塾」は小規模になりましたが、金井しげさん、中山嘉太郎さん、向後元彦、紀代美ご夫妻、下島伸介さん、などなどその道の第一人者が集まって下さいます。ありがたいことです。9月の「みわ塾」は、今回の分も含めて余談時間を入れます。
ミャンマー報告は、8月のページに入れました。

8月18日(月) |
成田、バンコック経由でミャンマーの首都ヤンゴンに6時頃につきました。日本との時差は2時間半という半端。ヤンゴン1の高級ホテルの隣のホテルに泊まり、翌日は向後さん主催のACTMANの協力者であるFREDAの事務所に行き、ごあいさつ。ここは森林局のOBが主催している実力派NGOである。 午後は早速ヤンゴン市内のマングローブ林を見るために、新しく作られている民族村に行く。ソネラチアというマングローブにピンク色の花が咲いている。この花は月下美人のような一夜花で、コウモリが受粉するという。これを見た人はごく少ない。 翌日は貨客船でヤンゴン河を下ってボガレーという港町に泊まる。電気の普及率はごく少数なので夜は真っ暗。自転車にサイドカーをつけたサイカで町内見物。カレッジもある地方の中心都市だ。ビールが飲めるレストランもある。 20日、FREDAの専用ボート(10人乗り)でさらに河口の村をめざす。途中で雨風が強くなり、本流の横断ができないので、小さなクリークに入って待機する。こんなこともあるのでボートには食事も用意してある。波の静かなマングローブ林の下での食事は、まさにスローライフの見本みだ。 今回はスローライフの提唱者の辻信一さんも一緒だ。夕方河口に近い島にあるFREDAの宿泊施設に到着。今は雨季なので必ず雨が降る。洗濯してもまったく乾く気配はない。電気はないので、2時間だけ自家発電。雨水をタンクに貯めた水がシャワー。茶色に色づいている。 21日、各地にあるマングローブ林再生プロジェクトの試験地を舟で見に行く。クリークには大型船は入れないので、小舟を使う。板を渡しただけの舟つき場から試験地までは水に浸かっているか、グジョグジョのみち。長靴は必需品だ。地元の人はゴム草履かハダシはだし。私もしばらくするとゴム草履に変わった。ここのマングローブは100種類ほどあるそうだ。私が識別できるのは、そのうち3種類ぐらいだ。ニッパヤシがマングローブの一つだとは知らなかった。 22日、一息入れるためにレクリエーション。湿地帯に行って泳ぐ。水の透明度は5㎝ぐらいで、ドロが重そうに淀んでいる。底はヘドロで、体になすりつけるとドロンコ美容法になりそうだ。においもないし、ガラス片など文明物は全くないので、きれいなヘドロだ。 アンダマン海にも行ったが、ここも茶色く濁った重そうな水の海だった。ギリシャの哲学者ターレスはすべての源は水であり、水が土地を生むと言った。この水を見ていると確かに川が土地を生んでいることが分かる。 FREDAの宿泊施設は、2カ所あり後半泊まったビョンムエ島の施設は我々がはじめての泊まり客だった。水上に浮かぶすばらしい施設で、しばらく止まっていたい場所だった。しかし乾期になると水がないので生活はできないとのこと。周りは水に取り囲まれているのだが、飲み水になるものは雨水しかない。この地域では、きれいな水の確保が最大の課題なのだ。 30日まで、マングローブ試験地を見学して回って、再びボガレーに戻ってきました。田舎町と思っていたこの町が、この地域ではとてつもなく大きな町であることが分かりました。 そこからさらに大きなヤンゴンの町を経由して2日に東京に戻りました。 体も荷物も着るものもすべて湿けってしまい、異臭を放っています。「東京は暑いゾ」といわれましたが、イラワジ河口に比べれば、気温も低くカラッとして過ごしいいものです。 とりあえずイラワジ河口で楽しい思いをしてきたことを報告しておきます。詳しいことはまた、のちほどマングローブ研究家のコーナーに載せます。 |
明日からミャンマー
8月17日(日) |
あすからミャンマーへ行きます。イラワジ川の河口のマングローブの生態をみて、植林のお手伝いをしてきます。一番大事な持ち物は「長ぐつ」です。帰ってきたらまた報告をかきます。しばらくお休みです。 |
今日は終戦記念日
8月15日(金) |
今日は終戦記念日。あの時から自分の年齢マイナス1の年が過ぎました。もう戦争はしませんとその時に、みんなで誓ったのに、今では戦争に加担することが国際協調、国際正義のような風潮が広がっています。正義は大事です。しかし自分だけ独りよがりの正義は、ただの思い上がりです。もちろんフセインが金正日が正義だとは言いません。イラク、北朝鮮をみると、爆弾を落として叩きつぶしてしまうことが最良の方法のように思えます。おそらくその国民にとってもいいことなのでしょう。 しかし振り返って、58年前の日本を考えるとき、日本の軍部を叩きつぶすために東京に大空襲をし、広島、長崎に原爆を落とし、多くの人たちを犠牲にした戦争を容認できるかと言えば、当たり前のことですが、「否」です。戦争を始めたのは日本軍ですが、原爆は早く戦争を終わらせる手段だったとの抗弁は納得できるはずはありません。ここには一人一人の人間に対する尊厳、思いやりは何もありません。最近の戦争は精密誘導爆弾を使うので、犠牲者は少なくないというけど、発想は今までと同じで、人間を一まとめの「もの」として見るだけで、「人々」と考えるという発想はまったくありません。 戦後58年の今、個人を大事にするといいながら、ドンドン反対の方向へ動いています。テレビでみると政治家はみな「平和、平和」と安易に言葉を発します。しかし実体の伴なわない言葉はむなしく響くだけです。 ところで「それではお前は?」と答われたとき、いま自分の言葉も上滑りしており、反省せざるをえない状況です。私の場合何ができるかと言えばマラソンしかありません。それが世の中になんの役に立つかはまったく不明です。でもみんなで気分良く走っていれば、戦争をしようという気にはならないことだけは確かです。これからも走りながら言葉を発しようと考えています。ただの徘徊老人にならないよう、発信もし続けます。 |

8月12日(火) |
ニューヨークで大停電になったという話だが、わが北海道の豊富でも停電が起こった。30分間だったが、ちょうど搾乳の直前だったので牧場はパニックになった。家の電話は通じない、携帯電話は圏外なので通じない。情報を得る手段はない。しかしここが停電して困っていることを電力会社に連絡しないと、復旧をしてくれない。 いなかで人は少ないからのんびりしていると思われるかも知れないが、こんな場所だからこそ電気が必要なのだ。搾乳ができないと牛は病気になる。猶予はできないのだ。町に出ている長男は、ふだんは学校が終わると電話で迎えを頼んでくる。電話が通じないと、どうにもならない。時間が分からないがヒマな私が車で迎えに行く。 しばらくして復旧したが、奥さんは「ときどき忘れられてしまうの」と言う。わずか五戸しか集落なので、全体が復旧してもスイッチを入れ忘れらることがあるのだそうだ。 ニューヨークも大変かも知れないが、こういう僻地ほど大変な状況になることを知ってもらいたいものだ。 |
豊富の草原を雄次郎と走る
8月9日(土) |
北海道北部は毎日どんよりした空で、ときどき雨も降ってくる。真夏なのに寒い。利尻島に行こうと思ったが、台風も接近しており無理だ。そこで田中裕次郎家の次男のSくんを連れてマラソンをすることにした。彼は中学3年で陸上部に所属している。するとお父さんが「おれもいくぞ」と言う。毎日朝早くから牛の世話をしているので、疲れているはずだ。しかし昔からの習いで、とっさの判断でともかく何にでも参加するという行動は健在だ。 大規模草地一周は24キロあるという。Sくんはまだ10kmしか走ったことがない。長距離走は経験だけがものをいう。アップダウンがある10kmをSくんは快調にとばす。お父さんは体が重くドタドタと、馬力だけで走っている。中間地点の展望台では2、3分の差があった。長く休むと体が冷えるので、後半にかかる。Sくんにとっては未知の距離である。お父さんは今でこそドタドタだが、若い日には日本縦断をした超ウルトラランナーである。経験の差が出てくる。大規模草地を出るころ私についているのはお父さんだけになった。Sくんは歩き始めているようだった。 お父さんは、一度はみわを負かしてやろうと思っていた、これがチャンスだと思い必死で走ったのだと後で聞いた。私もその迫力を感じたので、負けてはいられない。あと4キロの上り坂で懸命に走ると、ついてこれなくなった。それでもお父さんはSくんに大差をつけて完走。自転車で見に行くとSくんは「気力がなくなった」と歩いている。 「もう走りたくない」と言わせてしまったら、教育としては失敗かも知れない。でも理不尽にひどい目に遭うのはいい経験だ。来年になったらきっと20kmくらいは難なく走っているだろう。 |

北海道 チャリの旅

8月5日(火) 北海道 |
8月の9日10日に玉原高原でキャンプがあることになっていた。前橋の小林番長、写真家の星野さん、星野兄さんたちが中心となって、豪快、はちゃめちゃのキャンプだ。今年も参加することにしていたが、7月末、北海道で卒業生が私の退職祝いで集まってくれるということになっていたのを思い出した。星野さんにお詫びのメールを入れ、北海道にヒコーキで飛んだ。 玉原組のみなさん、どうもごめんなさい! 新千歳空港から列車で北広島駅まで行き、そこから持ってきた折り畳み自転車で走りはじめる。始発のヒコーキだったので、10時半には札幌テレビ塔につく。高校時代の友人を呼びだし、昼飯をごちそうになる。昼食後、再び自転車で円山西町に向かう。そこにはアメリカ大陸横断、ヨーロッパ大陸(リスボンからモスクワまで)を走ったウルトラランナーの武石さんが引っ越しているはず。突然の訪問に奥様ともども歓迎してくださる。森の中の野趣溢れる庭でバーベキュー。とても食べ切れない量なので、近所に住む卒業生の大熊さんを呼んで、一緒にごちそうになる。満腹になり酔っぱらって、大熊さんのお宅に泊めてもらう。中央区といっても盤渓は山の中。キツネやリスがいる。 6日は自転車で幌見(札幌を見下ろす)峠を越えて、町中へ。天気もいいのでそのまま豊富の牧場に向かうことにする。バスの待ち時間があったので、北大に寄ってみる。環境科学科の平川教授は結構ハードなウルトラランナーで、ライバル関係にある。ちょうどスイスから帰ったばかりで、ラッキータイミング。しばらく話をしてからオロロンライン経由のバスの旅。 苫前の風力発電の風車に見とれながら幌延へ。ここは高エネルギー放射能廃棄物の処分場ができる所だ。 道路や役場はよくなっているが、町は寂しい。放射能廃棄物処理場の風評で農作物は売れない。補償をもらって早く離れた方がよさそうだと考えるのは当然だろう。お上はそれがねらいかも知れない。「リサイクルセンター」という看板からは放射能リサイクルだとは分からない。姑息なやり方だ。ここから折り畳み自転車で豊幌の「あおそら牧場」に向かう。夕暮れとの競争になる。暮れてしまえば周囲数キロに人家はないので、真っ暗闇になる。誰も通らない暗闇の道路は恐ろしい。明かりがかすかに見えたときにはホットした。 |
地平線報告会284回目
7月31日(木) |
一昨日は地平線会議報告会の284回目、最近はもっぱら新宿区の榎町地域センターで行っている。設立当初から20年間アジア会館で行っていたが、建て直しになるので、ここ数年一時避難のつもりで新宿区の施設で開催してきた。地の利がよかったのと丸山さん労作のホームページが新たな媒体として機能し始めたことで、アジア会館の時に比べ、参加者が飛躍的にふえた。 関野さん、石川くんの会は100人定員の会場に200人以上は集まり、会場の係りに文句を言われた。ここのところコンスタントに60~70人の人たちが参加してくれている。 報告形式もこれまでスライドを使って話をすることが主流だったが、若い報告者が多くなったせいか、液晶プロジェクターで、デジタル映像を使うことがほとんどだ。地平線会議唯一の財産であったスライドプロジェクターが壊れたところだったので、3月から液晶プロジェクター(本当はDLPプロジェクター)に変えた。NECの製品で売値は99万円だったが、秋葉原の裏通りで12万円売っていたのを即座に買った。大成功だったと思っている。 今回の西牟田くんもパワーポイントでの発表だった。ここ数年間彼は日本が過去に占領をしていたサハリン、満州、台湾、南太平洋の島などを回っていた。私の無鉄砲な奴だという印象を持っていたが、それぞれの地を訪れ、出会った人たちに話を聞く態度は大変真摯なようすだった。日本の近代史に直面して懸命になにかを考えている姿はすばらしい。西牟田くんの報告は地平線のホームページにくわしい。 ここのところ私のホームページのリンクが外れているという苦情がいくつかあった。あっちこちの小容量のサイトに押し込んでいるので、アップするときにリンクのはずれが出るらしい。昨日一日かけて整理し直したので、たぶん大丈夫のはずです。ヒマになったはずなのに、結構忙しい。これじゃこまる。・・・・・・・きょうで7月もおわり。 8月はあっちこちに出かけるので、パソコンに向かう時間がなくなりそうだ。 |

7月26日(日) |
地平線の若手主体のランニングクラブが結成された。早速高尾山で試走をすることになった。参加者はおなじみ江本さん、松尾くん、O崎さん。この3人は江本記念のTシャツを着ている。私一人が異端者だった。高尾山から陣馬山往復の予定であったが、ベテランと若手に差があったので、陣馬山から和田峠に下った。江本さんは電灯までもってきていたが、とてもそんな長丁場の山行はむりなので、明るいうちに下山。 江本さんは若手にはやさしい。私だったらはきっと「勝手に戻ってこいよ」と言って、さっさと先に行ってしまったことだろう。実際にむかしサハラの会の連中は、夜中に置いていかれて泣きべそをかいていた。ひどい人だと言って、二度と顔を見せない連中もかなりいた。それでもしつこく付いてきた連中とだけいまだに付き合っている。来る者だけを受け入れて、脱落した者は知ったことじゃないという教育は今ではまったく受け入れられない。 「体力さえあれば知力が付いてくる」 などと、若者をたぶらかすような言を弄する者がいるらしいが(?)それは知力のない者に言う言葉である。もともと知力のある者は、走るたびに脳細胞がボロボロこぼれ出すので、深入りは禁物だ。 松尾くん、O崎さんあまりおじさんたちの言に惑わされないように、適当にがんばってください。 |
隅田川花火を見に行く
7月25日(土) |
夕刻、隅田川の花火見物に一家でいく。わが一族の三輪家は江東区の17階の高層住宅に住んでいる。この部屋を選んだ大きな理由が花火見物というだけあって、最高の観覧席。 薄暗くなった頃からドンドンと音が聞こえてくる。テレビでも中継をチェックしながら本物の花火を見物する。この建物からは打ち上げている台船は見えないので、テレビと交互にみる。 今年は桜橋と厩橋(うまや橋、かわやではない。)の二カ所で交互に、あるいは同時に打ち上げられている。ここからは両方が等距離に見える。テレビの画面は直近で撮っているので迫力がある。 ちょっと遠くてもやはり本物はいい。音、煙、花火、そして下町のにおいあるいは雰囲気が合わさっているからだ。おいしい飲みもの、食事、最高の花火見物でした。 |
モンゴル娘のサイハナさん
7月25日(金) |
昨年の今ごろ、我が家にはモンゴルの娘さんがホームスティしていました。うちの奥さんがモンゴル旅行をしたときに通訳をしてくれた女性でしたが、つとめていた会社の研修で3ヶ月間、東京で過ごしました。 日本の駅で乗り換え方法を聞くと、 「日本人なのに、なんでそんなことを知らないのか」 といぶかられるぐらい日本語は上手でした。私は、「方向音痴」と「おさんどん」など学校では習わないような日本語を教えてあげました。 その彼女が昨日1年ぶりに日本にやってきました。今は兄弟が日本にいるので、そこに遊びに来たそうです。お土産にインスタントの塩味ミルク紅茶をもってきてくれました。昨年はモンゴルにはインスタント紅茶などなかったのですが、どんどん新しい試みがなされ、怒濤のように外来文化が入り込んでいるようです。 大きな変わり目にいる彼女たち若者は、国を変えるような力をもっているように見えます。最初は外来文化にあこがれるかも知れないのですが、自分たちのよき伝統を保って、新しい国を築いていってほしいものです。 私は、「うちの娘だよ」といって、昨年のようにつれて歩きたかったのですが、滞在期間が短いのでそうもいかないようでした。 「結婚式には行くからね」 と言って、しばしの別れになりました。来年はモンゴル結婚式ツアーをやらなくちゃ。待ち遠しい楽しみがまたひとつ増えました。 |
竹早高校100年史
7月22日(火) |
昨日まで3連休だった。といっても世の中が連休なだけで、こちらは毎日が日曜日だ。先週はまたまたいろいろな人に会った。山梨の玉穂というところに、何年かぶりで坂原先生にお目にかかった。私は今、浪々の身だがいろいろ世の人のお世話にならなければ生きていけないことがあるのです。お世話になりました。 東京では、前の職場の百周年記念委員の方々と会食。あれはもう3年前になるが、100年の歴史をもつ学校で、その式典に係わっていたのだ。平行して記念誌を編集していたが、私は途中で逃げ出してしまった。細田盛夫さん、坂原さんの執念で、すごい記念誌ができた。もし私がいたら、 「この辺でいいじゃないか、もう止めようよ」 と言ったにちがいない。 私が百年誌編集で役に立ったといったら、早めにいなくなったということだろう。私もなかなかいいことをしたものだ。普通の学校の記念誌は、読んでいてもそれほどおもしろくないが、これはよく読める。たいした本にできあがった。出版お祝いで高田馬場のチャイカでロシヤ料理を堪能した。 さて明日は「みわ塾」の日だ。今回はビデオをパソコンで編集してみた。だんだんパソコンの使い方がうまくなってきたゾー。内容は上の写真にある「異形(いぎょう)の惑星」を含む「幸運な星・地球」が主題である。どうぞお越し下さい。 |
地平線通信発送 エミコさん!

夕方から地平線会議の通信を印刷し発送作業をした。今年の4月から場所を新宿区の榎町区民センターの会議室を借りて、作業をしている。それまで20数年間は、あまり大きな声では言えないが、別の施設を借用していた。
この区民センターには立派なリソグラフの印刷機や折り機、カッターも完備している。使う人はほとんどいないので地平線会議専用みたいだ。近くには紙の問屋や封筒の問屋もある。一番いいのは作業が終わったあとに安くておいしい飲み会の場所(江本さんお気に入りの「北京亭」)。
いままではおじさん2,3人がシコシコと作業をしていたが、4月からは助っ人がたくさん来てくれるようになり、ワイワイ言いながら楽しく素早く作業が進むようになった。藤原さん、関根さんたちのおかげだ。
さらに今回は江本さんがシールエミコさんをよんできてくれた。彼女は世界を11年間も自転車で旅を続けてきた人だ。
彼女が来るとなればすぐにすっ飛んでくるのが冒険王賀曽利さんだ。彼が来ると一気に盛り上がる。私が知り合って35年くらいになるが、その間ずーっと盛り上がり放しだ。この活力を維持するのは並大抵のことではない。さらに彼女と旅の途中で出会ったT井ご夫妻や長野画伯、ひげの武田くん、小田原からのY子さん、江本さんから悪の道に引き込まれそうになっている大学生松尾くん。
またまた今日も楽しい1日であった。